EP 8
鉄鍋の蹂躙、獣の覚悟、そして天然の災害
「ギシャアアアアッッ!!」
仲間の半数が目に見えないワイヤーに足を刈り取られ、砂鉄の蛇によって地面へ縫い止められた光景を目撃してもなお、飢餓で狂乱した残る三匹のゴブリンは止まらなかった。
理性よりも食欲が勝ったのか、黄色い涎を撒き散らしながら、錆びた骨剣や石斧を振りかざして同時に飛びかかってくる。
だが、俺の心は氷のように冷え切っていた。
前世の過酷な鉄鋼プラントにおいて、最も忌むべきは「動線上に放置された障害物」と「突発的な危険源」だ。
作業員と現場の安全を脅かす害獣など、速やかに、かつ徹底的に排除する以外の選択肢はない。
「シャルム、見てろ。これが――現場の『安全確認(物理)』だ」
俺は低く身構え、右手に握りしめた黒光りする『相棒』――底厚五ミリ、炭素濃度三・五パーセントの南部鉄器風フライパンの柄を握り直した。
質量にしておよそ二・五キログラム。
五歳児の腕力で振り回すにはあまりに重すぎる鉄塊だが、元S級戦士ガリンの遺伝子と、母アリアの過剰回復魔法によって限界突破した俺の肉体にとっては、羽毛のように軽い。
踏み込み一歩。
地面の砂利を弾き飛ばし、最短の直線軌道で間合いを詰める。
「ギャッ!?」
標的の子供が逃げるどころか、音もなく目の前に肉薄してきたことに、先頭のゴブリンが驚愕の声を漏らした。
だが、すでに遅い。
「邪魔だッ!」
ブォンッッ!!と、大気を引き裂く重低音が森に響き渡った。
遠心力と体幹の回転運動、そして腕の闘気を完璧に同調させたフルスイング。
漆黒の鉄鍋の底面が、振り下ろされようとしていたゴブリンの骨剣を真っ向から迎え撃つ。
バギィィィィィンッッ!!
鐘楼の名鐘をハンマーで打ち鳴らしたかのような、澄み渡る金属打撃音が木霊した。
骨剣など紙細工に過ぎない。衝撃波でゴブリンの武器が一瞬で粉々に砕け散り、その勢いのまま、フライパンの分厚い底面がゴブリンの側頭部へクリーンヒットした。
「ブベラッッ!?」
物理法則を無視した打撃エネルギー。
ゴブリンの緑色の顔面がぐにゃりと歪み、体重三十キロの肉体が真横へと吹き飛んだ。
そのまま近くの樫の大木へと激突し、ズズズと力なく幹を滑り落ちて白目を剥く。即座の意識喪失(KO)だ。
「な……っ!? な、鍋で……ゴブリンを一撃で消し飛ばした……!?」
背後から、シャルムの引きつった叫び声が聞こえた。
だが、感心している暇はない。二匹目が左右から同時に襲いかかってきている。
一匹は左から錆びたナタを振り下ろし、もう一匹は右から鋭利な爪を突き出して飛びかかってくる。
(刃物と打撃の同時攻撃……現場なら重大労災事故の危険性Aランクだな)
俺は左手の指先を軽く動かした。
【アイアン】を起動。
左のゴブリンが振り下ろした錆びたナタ――その刃先に含まれる鉄分子へ、直接磁気干渉を叩き込む。
カチッ。
ほんのわずか、ナタの軌道を内側へ五センチだけ引き寄せてやった。
それだけで十分だった。
ガキィィッ!と鈍い音がして、左のゴブリンのナタが、右から飛びかかってきた仲間のゴブリンの肩口へ深々と突き刺さったのだ。
「ギギャァァァッ!?」
「グギャッ!? ギギィ!?」
同士討ちの激痛と混乱で、二匹がもつれ合いながら地面を転がる。
そこへ、俺は音もなく回り込み、フライパンのフラットな底面を、二匹の頭上からまとめて叩き落とした。
ドゴォォォォンッッ!!
地面にクレーターができるほどの重圧。
二匹のゴブリンは情けないカエルのような声を漏らし、ピクピクと痙攣した後に完全に動かなくなった。
静寂が戻る。
時間にして、わずか十秒足らず。
洞穴の前に現れた六匹の凶暴なゴブリンの群れは、罠と鉄鍋の暴力によって、一体たりとも俺たちの防衛線を突破することなく全滅していた。
「ふぅ……よし、作業区域の安全確保、完了」
俺はフライパンについた土を払い、ふうと息を吐き出した。
底面の歪みはゼロ。千五百度の溶銑から直接鍛え上げた高密度鋳鉄は、魔獣の頭骨を叩き割った程度では傷一つついていない。さすがは現代日本の冶金工学だ。
だが、俺が安堵したその時――。
ガサリ、と後方の茂みが揺れた。
(――しまっ、まだ残党がいたのか!?)
