↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/38

第06話 捕虜には向いていない方

「私に、構わず逃げてください」


 公爵が言った。

 私は台本から顔を上げた。


「まだ、どなたも逃げていません」

「そうでしたか」


 彼は紙を見直した。

 厳しい顔をしていた。

 娘が書き足した、たった三行の台詞に負けている。


 場所はエーベル夫人の音楽室だった。

 夫人は隣の小部屋で、針仕事をしている。扉は開いていて、笑い声だけが時々入ってきた。


「助けてくれ、からです」

「それは、昨日も練習しました」

「では、その成果を」


 公爵は椅子に座り直した。

 海賊の帽子は隣に置いてある。捕虜に帽子を被せるべきかどうかで、私たちはすでに一度話し合い、被せないことにした。


「助けてくれ」


 私は目を閉じた。


「いかがですか」

「助けに行ったら、働かされそうです」


 隣の部屋で何かが落ちた。

 エーベル夫人が、すぐには拾わなかった。


 公爵は額へ手を当てた。


「命令を出す癖が、あるようです」

「少し」

「少しですか」

「かなり」


 彼が笑った。

 私はその隙に、台本を一枚めくった。


「いっそ、助けてもらうのが下手な捕虜になさっては」

「現状のままということですか」

「娘さんに、助けを呼ぶ時はどう言いますか、と尋ねられる役に」


 公爵が考え込んだ。


「それなら、自然に困れます」


 私は紙に書き込んだ。

 フリーダの船長が、捕虜に挨拶を教える。

 人を捕まえておいて、礼儀も教えるのだから、忙しい船だ。


「その後、捕虜は何をするのでしょう」

「船の修理を手伝うのです。嵐で、帆が破れる予定なので」

「それなら、働けますね」


 彼の声が明るくなった。

 私は笑った。


「やはり、お仕事がお好きなのですね」


 言った瞬間、公爵の笑いが少しだけ薄くなった。

 ほんの小さな変化だった。

 私はペンを止めた。


「……嫌な言い方でしたか」


 彼はすぐに首を振った。


「そうではなく。得意なことに、戻ろうとしているなと」


 私は彼を見た。

 大きな手が、膝の上で揃っていた。


「何かを直すとか、誰かを連れ戻すとか。そういう役なら、考えずに動ける」

「捕まっていると、落ち着きませんか」

「かなり」


 さっきの私と同じ答えだった。

 彼が少し笑ったので、私も笑えた。


「では、今日は少し、捕まっていてください」


 私は台本を伏せた。


「お茶が来るまで」


 公爵は驚いたように私を見た。

 それから、椅子の背へゆっくり寄りかかった。


「分かりました」


 何もしていない彼を見るのは、初めてだった。

 娘を迎えに来た時も、帽子を返す時も、必ず用事があった。

 今は、大きな人が椅子に座って、私を見ている。


 私は急に、落ち着かなくなった。


「……私も、何かしたくなりますね」


 彼が声を出して笑った。


 *


 お茶には、蜂蜜をかけた小さな揚げ菓子が添えられていた。

 公爵はそれを見て、少しだけ眉を上げた。


「お嫌いですか」

「逆です」


 彼は一つ取った。

 大きな指でつまむと、菓子が小さく見えた。


「子どもの頃、祭りで食べました。家では、あまり出なかったので」

「お腹を壊すから?」

「母が、服を汚すと言って」


 私は思わず扉の向こうを見た。

 マルタ様は、ここにはいない。


「では、今日は存分に」


 公爵は笑って、菓子を食べた。

 蜂蜜が、一滴、指についた。


 私は布を差し出した。

 彼が礼を言って受け取る。

 何でもないことのはずだった。

 なのに、指が触れたところを見てしまった。


「あなたは、何がお好きですか」


 聞かれて、私は菓子皿を見た。


「これも好きです」

「音楽のほかに」


 私は顔を上げた。

 公爵は、真剣に聞いていた。


「本は?」

「読みます」

「どのような」


 私は少し迷った。

 立派な本の名前を出そうと思えば、出せた。

 読んでいないわけではない。

 けれど、今、叔母の家の枕元に置いてあるのは、そういう本ではなかった。


「海の探偵の物語です」


 言ってしまった。


「船長が毎巻違う港で、なぜか必ず殺人に遭うのです」


 公爵は黙った。

 私は早口になった。


「少し荒唐無稽なのですが、台詞が楽しくて。船に乗る人も、そろそろ気づくべきだとは思います」


 彼は口元へ手を当てた。

 私は止まった。


「……ご存じですか」


 公爵がうなずいた。


「第五巻の、料理人が犯人の話が好きです」

「第三巻でも料理人でした」

