金曜 屋上(6)
一つとして欠けたところのない月の輝きを遮るように、雲の流れがその端に触れた。病室から見上げた雲も、ああやって太陽を隠していた。しかしいま目にしている雲は辺りに薄い影を生じさせる程度の厚みでしかなく、透かしを入れたような朧げな色が好ましかった。
さすがに喋り疲れた鴎は両手を敷物につけ、軽く脱力する。どこから手を付ければいいか分からなかったが、話し始めてみると、大して詰まることなく口は動き続けた。
相手が口を挟まずに聞いてくれたからだと分かっていた。結は一言も発さず、黙って鴎の話に耳を傾けてくれた。しかし話し終えると、その静けさは一転して鴎を責めているように感じられる。
結は身じろぎもせず話を聞き、今もまだ姿勢を変えず言葉を発さない。その目をこちらから覗き込む勇気はなく、鴎は緩やかな風を浴びながら結の反応を待った。
「そんなことがあったんですね」
その音色は穏やかで、鴎は構えていた意識が解れるのを感じる。そこからまたしばらくの間を空けて、結がおもむろに鴎へ向き直った。
「里見君、少し手を貸してくれませんか」
意図が分からず、戸惑いつつも両手を差し出すと、結は鴎の方に座り直しその手をとった。そして自身の両手で鴎の手を包み込む。
鴎は目と口を開き、そして顔を真っ赤にした。女の子に手を握られるなんて初めての経験で、その柔らかさに圧倒される。結の視線は鴎の手にあって顔は伏せられていたが、ちょうど差し込んだ月光に照らされた顔を見ると、鴎の息は止まった。
長いまつ毛も、海のような深さを持った瞳も、透き通るような肌も、何もかもが冗談みたいに整っていて、鴎はその顔から目を離せないでいた。
すると濡れたような唇が開かれ
「私がなにか大事なことを打ち明けた時、母がいつもこうして手を握ってくれたんです」
両手に力が加わる。控えめな、しかし確かにある暖かさが伝わってくる。鴎は、自分が手を少し動かせば、その細い指が折れてしまうのではと気が気でない。
「話してくれてありがとうって」
そこで結が顔を上げ、豊かな黒髪が流れる。その動きを眺めていると、鴎はしゃらりという音が聞こえる気がした。
「里見君、話してくれて、ありがとうございました」
それはいつもの張りつめたような表情ではなく、木漏れ日の中流れる河の水を思わせる緩やかさだった。いつのまにか辺りから音が消え、互いの息遣いだけが場を行き交っていた。
鴎は魅入られたように瞳を見つめていたが、その表情を見ると暖かいものが胸にこみあげてきた。
「…うん!」
鴎が力強く頷くのを見届けると、結は再び鴎の手に視線を落とした。
実際は五秒に満たない、しかし鴎には永遠にも思えた静寂は、結が突然肩を跳ね上げ鴎の手を離したことで終わりを迎えた。
立ち上がった結の背へ、鴎がどうしたのかと尋ねる前に素早い声が飛んでくる。
「校舎に何かいます!」
驚いた鴎がこちらも立ち上がる頃には、結はあの戦装束を纏っていた。その手には光を受け奥深い輝きを見せる翠の薙刀があった。
「これは…あのカエルです。それが三体!」
「さ、三!?」
素っ頓狂な鴎の声に頷き、結はわずかに顔を振り向け
「ここから動かないでください」
と伝えると一気にフェンスへ走り寄り、軽々と飛び越えた。
鴎は慌ててフェンスに近寄り下を覗き込んだが、薄暗い花壇が見えるだけだった。
「あんなのが三体も…?」
そう口にすると同時に間近で見たカエルの滑付いた肌を思い出し、鴎は軽く身震いする。
自分に気を取られていたとはいえ、一体相手でもあれだけの傷を負っていた。果たして結に勝算はあるのだろうか。かといって、自分が向かえばまた結の足を引っ張るのではないか。
その場で足を踏み鳴らしたくなるようなもどかしさを感じながら、鴎は言われた通り屋上から動かず周囲の音に耳を凝らす。階下からは何の音も振動も伝わってこない。
どうしようもない状況を持て余しうろうろと屋上を歩き回っていると、向かいの校舎の異変を目が捉えた。




