「勇気の結果」
結局、二学期が始まった。
中村は、教科書を机に置きながら、そんなことを考えていた。
なんもできなかった。
夏休みは、思っていたよりも、あっけなく終わってしまった。
有本との仲が、進展するわけでもなく。
距離が縮まったとも、離れたとも言えないまま。
時間だけが、きれいに過ぎていった気がする。
何も壊していない。
でも、何も進んでもいない。
それが一番、胸に残った。
それでも――。
千代田から、いろいろ聞いた。
考え方とか、タイミングとか、逃げないこととか。
少しは、勇気をもらった気がする。
「よし、次こそは……」
声に出してみると、
思ったより頼りなかった。
勇気っていうのは、
きっと、怖いままでも一歩踏み出せることなんだろう。
頭では、わかっている。
***
その日の夜。
家に帰って、夕飯も済ませた。
今は、お風呂の順番待ち。
リビングの端でスマホを握りながら、
中村は、深く息を吸う。
「……一丁、勇気出して、LINEしてみるか」
画面を開く。
名前をタップする。
既読がつくかどうか。
たったそれだけで、心拍数が変わる。
我ながら、単純だと思う。
「またあのショッピングモール行かない?」
少し考えて、続ける。
「今度の週末とか……」
「特に用事はないだろうけど」
送信。
送った。
もう、取り消せない。
あとは、返事を待つだけだ。
中村のスマホ画面に連続して通知が走る。
「……なにそれ、ちょっと回りくどい言い方。
『特に用事はないだろうけど』って前置きするの、
中村っぽいけどさ」
読んだ瞬間、苦笑いが漏れる。
ああ、やっぱり。
「まぁ、嫌いじゃないけど」
その一文で、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「今度の週末ね。
土曜はちょっと用事あるけど、
日曜の午後なら空いてるかな」
続けて、さらに。
「前みたいに、
プレゼント目的とかじゃなくてもいいなら」
「あ、良いんだ!」
思わず、声が出る。
――ダメじゃない。
それだけで、今日は少し報われた気がした。
「じゃぁ、デートって事でいいのかな? なんて」
調子に乗った自覚は、あった。
でも、止められなかった。
「……もう、そういう言い方するんだから」
返事は、少し間を置いてから来た。
「うーん」
その一文字が、やけに長く感じる。
「デートってことでいいよ」
心の中でガッツポーズ。
「誰に言い訳するでもないし、
ママにもそんな事言われたし」
――デートって、言われたんだ。
文字なのに、やけに重い。
「ただし条件」
『条件。』
一瞬、身構える。
「今度はちゃんとスイーツも食べようね」
「またドタキャンされたらなー。
なんて言うかねー、わかるよねー?」
少し意地悪な返しをすると。
「なっ……今それ言う?」
すぐに返ってきた。
「うん、まぁ……そうだけどさ」
そして、続く。
「あれは不可抗力ってやつ。
ほんとに用事できたんだって。
逃げたとか、そういうのじゃないからね」
少し間があって。
「でも……」
その言葉に、自然と画面を見つめる。
「ちゃんと説明しないで帰ったのは、
ちょっと悪かったかなって思ってる。
だから今回は、ちゃんと行く。約束」
――約束。
「ほら、これでチャラ。
次は中村が疑わない番ね。オッケー?」
念を押すように。
「そんじゃ……日曜、楽しみにしてるから」
「デートって事は……いや、なんでもない……」
言いかけて、止めた。
「……なに?
そこで止めるの、ずるくない?」
言いたい。
でも、今言ったら――。
この関係が、変わってしまいそうで、怖かった。
「なんでもないよ。気にしないで」
「えー?
