EP 2
元S級両親の英才教育(物理)と、はじめての精密解体
――結論から言おう。
赤ん坊の生活というのは、信じられないくらいに暇である。
寝返りすら打てない小さな肉体に押し込められ、視界に入るのは天井の木目と、たまに通り過ぎるハエくらい。
前世で毎日千五百度の溶銑と向き合い、汗と油にまみれて図面を引いていた現場叩き上げの鉄鋼マンにとって、一日中天井を見つめ続けるだけの時間は、もはや精神修行を通り越して拷問に近かった。
(はぁ……あの芋ジャージの駄女神、マジで絶対に許さねぇ)
俺ことリオス・クルセイダー(中身:戸田鉄平、25歳)は、むちむちの短い両手を目の前に掲げ、ぷるぷると震わせながら小さくため息を漏らした。口から出るのは「ふにゃ」という情けない幼児音だけだが、頭の中の意識は完全に覚醒している。
だが、愚痴っていても時間は過ぎない。
過酷な現場でトラブルが起きたとき、職人が真っ先にやるべきことは決まっている。
――手持ちの資材と機材の『仕様把握』だ。
(あの自称・女神ルチアナは言っていた。俺に押し付けたユニークスキル【アイアン】は、『周囲の鉄を操る能力』だと)
異世界のアナステシアでは「釘を数センチ転がすくらいしか能がないゴミスキル」と笑われているらしいが、そんな評価を鵜呑みにするほど俺はおめでたくない。
道具の真価を決めるのは、カタログスペックではなく使い手の腕と知識だ。
俺はベビーベッドの上で静かに深呼吸し、意識を集中させた。
問題は、ここが純木造の素朴な民家だということだ。ベッドも柵も床もすべて木製で、都合よく鉄パイプやスパナが転がっているわけがない。
(何か……小さくてもいい、鉄製の部品は……)
意識のアンテナを室内全体へ広げていく。
すると、すぐに手応えがあった。
俺が寝かされているベビーベッドの四隅、木組みの継ぎ目を補強するために打ち込まれている、小さな鉄の鋲――無骨な『手打ち釘』だ。
(あった……! 【アイアン】、起動)
心の中で念じた瞬間、全身の血管をチリチリとした微弱な電流が駆け抜けた。
その直後、俺の脳内に凄まじい情報量が雪崩れ込んできた。
(――なっ……!?)
ただ「鉄がそこにある」と分かるだけではない。
釘の形状、質量、表面を覆う酸化被膜(黒皮)のザラつき。
それどころか、結晶粒界の隙間に散らばる炭素原子の配置、叩いて鍛えられた際に生じた内部応力の歪み、不純物として混ざり込んだわずかな硫黄やケイ素の比率まで、まるで電子顕微鏡で覗き込んだかのように『視覚的』かつ『触覚的』に把握できたのだ。
(嘘だろ……? これ、念動力なんてもんじゃない。「鉄」という物質そのものを、原子レベルで知覚・干渉できる権能だぞ……!)
試しに、柵の角にある一本の釘へ意識を向け、「抜けろ」と命じてみる。
ギチ、と木が軋む音がして、頭部が五ミリほどスッと浮き上がった。
今度は「戻れ」と念じる。釘は何の抵抗もなく元の深さまで滑らかに吸い込まれた。
熱も騒音もなしに、木材の繊維を一切傷つけることなく鉄を抜き差しできる。
それだけではない。釘の内部の炭素分子をほんの少し揺らすイメージを持つと、チチッと青白い火花が散り、鉄の硬度が劇的に跳ね上がった。
(……とんでもねぇぞ、これ。炭素量の配合比率を頭でイメージするだけで、ただの生鉄を『炭素鋼』に変造できる。これなら炉もハンマーもなしで、常温のままあらゆる特殊鋼を作り出せるんじゃないか……!?)
