EP 9
戦士の労いと、忍び寄る影
「ぶばばばばばっっ!? ごぼっ、げほっ、息が……息ができねぇぇぇっ!!」
「前を見ろシャルム! 口を閉じろ! 肺に水が入ったら即死だぞッ!!」
純白の濁流が、森の木々を薙ぎ倒しながら猛スピードで斜面を駆け下りていく。
俺ことリオス・クルセイダー(5歳)は、右手で愛用の南部鉄器フライパンを命綱のように胸へ抱え込み、左手で必死に犬かきをしながら、真横を流されるシャルムの尻尾を掴んでいた。
五歳の子供二人にとって、ルナが放った国家戦略級の鉄砲水はあまりに暴力的すぎた。
ゴブリンの群れを完璧に完封した直後に、味方の初級(?)魔法で水死するなど、前世の現場なら『前代未聞の重大労災事故』として安全衛生委員会で永遠に吊るし上げられる案件である。
しかも、最悪なことに前方の視界が開けつつあった。
響いてくるのは、ゴオオオオオッという地響きのような大音響。
(……待て、あの地形はまさか……裏山の大滝壺かよォッ!?)
落差三十メートル。下には無数の尖った巨岩が林立する天然の処刑場だ。
五歳児の肉体で滝壺へ真っ逆さまにダイブすれば、いくら元S級の遺伝子とドラゴンの骨格があろうと、ひとたまりもなくミンチにされてしまう。
「シャルム、息を止めろ! 耐衝撃姿勢をと――」
俺が叫ぼうとした、まさにその瞬間だった。
ドォォォォォォォンッッッッ!!!!
大気を粉々に叩き割るような凄まじい衝撃波が、滝の轟音すら掻き消して森の空間を震撼させた。
「――そこまでだァッッ!!」
空間が爆ぜた。
滝の手前、濁流が落ち込む断崖の縁に、二つの規格外の巨影が立っていた。
一人は、素肌に羽織った毛皮を風になびかせ、身の丈を超える巨大な黒鉄の大剣を構えた大男――我が父、ガリン・クルセイダー。
そしてもう一人は、歴戦の古傷を刻んだ褐色の身体から獰猛な黄金の闘気を噴え立たせている歴戦の猛将――シャルムの父、クルーガー。
「ガリン! 水を割れェッ!!」
「応ッッ!!」
ガリンの全身から、爆発的な深紅の闘気が奔流となって吹き上がった。
大地が軋み、足元の岩盤が蜘蛛の巣状に砕け散る。
大剣を一閃。ただの物理的な横薙ぎ――だが、そこから放たれた衝撃波の斬撃は、まるで神話の神が振るった神罰のように空間を両断した。
ズバァァァァァァッッッ!!!!
