第15話 立派な捕虜の晴れ舞台
フリーダが十歳になった日、公爵邸では朝から花が運ばれていた。
玄関の大きな花瓶は夏の白い花で満ち、南客間の窓辺には、青い小花が低く飾られている。船長が木剣を振っても倒さない高さだった。
私の贈り物は、細長い紙箱に入っていた。
蓋を開けた少女は、息をのんだ。
「本物ですか」
「本物です」
小さな真鍮の方位磁針だった。
針が揺れ、落ち着く。縁に刻んだ文字は大きく、彼女にも読める。首から下げられる紐を通してあるが、走るときには外すよう、箱の説明にも書いてあった。
少女は手のひらに載せたまま、身体を半回転させた。
針がついてこない。
「ここが、北なのですね」
「ええ」
「お父様が動いても?」
そばにいた父親が、一歩横へ動いた。
針は彼に従わなかった。
「そういうこともある」
公爵が真面目に言うので、私は吹き出した。
フリーダは笑うより先に、もう一度ぐるりと回った。白い裾と紺の上着が回り、真鍮の輪の中で北だけが動かずにいる。
「迷っても、帰れます」
「道を覚えることも、お忘れなく」
「覚えます」
彼女は箱ごと胸に抱いた。
それから、私に抱きついた。
以前より、頬が少し高いところへ来た気がした。たった一日で伸びるはずはないのに、十歳という言葉には、そう見せる力があった。
◇
客が揃う前、私と彼は廊下の窓辺で少しだけ話した。
少女はエーベル夫人に帽子を見せにいっている。
「あの子に、私たちのことを話そうと思う」
彼が言った。
私は頷いた。
「私も。あの子が驚く前に」
「すでに、名前は問い詰められた」
「お父様にもですか」
「なぜ自分は様をつけるのに、父さんはつけないのか、と」
その問いには、私なら答えに詰まる。
「どうなさいました」
「親しくなったからだ、と答えたら、では自分もそうする、と」
「まあ」
「しかし呼び捨ては、あまりしっくりこなかったらしい。三度練習して、やめた」
私は窓の桟に手をついて笑った。
「今日が終わったら、私から言う。あなたにも、いてほしい」
「はい」
彼は私の手に触れかけ、足音に気づいて戻した。
少女が走ってきた。帽子の羽根が元気に揺れている。
「お父様、もう逃げられません」
「そのつもりだ」
彼の答えに、私の方が赤くなった。
◇
本番が始まると、私は船長の顔を見られなくなった。
鍵盤と楽譜と、舞台の端が見える位置に座っている。だから、彼女の足音や、客席の息をのむ気配で、うまくいっているかを知った。
入場は成功した。
羽根は扉を通り、台の上の靴が力強く鳴った。
「諸君!」
高く明るい声が、部屋の端まで届いた。
私は入場曲を少しだけ華やかにした。左手が船を進め、右手で旗を揺らす。船長が最後の一言を言うまで、終わりの音を待つ。
「今日のお宝は、独り占めしません!」
客席から笑いと拍手が起きた。
捕虜の登場だった。
公爵は、普段なら誰も捕まえようと思わないほど立派な姿で、縄の代わりの紐を手首に巻いて出てきた。マルタ様の隣にいた老紳士が咳き込んだ。
少女は台本通り、帰りたければ船を直すよう命じた。
彼は木の板を持ち上げた。
袖は、まくっていなかった。
私は、少し残念だった。
板を運ぶ場面で、彼が向きを間違える。少女が怒り、客席が笑う。彼が今度は正しい方へ向き直ると、板の端が、船の旗を落とした。
それは台本になかった。
白い旗が、青い布の向こうへ消えた。
少女の足が止まった。
私は低い音を二つ、続けた。
波だった。
彼が娘を見る。
フリーダは口を開き、一度閉じた。それから木剣を高く上げた。
「落とし物です!」
客席が笑った。
「捕虜、拾ってください!」
「船長、手が塞がっている」
「板を置いてください!」
私は音を少し速めた。
彼が板を置き、片膝をついて旗を拾う。旗の棒を受け取った少女は、自分で台の穴へ差し直した。
「海では、何が起こるか分かりません」
まったく、その通りだった。
拍手が起きる。
少女の頬が赤く輝いた。
そこから先は、練習より自由だった。
捕虜が助けを頼むと、船長は少し考えるふりをして、菓子の箱を運ばせた。客席の子どもたちへ、小さな包みが配られる。大人にも同じものが渡る。マルタ様は両手で受け取り、老紳士は捕虜へ深く礼をした。
最後に、少女が言った。
「行ってきます!」
私は帰る場所のある曲を弾いた。
元気に遠ざかる音の中へ、一度だけ、静かな和音を入れる。旗が揺れ、船長が礼をする。捕虜も隣で頭を下げた。
拍手が、すぐには終わらなかった。
私の目の前で、楽譜の線が少しぼやけた。
終わりの音を間違えないようにした。
◇
菓子を食べる時間になっても、フリーダは帽子を脱がなかった。
何度も旗が落ちた話をし、父親が拾うまでの自分の判断を説明した。十歳になった日に、予定通りにいかなかったことが、いちばんの手柄になったのだった。
「サビーヌ様が、海にしてくださいました」
少女が客の前で言った。
急に皆の目がこちらを向く。
「あの波の音です。急に弾いたのです」
「船長が進めてくださいましたから」
「でも、あの音がなかったら、忘れたところを探していました」
彼女は自分の失敗も、ちゃんと覚えていた。
ユリアがいたら、いい伴奏だったと肘でつついてくれただろう。私は少しだけ胸を張り、礼を言った。
公爵が、少し離れた場所からこちらを見ていた。
その目に褒められると、船長の誕生日なのに、私まで贈り物をもらったような気になる。
帰る客を見送ったあと、少女は貝殻の箱を持ってきた。
白い包みを、一つずつ渡す。
「お宝です」
彼は濃い緑の石を手に取り、娘の目の高さまで腰を落とした。
「自分で選んだのか」
「はい。お父様の上着の色です」
「ありがとう」
少女は満足そうだった。
私は青い留め金を、自作の楽譜を束ねたリボンに留めた。少女の白い石は、帽子の縁に付けられた。
「これで、同じです」
彼女が言った。
彼が私を見る。
私は頷いた。
夕方の光が、客のいなくなった南客間へ差していた。旗も船もまだそこにある。今日の船長が、いちばん安心して座れる場所だった。
「フリーダ。話がある」
父親は椅子へ座り、娘を呼んだ。
私は隣の椅子に座った。
少女は、二人を見比べた。
帽子の白い石が、きらりと光った。




