第05話 白い服の船長
公爵邸の門は、エーベル夫人の家の玄関より高かった。
馬車でくぐりながら、私は帽子に触れた。
この高さなら、羽根が三本増えても大丈夫だ。
楽譜を入れた鞄を膝へ置き直す。
公爵からの招待状には、誕生日の芝居に使う部屋を見てほしい、と書いてあった。エーベル夫人もご一緒に、と添えられていたので、私は安心して返事をした。
ところが、朝になって夫人から使いが来た。
姪が急に訪ねてきたので少し遅れる、先に行っていてほしい。
姪は気まぐれなので、退屈したらすぐ帰るだろう、とも。
私は、知らない姪の気まぐれに期待しながら、公爵邸へ来た。
玄関で待っていたフリーダは、真っ白だった。
白いリボン。
白いレース。
白い靴。
顔だけが、赤かった。
「お船は、まだ出ないの?」
少女は挨拶の代わりに尋ねた。
「今日は、お船を入れるお部屋を見る日です」
「もう見たわ。大きすぎるの」
そう言って、私の手を取ろうとした。
その時、廊下の奥から声がした。
「フリーダ。お客様のお召し物を引っ張ってはいけません」
少女の手が止まった。
現れたのは、銀色の髪を高く結ったご婦人だった。
杖をついていたが、杖を必要としているようには見えなかった。廊下に順番を守らせるための道具らしい。
「母のマルタです」
後ろから、公爵が来た。
彼は私へ会釈をして、それから娘の白い服を見た。
「その服は」
「寸法を確かめたのですよ」
大奥様が答えた。
「七月のお誕生日に間に合うよう、今から用意しなければなりませんから」
フリーダは唇を結んだ。
公爵が何か言いかけた時、大奥様の目が私へ向いた。
「サビーヌ様ですね。孫がお世話になっております」
私は礼をした。
結婚の挨拶ではない。
曲を書く部屋を見る挨拶だ。
何度も自分に言い聞かせている時点で、少しおかしかった。
「海賊のお芝居に、曲をお作りくださるとか」
「はい。まだ、出航したばかりですが」
大奥様は微笑んだ。
丁寧な、幅の狭い微笑みだった。
「元気な趣向ですこと」
それ以上でも以下でもない言葉だった。
私は、どの返事がいちばん事故を起こさないか考えた。
フリーダが、先に答えた。
「海賊は元気でないと、落ちますから」
大奥様は孫を見た。
公爵が一度、窓の方を向いた。
私は鞄を強く持った。
*
誕生日の芝居に使う予定の部屋は、確かに大きかった。
人が百人くらい、余裕を持って笑えそうだった。
逆に、十人が黙ったら、とても寂しそうだった。
フリーダは部屋の真ん中に立った。
白い服が、小さく見える。
「ここで、言うのですか」
少女の声が天井へ行き、戻ってきた。
「私についてきなさい、を」
公爵は娘の隣に立った。
「もう少し、小さい部屋でもよさそうだな」
「毎年こちらでしたでしょう」
大奥様が言った。
「親戚をお招きして、お茶と音楽を。フリーダも、皆様に成長をご覧いただく日なのですから」
少女が、白い袖口を握った。
「見てもらいたいものがあります」
私は思わず彼女を見た。
声は小さかったが、逃げなかった。
「海賊です」
大奥様はため息をついた。
「ですから、お友達とのお遊びは別の日になさいと」
フリーダの頬がまた赤くなった。
私は楽譜の鞄を開けた。
口を挟む言葉は見つからなかった。
この家の誕生日がどんな日だったのか、私は知らない。
でも、曲ならある。
「少し、弾いてもよろしいですか」
三人がこちらを向いた。
「部屋で、どう響くか確かめたいので」
公爵が、壁際のピアノへ案内してくれた。
蓋を上げる手が大きかった。
私は椅子に座り、音を一つ出した。
よく響いた。
少し響きすぎた。
船長が歩き出す曲を弾く。
フリーダが顔を上げた。
帽子がなくても、眼帯がなくても、曲を聞くと分かるらしい。
少女が一歩、前へ出た。
「私に、ついてきなさい!」
大きな声だった。
部屋が、その声をもう一つ作った。
フリーダは驚いて台詞を忘れた。
私は同じ小節を、もう一度弾いた。
少女が私を見た。
「宝は」
声が止まった。
大奥様が、ほんの少し身を乗り出した。
「宝は、みんなで分けます!」
言えた。
私は最後の音を高くした。
フリーダが、胸いっぱいに息をした。
最初に拍手をしたのは、公爵だった。
大奥様は杖を両手で持っていた。
少女は拍手を聞き、すぐ祖母を見た。
「どうでしたか」
私の胸が、きゅっと縮んだ。
勇敢な人だと思った。
大奥様は答えるまで、少し時間をかけた。
「声は、よく出ていました」
フリーダの口元が上がった。
「しかし、その服で走っては裾を踏みます」