『デートって事は』まで言っといて
『なんでもない』は通らないでしょ」
苦笑が、文面から伝わってくる。
「まぁ、言いたいことはだいたい想像つくけどさ」
想像、ついてるんだ。
それが、少しだけ救いだった。
「想像つくなら良いじゃん」
「大丈夫、大丈夫。
重く考えなくていいし、
今は一緒に出かけるってだけでいいじゃん」
そして、最後に。
「続きは、
日曜にでも聞いてあげる
その方が、ちょっと楽しいでしょ?」
そんなこと言われたら……。
中村は、スマホを胸元に引き寄せた。
――勇気って、
もしかしたら、
こうやって逃げなかったことを
言うのかもしれない。
日曜が、
少しだけ、現実味を帯びて近づいてきていた。
中村は、スマホを握りしめたまま、しばらく指を動かせずにいた。
画面には、有本とのトーク画面。
勢いで、文字を打つ。
「あのさ、もしかして……今、通話できる?」
送信してから、心臓が一拍遅れて跳ねる。
――今、って言っちゃったな。
すぐに返事が来た。
「……今?」
間。
「急だなぁ、ほんと」
やっぱり、そう思うよな。
「でもまぁ、
今なら大丈夫。ちょっとだけね」
そのあとに続く一文が、有本らしい。
「変な沈黙続いたら切るから、そのつもりで」
軽口みたいで、
でもちゃんと境界線を引く言い方。
「でも、ゲーム忙しいでしょう?」
中村は、慌てて付け足す。
「なんかまた新しいのにハマってるって言ってたし」
「あー……まぁ、忙しいっちゃ忙しいけど」
一拍置いて。
「でもさ、ゲーム置くくらいの余裕はあるよ」
思わず、画面を見つめた。
「あっ……そうなんだ……」
声に出る。
優しいな、ほんと。
「今やってるゲームより、
中村が何言い出すのかの方が
ちょっと気になるし」
追い打ちみたいに、言葉が続く。
「ほら、気にしないで」
――今言えば。
今ここで言えば、
全部終わるか、始まるかだ。
喉の奥が、きゅっと締まる。
「ああぁ……いや、日曜日にしておくよ」
自分でもわかるくらい、弱い声だった。
「うん、その方がいいよ」
逃げた。
でも、ただの反射じゃない。
「……そっか」
有本は、すぐに否定しなかった。
「まぁ、それでいいよ」
少し、間を置いて。
「無理して今話すより、
日曜にちゃんと顔見て話した方が、
たぶんいいしね」
その言葉に、救われる。
「じゃあ日曜日」
決定事項みたいに、静かに。
「ドタキャンしない前提で、
ちゃんと空けとくから」
――ちゃんと、空けとく。
その一言が、胸に残る。
(ちょっと……楽しみにしてるのは、内緒だけど)
有本は、心の中でそう付け足した。
一方で、中村は。
今は逃げた。
でも、自分で選んだ逃げだ。
そう。
今じゃない、という判断。
今度こそ。
有本を目の前にしたなら。
もう、逃げない。
……まぁ、逃げ場もないか。
「それよりも……よっしゃ、約束取り付けた!」
声に出して、自分を奮い立たせる。
そして。
いよいよ、約束の日は――
明日になった。
中村は、スマホを手にしたまま、ため息をついた。
「でも……心配だよなー」
約束は取り付けた。
日曜日も確定した。
それなのに、胸の奥は落ち着かない。
「女心は同性に聞くに限る、か」
誰に、とは考えるまでもない。
「……ちょっと千代田に相談してみよう!」
そう決めてからは、早かった。
「今、話すことできるかな?
いつも通り……通話でいいかな?」
送信。
すぐに返事が返ってくる。
「あ、え、どうしたの急に
まぁ、良いけど……」
通話がつながる。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
少しだけ間があって。
「なに?……あー、もしかして有本の話?」
やっぱり、わかるよな。
「僕が話するとなると、わかっちゃうよね」
苦笑しながら続ける。
「明日、やっと二人で会う日になっちゃって」
「うんうん、聞いてる聞いてる」
千代田の声は、いつも通り軽い。
「『同じクラスの中村とモール行くかも』って、
本人は軽い感じ装ってたけど」
「女子は話が回るの早いねー」
「だけどねー……」
一瞬、間。
「これ言っていいのかな?」
「ん? 何かな?」
「スタンプの使い方が、若干浮ついてたからね」
「そんなの、わかるの?」
「そうだねー。
わたしは見逃さないけどね、そういうのは」
「そうなのか……」
なるほど、そこを見るのか。
「で?
その流れで私に話しかけてきたってことは」
「……わかっちゃうよね」
「確認したい系?
