第06話 捕虜には向いていない方
「私に、構わず逃げてください」
公爵が言った。
私は台本から顔を上げた。
「まだ、どなたも逃げていません」
「そうでしたか」
彼は紙を見直した。
厳しい顔をしていた。
娘が書き足した、たった三行の台詞に負けている。
場所はエーベル夫人の音楽室だった。
夫人は隣の小部屋で、針仕事をしている。扉は開いていて、笑い声だけが時々入ってきた。
「助けてくれ、からです」
「それは、昨日も練習しました」
「では、その成果を」
公爵は椅子に座り直した。
海賊の帽子は隣に置いてある。捕虜に帽子を被せるべきかどうかで、私たちはすでに一度話し合い、被せないことにした。
「助けてくれ」
私は目を閉じた。
「いかがですか」
「助けに行ったら、働かされそうです」
隣の部屋で何かが落ちた。
エーベル夫人が、すぐには拾わなかった。
公爵は額へ手を当てた。
「命令を出す癖が、あるようです」
「少し」
「少しですか」
「かなり」
彼が笑った。
私はその隙に、台本を一枚めくった。
「いっそ、助けてもらうのが下手な捕虜になさっては」
「現状のままということですか」
「娘さんに、助けを呼ぶ時はどう言いますか、と尋ねられる役に」
公爵が考え込んだ。
「それなら、自然に困れます」
私は紙に書き込んだ。
フリーダの船長が、捕虜に挨拶を教える。
人を捕まえておいて、礼儀も教えるのだから、忙しい船だ。
「その後、捕虜は何をするのでしょう」
「船の修理を手伝うのです。嵐で、帆が破れる予定なので」
「それなら、働けますね」
彼の声が明るくなった。
私は笑った。
「やはり、お仕事がお好きなのですね」
言った瞬間、公爵の笑いが少しだけ薄くなった。
ほんの小さな変化だった。
私はペンを止めた。
「……嫌な言い方でしたか」
彼はすぐに首を振った。
「そうではなく。得意なことに、戻ろうとしているなと」
私は彼を見た。
大きな手が、膝の上で揃っていた。
「何かを直すとか、誰かを連れ戻すとか。そういう役なら、考えずに動ける」
「捕まっていると、落ち着きませんか」
「かなり」
さっきの私と同じ答えだった。
彼が少し笑ったので、私も笑えた。
「では、今日は少し、捕まっていてください」
私は台本を伏せた。
「お茶が来るまで」
公爵は驚いたように私を見た。
それから、椅子の背へゆっくり寄りかかった。
「分かりました」
何もしていない彼を見るのは、初めてだった。
娘を迎えに来た時も、帽子を返す時も、必ず用事があった。
今は、大きな人が椅子に座って、私を見ている。
私は急に、落ち着かなくなった。
「……私も、何かしたくなりますね」
彼が声を出して笑った。
*
お茶には、蜂蜜をかけた小さな揚げ菓子が添えられていた。
公爵はそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「お嫌いですか」
「逆です」
彼は一つ取った。
大きな指でつまむと、菓子が小さく見えた。
「子どもの頃、祭りで食べました。家では、あまり出なかったので」
「お腹を壊すから?」
「母が、服を汚すと言って」
私は思わず扉の向こうを見た。
マルタ様は、ここにはいない。
「では、今日は存分に」
公爵は笑って、菓子を食べた。
蜂蜜が、一滴、指についた。
私は布を差し出した。
彼が礼を言って受け取る。
何でもないことのはずだった。
なのに、指が触れたところを見てしまった。
「あなたは、何がお好きですか」
聞かれて、私は菓子皿を見た。
「これも好きです」
「音楽のほかに」
私は顔を上げた。
公爵は、真剣に聞いていた。
「本は?」
「読みます」
「どのような」
私は少し迷った。
立派な本の名前を出そうと思えば、出せた。
読んでいないわけではない。
けれど、今、叔母の家の枕元に置いてあるのは、そういう本ではなかった。
「海の探偵の物語です」
言ってしまった。
「船長が毎巻違う港で、なぜか必ず殺人に遭うのです」
公爵は黙った。
私は早口になった。
「少し荒唐無稽なのですが、台詞が楽しくて。船に乗る人も、そろそろ気づくべきだとは思います」
彼は口元へ手を当てた。
私は止まった。
「……ご存じですか」
公爵がうなずいた。