「あちらは、船医です」

「本業が料理人だったでしょう」


 彼の目が少し大きくなった。

 それから、笑った。


「よく覚えていらっしゃる」


 私は、台本を膝から落としかけた。

 この人は海の探偵を読む。

 公爵で、儀礼警護を統括していて、いつもきちんとした服を着ているのに。


「意外でしたか」

「はい」

「仕事の合間に、違う種類の失敗を読むと楽しいのです」


 私は声を立てて笑った。


「第八巻は、お読みになりましたか」

「まだです」

「では、料理人の話はここまでに」


 彼が私を見た。

 私は菓子を口へ運んだ。

 公爵が、しばらく考えてから言った。


「それは、随分と残酷な止め方ですね」


 私たちは、台本をすっかり忘れた。


 *


 稽古に戻ったのは、エーベル夫人が扉から時計を見せたからだった。

 公爵は立ち上がり、今度は柱の陰から捕まるところをやってみた。


 私は船長役を引き受けた。

 帽子は私には大きく、片手で押さえないと落ちる。


「止まりなさい」


 私が言った。

 公爵は見事に止まった。

 動きが、あまりにきれいだった。


「怖い人に止められたのです。もう少し驚いてください」

「あなたが怖い人ですか」


 私は眉を寄せた。


「今は」


 彼は私の帽子を見た。

 羽根が一度、揺れた。


「努力します」


 納得していない声だった。

 私は、船長に代わって憤慨した。


「持っている物を、お出しなさい」


 公爵は、時計を出した。

 次に手帳。

 そして、小さな包み。


 私は止まった。


「本当にお出しになる必要はありません」

「しまうのですか」

「いえ、あの」


 小さな包みが気になった。

 公爵は私の目を見て、少しだけ困った顔をした。


「これは、帰りに渡そうと思っていました」


 私は帽子を脱いだ。


「フリーダ様から?」

「私からです」


 公爵は包みを差し出した。

 私は受け取った。

 軽かった。


 中には、細い青いリボンが入っていた。

 深い海のような色だった。


「本を直す間、紙が離れないように結べるかと」


 私はリボンを見た。

 母の楽譜の糸と、よく似た色だった。


「直す店は、ご紹介しましたが。持っていく時にも必要だと思って」


 彼の説明が、いつもより長かった。

 私はその声を聞きながら、指でリボンを撫でた。


「ありがとうございます」


 顔を上げると、公爵はまだ困ったような顔をしていた。


「余計なことでしたか」

「嬉しいです」


 私はすぐに答えた。

 その言葉を、遅らせたくなかった。


「とても」


 彼の表情が変わった。

 緊張がほどけるところが見えた。

 そんな顔をされると、私まで嬉しくなる。


 鞄から青い楽譜を出して、そっと結んだ。

 切れた糸がなくなったわけではない。

 悲しかったことも、なかったことにはならない。

 でも、本を持つ時、これからはこのリボンにも触れる。


「色が、ぴったりですね」


 私が言うと、公爵はうなずいた。


「三本、並べてもらいました」


 私は彼を見た。

 お店で青いリボンを三本並べて、考えている公爵を想像した。

 店員も、少し緊張したのではないだろうか。


「笑っていらっしゃいますね」

「少し」

「かなりでは」


 私はうなずいた。

 公爵も笑った。


 *


 帰り際、エーベル夫人が私の耳元で言った。


「捕虜の稽古は、進んだの?」


 私は台本を数えた。

 三行から、二行増えた。

 捕虜は助けを呼ぶ前に、丁寧に挨拶をすることになった。


「少しは」


 夫人は、青いリボンを見た。

 何も言わなかった。

 言われない方が、よく分かった。


 玄関で、公爵が手袋を直していた。


「第八巻を、お貸ししましょうか」


 私が言うと、彼は顔を上げた。


「もう、お読みになったのですか」

「昨夜、読み終えました」

「では、ぜひ」


 私は鞄を抱えた。


「犯人をお知りになったら、感想を聞かせてください」


 彼が、少しだけ目を細めた。


「次にお会いする理由が、増えますね」


 返事ができなかった。

 稽古も、楽譜も、娘さんも、関係のない理由。


 私はようやく、うなずいた。


「はい」


 公爵は、私を見ていた。

 今度は私の方から、目を逸らさなかった。


 馬車に乗ってから、帽子を膝に置いた。

 青いリボンの結び目を、もう一度確かめる。


 公爵は、捕虜には向いていない。

 けれど、帰したくなくなる人だと知った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。