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日付変更線を越えた夜(前編)

60歳で定年退職した。

長年勤めた会社を辞め、家族や友人からは「本当に行くのか」と何度も聞かれた。

答えは、決まっていた。

行く。


若い頃からの夢だった、ヨットによる単独太平洋横断。

相棒は日本製30ftの頑丈なモノハルのヨットだ。

決して最新の艇ではない。

だが、長い時間をかけて、自分の手で外洋航海仕様に仕上げた。

400ワットのソーラーパネルを2枚。

400Ahのリン酸鉄リチウムバッテリー。

VHFにアマチュア無線、AISとGPSプロッター、そしてマリンレーダー。

造水機、スターリンク、オートパイロット。

そして電力を使わず風だけで舵を取るウインドベーン。

食料も水も、予備部品も積んだ。

準備はした。

できる限りのことは、全部やった。

そして俺は、日本を出た。


目指すのは東。

太平洋の向こう側だ。

航海は驚くほど順調だった。

晴れた日にはソーラーパネルが十分な電力を生み、造水機が真水を作る。

スターリンクが繋がれば、天気図を確認し、AISとレーダーで周囲を監視する。

ウインドベーンに舵を任せ、夜はコックピットで満天の星を見る。

会社員だった頃には考えられないほど、時間はゆっくり流れていた。


そして25日後、7月27日23時、ヨットは間もなく日付変更線を越える。

深夜だった。

GPSプロッターの表示を見ながら、一人でモエのミニボトルを開けた。

ステンレスのゴブレットがちょっとアレだが、まぁいいだろう。


「日付変更線、通過」


誰に聞かせるでもなく、そう言った。

特別なことは何も起きなかった。

海は暗く、風は一定。

波も穏やかだった。

俺はいつものように船内へ降り、アラームをセットして眠った。


翌朝。


目が覚めた瞬間、何かがおかしいと思った。

体が軽い。

腰が痛くない。

老眼鏡をかけずに、壁の時計の数字がはっきり見える。

「……ん?」

自分の声まで違った。

慌てて鏡を見る。

そこにいたのは、60歳の俺ではなかった。

若い。

頬のたるみもない。

白髪もない。

鏡の中にいたのは――若者に戻った俺だった。


しばらく、何も考えられなかった。

だが、本当の異変はそれだけではなかった。

GPSプロッターは動いている。

AISも動いている。

レーダーも、ソーラーパネルも、バッテリーも、造水機も正常。

スマホもタブレットもある。

ノートパソコンもある。

スターリンクのアンテナもある。

つまり、船と積み込んだ現代の装備は、そのままだ。


なのに。

スターリンクは、衛星を一つも捕まえなかった。

スマホのグーグルマップは緯度、経度のみ表示

GPSは位置を表示している。

俺はアマチュア無線のスイッチを入れ、短波放送に合わせた。


そして、聞こえてきた放送に耳を疑った。

ニュース。

日付。

何度確認しても同じだった。

――1996年。

俺はコックピットへ飛び出した。


太平洋は昨日と何も変わらない。

青い空。

うねる海。

風を受けて進むヨット。

だが世界は、30年前だった。

そして俺自身もまた、30年前の姿に戻っていた。


手元にあるのは、未来から持ち込んだ一隻のヨット。

800ワットの太陽光発電。

400Ahのバッテリー。

当時の世界には存在しない通信機器と電子機器。


この世界では万能宇宙戦艦だ。

そして――これから30年間に何が起きるのかを知っている、俺の記憶。

ただし、一つだけ問題があった。

ここは陸ではない。

太平洋のど真ん中だ。


「……さて」

若返った自分の手で舵を握る。

「これから、どうする?」

海は何も答えなかった。


俺はまず、現在位置を確認した。

GPSプロッターの画面には、見慣れた数字が表示されている。

北緯36度、西経179度。

日付変更線を越えて、東側へ約一度。

位置はおかしくない。


次に、時計を見る。

午前6時。

日付は、7月27日。

そこまではいい。

昨夜、日付変更線を東へ越えたことで、暦の上では一日戻っている。


問題は、年だった。

俺はもう一度、短波放送に耳を澄ませた。

何度聞いても、変わらない。

1996年。

俺は30年という時間を、一晩で逆戻りしていた。


「一番近くて、人が住んでる島は……常夏の楽園-ハワイ-だな」

南に舵を切り、ウインドベーンをセットした。

1,460マイル、上手くいけば十日もあれば着く。


30年前のハワイ。

新婚旅行で来た、初めての海外旅行。

ワイキキビーチはホテルからのオーシャンビューだけ。

オプションツアーとお土産選びで終わったハワイ。

空港に着いてからホテルにパスポートを取りに戻った思い出。


「そういえばあの時初めてロブスター食べたなぁ」

「あの時は予算の関係で無理だったけど、ハレクラニに泊まれないかなぁ」

「それともピンクのホテルか、真っ白なホテルでも良いかも」

「予約なしでいけるかなぁ」

「楽しみだなぁ~」


九日後。

水平線に、島影が見えた。

「ハワイだ!」

そこからが長かった。

見えているのに、なかなか近づかない

そして十数時間後。

俺はようやく、オアフ島のアラワイ・ボート・ハーバーへ入った。


入国手続きが大丈夫なのか、ちょっと心配になってきた。

パスポートは2024年発行。

写真は60歳の疲れた俺の顔だ。

「まぁ写真写りが悪かったことで通るかな…」

ドキドキしながらパスポートを差し出した。

「……」


係官は写真を見た。

俺を見た。

もう一度写真を見た。

心臓が止まりそうになった。


「Welcome to Hawaii.」


スタンプが押された。

「…………え?」

通った。

なぜ通った?

だが、入国審査官がいいと言ったのだ。

なら、いいのだろう、考えたら負けだ。


無事に入国出来た。

メインストリートを散策した。

ビーチサイドの小径も歩いた。

ダイヤモンドヘッドが見える。


懐かしい……、以前訪れた時のワイキキだ!

テレビで観る現代のワイキキとは違う!……と思う。

「折角だからハレクラニで昼飯食べよう!」

三十年前、新婚旅行で泊まれなかったホテル。


ハレクラニのレストラン・オーキッズは海の見える席だった。

俺は、その日の鮮魚料理を頼んだ。

それと、冷えたビール。

「……生き返るなぁ」

(これ以上、生き返る必要はない)


新鮮なサラダとシーフードが並ぶ。

それぞれを噛みしめ味わった。

「やっぱりオマールより伊勢海老の方が美味しいな」


半分ほど食べたころ、海側ではなくホテルの街側から騒ぎが起こった。

最初はサイレンから始まった。

次に悲鳴。

客たちは何事かと振り返る。

俺はまだ食べている。

「事故かな?」


さらに悲鳴があがる。

「……暴動?」

やがて血まみれの人間がホテル敷地へ入ってきた。


「いやいやいや」

俺は映画が好きだった。

だからこそ、分かる。

こういう時、最初にゾンビだと思う奴は馬鹿だ……


さらに騒ぎは大きくなっていった。

「ちょ、ちょっと待て、マジか!」

それでもナイフとフォークは手放さなかった。


店内は阿鼻叫喚の地獄へ切り替わった。

現れたのは紛れもなくゾンビそのものだった。

さすがに俺もナイフとフォークをテーブルに置いた。

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