滝壺へ突っ込もうとしていた何十トンもの濁流が、一撃の太刀筋によって真っ二つに引き裂かれた。
水流の壁が左右へと強制的に押し分けられ、中央にぽっかりと干上がった地面が露出する。まるで海を割ったモーセの奇跡だ。
「シャルム! リオス!」
水流が割れたコンマ数秒の隙間を突き、クルーガーが豹のような超絶の跳躍で宙を舞った。
目にも留まらぬ神速の身のこなし。
空中で器用に身を捻り、落ちてくるシャルムの襟首と、俺の首根っこを、左右の太い丸太のような腕でガシッと正確に鷲掴みにする。
「捕らえたぞ!」
ドガァッ!と崖の岩肌を足場にして跳ね返り、そのまま何事もなかったかのように安全な崖の上へと軽やかに着地した。
遅れて、左右に割れていた濁流が再び合流し、滝壺の底へと轟音を立てて落下していく。
九死に一生。
濡れた草の上に放り出された俺とシャルムは、しばらくの間、言葉を失って空を見上げていた。
「けふっ……げほっ! ごほっ……!」
シャルムが口から派手に泥水を噴き出し、胸を押さえて激しく咳き込む。
俺もまた、抱きしめていた鉄フライパンの冷たさを感じながら、荒い息を整えた。
生きてる。五体満足で、全部の骨が無事だ。
だが――。
「きゃははははっ! ふたりとも、ダイナミックな着地だねぇ〜♡」
頭上から、鈴を転がすような呑気極まりない美声が降ってきた。
見上げると、プラチナブロンドの長い髪を風になびかせたルナが、国宝『世界樹の若木』の先を器用に枝に引っ掛け、木の上からふわりと軽やかに飛び降りてくるところだった。
服には泥一つ跳ねておらず、陶器のような白い肌はピカピカに輝いている。
完全なる無傷。
「あ、ガリン小父様、クルーガー小父様! こんにちは〜! 今日はお天気もいいし、川遊び日和ですねぇ〜」
天使の笑顔で手を振るエルフの美少女。
その瞬間、俺とシャルムの怒髪が同時に天を突いた。
「「川遊びで人が死にかけるかバカ野郎ォォォォォッッ!!!!」」
渾身のユニゾンツッコミが、森の静寂を吹き飛ばした。
* * *
数分後。
崖の上の木陰で、焚き火がパチパチと音を立てて爆ぜていた。
冷え切った身体を温める俺とシャルムの前に、ガリンとクルーガーが腕を組んで仁王立ちしている。
二人の巨漢から放たれる無言のプレッシャーは、それだけで並の兵士なら失禁して平伏するレベルの重圧だ。
「……さて。何があったか、話してもらおうか」
クルーガーが隻眼を細め、低く唸るような声で口を開いた。
威圧感に気圧されたシャルムが、びくっと耳を伏せる。
「あ、あのな、父上……俺たち、遊んでたわけじゃねぇんだ! 森の奥から、いきなりゴブリンの群れが襲ってきて……!」
「ゴブリンだと?」
ガリンが眉をひそめた。
シャルムは身振り手振りを交え、必死に言葉を紡ぎ出した。
「そうなんだ! 六匹もいて、みんな腹を空かせて武器を持ってて……! でも、リオスが地面に仕掛けた罠で足を止めて、鉄の砂を目潰しにして動きを封じてくれたんだ! それで、俺が……俺が【ダブル】で、死角から槍を突き刺してトドメを刺したんだよ!」
息を弾ませながら、父親に報告するシャルム。
その表情には、恐怖を乗り越えて実戦を戦い抜いた戦士としての自負と、父に認めてもらいたいという一途な願いが滲み出ていた。
クルーガーは無言のまま、先ほど崖下に打ち上げられていたゴブリンの死骸――水流で流されてきた二つの骸へと視線を向けた。
鋭利に貫かれた喉元と脇腹の刺突痕。
そして、頭骨が陥没するほどの凄まじい質量打撃の痕跡。
クルーガーはシャルムの前に歩み寄ると、膝をつき、目線を息子の高さへと合わせた。
そして、ゴツゴツとした傷だらけの巨大な掌を、シャルムの頭の上へと置いた。
「……見事だ、シャルム」
「え……?」
「仲間と背中を合わせ、恐怖に呑まれることなく、一撃で急所を仕留めた。……お前は立派に、我が誇り高き豹耳族の戦士としての第一歩を踏み出したぞ」
力強く、だがどこまでも温かい父の言葉。
それを聞いた瞬間、シャルムの琥珀色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「父上……っ! う、うわぁぁぁん……っ! 怖かった……すっげぇ怖かったよぉ……っ!」