前世の鉄鋼マンとしての血が、ドクドクと沸き立つ。
ハズレスキルどころか、冶金工学の知識を持つ人間にとっては神の領域の万能ツールだ。
その時だった。
ドス、ドス、ドス、と床を激しく揺らす大足の足音が響いてきた。
「ガッハッハ! リオス、今日も元気かァ! 父さんの可愛い一人息子よォッ!」
部屋の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、丸太のような腕と分厚い胸板を持つ大男――我が父、ガリン・クルセイダーである。
元S級冒険者の大剣使いであり、引退して辺境ララサ村の自警団リーダーを務めるこの男は、部屋に入ってくるなり無精髭の顔を俺のベビーベッドへ突っ込んできた。
「うーん、今日も実に凛々しい顔立ちだ! 生まれた瞬間にあの凄まじい産声を上げただけはある! 将来は間違いなく大陸一の大剣使いになるぞ!」
(いや、俺は大剣なんてぶん回す気はねぇよ。目指すのは完全無欠の安全圏で暮らすスローライフだっつーの)
親バカ全開でデレデレと頬を寄せてくる父を、俺は短い手でペシペシと押し返す。
だが、その時、俺の視線はある一点に吸い寄せられた。
ガリンが腰に巻いている、分厚い革の装備ベルト。
それを前でガッチリと留めているのは、手のひら大の無骨な『鉄製のバックル』だった。
(……動く標的に対する、遠隔での精密干渉テスト。実験体としては最高だな)
俺は心の中で親父に手を合わせつつ、その鉄製バックルに【アイアン】の照準を合わせた。
内部構造をスキャンする。
留め具のピン、スプリング代わりの板バネ、噛み合いの爪。
ほんの少し爪の角度を寝かせ、ピンを右へ二ミリ動かせば――。
カチャリ。
金属の乾いた小さな作動音が響いた。
「ん? なんの音――」
ガリンが首を傾げた、その刹那。
スルン、と摩擦を失った頑丈なズボンが、重力に従って見事な滑らかさで一気に足首まで滑り落ちた。
露わになる、鍛え抜かれすぎた筋骨隆々の太ももと、赤白のド派手なトランクス一枚の下半身。
「……え?」
「……あぶー」
時が止まった。
何が起きたのか理解できず、間抜けな顔で固まる元S級戦士。
そして、最悪のタイミングとは常に正確に訪れるものである。
ギィ……と控えめに扉が開き、湯気を立てるスープ皿を乗せたお盆を手にした母・アリアが入ってきた。
金髪の美しい元S級僧侶は、下半身を丸出しにして赤ん坊のベッドの前に立つ夫の姿を視界に捉えた瞬間、その聖母のような微笑みをフッと消し去った。
「……」
「……」
部屋の室温が、一瞬でマイナス四十度まで急降下する。
「……まぁ、あなたったら」
アリアの口から紡ぎ出されたのは、氷河の底から響いてくるような絶対零度の声だった。
「物心もつかない我が子の前で、いきなりズボンを下ろして何をしているのかしら? とうとう脳の筋肉が腐敗して、新しい露出の性癖でも開花したの?」
「ち、違うんだアリアァァァッ!!」
ガリンは顔を真っ赤にして裏返った悲鳴を上げ、慌ててズボンを両手で引き上げた。
「信じてくれ! 急にベルトの留め具がひとりでに外れたんだ! 俺が自分の意思で脱いだわけじゃない! 本当だ、誓ってもいい!!」
「言い訳は見苦しいわよ、ガリン。元S級の闘気使いが、自分の装備の緩みにも気づかないなんて情けないにも程があるわ。……リオス、こんな破廉恥なお父さんの姿、見ちゃダメよ?」
「あうー(完璧に決まったな)」
アリアの軽蔑に満ちた冷たい眼差しに貫かれ、かつて巨大魔獣を素手で引き裂いた英雄は、部屋の隅で小さく丸くなってブルブルと震えていた。
精密操作の成功と、父親の社会的な威厳の失墜。
俺は心の中でガッツポーズを決め、実験の成功を噛み締めたのだった。
* * *
だが――俺の受難は、ここからが本番だった。
「さあリオス、ご飯の時間よ。今日もいっぱい食べて、強い子になりましょうね」
アリアは気を取り直したように極上の笑みを浮かべ、木のスプーンを俺の口元へ運んできた。
そこに盛られていたのは、ドス黒い赤紫色をした、湯気と共に明らかに危険な芳香を放つ謎のペーストだった。
(……待て。なんだその禍々しい物体は。離乳食ってのはもっとこう、すりつぶしたリンゴとかおかゆ的なサムシングだろ!?)
本能的な危機感を覚えて身を引こうとするが、アリアは愛おしそうに解説を始めた。
「今朝、お父さんが裏の火山帯で狩ってきてくれた『火竜』の新鮮な肝の裏ごしよ。つなぎに『ギガントボアの濃縮骨髄スープ』をたっぷり混ぜてあるから、滋養強壮には最高よ」
(死ぬわ!! 生後数ヶ月の赤ん坊にドラゴン食わせる親がどこの世界にいるんだよバカ野郎ッ!!)
