第十話 「土砂降りの空」 chapter 11
軽く雨宿りがてら体を休ませるつもりだった黒猫は気付けば一時間も飲み耽っている事に気付いて漸く重い腰を上げた。彼の悪い癖が存分に発揮されていた。
「ーー瓶毎買い取りたいんやけど、いけるか?」
グラスに残ったビールを飲み干して、更に腹ごなしにきんきんに冷えたメキシカンビールを注文する。山田組との抗争中でなければ後数時間は飲んでいられた程度には黒猫の食指に見合ったスナックであった。
帰り際に女からハグを求められて嫌々応じた後、薄暗いビルから気持ちを切り替えて進む。嘸かし無駄な捜索を続けたであろう山田組の男達を尻目に、黒猫は近所をぷらぷら飲み歩くように気軽に侵入したビルの正面から外に出た。
雲は相も変わらず空を覆い尽くし、少しばかり暗くなっただけで粛々と雨は降り続けている。
突発的な銃撃戦を経て、途端に姿を眩ませたターゲットを探して近藤は執念深く路地裏を練り歩いていた。その間も至近距離で身辺警護を続ける舎弟を宥めて、彼は更にその捜索範囲を広げていく。
「あのガキ、何処に行きやがったんだ? まさか逃げたりしてねぇだろうな」
恨み節と共に吐き捨てるように呟いて路地を抜けて通りに出る。川のように水で溢れた道に今更ながら彼は煩わしさが募った。最早全身を濡らした今になっても悪路を歩く事にさえ辟易していると、追い求めていたターゲットが通りを曲がって歩き去る姿を確認した。
「ーーあいつだ! ぶっ殺してやる!」
近藤は跳ね上がる水にも構わず獲物を見つけた獣のように走り出す。隣を並行する舎弟はトカレフを片手に攻撃態勢に入る。
角の手前で足を止めて、一呼吸置いてから舎弟が身を乗り出した。発砲はせず横目で訴えるような視線を受けて、近藤も角から通りの様子を垣間見る。
ショーウィンドウが並ぶ通りは今日の天気の所為か人通りはなかった。至極当然、こんな日に買い物も何もない。開店休業の店々に険しいばかりの視線を巡らせながら、近藤は必死に黒猫を探す。
「危なーー」
舎弟は突如叫びながら近藤に覆い被さるように翻って、言葉の続きはガラスが割れる豪快な音に掻き消された。
ほんの少し前。通りの角を曲がろうとしてすぐ、追っ手の声を聞いて黒猫はガラス張りの洋服店に身を隠した。店員の女が送る迷惑そうな視線を物ともせず、色取り取りの服が掛けられたハンガーラック越しに通りの様子を覗く。
二人組の男がほんの少し油断したのを見計らって、黒猫はバッグから虎徹を抜き放つ。ショーウィンドウへマネキンを全力で投げ付けて、そのまま男達へ斬り掛かる。
ガラス片を浴びて反射的に防御に回った相手を黒猫は一方的に撫で切りにした。手下は余程訓練されているのか、片方の男を守ろうと黒猫に背中を向けていた。虎徹を前にそれは大した意味を為さないが、その心意気だけは同じやくざ者としても評価に値するのかもしれない。
綺麗に両断とはいかないまでも、二人に致命の一撃を与えた。その上で黒猫は容赦なく自身を睨み付ける男の額に虎徹を突き刺した。抱き合うような死体は忽ち鮮血に溢れて、遅れて事態の深刻さに追い付いた洋服屋店員の悲鳴が通りに轟く。戦いに巻き込まれた女はその場で蹲る事しか出来ない。
呆気ない最期を確認せず血と雨に塗れた刃を振り払ってから、床に腰砕けになった店員を無視してバッグを取りに戻った。余りにも無機質なその相貌を前に、呼吸さえ忘れて只々後退る。
「ーーおい、姉ちゃん。文句は山田組に言うてくれ。大体全部、あいつらが悪いんや」
何事もなかったように黒猫は言うと荒れた店内からそそくさと去っていく。損害賠償を請求された時の言い逃れと彼女に予め釘を刺す意味合いで、言う事はきっちりと言っておかなければならない。
一仕事終えた記念に先程のメキシカンビールを開けて、依然先の長い戦いに備える。まだまだ山田組は何処にいるかその全てを把握し切れない。取り敢えずの追っ手は退けた。新たな事務所へと向けて、彼の足は止まらなかった。
雨に紛れて音もなく、左肩を叩かれたような感覚だけを不意に感じる。何気なく触れたその右手が真っ赤に染め上がったのを見て、黒猫は即座に通りから路地へ転がり込む。
油断はしていなかった。発砲音もなく肩を射抜かれたのだ。一介のやくざ者を相手にしている事とそれは、余りにも不自然に思えた。これまでの山田組との争いの中で経験した彼らのスキルは、あくまで喧嘩の域を出ない物である。
長距離狙撃にはそれこそ軍人のような、日々訓練によって齎される本物にしか出来ない技術が求められる。少なくとも山田組という組織に属する人間がそんな芸当をやってのけるとは到底思えない。
背中の火傷や腕の傷をアルコールで紛らわせていた中で、肩に被弾してしまった黒猫は路地に座り込んで敵の出方を窺う。銀猫が忠告していた事の意味を今更理解して、それでも尚彼はその闘志を燃やし続けていた。
雨に晒されたビルの屋上で単眼鏡を確認しながら男は大きな舌打ちを溢す。田舎くんだりのやくざ者同士の揉め事にしては破格の報酬に、余裕綽々でターゲットを待ち続けていた彼は不覚にも殺し損ねてしまった。
元軍属の傭兵崩れとは言え、この失敗は人生の汚点に成り得る。彼の今現在の生業であるスナイパーにとって一撃の重みは命と同価値、外したからもう一度と簡単に割り切れる物ではない。
只々仕事として任務を遂行するにしても、彼にはどうしても譲れないプライドがあった。例え他人から無意味に思われても貫き通したい流儀を忘れては、生きながらにして死んでいる事と変わらないのだ。
「……ターゲットに被弾。急所は外した」
携帯端末を繋げたままの雇い主に淡々と報告して反応を待つ。内心逸る鼓動を落ち着かせるように雨は彼を打ち付ける。
少年一人殺す為に準備された包囲網は分厚い。手柄を取り損なった男は、努めて冷静に状況を観察していた。