「第五巻の、料理人が犯人の話が好きです」
「第三巻でも料理人でした」
「あちらは、船医です」
「本業が料理人だったでしょう」
彼の目が少し大きくなった。
それから、笑った。
「よく覚えていらっしゃる」
私は、台本を膝から落としかけた。
この人は海の探偵を読む。
公爵で、儀礼警護を統括していて、いつもきちんとした服を着ているのに。
「意外でしたか」
「はい」
「仕事の合間に、違う種類の失敗を読むと楽しいのです」
私は声を立てて笑った。
「第八巻は、お読みになりましたか」
「まだです」
「では、料理人の話はここまでに」
彼が私を見た。
私は菓子を口へ運んだ。
公爵が、しばらく考えてから言った。
「それは、随分と残酷な止め方ですね」
私たちは、台本をすっかり忘れた。
*
稽古に戻ったのは、エーベル夫人が扉から時計を見せたからだった。
公爵は立ち上がり、今度は柱の陰から捕まるところをやってみた。
私は船長役を引き受けた。
帽子は私には大きく、片手で押さえないと落ちる。
「止まりなさい」
私が言った。
公爵は見事に止まった。
動きが、あまりにきれいだった。
「怖い人に止められたのです。もう少し驚いてください」
「あなたが怖い人ですか」
私は眉を寄せた。
「今は」
彼は私の帽子を見た。
羽根が一度、揺れた。
「努力します」
納得していない声だった。
私は、船長に代わって憤慨した。
「持っている物を、お出しなさい」
公爵は、時計を出した。
次に手帳。
そして、小さな包み。
私は止まった。
「本当にお出しになる必要はありません」
「しまうのですか」
「いえ、あの」
小さな包みが気になった。
公爵は私の目を見て、少しだけ困った顔をした。
「これは、帰りに渡そうと思っていました」
私は帽子を脱いだ。
「フリーダ様から?」
「私からです」
公爵は包みを差し出した。
私は受け取った。
軽かった。
中には、細い青いリボンが入っていた。
深い海のような色だった。
「本を直す間、紙が離れないように結べるかと」
私はリボンを見た。
母の楽譜の糸と、よく似た色だった。
「直す店は、ご紹介しましたが。持っていく時にも必要だと思って」
彼の説明が、いつもより長かった。
私はその声を聞きながら、指でリボンを撫でた。
「ありがとうございます」
顔を上げると、公爵はまだ困ったような顔をしていた。
「余計なことでしたか」
「嬉しいです」
私はすぐに答えた。
その言葉を、遅らせたくなかった。
「とても」
彼の表情が変わった。
緊張がほどけるところが見えた。
そんな顔をされると、私まで嬉しくなる。
鞄から青い楽譜を出して、そっと結んだ。
切れた糸がなくなったわけではない。
悲しかったことも、なかったことにはならない。
でも、本を持つ時、これからはこのリボンにも触れる。
「色が、ぴったりですね」
私が言うと、公爵はうなずいた。
「三本、並べてもらいました」
私は彼を見た。
お店で青いリボンを三本並べて、考えている公爵を想像した。
店員も、少し緊張したのではないだろうか。
「笑っていらっしゃいますね」
「少し」
「かなりでは」
私はうなずいた。
公爵も笑った。
*
帰り際、エーベル夫人が私の耳元で言った。
「捕虜の稽古は、進んだの?」
私は台本を数えた。
三行から、二行増えた。
捕虜は助けを呼ぶ前に、丁寧に挨拶をすることになった。
「少しは」
夫人は、青いリボンを見た。
何も言わなかった。
言われない方が、よく分かった。
玄関で、公爵が手袋を直していた。
「第八巻を、お貸ししましょうか」
私が言うと、彼は顔を上げた。
「もう、お読みになったのですか」
「昨夜、読み終えました」
「では、ぜひ」
私は鞄を抱えた。
「犯人をお知りになったら、感想を聞かせてください」
彼が、少しだけ目を細めた。
「次にお会いする理由が、増えますね」
返事ができなかった。
稽古も、楽譜も、娘さんも、関係のない理由。
私はようやく、うなずいた。
「はい」
公爵は、私を見ていた。
今度は私の方から、目を逸らさなかった。
馬車に乗ってから、帽子を膝に置いた。
青いリボンの結び目を、もう一度確かめる。
公爵は、捕虜には向いていない。
けれど、帰したくなくなる人だと知った。