口元が下がった。
私も、惜しい、と思った。
公爵が娘の前へしゃがんだ。
「着替えておいで。今日は走るのだろう」
フリーダは祖母を見た。
大奥様は、今度は何も言わなかった。
少女は女中と出ていった。
扉が閉まってから、公爵が立ち上がった。
「母上。誕生日は、あの子の芝居を見ましょう」
大奥様は息子を見た。
「毎年の習慣を変えるというのですか」
「毎年、あの子も変わります」
私は楽譜の端を揃えた。
公爵は、私のために言っているのではない。
分かっているのに、その背中が頼もしかった。
「親戚の皆様には、十歳の船長を見ていただけばよい」
大奥様の眉がわずかに動いた。
「笑われますよ」
「笑わせるつもりです」
公爵の声が、少し明るくなった。
「私も捕まりますから」
大奥様が息子の顔を見た。
初めて聞いた外国語を、一語ずつ確かめているようだった。
「あなたが?」
「はい」
長い沈黙の後、大奥様は私へ向き直った。
「音楽は、大変重要になりますね」
私は、とうとう笑ってしまった。
すぐに頭を下げたが、大奥様は怒らなかった。
公爵だけが、少し複雑な顔をしていた。
*
結局、小芝居は庭へ続く南の客間で行うことになった。
大広間ほど大きくはない。柱が一本あり、その陰から海賊が出てこられる。
公爵が捕まるのにも、ちょうどよさそうだった。
フリーダは紺色の普段着になって戻ってきた。
走ると、裾が膝の下で跳ねた。
白い服より、ずっと嬉しそうだった。
「おばあ様も、お芝居を見ますか」
少女が聞くと、大奥様は椅子へ腰を下ろした。
「見ますとも。あなたのお誕生日ですから」
フリーダはうなずいた。
それだけで、今日の分は足りたらしい。
衣装の相談になった時、大奥様が細い手を上げた。
「先ほどの白い服ですが」
少女の肩が上がった。
「裾を短くして、その上に紺色の上着を着てはどうです。船の隊長も、白を着るでしょう」
フリーダが公爵を見た。
公爵はうなずいた。
「港の式典では見たことがある」
少女は考えた。
「剣をつけても?」
「木のものに限ります」
大奥様の返事は早かった。
少女も、すぐにうなずいた。
白い服が、船長の服になった。
何もかも変えなければいけないわけではないのだと、私は少しほっとした。
遅れて来たエーベル夫人は、部屋を見回した。
柱の陰にフリーダが隠れ、公爵が椅子で捕まり、大奥様が木の剣の長さを指定している。
「私、ずいぶん遅れましたかしら」
私は笑って、隣の椅子を勧めた。
*
帰り、公爵が玄関まで送ってくれた。
フリーダは祖母と衣装の絵を描いている。船長の帽子には、どうしても羽根が三本必要らしかった。
「今日は、助かりました」
公爵が言った。
「私は弾いただけです」
「あの子が声を出せた」
私は鞄を抱え直した。
「声は、もともとありました。先週より大きくなって、私も驚きましたけれど」
彼は扉の向こうを見た。
少女の笑い声が、遠くに聞こえた。
「私は、大きい方ばかり選ぶ癖があるようです」
「お部屋ですか」
「部屋も、贈り物も。足りないと言われないように」
私は彼の横顔を見た。
「足りない、と言われるのはお嫌いですか」
「娘に言われるのは、怖いですね」
正直な答えだった。
私は少し考えた。
「海賊の帽子の紐は、あなたの手に足りませんでしたね」
彼がこちらを向いた。
「でも、ちゃんと捕まりました」
公爵は一度目を伏せた。
口元が、ゆっくり緩んだ。
「あれでよかったのでしょうか」
「とても」
私はうなずいた。
彼が笑うところを、今日も見られた。
馬車の扉を開けてもらい、私は段へ足をかけた。
楽譜の鞄が、片側へずれた。
公爵の手が、すぐ下へ出た。
「こちらへ」
私はその手に、指を載せた。
手袋越しにも分かる、硬い掌だった。
馬車に乗り終えてから、離すのが一瞬だけ遅れた。
どちらが遅れたのかは、分からない。
「次は、船長のいない時に」
彼が言った。
私は顔を上げた。
「捕虜の稽古をお願いしてもよいですか。娘の前で、あまり失敗を重ねたくありません」
私は彼を見ていた。
ただの稽古の相談なのに、今までと違って聞こえた。
「失敗を減らせるか、保証はできませんが」
「それでも」
彼の返事が早くて、私は笑ってしまった。
「では、帽子をお忘れなく」
馬車が動き始めた。
窓の外で、公爵が頭を下げた。
私は膝へ鞄を置き、手袋の指先をそっと押さえた。
娘さんのいないところで、この人と会う。
そのことを、もう怖いとは思わなかった。
少し、待ち遠しかった。