俺は即座にフライパンを構え直した。
茂みから飛び出してきたのは、先ほどの六匹よりも一回り身体が小さく、だが全身に無数の傷痕を刻んだ、狡猾そうなゴブリンの生き残りだった。
最初から突撃せず、仲間を囮にして茂みに潜んでいたのだ。
そして、そのゴブリンが狙いを定めたのは――俺ではない。
洞穴の入り口、木槍を構えたまま呆然と立ち尽くしていた、シャルムだった。
「ギシャアアアッッ!!」
骨のナイフを逆手に構え、ゴブリンがシャルムの喉元めがけて一直線に跳躍する!
「シャルムッッ!!」
俺の位置からでは、物理的に間に合わない。
フライパンを投擲するか、あるいはワイヤーを引くか――だが、シャルムとの距離が近すぎて巻き込むリスクがある。
シャルムの琥珀色の瞳孔が、恐怖で極限まで収縮した。
眼前に迫る、腐敗した黄色い牙と、ギラつく凶刃。
五歳の少年の小さな身体が、金縛りに遭ったように硬直する。
(動け……! 動けよ、俺の足……!)
シャルムの脳裏に、数々の光景が走馬灯のように駆け巡っていた。
かつてレオンハート獣人王国で「無敵」と称えられながら、陰謀によって追放された偉大な父クルーガーの背中。
毎朝、血反吐を吐きながら木槍を振り続け、「父上の無念を晴らす戦士になるんだ」と誓った日々の記憶。
そして――先ほど、仲間を守るために迷わず前に出て、圧倒的な強さで敵を叩き伏せたリオスの背中。
『現場じゃな、靴底の小石一つ、鉄板のミリ単位の傾き一つで命を落とすんだ。敵の攻撃ばかり見て足元の摩擦係数を計算できない奴は、一流の戦士にはなれねぇぞ』
リオスがいつか言っていた、わけのわからない呪文のような言葉。
だが、その意味が、今この極限の瞬間において、電撃のようにシャルムの全身の細胞を貫いた。
(リオスは、俺たちを守ってくれた……! なのに、俺がここで足をつくねてどうする……! 俺は……誇り高き豹耳族の戦士だァッ!!)
恐怖が、一瞬にして爆発的な闘志へと塗り替わった。
シャルムの足元の砂が、ドッ!と弾け飛ぶ。
膝の震えが止まり、体幹の軸がピシリと一本の鋼のように定まった。
丹田から汲み上げられた黄金の闘気が、五歳の小さな肉体を黄金のオーラとなって包み込む。
「――喰らえッッ!! 【ダブル】ッッッ!!」
ボフンッ!!
シャルムの身体が、完全に二つに分裂した。
だが、これまでの未熟な分身ではない。
本体と分身が寸分の狂いもなく完全に息を合わせ、低空を滑り込むような神速のステップを踏み出す。
空中でナイフを振り下ろそうとしていたゴブリンの視界から、標的の姿が完全に掻き消えた。
「ギ……!?」
「そこだァッッ!!」
左右の死角から、二本の木槍が同時に閃光となって突き出された。
本体の槍がゴブリンの右脇腹を抉り、分身の槍が喉笛を正確に捉える。
ドガァァァンッッ!!
幼き猛獣の全力の闘気を込められた刺突が、ゴブリンの小さな身体を空中で完全に粉砕した。
放物線を描いて吹き飛んだゴブリンは、地面を激しくバウンドし、二度と動かなくなった。
トン、と軽やかに着地するシャルム。
分身がフッと煙のように消え去り、手にした木槍の先からは、微かに湯気のような闘気の余韻が立ち上っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
荒い息を吐きながら、シャルムは自分の手を見つめた。
まだ小さく震えている。
だが、それは恐怖による震えではなかった。
本物の敵を倒し、仲間と共に戦場を生き残った戦士としての、魂の歓喜による武者震いだ。
「……やったぞ、リオス! 俺、仕留めたぞッ!!」
シャルムが満面の笑みを浮かべ、誇らしげに木槍を掲げて振り返った。
俺はフライパンを下げ、口元にフッと笑みを浮かべた。
「ああ、見事だったぞ、シャルム。足元の踏み込み、間合いの見切り、スキルの使い所……満点だ」
「へへっ! だろ!? これでお前の一番弟子を名乗っても文句ねぇだろ!」
弟子にした覚えはないが、この短期間での覚醒ぶりには素直に舌を巻く。
さすがは将来、獣人王国の頂点に立つ男だ。
これで一安心――現場のトラブルも無事にゼロ災で解決、と思ったその時だった。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
洞穴の入り口の切り株から、鈴を転がすような、あまりにも無邪気で甲高い歓声が響き渡った。
ルナだった。
エルフの美少女は、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳を爛々と輝かせ、両手で国宝『世界樹の若木』をブンブンと振り回しながら立ち上がっていた。
