なぜなにイグナクト【本編 第二話の考察】 ★考察 一色24区★ ■中編■
なぜなにイグナクト【本編 第二話の考察】 ★考察 一色24区★ ■中編■
幕末編、ですね。
私の主観では【幕末のあれやこれはみんなエネルギー(鯨油)争奪戦とその動乱に巻き込まれた民衆の悲劇】だと感じてます。
これを聞いた私の友人は【わかった、お前は三国志もチ〇チ〇ついてる奴達が〇ン〇ンついてない奴達をぶちのめす物語なんだな】と言ってきたので『そっ、そのとおりじゃんよ!宦官許すまぢ!!』と返しておきました。
間違ってないぞ...
【本編一話/二話もどうぞよろしくお願いいたします】
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はい!良い子の皆さん!げんきですかー!
こんばんはこんにちはおはようございます
なぜなにイグナクト【本編 第二話の考察】 一色24区 考察回/中編です。今回は
「江戸幕府が昔一度調べたのに、なぜ幕末になってもう一度取りに行ったのか」
ここを軸に都が島を管轄してる因果関係へのアプローチ回になります。
結論から言えば、小笠原諸島は
「日本が知らなかった島を幕末に発見した」
のではなく、「江戸時代に一度確認した無人島が、19世紀になると欧米列強の太平洋進出によって“放置しておけないヤバい国境線の領土”になった」という話です。
1.まず江戸幕府は小笠原を知らなかったわけではない。
ここは前編でお話しした通り中々きちんと下調べをしていた記録があります。小笠原諸島について、幕府が最初に組織的な調査を行ったのは 1675年(延宝3年)です。
幕府は探検船を派遣して島々を調査し、島の地形・動植物などを記録しました。
つまり、
「幕末になって日本人が初めて小笠原を発見した」
ではありません。
ところが、その後、小笠原は基本的に無人島として放置されます。JACAR(アジア歴史資料センター)も、1675年の巡視以降、幕末まで日本による実質的な支配は放置されていたと整理しています。
ここが重要です。
「発見した」ことと「継続的に統治している」ことは別物だったわけです。
2.19世紀になると、太平洋そのものが変わる
18世紀末~19世紀になると、欧米諸国の太平洋進出が急速に進みます。特に大きかったのが捕鯨です。まぁぶっちゃけてしまうと捕鯨が明治維新のきっかけなんだよというぐらい話としては成立してしまうのでここからはもうギチギチに国同士の利権の末に日本は気が付いたら攘夷だなんだと坂本龍馬が駆けずり回ったり新選組が京都で殺し合いしたり会津が酷い目にあったり株式会社ができたり損害賠償踏み倒したり色々発生したんだと個人的には思っています。
坂本龍馬の日本を洗濯~っての、あれ多分比喩でも揶揄でも煽りでもなくあちこち見てきてガチガチ本気で本当にそう思ったんでしょうね...自分だったら、日本おわってんぢゃねーか!!とちゃぶ台ひっくり返して酒瓶振り回して全裸で走り出しそうな気がします...
そういったグチャドロは話が闇深すぎるので端折ります。
19世紀にはアメリカを中心とした捕鯨船が太平洋を大量に往来するようになります。
要は小笠原は、日本本土と太平洋を結ぶ位置捕鯨船の活動海域、艦船の補給・避難に使える、欧米船が立ち寄れる
という地理的条件を狙われたわけです。
つまり17世紀には、
■「遠くにある無人島」■
だったものが、
19世紀には、
■「太平洋航路上の便利な島」(主に捕鯨/いや多分捕鯨だけ)■
になった。
これが決定的な変化です。
3.そして外国人が実際に住み始める
1827年、イギリス海軍のフレデリック・ウィリアム・ビーチーが小笠原に来航し、父島で英国領有を宣言しました。
これは単なる探検ではなく、領有を示す行為です。近年の研究でも、ビーチーが父島に銅板を取り付けて英国による領有を主張したことが確認されています。
さらに1830年には、アメリカ人ナサニエル・セボリーらが父島に移住して開拓を開始。
つまり、日本が鎖国最高だねと思考停止で体制維持に明け暮れてた時に
英国が領有を主張する
↓
アメリカ人が定住する
↓
小笠原が「誰の島なのか」という問題になる
という状況になりました。
日本ってずっとこれなんですよ...問題になる話があるのに問題になってから慌てる、時既にギリギリ(そう、いつもギリギリ...)
