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婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


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第17話 恋人の席は一つです

 古書店の入口で、アウグスト様は細い紙袋を持っていた。


「何ですか」


「頼まれた」


 袋から出てきたのは、小さな白い熊だった。


 私は熊を見た。


 熊も、黒い縫い目の目で私を見た。


「フリーダの代理だそうだ」


 彼の声には、困惑と笑いをこらえる響きが半分ずつあった。


「こちらが?」


「二人の真ん中に座らせるように、と」


 私はつい、笑ってしまった。


 笑ったあと、少し安心した。怒りが形になって、紙袋に入るほどの大きさで来てくれたことに。


「ずいぶん柔らかい見張りですね」


「口も堅い」


 彼は熊を袋へ戻した。


「連れてくるとは約束した。席については、承諾していない」


 叔母が後ろで小さく咳をした。


 今日は店の向かいにある帽子店へ行くという。何かあればすぐ来られる距離で、私たちが本の話を何時間しても退屈しない場所だった。


「熊さんの帽子も、見ておきましょうか」


「見張りが目立ちますので」


 私が答えると、叔母は楽しそうに道を渡った。


 古書店は、外から見るより奥行きがあった。


 入口近くには植物画の本、奥には旅の記録と物語。壁に飾られた挿絵には、見覚えのある船があった。海の探偵の第三巻で、主人公が船医を問い詰める場面だ。


「ここで、分かりました?」


 私が聞くと、彼は絵を見たまま首を振った。


「まだ、船長を疑っていた」


「船長は、その前の頁で海に落ちています」


「戻ってきた」


「濡れたまま毒を盛るのですか」


「執念深い犯人なら」


 私は笑った。


 彼と物語の話をすると、意外に疑り深いところと、変なところで人を信用するところが見える。私は船医が優しすぎるので疑った。彼は、具合の悪い船員に付き添っていたので、そこは信じたという。


「優しい人も、犯人になります」


「あなたなら、どう見抜く」


「人が弱っているとき以外も、優しいか見ます」


 言ってから、少し黙った。


 前の婚約者のことが、頭をよぎった。


 私が泣けば慰めてくれただろうか。慰めてくれたかもしれない。けれど、元気な私が何を欲しがっていたか、彼は聞かなかった。


 隣の人は、その沈黙を急いで埋めなかった。


 私は次の絵へ歩いた。


「この場面が好きです」


 主人公が、犯人を捕まえたあとで、落とした帽子を拾いに戻る絵だった。


「事件より帽子が心配になるのが、いいのです」


「分かる。靴でも同じことになる」


「海に落ちたのですか」


「馬に泥へ踏み込まれた」


 彼は、儀礼用の靴を片方だけ泥に残した日のことを話した。


 部下の前で拾いに戻るため、行進ではないが、ほとんど行進のような顔で歩いたらしい。


 私は、絵を見るふりをして笑い続けた。


 軍服の彼を格好いいと思ったことは取り消さない。ただ、片足だけ靴下で泥の前に立つ姿も、知ってしまった。


 好きな人が、少しずつ面白くなる。


     ◇


 奥の棚で、声をかけられた。


「サビーヌ?」


 エミールだった。


 手には、背の赤い本を持っていた。隣には誰もいない。


 久しぶりに見る顔は、記憶より平凡だった。ひどく変わったわけではない。私が、彼の機嫌を読み取るために目元ばかり見なくなったのだと思う。


「お久しぶりです」


 挨拶すると、彼は少しほっとした顔になった。


「元気そうでよかった。君なら、うまくやっていると思っていたよ」


 言い慣れた調子だった。


 以前なら、私もそう思うでしょう、と笑っただろう。


「この頃は、楽しくしています」


 私は答えた。


「先月、人前で曲を弾きました」


「ああ、聞いた。趣味を続けられるのは、いいことだね」


 私は本を持つ彼の手を見た。


 赤い背表紙は新しく、角が揃っている。母の青い本が、あの手からどんなふうに箱へ入れられたのか、今さら分かることはない。


「ええ。続けます」


 そのとき、隣にアウグスト様が来た。


 エミールの表情が変わった。


 公爵の顔を知らない人ではない。儀礼の場で見たことがあるのだろう。彼は一歩下がり、慌てて礼をした。


「失礼いたしました。お連れとは知らず」


「サビーヌに誘ってもらった」


 アウグスト様は、それだけ言った。


 私の肩を抱いて見せることも、相手の名を問いただすこともしなかった。


 エミールは私を見た。


「そうか。君は、本当に……」


 そこで言葉が止まった。


 私が誰とでもうまくやれると言いたかったのかもしれない。今度は、その言葉を収める場所がなかった。


「では、失礼します」


 私は軽く頭を下げた。


 彼を残して、窓辺の閲覧席へ向かった。


 歩きながら、胸がどきどきした。


 傷ついていないわけではなかった。あの声を聞けば、片づけられた二年間を思い出す。


 でも、そこへ戻りたい気持ちは、一つもなかった。


     ◇


 閲覧席には椅子が三つあった。


 アウグスト様は、白い熊を端の椅子に座らせた。


 真ん中には、私が座った。


「報告されたら、叱られますよ」


「熊は口が堅い」


 彼は隣に座った。


 しばらく、二人で挿絵集を見た。紙をめくる音が、静かな店内に小さく響く。


「あの方が、前の婚約者です」


 私から言った。


「そうか」


「何か、言ってくださるのかと思いました」


 彼がこちらを見た。


「何を」


「もう会いに来るな、とか」


「あなたが、そう言ってほしかったなら」


「いいえ」


 私は首を振った。


「自分で帰れて、よかったです」


 彼の指が、開いた頁の端を押さえた。


「私は、少し腹が立った」


 思いがけない言葉に、私は顔を上げた。


「あなたを、よく知っているように話すので」


「二年間、婚約していましたから」


「分かっている」


「それに、私も、あの方を好きでした」


 彼の口元が、少し固くなった。


 その顔を見て、意地悪を言ったことに気づいた。


 けれど、言いたかった。あなたの知らない私がいた、と。傷ついて待っていただけの人ではなかった、と。


「今は、あなたが好きです」


 静かに続けると、彼が息をついた。


「順番を逆にしてくれると助かる」


「探偵の本は、最後に分かる方がお好きでしょう」


「自分のこととなると、別だ」


 彼の手が、机の下で私の手を握った。


 強かった。


 私は握り返した。


 白い熊は、端の椅子で行儀よく座っていた。


 夕方、店を出る前に、私は彼へ小さな絵葉書を買った。落とした帽子を拾いに戻る探偵の絵だ。


 彼は私へ、まだ持っていない短編集を選んだ。


 互いに、相手が今ほしいものを知っていた。


 それだけのことが、こんなに嬉しい。


 叔母を待つ店先で、彼が私の耳元に言った。


「次は、熊にも休暇をやりたい」


「船長と交渉してください」


「難航する」


 私は笑い、彼の腕に手を添えた。


 その日の熊は、何も報告しなかった。


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