第37話 新しい絵の居場所
午後、フリーダの部屋を訪ねると、机の上に大きな紙が伏せてあった。
少女はその前で、腕を組んでいた。
白い熊は寝台の上から見ている。
「まだ、できていません」
開口一番、そう言われた。
「昨日も、そうおっしゃいましたね」
「昨日より、少しできました」
私は椅子へ座った。
フリーダは紙の端を持ち、上げかけ、また伏せた。
「お父様を、呼んでください」
「はい」
結婚した翌日、私は船長の使いになった。
夫は書斎にいた。
娘が呼んでいると伝えると、すぐ立ち上がった。仕事は今日まで休みで、机の上も珍しく静かだった。
「何か、あったか」
「昨日より、少しできたそうです」
「それは、進歩だな」
二人で戻ると、少女はようやく紙を表へ返した。
絵だった。
音楽室が描かれていた。
鍵盤の前に、私が座っている。隣には、大きな人が小さな本を持って座っていた。窓辺には少女が立ち、木剣ではなく、船の旗を持っている。
私の指には、赤い点があった。
楽譜の端には、青い点。
少女の髪にも、白い点があった。
私は、すぐには何も言えなかった。
「お父様が、大きいのです」
フリーダが言った。
公爵は絵を見た。
たしかに、彼の頭は窓の上へ届きそうだった。
「少し、大きいな」
「小さくすると、別の人になります」
私は笑った。
少女は、ひどく真剣だった。
「本も、描きました。でも、字は、小さくて」
絵の中の本には、点が幾つも並んでいた。
「読めなくても、父さんの本だと分かる」
彼が言うと、少女は少し安心した顔になった。
「サビーヌは、こちらです」
「分かります」
私は頷いた。
絵の中の私は、少し変わった顔をしていた。
口元が曲がっている。
首が、わずかに傾いている。
「曲を考えているところです」
フリーダが説明した。
夫が隣で笑った。
「よく似ている」
「本当ですか」
「とても」
私は自分の頬へ触れた。
少女は、その顔を見て満足そうだった。
綺麗な花嫁を描こうとしたのではなかった。
彼女が毎日見ている私を、描いてくれたのだ。
「とても、嬉しいです」
私は言った。
フリーダが私を見た。
「まだ、お父様が」
「私は、この大きさが好きです」
夫の手が、私の肩へ触れた。
少女は少し考え、それから頷いた。
「では、これで、できました」
◇
問題は、そのあとだった。
用意してあった額に、絵が入らなかった。
少女は紙を縦にして描き始め、途中で部屋を広くしたくなって、横へ紙を継いでいた。
額は、最初の紙の大きさで作られていた。
父親は額を見た。
絵を見た。
もう一度、額を見た。
「これは、入らない」
「知っています」
船長の返事は早かった。
「お父様の半分が、外へ出ます」
「私を、小さく描き直すのは」
「別の人になります」
議論は、最初へ戻った。
私は、額の中へ絵を置いてみた。
たしかに、夫の肩から先が外へ出た。小さな本も、ほとんど見えない。
切るという選択肢はなかった。
「大きな額にしましょう」
私が言うと、フリーダは顔を曇らせた。
「また、待ちます」
「今日は、額なしで飾れます」
少女が顔を上げた。
私は机の上の小さな台を見た。普段、刺繍の見本を立てているものだった。
「厚い紙を後ろへ当てて、ここへ置けば」
夫が頷いた。
「厚紙を持ってこよう」
彼は部屋を出た。
戻ってきたときには、厚紙と、小さな留め具と、紐まで持っていた。
「全部、使いますか」
私が聞くと、彼は少し考えた。
「必要なものが、分からなかった」
フリーダが笑った。
「お父様は、運ぶ係が上手です」
「その評価は、定着したな」
三人で絵を支えた。
少女が位置を決め、私が留め具をつけ、彼が台を押さえる。
絵は、ようやく立った。
窓の光を受けて、赤い点と青い点が明るく見えた。
フリーダは一歩下がり、満足そうに両手を腰へ当てた。
「できました」
今度こそ、本当にできた。
◇
どこへ飾るか、三人で家の中を歩いた。
食堂は人が多く通るが、船長は食べ物をこぼす人がいると言った。
父親の書斎は、本が多すぎた。
廊下の角には、エルザ夫人と幼いフリーダの絵がある。
少女はそこで一度止まり、抱えている絵を見た。
私も立ち止まった。
壁の絵の中では、幼い少女が母親の袖をつかんでいた。
腕の中の絵では、今の少女が自分で旗を持っている。
「これは、音楽室です」
フリーダが言った。
「絵の中が?」
「置くところも、です」
夫が頷いた。
「そうしよう」
少女は、また歩き出した。
昔の絵は、そのままだった。
新しい絵には、新しい場所があった。
音楽室へ着くと、私たちは棚の上を少し空けた。
母から来た時計の隣へ、絵を立てる。
夫が台の傾きを直し、私は少し離れて見た。
部屋の中に、同じ部屋の絵がある。
その中の私が、曲を考えている。
私は胸に手を当てた。
「ありがとう、フリーダ」
少女は照れたように、白い石に触れた。
「結婚の、お祝いです」
私は彼女を抱きしめた。
彼女の腕が、私の背中へ回った。
その向こうで、夫の手が、二人の肩へ触れた。
時計が、小さな音を立てていた。