地球の成人男性ですら一口食えば鼻血を噴いて卒倒しそうな超濃縮生体エネルギーの塊である。
口を真一文字に結んで拒絶しようとしたが、アリアの指先が優しく顎に触れた瞬間、抗う間もなくスプーンが口内へと滑り込んできた。
むにゅっ、と濃厚すぎる脂と鉄分と魔力の味が広がる。
(ぐわああああああっっ!? 胃袋が燃える! 内臓が破裂するぅぅぅぅっ!!)
悲鳴を上げようとした、その刹那だった。
「聖なる慈愛の光よ、健やかなる命を満たせ――【パーフェクト・ヒール】」
アリアの両手から、視界を焼き尽くすほどの神聖な黄金の光が迸った。
教会の高位司祭すら一生に数回しか使えないと言われる、国家指定級の最上級回復魔法である。
ボフンッ!!と室内のカーテンが衝撃波で揺れる。
瞬間、ドラゴンの肝によって焼き切れそうになっていた俺の消化器官が、信じられない速度で瞬時に修復・再生・強化されていくのが分かった。
(な、なんだこれ……!?)
超高濃度の栄養素が、過剰出力の回復魔法によって無理やり全身の細胞へ吸収されていく。
筋肉繊維が太くなり、骨密度が圧縮され、血液中の酸素運搬能力が跳ね上がる。
細胞分裂の超加速。
通常なら何年もかけて成長するはずの基礎身体能力が、強制的にバキバキに仕立て上げられていく感覚だ。
「ふふ、よく食べたわね、偉いわリオス。このまま毎日続ければ、三歳になる頃にはドラゴンの皮より頑丈な骨格が出来上がるはずよ」
「うむ! 俺の肉体とアリアの治癒力、二人の長所を完璧に受け継いだ最強の赤ん坊だな!」
正座から復活したガリンが、嬉しそうに剛腕を振り回して同調する。
(愛が……! 元S級冒険者の親の愛が重すぎる……!!)
毎日の食事で内臓を破壊され、それを毎日の神級ヒールで即座に限界突破修復されるマッチョ育成サイクル。
この調子で育てば、俺は将来、筋肉モリモリのバーサーカーになってしまうのではないかという恐怖が背筋を走った。
だが――。
ベッドに横たわり、満腹感と異常な細胞活性の心地よい疲労に包まれる中、俺の思考は冷徹な現実へと回帰していった。
(……いや、待てよ)
自分のむちむちの手を握りしめる。
見た目は頼りない赤ん坊の手だが、内側にはすでに常人を遥かに凌駕する生体エネルギーと魔力が満ち満ちている。
魔力が増えれば、それだけスキルの出力も持続時間も跳ね上がるはずだ。
そして、先ほど確信した【アイアン】の真価。
鉄の分子配列を操り、炭素量を制御し、あらゆる鋼を生み出す能力。
(この規格外の両親の元で、下手に目立てばどうなる……?)
父さんは間違いなく俺を大剣使いの戦士として最前線へ送り出そうとするだろう。
そして、もし俺の創り出す鋼が常識外れだと帝国に知られれば、「歩く兵器工場」として国家に徴用され、一生地下で剣を打たされる奴隷になりかねない。
(冗談じゃない。俺は二度目の人生で、誰かの駒になって死ぬ気なんてサラサラないんだよ)
俺が欲しいのは、平穏で自由なスローライフだ。
そのためには、徹底的に『無能』を装い、目立たず、裏方に徹する必要がある。
だが、ただ隠れるだけじゃない。
万が一、俺や俺の平穏を理不尽に脅かす外敵が現れたとき――安全圏から、誰にも気づかれずに物理で叩き潰せるだけの『圧倒的な力』を、この裏側で秘密裏に完成させておく。
(まずは、この肉体をしっかり育て上げること。そして……3歳になれば行われるはずの『スキル鑑定』を、どうやって乗り切るかだな)
俺はベビーベッドの枠木に打ち込まれた鉄釘を、見えない魔力でゆっくりと、滑らかに回転させた。
元S級の遺伝子。
ドラゴンと神聖ヒールによるバケモノじみた肉体。
そして、前世から受け継いだ現代日本の鉄鋼知識。
すべてを欺き、世界の裏側から盤面を支配する『鋼鉄のフィクサー』への第一歩は、この小さなベビーベッドの闇の中から、静かに踏み出されていた。
読んでいただきありがとうございます。
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