第38話 私の家族になってください
夕方、私は夫と庭を歩いた。
約束していた散歩だった。
日が短くなり、薔薇の花はほとんど終わっていた。落ち葉が道の端へ集められ、空気には冬の手前の匂いがあった。
私は彼の腕に手を添えていた。
結婚式の前と同じ歩き方だった。
違うのは、歩き終えても馬車へ乗らないことだった。
「額は、明日頼もう」
彼が言った。
「大きめにしてください」
「私が、さらに大きくならない限りは大丈夫だ」
私は笑った。
「あの絵のあなたが、好きです」
「実物は?」
「もっと」
答えると、彼が足を止めた。
私も止まった。
庭の道で、向かい合う。
彼が私の頬に触れた。
「不意に、そういうことを言う」
「いつも、言われているので」
「私は、もっと言いたい」
私は顔を上げた。
短く口づけられる。
冷たい空気の中で、触れたところだけが温かかった。
「好きだ」
彼が言った。
「はい」
「昨日より、言いやすくなった」
「私もです」
私は彼の手を取り直した。
「好きです、アウグスト様」
彼が笑った。
私たちは、短い庭の道を、少し遠回りして戻った。
◇
夕食のあと、フリーダが私を呼んだ。
場所は音楽室だった。
父親も来るようにと言われたので、三人で入った。棚の上には、午後に飾った絵がある。
少女は机の前に立った。
白い熊が、椅子に座っていた。
「今日は、見張りではありません」
最初に、そう断られた。
「では?」
私が聞くと、彼女は少し考えた。
「見ている人です」
夫が笑いをこらえた。
少女は父親を見た。
「お父様も、です」
「承知した」
彼は熊の隣へ座った。
大きな人と、小さな見ている人が並ぶ。
私は少女の前へ座った。
フリーダは、後ろに隠していた紙を出した。
折り目のついた、小さな紙だった。
端に白い鳥が描かれ、真ん中には大きな字が並んでいる。
私は受け取った。
『私の家族になってください。』
その下に、フリーダ、と書いてあった。
胸が、ゆっくりいっぱいになった。
少女は私を見ていた。
今度は、答えを決めてから来た顔ではなかった。
聞きたいことを、自分で選んだ顔だった。
「最初は、毎日遊びに来てと言いました」
「覚えています」
「お父様からも、招待状を書くと」
隣で、夫が小さく頷いた。
「私も、会いたかったので」
「お父様は、いま、黙っていてください」
私は笑いながら、目元を押さえた。
少女は紙の端を指した。
「でも、今日は、こちらです」
私は頷いた。
「はい」
「お父様の奥さんになるのは、もう、なりました」
「はい」
「私とも、です」
最後の言葉だけ、少し小さかった。
私は紙を胸に当てた。
毎日、会いたい。
同じ家へ帰ってきたい。
眠る前に、今日あったことを話したい。
あの日の気の早い招待には、初めから、その願いが入っていた。
私は、その中へ自分の願いを足せるところまで来た。
「喜んで」
私は答えた。
「フリーダ、私の家族になってください」
少女の顔が明るくなった。
次の瞬間、抱きつかれた。
私は紙を折らないように横へ持ち、片腕で彼女を抱いた。夫がそっと紙を受け取ってくれたので、今度は両腕で抱きしめた。
少女の髪が頬に触れた。
湖の舟で、私の肩に触れていた髪だった。
あの日より少し長く、あの日より、ずっとよく知っていた。
「私も、ちゃんと言えました」
フリーダが言った。
「はい」
私は笑って答えた。
彼女は父親を見た。
「お父様も、いていいです」
「ありがとう」
夫は大真面目に礼を言った。
少女は笑った。
私も笑った。
彼の腕が、二人を包んだ。
誰か一人が、ほかの誰かの代わりになるのではなく。
大きさの違う三人が、少し押し合いながら、同じところへ座っていた。
◇
その夜は、少女が本を読んだ。
叔母の家で、途中まで読んだ航海の話だった。
父親が隣で聴き、私は鍵盤の蓋を閉め、その前の椅子に座った。
島の宝物は、金貨ではなかった。
古い船の部品だった。
フリーダは少し不満そうに、頁をめくった。
「お宝ではありません」
「船が直るかもしれない」
父親が言った。
「では、帰れます」
少女は続きを読んだ。
私は棚の上の絵を見た。
赤い石をつけた私が、音を探している。
その隣で、大きな夫が小さな本を読んでいる。
少女は、旗を持っている。
廊下の角には、エルザ夫人と幼い少女の絵がある。
どちらの絵にも、この家の時間があった。
私は目を戻した。
今の少女の声が、部屋に響いていた。
◇
フリーダが眠ったあと、夫と音楽室へ戻った。
私は少女からの手紙を、小さな箱へ入れた。
最初にもらった青い石を包んでいた紙と、結婚式の白い鳥の包み紙も、そこへしまった。
夫は机の端に置いていた本を持ち上げた。
「今日は、少し広く使ってもよさそうだ」
「船長が眠ったので?」
「そうだ」
私は笑い、本を置く場所を空けた。
彼は座った。
私は楽譜を開いた。
すぐに弾くつもりはなかった。今日の短い音を、忘れないうちに一つだけ書いておきたかった。
小さな人が、勇気を出して言葉を差し出す音。
大きな人が、黙って待っている音。
私は二つ置いてから、少し考えた。
自分の音も、必要だった。
そのとき、彼の手が私の手に重なった。
「続きは、明日でも?」
私は顔を上げた。
彼の目を見て、鉛筆を置いた。
「はい」
彼が笑った。
私は立ち、彼の手を取った。
明日、続きを書く。
明後日は、ユリアと次の曲の話をする。
フリーダの旗の太陽は、まだ少しじゃが芋に似ているから、その話も聞くだろう。
夫とは、読みかけの本の犯人について、きっと意見が割れる。
その全部がある家へ、私は帰ってきた。
灯りを消す前に、棚の絵をもう一度見た。
私は笑っている。
誰かを安心させるためではなく。
ここにいたいから、笑っている。
夫が、私の名を呼んだ。
私は振り返り、自分から、その胸へ飛び込んだ。
おわり
お読みいただきありがとうございます。
以下作品もよろしければお手に取りください。
新作
冷遇王女の政略結婚――たった一人の味方だった文通相手が、旦那様になりました
https://ncode.syosetu.com/n0132mt/
姉の身代わりで嫁いだ私を、旦那様は「誰にも返さない」と言いました
https://ncode.syosetu.com/n0136mt/
政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください
https://ncode.syosetu.com/n0138mt/
冷遇された令嬢の政略結婚、旦那様と悪口の趣味が合いすぎます
https://ncode.syosetu.com/n0146mt/
代表作
「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります
https://ncode.syosetu.com/n7422mr/




