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婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


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第07話 客席からでは見えない顔

「公爵様に本を貸したの?」


 ユリアは、弓を持ったまま私を見た。

 私は音を出す前に鍵盤から手を離した。


「声が大きいわ」

「何の本?」

「海の探偵」


 ユリアは一瞬だけ真顔になり、それから笑い出した。


「よりによって、あれを」

「あの方もお好きなの」

「ますます面白いじゃない」


 私は頬を手で冷やした。

 ユリアとは、五年前、エーベル夫人の音楽会で知り合った。私より六つ年上で、楽団でヴァイオリンを弾いている。

 思ったことが顔に出る人だ。

 顔に出た後で、大抵は口にも出す。


「あの方って呼ぶのね」


 ほら、出た。


「公爵閣下と、一日中言うわけにもいかないでしょう」

「アウグスト様ではなくて?」


 私は低い音を一つ鳴らした。

 ユリアは笑いながら、楽器を顎へ戻した。


「分かった、分かった。じゃあ、二段目から」


 今日は、彼女の練習につきあっていた。

 来月の小演奏会で弾く新しい曲の伴奏者が、田舎へ呼び戻されている。その人が戻るまで、私が一度だけ音を合わせる約束だった。


 会場は、菓子商人の持つ小さな音楽堂だった。

 百人も入ればいっぱいになる。壁には葡萄の飾りがあり、天井には少し古い天使が飛んでいた。

 この天使は三年前、片足を修理された。

 そのせいか、いつも私より上手に踊って見える。


 私は鍵盤へ指を置いた。

 ユリアが息を吸った。

 二つの音が、同じところへ向かった。


 誰かと一緒に弾く時、自分の音だけを聞いていては間に合わない。

 相手の息を知り、少し早く待つ。

 出てきた音が思ったものと違っても、止めずにその先へ行く。


 ユリアは気分がよいと、ほんの少し、伸ばす。

 今日はよほど気分がよいらしく、私は二度、彼女を待った。


「そこ、長すぎるわ」


 一曲弾き終えて言うと、ユリアは悪びれずに笑った。


「あなたが待ってくれるから」

「来月の伴奏者を困らせるでしょう」

「そうね。では、次は短く」


 私は楽譜をめくった。

 客席には誰もいない。

 舞台の上にいると、空の椅子でも、少し胸が鳴った。


「本番も、弾かない?」


 ユリアが、何でもないように言った。


 私の指が止まった。


「伴奏の方は?」

「一曲なら増やせるわ。あなたが昔書いた、夜明けの小品を。私、覚えているの」


 私は客席を見た。

 四列目の端に、陽が当たっていた。


「まだ、仕上がっていないから」

「五年前にも、そう言ったわ」


 ユリアは弓を下ろした。


「あなたが思っているほど、みんな厳しくない。商人の奥様たちは、演奏の途中で咳もするし、指輪も落とすし、終わったら菓子の話をする」


 私は少し笑った。


「それは、聞いていないのでは」

「聞いているから、また来るのよ」


 ユリアは、私の隣の譜面台へ肘を載せかけ、すぐやめた。


「前のお相手を、客席全部に増やさなくていいの」


 笑いが、止まった。

 ユリアは私を見た。


「客席には、違う人がいるわ」


 私は鍵盤を見下ろした。

 言われて初めて、エミールがあの椅子全部に座っているところを想像した。

 随分と嫌な光景だった。


「……考えてもいい?」

「もちろん。でも、返事は来週まで」


 ユリアが弓を構えた。

 私はもう一度、曲の最初へ戻った。


 *


 練習の後、私たちは広場へ出た。

 王都へ戻った儀礼騎兵の行進があるというので、道の両側に人が集まっていた。


 ユリアは焼いた栗を買い、私へ半分渡した。

 季節外れなので少し硬かったが、温かかった。


「あそこ」


 彼女が顎で示した。

 私はその先を見た。


 黒い馬の上に、公爵がいた。


 濃紺の軍服。

 肩の銀の飾り。

 腰の剣。

 背中が真っ直ぐで、あの音楽室の椅子へ捕まっていた人と同じとは思えなかった。


 私が見ている間に、彼は隣の騎士へ何か言った。

 騎士がすぐにうなずき、列が少し動いた。


「格好いいわね」


 ユリアが言った。

 私は、栗を持っているのを忘れていた。


「ええ」


 答えてから、隣を見た。

 ユリアは笑っていなかった。

 それが余計に困った。


 列が近づいた。

 馬の蹄が石畳を打つ。

 公爵が一度、こちらを見た。


 目が合った、と思った。

 違うかもしれない。

 こんなに沢山の人がいる。


