第16話 私の知らない二人
「父さんは、サビーヌが好きだ」
公爵は、そう話し始めた。
フリーダは頷いた。
「知っています」
その答えに、彼が少し目を瞬いた。
「私も好きです」
少女は私へ笑いかけた。
彼の隣で、私は指を組み直した。
誕生日の菓子を配るより、ずっと難しい。しかも難しいのは、正しい説明を思いつくことではなかった。私の欲しいものを、彼女に見せることだった。
「私は、アウグスト様と二人で出かけたり、お話をしたりしたいと思っています」
言うと、少女の笑みが小さくなった。
「探偵の本ですか」
「それもです。それから、手をつないだり」
顔が熱くなった。
少女は、私たちの手を見た。今はそれぞれ、自分の膝の上にある。
「私も、つなぎます」
「ええ」
私は頷いた。
公爵が、静かに続けた。
「恋人として、会いたいと思っている」
フリーダは黙った。
その言葉を知らないわけではない。歌にも、物語にも、恋人は出てくる。だから、分からないふりをするには、少し遅かったのだと思う。
「……いつからですか」
「湖で、サビーヌに話した」
「私が寝ていたとき」
「そうだ」
少女の目が、父親から私へ移った。
「サビーヌ様も?」
「はい」
私は、笑って曖昧にしなかった。
「私も、アウグスト様が好きです」
フリーダの帽子が、少し傾いた。
彼女はそれを直しもせず、膝の上の箱を見ていた。貝殻が夕日を受け、薄桃色になっている。
フリーダは、私たちの間にある隙間を見た。
「では、二人だけで、出かけますか」
「そういう日もある」
公爵が答えた。
少女は膝の箱を引き寄せた。
「私が、いないときに」
その声は大きくなかった。
だからこそ、胸に刺さった。
「サビーヌ様は、私と遊ぶために来てくれたのです」
私は頷いた。
「それも、楽しみにしています」
「それも、ですか」
少女は下唇を噛んだ。今日の芝居では、一度もそんな顔をしなかった。客の前で旗を落としても、立っていられた人だった。
「お父様にも、仲良くなってほしかったです」
父親が娘を見た。
「一緒にいても、怖くないように。お父様が怖いと、来たくなくなるでしょう」
公爵は何も言わなかった。
「でも、私がいない方がいいのは、違います」
私は息を吸った。
誕生日の劇も、三人の石も、少女の中では同じものだったのだ。
自分の大好きな人たちが、自分と一緒に楽しく過ごすこと。
彼女の知らないところで、父親と私が互いを待ち遠しく思うなど、考えていなかった。
私は、その願いを嬉しいと思った。
けれど、彼と二人きりになりたい気持ちも、なくならなかった。
「フリーダに会いに来る日も、これからあります」
言ったあと、それだけでは足りないと分かった。
「でも、お父様と二人で会う日も、欲しいのです」
少女が私を見た。
私は手を伸ばさなかった。いま抱きしめてしまったら、彼女は泣きたくなくても泣いてしまうかもしれない。そして私は、その涙を見て、自分の言ったことを薄めたくなる。
「私が、ついていかない日ですか」
「はい」
「……そうですか」
フリーダは箱の蓋を閉めた。
かちりという音が、小さく響いた。
「お誕生日なので、疲れました」
彼女は立った。
帽子を押さえ、扉へ歩いた。走らなかったことが、痛々しいほど立派だった。
父親が立ち上がった。
「部屋まで送ろう」
「一人で行けます」
少女は一度だけ振り向いた。
「十歳ですから」
扉が閉じた。
私は膝の上の手を見た。
青い石を留めた楽譜は、鍵盤のそばに置いてある。受け取ってから、まだ一時間も経っていなかった。
◇
「今日でよかったのでしょうか」
声にすると、思ったより弱く聞こえた。
彼は扉を見ていた。
「分からない」
正直な返事だった。
「明日なら、よかったのかも分からない。ただ、隠しているうちに見つけられるのは、もっと嫌だった」
私は頷いた。
あの音楽室で見つかったら、冗談にしてしまったかもしれない。娘の前で、好きな人への気持ちを、なかったことのように扱ってしまったかもしれない。
「私、あの子が喜ぶと思いたかったのです」
「私もだ」
彼は、少女が座っていた椅子の背に手を置いた。
「あの子があなたを好きなことに、少し甘えていた」
責める相手がいないと、痛みは行き場を探して胸の中を回る。
私は立って、楽譜を閉じた。
「今日は帰ります。フリーダと、いてください」
彼の顔が曇ったので、私は続けた。
「次のお誘いは、取り消しません」
湖から戻った夜に書いた手紙で、私は彼を古書店へ誘っていた。海の探偵の古い挿絵が展示されるという、小さな催しだった。
「私も、取り消すつもりはない」
彼が答えた。
それを聞いて、ようやく息ができた気がした。
玄関まで送られたとき、彼の手を私から握った。
誕生日の花の匂いがした。
「今日は、捕虜が立派でした」
「旗を落としたが」
「船長が、もっと立派になりました」
彼が笑った。寂しさのある笑いだったけれど、今日の成功は消えていなかった。
◇
翌日の昼、私のところへ小さな封書が来た。
大きく丸い字で、私の名が書いてあった。
開ける手が、少し震えた。
『方位磁針は、今朝も北でした。
お宝は、返さなくていいです。
フリーダ』
便箋は、それで終わっていた。
私は何度も読んだ。
返さなくていい。
きっと、返してほしいと思った時間があったのだ。
それをやめたことまで、彼女は送ってくれた。
私は新しい便箋を出した。
『青い石は、今日も楽譜についています。
昨日の船長の声を思い出しながら、曲を弾きました。
旗が落ちたときの海は、楽譜にも書いておきます。
サビーヌ』
寂しくないとは書かなかった。
怒らないでとも書かなかった。
昨日の船が、彼女にとっても、好きな思い出のままであってほしかった。
封をしてから、私は青い石に触れた。
小さな贈り物が、昨日より重かった。




