幕間 「戦争が変えた世界」 chapter 2
昼間はあれ程透き通っていた青空が夕暮れと共にどす黒い空に覆われてしまった。雨を溜め込んだように蠢く空は間もなく雨を降らして、静かな夜は少しの喧騒に包まれる。
「……柄にもなく舞い上がってしまいますね。こんなに麗しいお嬢さんに見守られながら眠れるとは、男として最高の終わり方ではないですか。退屈させてしまっているでしょう? いやはや本当に申し訳ない」
白猫の介助もなく男は車椅子を操作して、そのままベッドで横になった。彼女はあくまで話し相手として、そして穏やかな死を齎す送り人として其処にいるだけである。
車椅子での生活は想像を遥かに超えて悠々自適に感じられる。朝起きてから夜眠るまで、一切誰の手助けも必要としていないのだ。
「朝まで話したって私は構いませんよ。貴方が眠るまでこの場で見ていますから」
白猫は勧められた木製の椅子に腰掛けて、遠慮した筈がいつの間にか用意されていた温かいミルクティーに口を付けて言葉を返す。
「ーーアンドロイドはね、人間が生きる為に様々なサポートをしてくれます。脳からの電気信号を受け取って、衰えた力すら補えるのです。機能を失った内臓だって交換は必要ですが代替品としては充分に働きます。多くの人々にとって、それは希望だったのです」
男はふと真面目な顔になると、懺悔でもするように自身の歩んできた道程とその中で培った知識を白猫に伝える。
彼の為してきた仕事は現実問題として人々を救ってきた。しかしそれが本当の意味で救いになっていない部分からは目を逸らして生きていた。忙しさの中で蔑ろにして、振り返るには膨大過ぎる量の人生を前に足腰すらも立たなくなっていた。
「アンドロイドは事実上、永遠の命すら与えてしまうのです。それには国家規模のお金が必要になりますが、記憶をバックアップして、脳の提供さえ受けられれば不死身にすらなれてしまうんです。これを素晴らしい科学の発達と取るか、見窄らしい強欲な執念と取るかは人それぞれかもしれませんね」
事実上と前置きした上で、男は途方もない話を繰り広げる。アンドロイド化施術には大金が必要で、細かなメンテナンスは日々欠かせない。優れていようとも同じ物をずっと使い続ける事は不可能で、今日の科学技術をもってしても脳だけは替えが効かない。一部をアンドロイド化する事は出来ても、それだけでは生きる事すら難しいのである。加えて脳が衰えた時には新しく脳を移植する他に手段はなく、それこそそんな代物が簡単に手に入る物ではなかった。
技術的には実現可能な不老不死も、それを成せるのは極々限られた存在にしか許されない。果たして科学の発達が人間にどれ程の栄華を与えてくれるのか。男は近くで話を聞いている少女に、目を向けて深く自問自答した。
「科学の発展は、戦争の歴史だと言われます。悲しい事に、人を殺す為に研究された技術が時に命を救う技術にも転用される事だってあります。私が磨き上げた技術も元を辿れば、誰かを殺す為に編み出されたのかもしれませんね」
暗い室内の中空を見詰めて、男は静かな声を発する。雨垂れが孤城に響いて、遠くに聞こえた雨音が活気付く。男の心情を映したような雨に、世界は侵食されていった。
「人はそれぞれの正義の中で、生きるしかありません。少なくとも貴方が気に病む事じゃないでしょう。職業柄私だって、ある誰かから見れば全く別の邪悪に見られる。他人からの評価は余り意味はないと思っています」
白猫は母親の顔を再び思い起こしながら、曲げないと誓った決意を改めて言葉にした。誰にでもなく自身に問い掛けるその言葉を胸に刻み込む。その意志は固く目指す先は長く遠い。
男を知る人間、引いては彼に生きていて欲しいと願う人間からすれば彼女は紛れもなく悪である。延命装置があればまだまだ余生を謳歌出来る人間をあろう事か終わりへと導くのだ。それぞれ物の見方が千差万別にあるのであれば、人間の志す正義は何億通りも分岐する。
「美しいですね、お嬢さんの心は。惚れ惚れしてしまいます。年甲斐もなくお恥ずかしい限りです。惜しむらくは最期に月でも眺めていたかった」
仄かな眠気を感じて、男は不意に窓の外を見る。月は厚い雲の影に隠れて、深い闇と雨音だけが窓辺にいた。
言葉にする程の後悔は彼の中にはなかった。死を間際にして子供のように我儘を言いたくなっただけなのかもしれない。隣に座る少女だけで、実に贅沢な終幕ではないか。幾度も思考は回り続けて、今更になって眠る事が惜しくなってきた。
それでも今日この日に死ねるならば何の間違いもなく本望である。彼女の手によって終わり、最後まで側にいてくれるだけでいい。長く生きて、病気と闘うでもなく寄り添って今まで生きてきた。
走馬灯が脳裏を過ぎる。腕を失い先の人生を絶望する青年に、日常を軽やかに生きる為の力を授けた。全ての傷と痛みを取り払える訳ではなくとも、涙を流して喜びを噛み締めるあの表情には胸が熱くなった。
しがない朴念仁な自身を好いて、面倒を見てくれていた年下の女性とは結婚を切り出す前に死に別れる事になる。緩やかに続いた幸福に溺れる内、変化を恐れて踏み出せなかった若き日の自身には呆れ果てるしかなかった。
医者としても男としても、中途半端な人生だったと思い至る。救った命を軽んじるつもりはなくとも、自らの身を顧みなかった生き方がそもそもの答えなのかもしれない。
「ーーおやすみなさい。いい夢を」
気の赴くまま話し続けた男は自然と眠りに落ちて、ふと気付けば穏やかな寝息を立てていた。人生の最期に何を考えていたのか。興味がなかった訳ではないが、あれこれと根掘り葉掘り聞くのも憚られる。白猫は仕事を全うする為にこの豪邸で男と過ごしていたのだ。
延命装置は車椅子から伸びて男の体と繋がっている。機械の操作板に触れて、教わった通りに電源を落とす手順をなぞる。繰り返し確認を求めるダイアログボックスに適切な返答をすると、無事にそれは動きを停止する。
危険を知らせるアラームが静かな室内に響く。男はその間も目を覚さない。彼の僅かな命は徐々に緩慢になり、やがて完全に死を迎える。
白猫は最後に死亡確認を取ると男の身形を整えて、静かに孤城を後にする。降り頻る雨に傘を差して、深い夜の闇を一人歩いた。
よく知らない世界の一端に触れて、彼女は世界の多様性を敏感に受け入れる。風が冷たい雨を巻き上げて、男の死を悼むように世界が泣いていた。