国立公文書館も、1827年の英国領宣言、1830年のセボリーらによる移住を小笠原帰属問題の重要な経緯として整理しています。
4.さらに1853年、ペリーが来る
かいこくしてくだーい(捕鯨のため)にほんさんかいこくしてくだ~い~(捕鯨のめだっってんだろチョンマゲ)ここでさらに状況が悪化します。
皆さんご存じ1853年、アメリカのペリーが日本へ来航します。
その途中で父島に立ち寄り、島民との間で土地を取得し、アメリカ側の補給基地として利用する構想を進めました。
外務省の史料解説によれば、ペリーは父島に貯炭地を設置する契約を島民との間で結び、さらに島民に植民政府樹立を宣言させています。
ここまで来ると幕府としては、
「昔うちの先祖が調査した無人島だから日本のものです」
だけでは済まない。
現地に外国人がいて、外国政府が領有を主張し、外国船が利用している。この状態です...
5.幕府が「これはマズい」と認識する
さらに1850年代になると、幕府自身が海外情報を大量に収集するようになります。
1856年には、幕府が『ペリー提督日本遠征記』を入手します。
そこには小笠原を開発して、
入植
捕鯨基地化
する構想が記されていました。
国立公文書館は、これを幕府が小笠原を「回収」する重要な契機として説明しています。
つまり幕府側からすると、
「あの無人島、外国人が勝手に使い始めているぞ」
という話になった。
しかも小笠原は、欧米列強が太平洋を横断する時代には戦略的価値がある島になっていた。
アホですやん...こんな体たらくの御上の様を当時の国民はあまり知りません。情報として降りてこないからですね。
でも国を憂いてる人達のコミュニティでは話題として出てきます。結果として当時多くの眠れる獅子たち、もとい志士に火をつけてしまった。某大人気鬼の物語と同じですね。
変な話、政治が安定的に事を処理していれば必然的に国内統治は上手く回るし、問題が発生しても民衆が味方してくれるんですよ。その辺りはいい加減人類全体が歴史に学んでいいとすら思うほどにこの定番の愚行は全世界機共通であります。日本だけ謎の
『ギリギリまで我慢するなり』
というのがあるのが理解に悩みますが...
6.実は1860年にも一度、咸臨丸で行こうとしていた
ここは面白いところです。
一般に、 【1861年に幕府が咸臨丸を小笠原へ派遣】
と語られますが、その前段階があります。
1860年(万延元年)、咸臨丸が太平洋横断を行った際、幕府は小笠原に寄港して実情を調査することを計画していました。
しかし実現しませんでした。
その後、遣米使節団がアメリカで英米両国の小笠原への関心を知り、帰国後に幕府へ報告。
さらにイギリス公使オールコックから小笠原領有についての問い合わせもあり、幕府首脳は巡視の必要性を強く認識するようになります。
つまり、
■----■----■----■----■
1675
↓
日本が調査
↓
長期間放置
↓
19世紀
↓
欧米捕鯨船が太平洋へ大量進出
↓
英国が領有宣言(ここ基地にして鯨油とりまくれるで~)
↓
米国人が定住
↓
ペリーが利用(ここ基地にして鯨油とりまくれるで~)
↓
幕府「これは放置できない」
↓
1860年、調査計画
↓
未実現
↓
1861~62年、本格的に動く
■----■----■----■----■
という流れです。とにかく調べれば調べるほど捕鯨と関係してくる話が引っ付いてくるんですよ。幕末の動乱は開国に目が行きがちですが事の本質は
エネルギー(鯨油)争奪戦
ここだと思います。
ちなみに急に開国開国へペリーさん来なくなったの調べると面白いです。この辺りを境に捕鯨は儲からなくて連中の目線は石油に移っていったんです。
日本人は鯨食いますしなんなら髭や尻尾まで食べます。魚やで鯨に強いところが千葉と名古屋にありますがもうなんやねんこの旨いけど市場にほとんど出てない珍味は!というモノも食用にしてるのが日本人。
外国の捕鯨って肉は捨てて油だけというのが中心。だから捕鯨反対は根本で話がかみ合わないんですよね。なんで24区の話で捕鯨なんだよってツッコミが入りそうですがそこも実は本編に少し噛んできます。秋ぐらいに公開されます...旭柰さん回です...