 彼の視線が、戻ってきた。


 私は慌てて頭を下げた。

 公爵は、本当にわずかに口元を緩めた。

 それだけだった。


 馬は止まらなかった。

 列も乱れなかった。

 私は、彼が通り過ぎてから息をした。


「今、見たわね」


 ユリアが言った。


「そうかしら」

「そうよ」


 私は栗を口へ入れた。

 熱かった。


 *


 行進が終わると、広場は急に歩きにくくなった。

 人々が同じ方向へ動き、馬車の道を塞いでいた。

 ユリアは夕方の稽古に間に合うよう、裏道へ抜けていった。

 私は叔母の馬車が来るはずの東側へ向かった。


 ところが、東側の道には柵が置かれていた。

 騎兵の馬が何頭か残っている。

 私は足を止めた。


「サビーヌ様」


 呼ばれて振り向くと、公爵が歩いてきた。

 馬には乗っていなかった。

 剣と軍服は、そのままだった。


「馬車をお待ちですか」

「はい。あちらの角へ来るはずなのですが」


 公爵は道を見た。


「今は通れません。北側へ回されていると思います」


 私は帽子を押さえた。

 北側へ行くには、人の流れを横切らなければならない。


「お送りします」

「お仕事は」

「終わりました。馬が汗を引くのを待っているところです」


 彼は私の鞄へ目をやった。


「今日は、音楽を?」

「友人の伴奏です。近くの音楽堂で」


 彼が建物を見上げた。

 古い天使は、外からは見えない。


「聞きたかった」


 私は足を止めかけた。

 公爵がこちらを見る。


「練習でしたから」


 また、逃げるように言ってしまった。

 彼は責めずにうなずいた。


「本番がありましたら、教えてください」


 人が、私たちの間へ入りかけた。

 公爵が腕を少し曲げた。


「こちらへ」


 私はその腕を取った。

 袖の布が、いつもより硬かった。

 歩くたび、剣の金具が小さく鳴る。

 大勢がいるのに、その音だけが近かった。


「先ほど、お気づきでしたか」


 私は聞いてしまった。

 公爵が顔を向けた。


「広場で、私に」


 彼はうなずいた。


「はい」


 それだけで、胸が弾んだ。


「随分、沢山の人がいたのに」

「青い帽子を、見覚えていました」


 私は帽子に触れた。

 いつもの帽子だった。

 新しいものでも、目立つ飾りでもない。


「それに」


 彼が、少し間を置いた。


「知っている顔は、探してしまうようです」


 私は前を向いた。

 人が沢山いるのは、ありがたかった。

 顔が赤くなっても、暑いせいにできる。


 *


 北側の馬車溜まりに、叔母の馬車があった。

 御者が私を見つけて、ほっとした顔をした。

 公爵を見て、すぐ背筋を伸ばした。


 私は腕から手を離した。

 指が少し冷えた。


「ありがとうございました」

「こちらこそ。お会いできてよかった」


 私は彼を見上げた。

 軍服の銀の飾りが、陽を返していた。


「今日のあなたは」


 言いかけて、止まった。

 公爵が続きを待った。


「捕まりそうにありませんでした」


 ひどい言い方だった。

 格好よかった、と言えばいいのに。


 彼は少し考え、それから笑った。


「娘には、見せない方がよかったかもしれません」

「せっかく稽古をしていますから」


 私は笑ってから、息を吸った。


「素敵でした」


 公爵の表情が止まった。

 私は、逃げずに続けた。


「馬に乗っていらっしゃるところ」


 彼は目を伏せた。

 耳のところが、少し赤くなったように見えた。


「ありがとうございます」


 短い返事だった。

 私は、やっと言えたことが嬉しくなった。


 馬車の段へ足をかける前に、振り返った。


「来月、あの音楽堂で」


 公爵が顔を上げた。


「一曲、弾くかもしれません」


 彼はうなずいた。


「日にちが決まったら、教えていただけますか」


 来る、とは言わなかった。

 仕事がある人だ。

 でも、聞きたいと思ってくれた。


「はい」


 私は馬車へ乗った。


 叔母の家へ戻るまで、客席を考えていた。

 エミールが全部の椅子に座っているわけではない。

 咳をする人も、菓子を楽しみに来る人もいる。

 そして、空いていれば、公爵が座るかもしれない。


 そう思うと、怖さが消えるどころか、別の怖さが増えた。

 それなのに、弾きたかった。


 家に着いてすぐ、ユリアへ短い手紙を書いた。


『一曲、弾きます。夜明けの小品を、今度こそ仕上げます』


 封をする前に、楽譜を開いた。

 あと四小節。

 何年も止まっていた朝が、ようやく明るくなり始めていた。


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