第十話 「土砂降りの空」 chapter 12
「あの、君もしかして、怪我してるんじゃない? 大丈夫? 一応私、医師免許持ってるんだけど、救急車呼びましょうか?」
忌々しい狙撃手にどう反撃しようか画策しながら路地で座り込む黒猫は、不意に通りすがりの女から声を掛けられる。
この天気に傘一つ、ビジネスライクなカジュアルさが見て取れる服装と先の尖ったヒールで立つ女。その表情は困惑に満ちて、言葉通りに医師免許を持つその性が黒猫を捨て置けなくしたのかもしれない。
おずおずとと歩み寄ってくる女を見ながらも、其処に敵意や悪意は感じ取れなかった。しかし善良な一般市民の持つある種の正義感が、黒猫には無性に腹立たしくさえあった。
「ーー心配いらん。大丈夫や、放っとけ」
そんな言葉を聞いても尚、彼を無視して女は恐る恐る近付いてくる。世話焼きなのか彼女は肩に掛けたトートバッグに片手を入れて何かを取り出そうと弄っている。
深層心理の最奥、生物が等しく持つ本能的なセンサーが微かに反応するように感じた黒猫は発作的に懐からコルト・シングルを取り出した。その行動に確証はない。単純明快、只々目の前の女を敵と決め付けただけの行動である。
「私は医者です。お願いです、傷を負ってる貴方を助けたいだけなんです。信じて下さい」
銃口を向けられた女は、慈愛に満ちた表情で黒猫を慰めるように優しく語り掛けてくる。敵対者かどうかを見た印象だけで受け取るならば、数十分前に訪れたスナックの女と何ら変わらない。それでも彼は確固たる意志で彼女を拒絶したのだ。
「……おい、鞄に入れてる手ぇ出せや。何持ってんのか、ゆっくり俺に見せてみ」
黒猫は一切譲歩せず女に指示を出した。余計な事をすれば殺す、言葉にせずともそれは女に確実に伝わっている。
ゆったりとした動作で女はトートバッグから手を出す。その手にはしっかりと注射器が握られていた。透明な容器には並々と黄色い液体が注がれており、直感的にそれが危険物だと理解出来た。
「医者が怪我人相手に、取り敢えず注射するってか? 何が入ってんねん、それ」
黒猫は思わぬ角度からの収穫に内心驚きながらも、最大の警戒心で対応した結果に満足する。通りすがりの偶然居合わせただけの人間が注射器を持ち歩いている事も加味すれば、この女を敵と決め付けた事は間違いではなかった。
「興奮しておられるように見えたので、何て事はないリラックス出来るだけの注射ですよ。兎に角、落ち着いて話し合いませんか?」
女は表情を変えず訳の分からない言葉を並べた。医療行為自体の正誤には造詣も何も持ち合わせていないが、その事に違和感を覚えない程のお人好しであればそもそもやくざ者として生きてはいけない。
「しょーもないパチこくなや。ほならその注射、我がで打ってみろ。リラックスすんのはお前の方や、誰も助けてくれなんか言うてへんねん」
壁を支えに立ち上がりながらも黒猫は女から目を離さずにいた。女の言う説明が正しいのであれば、彼の要求はいとも容易い事である。
コルト・シングルを向けたまま黒猫は女へ詰め寄る。視線と視線が交差する。彼女はそれ以上何も言わず黙り込んだ。
「ーー何や、医者言うたんも嘘か? 注射ぐらいアホでも出来るやろ、知らんけど。怖いんやったら俺がやったるわ」
黒猫は強引に注射器を奪い取ると彼女の背後に回って、片手で乱雑に黄色い液体が入ったそれを柔肌の腕に突き刺す。
その瞬間、女は苦悶の表情を浮かべながら黒猫へ襲い掛かる。その姿は大凡医者より暗殺者の方が向いていると思える程に洗練された動きである。更に彼女は射線を切るような無駄のない体捌きでコルト・シングルを奪い取ろうと格闘スキルを見せ付ける。
細腕の女とは思えない肉弾戦の冴えを走らせるも、対峙する黒猫とて伊達に山田組と戦って生き残っている訳ではない。油断を誘うように人畜無害な一般人に成り済ましていようと、周り全てを敵とさえ思って生きている彼にはまるで通用しない。何より遠距離狙撃を受けた時点で警戒心は天井を突き抜けていた。
「女軍人ってとこか、山田組よりよっぽど強いやないか。まぁこれでお前も死ぬんやけどな」
回避も防御も捨て黒猫は女の首を鷲掴みにして、路地の壁へと力尽くに叩き付けた。注射器ではなく、もっと即効性のある武器を使われていればどうなっていたか分からない。最初から選択肢を誤っていた彼女に最早生き残る目は訪れない。
「……子供の癖に、どうしてこう強いんだか。負けました、さっさと殺してください」
女は暫く捥がいてから諦めたような表情で負けを認めた。銃口を静かに見つめて死を受け入れる。潔い生き様は山田組にこそ見習わせるべきであった。
「おい、何を眠たい事抜かしとんねん。世の中の道理が分からん訳やないやろ? 簡単に死ねる思うなよ」
軍属を退いて傭兵に落ちぶれた彼女は、待ち受ける凄惨な末路を予期して生唾を飲み込む。軍人になると腹に決めた時から、殺し殺される運命に身を委ねた人生が始まる。女である自身にはそれでなくとも数え切れない多くの脅威が世に蔓延っているのだ。
見掛けは少年でも、本質が男である事に違いはない。彼がどんな要求をしてくるのか、彼女は聞く前から手に取るように分かった。欲望に従順な人間の願いは大抵想像に易い。
「ーー何がお望みですか? 貴方の喜びそうな事なら、何でも出来ますけど」
首元の紐を解くと女は徐に濡れたブラウスを脱ぎ捨てて、更にキャミソールも捲し上げながら黒猫に問い掛ける。こんな事の為に体を鍛えた訳ではなかったが、死と負けを認めた以上はもう致し方なかった。
「アホか、服脱いで何するつもりやねん? お前ら、山田組に雇われたんやろ? 知ってる限りの情報全部吐かんかい」
まるで汚い物でも見るような蔑んだ目で、目の前の少年は自身の腕を掴む。思わぬ反応に女は思考が堪らず停止した。度を超えた失礼さはこの際差し引いても、陵辱の限りを想像していた自身が今になって急速に恥ずかしく思えてくる。
女の脳内では最初から命乞いなど毛程も頭になかったが、敗者の摂理に従って黒猫の要求を飲むしかなかった。知り得る限りの情報を喋り尽くすと、更に驚くべき事が起こる。
あっさりと拘束を解いた黒猫は無防備に背中を向けて路地の奥へと歩き出した。慰み物にするでもなくその上殺すでもなく、余りにも愚かな行動に思えた。
「敵を殺さず生かして帰すつもりですか? まさか、女は殺せないとでも言うつもりなんですか?」
女は弱肉強食の社会で必死に自身の有用性を示し続けて今日まで生きてきた。それら全ての道程を嘲弄された気分になって、少しの怒りを滲ませて決して大きくはない背中に鋭い言葉を放つ。
「あぁ? 殺してくれて頼むような奴に興味ないねん。死にたいんやったら勝手に死ね。こっちも仕事や、殺して欲しかったら先に金払わんかい」
黒猫は煙草に火を点けて、肩越しに女を睨み付けるとそのまま振り向きもせずに去っていった。理解しようもないその行動原理に、女は呆れつつ壁に凭れ掛かって空を見上げた。