7.1861年、ついに幕府が「日本領として押さえる」
そして文久元年。
幕府は小笠原の開拓再興を決定します。
1861年12月17日(文久元年11月16日)には、イギリス・アメリカに対して小笠原島の開拓再興を通告。
英米側は日本人の移住そのものには異議を唱えず、
・自国移住民の権利
・外国船の自由停泊
などの保障を求めました。
そして、1862年1月/外国奉行・水野忠徳らを乗せた咸臨丸が小笠原へ向かいます。
文久元年12月19日=1862年1月18日、父島に到着。
ここで幕府は、父島・扇浦に役所を設置、島民に日本領であることを伝達
島内を調査・測量し島の規則を制定、八丈島から日本人を移住させる、
ホントようやくここで単なる「領有宣言」を超えた実効支配の構築に乗り出しました。
ここが「調査」から「統治」への転換点です。
8.ところが幕府の小笠原支配は長続きしない
ここが幕末らしいところです。ここで歴史大好き~みんな知ってる!
1862年に生麦事件が発生。
イギリスとの関係が一気に悪化します。
幕府はイギリス艦隊による攻撃などを警戒し、小笠原から日本人入植者を引き揚げることになります。
小花作之助ら一部の担当者は残りましたが、1863年5月には撤退。
つまり、
日本領だと宣言した。
統治も始めた。
しかし幕末外交の大混乱で一旦撤退した。
となります。
ここが非常に重要です。
9.明治政府になって、もう一度取りに行く
明治政府になっても小笠原問題は消えません。
むしろ再び外国との関係が問題になります。
1870年代になると、イギリス公使パークスから小笠原の帰属について問い合わせが出ます。
さらに1873年には、アメリカ人ピールスが小笠原の一部を取得してアメリカ政府に帰属させようとしているという報道もあり、政府が再び調査を開始するきっかけとなりました。国立国会図書館所蔵の1876年内務省資料にも、この経緯が記録されています。
つまり明治政府から見れば、
「幕府が一度日本領としたけれど、撤退してしまった。その間に外国側からまた領有の動きが出ている。」
という状態です。
無能すぎだろ幕府...
