第九話 「灰烟る追憶」 chapter 8
霧雨に霞む通りを歩いて、黒猫は傘も差さずに濡れた前髪を掻き上げた。口に咥えた煙草は滴る水滴の中、乏しい火種を懸命に燃やしていた。行き交う群衆は傘の分だけ横幅を大きく取り、只でさえ混み合う繁華街の動きを更に鈍らせている。
コンビニへ酒を買いに行くその瞬間、人工知能は傘を持っていくように提案していた。それを無視して外へ出たのはあくまでも黒猫である。それを棚に上げて彼は、近くのコンビニに置いてある筈のハイボールが売り切れており別のコンビニへと足を伸ばした事を後悔した。
濡れない場所で眺める雨は言葉で言い表せない情緒を持っていて不思議と彼も好んでいる。しかし体を濡らす雨を感じながらそれを楽しめる程心は広くない。
「ーーあんた、こんな雨の中何やってんの?」
人混みを煩わしく感じて、裏路地へ入ろうとした時目の前に突如として白猫が現れる。飾り気のないビニール傘を差した彼女は、無表情の中にも会いたくない顔馴染みを見るような心情を黒猫は感じ取った。
「コンビニ行くだけや。お前こそ何やねん? 仕事はない筈やろ」
既に火が消えた煙草を道端に弾き飛ばして、黒猫は白猫を一瞥だけして一瞬足を止めた。仕事以外のプライベートな時間まで反りの合わない人間と話す理由は特になかった。
「ボスから聞いた。山田組が動き始めてるって話なんでしょ。大人しく隠れてなさい」
数日前の銀猫との長い一夜を思い返して、面倒な気配を漂わせた白猫を置いてさっさと歩き出す。教育係である彼女には既に情報が筒抜けのようである。何故隠れる必要があるのか、彼には理解出来ない。
「何で俺があいつらの為に、行動を変えたらなあかんねん。向かってくる奴は片っ端から殺す。心配なんかせんでええわ」
追い縋るように着いてくる白猫を見ずに黒猫は歩みを進める。ビルの隙間を縫う裏路地は雨の影響を余り受けていない代わりに、纏わり付く湿度と溜め込まれた掃き溜めが相乗して独特の匂いで満たされていた。
「あんたって本当に馬鹿よね、態々張本人がその辺彷徨くなって話。思考回路がそもそもおかしいんじゃない? いい加減に、脳をアップデートさせなさい」
肩を掴んで白猫は前に回り込んだ。黒猫はその手を払って尚も立ちはだかる彼女を押し退けて進む。プライベートにまで口を出される謂れは最初からない。単にコンビニへ酒を買いに行くだけの事に何を躍起になっているのか、それを考える事すら煩わしかった。
「ごちゃごちゃ五月蝿い女や。酒買いに行くのに許可がいるんか? ガキと一緒にすなよ」
黙って睨み付ける彼女には目もくれず、彼は路地を突き進む。少し遠回りにはなるが、雨に濡れ続けるより心持ちは安らぐ。
薄暗く湿気った空気を掻き分けて目的地へ急ぐ。彼の好む物は悉く流通が乏しい。煙草にしろ酒にしろ、宅配サービスは取り揃えが悪い。趣味が尖り過ぎているのか、自ずから足を運んで買うしか選択肢がない事が多いのだ。
何が何でも心配したいのであれば白猫を顎で使えば満足するのかもしれない。そんな事が頭を過って、すぐに余計に手間が掛かるだけだと考えを改めた。
目的地のコンビニの前には人集りが出来ていた。店の出入りを妨げるような集団が遠目に確認出来て、黒猫は大きく舌打ちする。揉め事は他人の迷惑にならない所で勝手にやればいい。最低限のマナーすら弁えない連中に彼が取る手段は限られている。
「ーー吉澤さん、どうしちゃったんすか? その格好、オカマになったって噂マジモンだったんすねー!」
近寄る毎に集団の人相がはっきりと見えてきた。下卑た笑い声を上げて、集団に取り囲まれている人間に漸くピントが合う。
派手なメイクとサテンの艶やかなシャツを着た吉澤が柄の悪い集団に絡まれている。僅かながら見覚えを感じるが、誰一人としてその中から名前も顔も結び付かない。
「ーーおい、通行の邪魔や。殺すぞ」
屯する集団の最後尾の男の尻に回し蹴りを叩き込み、黒猫はコンビニの前で堂々と啖呵を切る。蹴られた男が振り向き様に彼を睨み付けて、その瞬間に表情が固まる。
「く、ろ……川さん。何でこんな所に」
固まる男を押し退けて、吉澤の近くにいた男が黒猫に歩み寄る。薄ぼんやりした記憶が徐々に晴れて、その男の顔を思い出しつつあった。しかし依然名前は出てこない。そもそも名前を知っていたかどうかさえ怪しいと思えた。
「俺が何しようと、お前に関係あるんか? 邪魔やって言うたの聞いてへんかったんか」
冷や汗を浮かべた表情の男の短い頭髪を鷲掴みにして、上背の差を強引に覆して同じ目線へ引き摺った。この時になって初めて、男の顔を完全に思い出す。やくざ者の真似事を吉澤一人に擦り付けて命乞いをしていた男、指を詰めろと指示したが結局それも成さないまま今に至る臆病者である。
「おい! すぐに道を開けろ! 黒川さんの言う事を聞け!」
男は顔を横に傾けたまま戸惑って硬直する集団に激を飛ばす。吉澤が中学生を辞めて、ホーネットの店で働いている間に新たなリーダーとなった事が窺える。
「相変わらずしょーもない連中や。頭すげ変わっても、やってる事のレベルは同じやんけ。なぁ、どう思うねん、吉澤」
黒猫は通路を確保すると男を解放して物のついでに前蹴りを食らわす。蹲る男には目もくれず、黙ったまま孤立する吉澤へすれ違い様に声を掛ける。
業を背負い続ける覚悟を決めた彼に、かつての手下達は面白く思っていない様子である。溜まった鬱憤を晴らすサンドバッグになっている事に、当事者は何をどう思うのか少しだけ興味が湧いた。
苦悶の表情のみで吉澤は何も言わず、コンビニの前から走り去っていく。黒猫はすぐに食指が本来の目的に向いて、その後ろ姿を一瞥だけして酒の売り場へと歩いていく。
霧雨は白煙のように立ち込めて、遠くの景色を曇らせる。傘を差すかどうか迷う程に線引きは難しい。目当てのハイボール缶を見つけて、黒猫は並べられた在庫全てを買い占めて帰路に着く。両手に提げたビニール袋は妙に重かった。