それとも相談?」
「あー、なんか……どっちもって感じ」
「ちなみに、先に言っとくとね」
声のトーンが、少しだけ真面目になる。
「有本は鈍感寄りだけど、
嫌な相手には時間使わないタイプだよ」
「そういう所は、無理しなさそうだもんな」
「そのへん踏まえた上で、どうした?」
中村は、少しだけ息を吸った。
「もう、気持ち伝えようと思うんだけどさ。
どこで言ったらいいと思う?」
電話口の向こうで、
千代田が一瞬、息を止めた気配がした。
「お、来た来た。決めたんだ。
うん、それ正解だと思うよ。
先延ばしにすると、余計しんどいし」
「少なくとも、二人で会うのをOKしてくれたんだし、
脈はあるのかなーって思って。
ここかな!なんて……」
「でね、場所の話だけど」
即、現実的な話に戻される。
「人が多すぎる所は、やめとこ
フードコートど真ん中とか、改札前とか論外」
「人が多いとダメかー」
「有本ね、
からかわれるのも、見られるのも苦手だから。
その場では笑って誤魔化す可能性、高いよ」
「さすが千代田だね。頼りになるね」
「おすすめは、外に出たベンチかな。
マンガでもありがち」
「マンガ好きだもんね」
「マンガは人生だからね」
「うんうん、マンガはいいものだ」
少し笑ってから、千代田は続ける。
「スイーツ食べ終わった後ね。
満足して、ガード下がってる時も良いかも。
『イベント後の素の状態』ってやつ」
「詳しいもんだねー。そんなの思いつかないよ」
「あとね、重要だから言うよ」
「何かな?」
「帰り際はダメ」
「へー、なんで?」
「『返事保留から気まずく解散』ルートに、なりやすい」
「また今度ってやつね。あるかもなー」
「言い方はシンプルでいい、
飾らなくていい」
「うんうん」
「有本は察し合いより、
ちゃんとした言葉の方が響くタイプ」
「そんな感じがするよ。雰囲気じゃダメだろうな」
「たぶんだけど」
少し間を置いて。
「ちゃんと場所とタイミング選べば、
有本は逃げないよ」
(まぁ、この前のはねー。家族だもんな)
「……で」
話題が切り替わる。
「もう言うセリフは決めてる?」
「いやー、何がいいやら。
もうパニックだよ」
「そこ、もっと詰めたいなら、
マンガの知識、全力で手伝うけど」
「いや、そこまではいいよ。ありがとう」
「頑張ってねー」
「助かるよー。じゃあね」
通話が切れる。
しばらくして、
千代田はスマホを見つめたまま、深く息を吐いた。
(はぁぁぁ……)
(なんで、わたしに聞いてくるんだよ。バカ)
(人の気も知らないで……)
(これも、脇役の宿命ってわかってるけどさ)
(……意外と、残酷だよね)
そう呟いて、
千代田は画面を伏せた。
中村の明日と、
自分の気持ちを、
切り離すみたいに。
日曜日。
約束の日。
中村は、時計を見ては、意味もなくスマホを伏せていた。
早く着きすぎても落ち着かないし、
かといって、遅れるなんて論外だ。
「服……これでいいよな……」
鏡の前で、立ち止まる。
派手すぎない。
地味すぎない。
……多分。
鏡の前で何度も立ち位置を変える。
角度を変えて、距離を変えて、
笑顔の練習なんてものまでしている自分が、少し可笑しかった。
「よし」
一度、息を吸って。
「行こう」
玄関を出た瞬間、
この後のことを考えたせいか、胸の奥がきゅっと縮んだ。
楽しみと不安が、
同じ重さで、同時にやってくる。
モール前。
人が多い。
何度も来ている、知っている場所なのに、
今日は、少しだけ違って見えた。
「……あ」
視線の先に、有本がいた。
「あ、中村。早いね」
いた。
それだけで、全部報われた気がした。
「へー、有本も早いじゃん」
「まぁね。待たせるのも嫌だし」
「今日は……その、よろしく」
「なに改まってんの。いつも通りでいいよ」
そう言って、有本は歩き出す。
「ほら、行こ」
並んで歩く。
肩と肩の距離が、思ったより近い。
「そういえばさ」
有本が、ふと思い出したように言う。
「この前言ってたゲーム、結局買った?」
「あー……買った」
「……積んでるけど」
「出た。中村の積みゲー率、異常だよね」
「やる気はあるんだって」
「あ、あのショップ見ていい?