父親の胸に飛び込み、声を上げて泣きじゃくるシャルム。
いくら大人びた武技を見せようと、まだ五歳の子供なのだ。実戦の重圧から解放された安堵感が、涙となって溢れ出るのは当然だった。
クルーガーは隻眼を細め、静かに息子の背中を叩き続けた。
そして――。
「ガッハッハッハッハ! おいおいおい、聞いたかクルーガー!」
空気を読まない豪快な爆笑が、森に響き渡った。
我が父ガリンである。
ガリンは腰に手を当て、地面に置かれた漆黒の鉄鍋――俺の南部鉄器風フライパンを指差して腹を抱えていた。
「ゴブリンの頭骨をへし折ったのが、まさかその料理鍋だとはな! リオス、お前って奴は! ハズレスキルと馬鹿にされても、手近な調理器具を武器にして魔獣を叩き伏せるとは、最高にロックな度胸じゃないか!」
「……あはは、夢中で振り回しただけだよ、父さん」
俺はわざとらしく子供らしい愛想笑いを浮かべ、額の汗を拭った。
内心では冷や汗が止まらない。
まさか「炭素濃度を三・五パーセントに調整し、千五百度の溶銑から分子配列を制御して錬成した至高の鋳鉄打撃兵器です」などと口が裂けても言えるはずがない。
「ハズレスキルの落ちこぼれが、火事場の馬鹿力で鍋を振るったら奇跡的に当たった」というシナリオを死守しなければならないのだ。
「ふふ、でも本当に怪我がなくてよかったわ」
背後から、神聖な魔力の気配と共に母アリアが歩み寄ってきた。
騒ぎを聞きつけて駆けつけてくれたらしい。
母さんは俺の頭を優しく抱きしめ、全身にくまなく【パーフェクト・ヒール】の黄金光を注ぎ込んで擦り傷一つ残さず全快させてくれた。相変わらず過剰出力で脳が痺れそうになるが、その慈愛の温もりだけは本物だった。
だが――。
父親二人の豪快な笑みは、長くは続かなかった。
焚き火の向こう側、水浸しになったゴブリンの死骸を検分していたクルーガーが、険しい顔つきで立ち上がったのだ。
ガリンもまた、その視線に気づき、武人特有の鋭利な眼光を森の奥へと向けた。
「……ガリン」
「ああ。分かっている」
先ほどまでの親バカ全開の空気は跡形もなく消え失せていた。
元S級冒険者の大剣使いと、元獣人王国の猛将。
修羅場を潜り抜けてきた本物の強者だけが放つ、張り詰めた殺気と警戒心が森の空気をピシリと凍りつかせる。
「ゴブリンの死骸を見たが……異常だ」
クルーガーが低く呟いた。
「どの個体も骨と皮ばかりに痩せこけ、胃袋の中は泥と木の根しか入っていなかった。完全な飢餓状態だ」
「ああ。それに、ここはララサ村から歩いて三十分もかからない森の浅瀬だ」
ガリンが大剣の柄に手を置き、険しい表情で連峰を見上げる。
「本来、ゴブリンのような臆病な魔獣は、もっと深部の火山帯や山脈の麓に生息しているはずだ。人間の生活圏にここまで接近してくる理由がない。……よほどの『異常事態』が起きない限りはな」
「異常事態……?」
シャルムが涙を拭い、不安そうに父を見上げる。
「森の深部で、生態系のバランスが崩れている可能性がある」
クルーガーが重々しく口を開いた。
「上位の大型魔獣――例えば『黒角竜』や『ベヒモス』といった災害級の怪物が縄張りを広げたか、あるいは……魔獣の大規模暴走の前兆かもしれん」
「……近いうちに、自警団総出で森の深部を偵察する必要がありそうだな」
ガリンが吐き捨てるように言った。
大人たちの会話を横で聞きながら、俺の脳内では冷徹なリスク計算が目まぐるしく回転していた。
(……上位魔獣の南下。そして、スタンピードの危険性、か)
前世の鉄鋼プラントで培った危機管理意識が、最大音量で警報を鳴らし始めていた。
今回のゴブリン襲来は、ただの突発的なトラブルではない。
これから訪れる、もっと巨大で破滅的な危機の『前触れ』に過ぎないのだ。
村の大人たちは強い。父ガリンも母アリアもクルーガーも、個人の武力で言えば大陸トップクラスの怪物だ。
だが――個人の強さと、集団の防衛能力は全くの別物である。
現在のララサ村の防衛設備を脳内でスキャンする。
村の外周を囲んでいるのは、樹齢数十年の丸太を適当に並べただけの、貧弱な木製の柵。
見張り台は二箇所しかなく、夜間の照明設備も松明が数本あるだけ。
もし、大型魔獣の群れが四方から一斉に押し寄せてきたらどうなる?