だから1875年、明治政府は再び本格的に小笠原を取りに行く。
10.1875年、四省合同で再調査・再回収
明治8年、つまり1875年11月。
外務・内務・大蔵・海軍の4省から官員を派遣。
現地にいた住民71名に対して、
小笠原諸島は日本領である
と改めて宣言します。
そして行政機構を整備していきます。これは1862年の幕府による領有宣言の「やり直し」ですが、明治政府はさらに一歩進めます。
外交的に各国へ正式通告する。
11.1876年、国際的な争いに決着がつく
1876年、内務省所管となり、寺島宗則外務卿から各国へ日本による統治を正式通告。
そして重要なのが、
外国から日本の領有に対する異議が出なかった
ことです。これ単にみんな他のことに目移りしてて日本なんて興味ねーよというだけだったんですペリ~
※アメリカ含めて石炭事情調べるととても面白いのでおススメです。
国立公文書館はこの経緯を、
■----■----■----■----■
1875年に現地で日本領を宣言
↓
1876年に各国へ正式通告
↓
異議なし
↓
日本領として確定
■----■----■----■----■
という流れで整理しています。
文化庁の小笠原諸島資料でも、1876年について「諸外国に小笠原の日本領有統治再開を通告」「諸外国から反対が無かったため、日本領であることが確定」と整理されています。
その後、
1877年 父島・扇浦に内務省出張所設置
1880年 東京府へ移管
と行政統治が定着していきます。
したがって、一本の線にするとこうなります。
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■年 ■出来事+意味
1675 幕府が小笠原を調査日本は存在を把握
以後長期間ほぼ放置継続的実効支配には至らず
1827 英国が領有を宣言欧州列強が領有問題へ参入
1830 セボリーら米国人が入植外国人による定住開始
1853 ペリーが父島を利用米国の太平洋拠点化の動き
1856 『ペリー遠征記』を幕府が入手小笠原開発構想を把握
1860 咸臨丸による調査計画幕府が問題を認識
1861 幕府が開拓再興を英米へ通告日本が本格的に領有へ
1862 咸臨丸で水野忠徳ら派遣日本領宣言+役所設置+調査
1863 生麦事件の影響で撤退幕府の実効支配が中断
1873 米国人による取得構想の報道明治政府が再び危機感
1875 四省合同で再調査・日本領宣言日本が再回収
1876 各国へ正式通告、異議なし国際的な帰属が確定
1877 内務省出張所設置統治を本格化
1880 東京府へ移管東京の行政区域へ組み込まれる
■----■----■----■----■
そして「なぜ19世紀になって取りに行ったのか」の答え
極めて単純化すると、
■----■----■----■----■
1675年の小笠原
「遠くの無人島。調査しておけばよい。」
↓
19世紀の小笠原
「欧米の捕鯨船が来る。」
↓
「英国が領有を宣言した。」
↓
「アメリカ人が住み始めた。」
↓
「ペリーが利用し始めた。」
↓
「このまま放置すると、外国の植民地・補給基地になりかねない。」
■----■----■----■----■
となったからです。
そしてこの話の面白いところは、幕府が領土欲に突然目覚めた話ではないことです。
むしろ、
【昔から日本が知っていた島】
→「誰も必要としない無人島」
→「欧米列強の太平洋進出によって価値が変わった島」
→「日本が実効支配を確立しなければ外国に取られる島」
という、国際環境の変化によって同じ島の意味がまったく変わった話です。
そして「小笠原がなぜ東京なのか」という次の話。ここから1876年の確定 → 1880年の東京府移管までがあります。
この辺は後編の頭で書きます。
「なんで東京やねん」
1880年に内務省から東京府へ移管されたこと自体はJACAR・国立公文書館の資料でも確認できます。
伊豆七島も伊豆とかついてるのに東京都。
『天のイグナクト』世界では一色とついてるのに24区。
という創作への流れのが後編で確定します。
正直この辺りを調べていくまでは色々リアリティの面で悩んでました。
その辺りのこと含め、明日の後編をお待ち頂ければ幸いです。
では『天のイグナクト』本編に引き続き なぜなにイグナクト もよろしくお願いいたします!!
2026年8月10日 冴祈統乾
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いかがでしたでしょうか中編?
私の歴史観は別として事実ベースで追っていく上で島を都が管理していく流れが少し見えてきたように感じます。
昔あることがきっかけで東京都を調べてた時に感じたのは
【なんで東京都は法ではなくて「実務上の慣例」のが優先されてるんだ?法との整合性とれてなくてこれ人権侵害じゃない?】
こんな話がたくさん目につきました。
そしてなんで23区なんて区分けあるの?というのがその後の調べまくる動機につながり今に至ります。
身の回りの仕組みにも歴史を辿るネタは沢山ありますので気になる方は色々調べてお楽しみください。
ではまた次回もよろしくお願いします。
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