期間限定グッズ出てるって聞いて」
「いいよ、全然」
「見てこれ。このキャラ、絶対中村好きでしょ」
「いや、まぁ……否定はしない」
「でしょ。顔に出てるもん」
「有本の方こそ、こっちの方が好きじゃん」
「ばれた?」
少し笑ってから、有本は言う。
「でもさ、こういうのってさ、
見てるだけで楽しいよね」
「あ、喉乾いた」
一瞬、立ち止まって。
「……って言いたいところだけど」
「だけど?」
「ほら、約束」
有本は、こちらを見る。
「今日はスイーツ、逃げない日だから」
「じゃあ……行く?」
「うん」
「あそこの店、前から気になってたんだ」
有本の足取りが、少し軽くなる。
同時に、中村の胸の奥がざわつき始める。
店の前。
甘い匂い。
人の少ない時間帯。
千代田の言葉が、ふっと頭をよぎった。
「どれにする?」
「あぁ! 期間限定もあるよ」
「いろいろと……迷うよね」
「決まったら席取ろっか」
「うん。じゃあ、荷物貸して」
有本が背負っていたバッグを受け取りながら、
笑っている有本の横顔を見て、
中村の胸の鼓動が、少し速くなる。
大丈夫。
逃げない。
ちゃんと、この先へ行く。
スイーツを食べ終えても、
踏み込めないまま、何気ない話を続けていた。
「有本はスイーツ好きなんだね。
他にも、好きなものってあるのかな」
「うーん、好きなもの?
まず、甘いもの。これは外せないね。
特に期間限定とかに弱い」
「期間限定かー。そうだねー」
「あと、マンガとゲーム。
ジャンルはわりと雑食だけど、
ストーリー重視のやつが好きかな」
「そう言われると、そうだね」
「それと……」
少し考えてから。
「友達と、だらだら喋る時間……
あ、今みたいな感じのやつね」
「友達……今みたいな……か」
中村の喉が鳴る。
「あのさ……」
「ん? どした?」
「今、好きなものの話、したじゃん」
「あー、うん」
「甘いものとか、マンガとか」
「その流れでさ……」
一瞬、間を置く。
「聞いても、いい?」
心臓の音が、
自分にだけやけにうるさい。
「……なに?」
「僕のことは、どうなの……かな……?」
言った。
逃げなかった。
「あっ……」
有本は、少しだけ間を置いてから、息を吐く。
「ほんと、急に来るよね、そういうとこ」
怒っているわけじゃない。
困っている声だった。
「えっとさ……、嫌いだったら、
今日、ここに来てない」
「あー……まぁ……」
何も言えないけど、
それだけで、胸が少し軽くなる。
「一緒にいて楽しいし、話してて、気を使わないし。
沈黙も、変に怖くない。
それに……」
少しだけ、言葉を選んで。
「中村って、わかりやすいじゃん」
「それ、褒めてる?」
「半分ね。
半分は……安心するって意味」
有本は、言葉を選んでいる。
ちゃんと、傷つけないように。
「だからさ、
好きか嫌いかで言ったら……、
好きだよ」
ちゃんと言ってくれた。
「でもね、その『好き』が、
今すぐ恋って名前かって言われると……、
正直、まだ自信がない」
否定じゃない。
保留でもない。
考えてくれている。
「……僕じゃ、だめかな。なんて……」
「……ずるい言い方」
「ほんと、真っ直ぐすぎ。
だめ、じゃない……よ、全然」
「ただね、誰かを好きになるって、
決めるものじゃなくて気づいたら、そうなってるものだと思ってて」
有本の視線が、一度だけ逸れる。
「今の私はさ、
中村と一緒にいる時間が好き。
もっと言うなら、
この時間が終わってほしくないって、思ってる」
それは、
期待していい言葉だった。
「だから――、
今すぐ答えを出す『好き』じゃなくて、
もう少し、一緒に時間を重ねたいっていう
『好き』」
「それじゃ、だめ?」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
中村はゆっくり首を左右に振って。
「……ううん、それで、いい」
その時はそれがいい、と思えた。
「じゃあ、決まりね。今日はここまで。
続きは、また今度」
逃げられなかった。
……いや、保留?
でも、拒まれもしなかった。
たぶん、これは――
ちゃんと「前に進んでる」。
でも、決定打でもない。
結局、今までと変わらないのか?
――期待して、いいもんなのか。
「……千代田に、聞くか……」
中村は、そう思いながら、
静かに息を吐いた。