いくら元S級の親父たちが奮戦しようと、多勢に無勢。
柵は一撃でへし折られ、魔獣の乱入を許し、一般の村人たちは家ごと踏み潰されて大虐殺が起きる。
そうなれば、俺の愛する家族も、シャルムもルナも、そして何より俺自身が勝ち取ろうとしている『平穏なスローライフ』も、すべて灰燼に帰してしまう。
(冗談じゃねぇ……)
俺は濡れた服の裾をぎゅっと握りしめた。
誰かが守ってくれるのを待つ?
国や領主の騎士団が助けに来てくれるのを期待する?
そんな甘ったれた考えは、過酷な現場で生き抜いてきた技術者の辞書には存在しない。
自分の安全と、大切な仲間たちの日常は、自分の手で物理的に担保するしかないのだ。
(やるべきことは決まった。……このララサ村そのものを、上位魔獣の群れどころか帝国軍が攻めてきてもビクともしない『絶対防衛要塞』へと作り変える)
魔石や魔法の結界だけに頼った脆弱な都市計画などクソ食らえだ。
近代日本の土木工学、構造力学、そして冶金学の粋を結集した、難攻不落の鋼鉄要塞。
だが、そのためには――。
(圧倒的に、資源が足りねぇ)
要塞化に必要な大量の鋼材。
連射式バリスタや防壁を錬成するための、高純度の鉄。
そして、大規模な工事を正当化し、村の大人たちを動かすための『巨額の資金』。
今の俺は、ただの5歳の子供に過ぎない。
まずは、元手となる金と資材を、誰にも怪しまれずに秘密裏に調達しなければならない。
「……ふっ」
思考の果てに、俺の口元から自然と不敵な笑みが漏れた。
資材なら、すぐ近くにあるじゃないか。
村の脇を流れる広大な川原。
あそこには、上流から削り取られて流れてきた、無尽蔵の『砂鉄』が眠っている。
この世界の鍛冶師には扱えない、不純物まみれの砂鉄。
だが、俺の【アイアン】と現代日本の冶金知識を使えば――それを、感覚頼りのドワーフ工匠すら裸足で逃げ出すような『純度百パーセントの神域の鋼』へと変造できる。
それを商業ギルドに流せばどうなるか?
(稼いでやるよ。五歳児の錬鉄技術で、村を買い取れるくらいの軍資金をな)
「おい、リオス? ニヤニヤしてどうしたんだ? まだ頭に水が入ってんのか?」
涙を拭いたシャルムが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「いや、何でもねぇよ」
俺は抱えていた南部鉄器のフライパンを軽く掲げ、夕闇が迫る空を見上げた。
「シャルム、ルナ。明日から、秘密基地の拡張工事だ。……俺たちの平和を邪魔する奴らは、全員まとめて鉄で叩き潰す準備を始めるぞ」
「お、おうっ! よく分かんねぇけど任せとけ!」
「えへへ、ルナ、次はもっとおっきいお水を出して応援するねぇ〜♡」
「お前は二度と水魔法を使うなッ!!」
焚き火の温もりの中、後に帝国全土を揺るがすことになる『鋼鉄のフィクサー』の要塞化計画と、大規模な資金調達作戦が、静かにその産声を上げていた。
読んでいただきありがとうございます。
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