「ふたりとも、すっごく格好よかったよぉ〜! リオス君のお鍋バコーンも、シャルム君のブスッも、最高だったぁ〜♡」
「お、おう、見ててくれたかルナ!」
シャルムが得意げに鼻を鳴らす。
だが、俺の現場監督としての直感が、最大音量のエマージェンシー・サイレンを鳴り響かせた。
待て。
ルナの足元を見てみろ。
彼女が興奮してステップを踏むたびに、世界樹の若木から、尋常ではない濃度の青白い燐光がボタボタと滴り落ちている。
大気中の水分が急速に凝縮され、洞穴の周囲の空気が、まるで土砂降りの直前のように湿気を帯びて冷え込んでいた。
「……おい、ルナ? お前、その手元の棒は何だ?」
俺が引きつった声で尋ねると、ルナは天使のような極上の笑顔を咲かせた。
「えへへ! ふたりが一生懸命戦ってくれたからね、ルナもお手伝いしようと思って! 広場がゴブリンさんの血や泥で汚れちゃったでしょ? だから、お水を出して綺麗にお掃除してあげるのぉ〜!」
「ひ、広場のお掃除……?」
シャルムが首を傾げる。
だが、俺は知っている。
この少女が、大陸の理をねじ伏せるほどの規格外の魔力を秘めた『歩く魔法災害』であることを。
そして、加減という言葉を母親の胎内に置き忘れてきた天然サイコパスであることを!
「や、やめろルナァァァッ!! 掃除なら俺が雑巾とホウキでやるから、絶対に魔法を使うなァァァッ!!」
俺の魂の絶叫が森に響き渡った。
だが、すでに五歳児の無垢な好奇心と親切心のブレーキは完全に焼き切れていた。
「大丈夫だよリオス君、一番簡単な初級魔法だからねぇ〜♡ ……清らかなるせせらぎよ、汚れを洗い流したまえ――【アクア・スプラッシュ】!」
ルナが世界樹の若木を、指揮者のタクトのように優雅に振り下ろした。
瞬間――。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッッ!!
大気が震動し、森の木々が一斉に激しく軋み始めた。
それは「せせらぎ」などという可愛らしい音では断じてなかった。
巨大なダムが根底から決壊し、何百万トンもの濁流が一気に解放されたかのような、地獄の底鳴りである。
ルナの頭上に展開された魔法陣の直径は、優に三十メートルを超えていた。
初級魔法のはずの【アクア・スプラッシュ】が、世界樹の若木の過剰増幅と、彼女の底なしの魔力プールによって、国家戦略級の津波召喚術へと魔改造されていたのだ!
「……え?」
シャルムがポカンと口を開け、頭上を見上げた。
そこには、太陽の光を完全に遮断する、見上げるような『水の巨壁』がそびえ立っていた。
「う、嘘だろおい……」
俺はフライパンを抱きかかえ、天を仰いだ。
ゴブリンの群れを完璧に完封した防衛線も、チョークポイントも、流体力学の前にはただの塵芥に過ぎない。
「あわわ……? なんだか、お水がいっぱい出ちゃったかも……?」
ルナが自分の手元を見て、暢気に小首を傾げた、その刹那――。
ドッパァァァァァァァァァァァァンッッッ!!!!
大洪水が、炸裂した。
何十トンもの超高圧の水流が、爆発的な轟音と共に森の広場へと雪崩れ込んできた。
気絶していたゴブリンたちも、頑丈に組まれていた秘密基地の木組みも、周囲の低木も、何かもかもが一瞬にして純白の濁流へと呑み込まれていく!
「ぐわあああああああああっっ!?」
「ぎゃあああああああああっっ!? お、溺れるぅぅぅぅぅっ!!」
俺とシャルムの絶叫は、一瞬にして凄まじい水音によって掻き消された。
激流に足元をすくわれ、洗濯機の中に放り込まれたかのように視界がグルグルと回転する。
必死の思いで南部鉄器のフライパンを胸に抱きしめながら、俺は斜面を猛スピードで滑落していった。
横を流れていくシャルムが、犬かきをしながら泡を吹いているのが見える。
そして、濁流の頂点では、なぜか器用に木の枝に乗っかってサーフィンのように波を乗りこなしているプラチナブロンドの美少女が、満面の笑みで手を振っていた。
「きゃ〜〜っ! 涼しくて気持ちいいねぇ〜〜〜♡」
(どこが涼しいかバカ野郎ッッ!! 初級魔法で地形を変えるんじゃねぇぇぇぇぇぇっっ!!)
ゴブリンの脅威を退けたはずの五歳の天才児たちは、味方の放った文字通りの天災によって、ララサ村へ向かう森の斜面を盛大に洗い流されていくのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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