金曜 屋上(5)
次に目が覚めた時はベッドの上だった。部屋には母親がいて、壁のそばの椅子に座る姿は寒々しい配色の壁に埋め込まれたようだった。
「声が出るようになってから最初に聞いたのは、受験のことだった」
母親は悲しそうに目を伏せると、受験日までに退院するのは無理だろうと医者に言われた、と言った。
体中から力が抜けた。しばらく鴎は何も喋らず、母親もかける言葉が見当たらないようだった。
鴎が暗い声で父親のことを尋ねると、沈黙に耐えかねたのか、母親はすぐさま説明した。事故に遭ったと聞いて両親はすぐ病院に駆け付けた。仕事のある父親は一旦会社に戻ったが、家に寄った後、そろそろこちらにつくはずだ、と。
「落ち込まないで、きっとお父さんが次にどうすればいいか調べてるから、何か方法があるはずだって。僕はそれを聞いてちょっと元気が出た。そうだねって母親に言った」
それからかなり時間がたって、病室の扉が乱暴に開けられた。鴎と母親がそちらを向くと、父親が入口にいた。どこ行ってたんだよ、そう文句を言うつもりだったのに、その姿を見るとすぐに、足元に縋りつきたくなるような衝動に襲われた。
父親は二人のどちらとも目を合わせず、ふらふらしながら立っていた。体の横を壁に押し付けて、だらしなくもたれかかった態勢で窓の外に視線を向けていた。
今思えば、明らかに様子がおかしかったが、鴎はそんなことに目もくれず上体を乗り出すようにした。
「母親が何か言うより先に、僕が聞いたんだ。ねえ父さん、どうしよう、どうすればいい、って」
そこで鴎は、鼻を衝くアルコールの臭いに気づいた。まさかと思って父親の顔を凝視すると、赤ら顔の口が開いた。
どうにでもしろよ。
「訳が分からなくて僕が黙ってたら、父親が、お前生きてたんだな、って」
最初見た時動かねえから死んでたのかと思った、そう言うと体全体を引き攣らせるようにして震わせた。喉からくぐもった笑い声が聞こえなかったら痙攣でも起こしたと思っただろう。
でも意味ねえだろ。
なあ、と投げかけられた言葉を追うように、鴎は母親の顔を見た。一瞬鴎と目が合った母親は、その視線を振りきり父親に顔を向け、えぇ、と引きつった笑みを浮かべながら頷いた。
「なんか、目の前の景色全部、ガラガラ言いながら崩れるみたいだった。事故の時とは違う痺れ方で、体の感覚がなくなっていくんだ」
気が付いたら二人の姿は病室から消えていて、看護師に、興奮すると体に悪いから家族との面会はしばらく禁止だと伝えられた。ろくに動かない体で父親に掴み掛かったらしいが覚えていなかった。
何もせずにベッドに寝転がったままの日々が続いた。天井は明るさの無い白色で、材質はなんだろうとぼんやり考えていた。面白味などまるでないそれを眺め続けたのは、視線を自分に向けるのが怖かったからだ。
父親の情熱は単にコンプレックスの裏返しで、母親の穏やかさは波風を立てないための処世術でしかなかった。何もかもを指針にしていた存在はあっけなく消えて、残ったのは人に頼らなければ立っていることも出来ない子供だけだった。自分がこんなにも空っぽな人間だと思わなかった。
自分の気持ちの落としどころが分からず、家に帰ってからのことを考えると死にたくなった。
そんな鴎を見かねた入院患者の老人が、雨の日は本を読めと薦めた。確かにこのまま後ろ向きなことばかり考えていると、ベッドに沈み込んで二度と浮き上がらなくなりそうだ。そう思った鴎は、それに従うことにした。
ロビーには雑誌のほかに本もいくらか置いていた。鴎は迷い、一冊を手に取った。どれを読めとは言われなかったので、一番本棚からはみ出しているものを選んだ、それだけだった。
“アルカンスの矜持”を書いた万という作家は、これまでにもたくさん本を執筆しているようだった。しかし、後ろの方のページに載った本のどれも鴎は読んだ覚えがなかった。
「あの時は意識してなかったけど、僕が本をちゃんと読んだのはあれが初めてだったんだ。」
初めての読書体験は、一時間ほど読み、疲れて本を戻したところで終わった。昼寝しようとベッドに戻ったとき、自分が本の続きへの期待だけを抱いていることに気付いて、きょとんとした。
あれだけ心中を占めていた悩みから解放してくれたのが、万の本だった。
次の日も、その次の日も、鴎は本を読んだ。少しづつ読書の時間が増え、寝たままの時間が減る。しかし、自分のことについて向き合う時間はその方が増えた。
少しでも考えこむとついて回った両親への失望や怒り、不安というような、鴎を破滅願望に駆り立てる感情は、本を読んだ後はずいぶんと穏やかになった。
「他の高校選ばなきゃ、って思うようになったんだ。それまでは、このままどこにも行かないで引きこもって、あいつらに恥かかせてやるとか考えてたのに」
そんな変化を自覚したのは、“アルカンスの矜持”を読み終わった時だ。鴎はぼろぼろと涙を流していた。自分がこんなに涙脆いほうだと思っていなかった。
終わったという気持ちは、しかし本に対してだけではなかった。自分にとって一つの区切りが終わったのだ。そのことを思うと涙が少し塩辛いものになったが、鴎は我慢しようと決めた。
「一回一人になりたいって思ったんだ。自分の身の回りのこと、自分でできるようになりたいって」
退院した鴎は、県外の江袋高校を進学先に選んだことを両親に伝えた。母親は少し迷った後、それがいいかもね、と鴎に言った。父親からは特に何もなかったが、いつかは話をしなければと思いつつ、家を出た。
「それでこっちに一人で越してきて、高校に行って」
それで、の後から、今までに起きた出来事を思い出す。
「みんなと六城さんに遭って、ここにいる」




