第九話 「灰烟る追憶」 chapter 4
その日少年は一人、静けさが支配する病室で目を覚ます。薬品の匂いに曲がりそうな鼻と殺風景な白い天井、横目に見える窓ガラス越しの灰色の空からは音のない雨が降っていた。
柔らかなベッドに寝かされて、更に拘束された彼は僅かに残る記憶を頼りに白衣を着た柔和な顔立ちの男へと苛立ちを募らせる。
暴れたり行方不明にならないように、そんな文言で最初に目覚めた時からこの拘束は始まっていた。それさえなければ、彼はとっくに居心地の悪い場所から逃げ出していた。今尚精神の奥底からは警告を受けているような感覚で、柔らかなゴムのような呪縛から逃れようと精一杯踠いてみる。
体力が戻っていない今の少年には、ゴム製の布すら鎖と同等の効果を持っていた。
「ーーよぉ、トイレでも行きたいのか? 今ナースを呼んでやるよ、ちょっとだけ我慢してろ」
乱雑にスライドドアを開けた先で少年が体を捩らせている姿を見て、銀猫は直感的に廊下を見渡して手の空いている人間を探す。
複数の医師が政府の認可を得ずに共同経営するこの病院も、入院患者のケアだけは担当の垣根を超えてそれぞれが協力し合う。銀猫の立場は只の出資者の一人でしかないが、大体の人間は既に顔見知りである。直接の部下は青龍一人で、後メンバーは仕事上の繋がりも何もなかった。
「……お前、誰や? 何処やねん此処? 俺をどうするつもりや」
縛られ寝かされたままで銀猫を睨み付けて、少年は壊れたスピーカーのようにくぐもった声を上げる。それはまるでかつて死んだ息子そのままの顔で、時の流れに置いていかれたままの姿で。
人間ベースのアンドロイド、青龍の言葉が頭の片隅に重く滞る。どう歪曲してその顔を眺めたとしても、無愛想な子供が精々で普通に生きて成長して、それなりの人生をそれなりに送る一般人にしか見えない。
「……俺は銀猫って呼ばれてる。訳ありでな、通り名とか渾名みたいなもんだ。此処は病院だ、前にも言ったがビビらなくても取って食いやしねぇ。お前は今、体に相当な負担が掛かってるらしい。黙って大人しく寝てろ」
見舞い客の為の作りの安い椅子に銀猫はどっしりと座り込み、殺気を垂れ流す少年の横で内心をひた隠しにしながらも馴れ馴れしく話し掛ける。
顔貌はそっくりでも雰囲気だけはまるで違う。虫一匹すら殺せもしない引っ込み思案で、自身とは打って変わって有り余る優しさに溢れていた。当たり前である、同一人物である筈がない。目元の印象や耳の形、睫毛の生え方と黒く艶のある猫っ毛。忘れようととしても、忘れられないあの頃の記憶が波濤のように押し寄せてくる。
「質問には答えた、今度は俺の番だ。お前は誰で何処から来た? 何があったら、お前みたいなガキが命を狙われるんだ?」
荒波が騒めく心を表面上だけ整理して、銀猫は目の前に横たわる少年の正体を訊ねる。記憶喪失と知っていても、それを止める事は出来なかった。
「……そんなもん、こっちが聞きたいぐらいや。こんな事されたって、何も変わらんぞ。さっさと解放せぇや」
少年は依然衰えない敵意を向けて、銀猫の質問に正々堂々と悪態を付いた。話せば話す程に、記憶の中の姿とは似て非なる存在だと思い知らされる。安堵と不安が混ざり合って、形容し難い気持ちが満ちていく。
「ーーお前を捕まえてるつもりはないんだがな。ガキがまともに生きていくには、この町は如何せん環境が悪い。その上お前は命を狙われてる状況だ。逆に聞くが、この先どうしたいんだよ?」
銀猫は実力の伴わない少年の啖呵を同じく真っ向から叩き落とす。弱肉強食の世の中で生き抜くには、今の少年は余りにも弱い。襲撃者のみならず、そこら中に蔓延る悪意に容易く殺される程度の力しか彼にはなかった。
「……体が回復するまでは面倒見てやる、その間によくよく考えろよ。何も分からないまま、弱いまま生きていける、そんな世界なんて何処にもねぇんだ」
銀猫は反論する言葉を持たない中でも、依然として反骨精神を燃やして睨み返す少年へ捨て台詞を置いて病室を出た。
どうしていいのか、何をすればよかったのか。スライドドアが閉じる緩慢な動きが、荒れ狂う焦燥感と反比例していた。
それから一週間が過ぎると、少年は憔悴していた肉体と精神をみるみる回復させていった。誰の言う事も碌に聞かないものの、その病室を寝床としてだけは認識しているようだった。
「ーー偉そうに語ってたけど、お前はどんだけ強いんや?」
見舞いに来ては一言も言葉を交わさないまま何日も経過したその日、少年は心臓を鷲掴みにするような眼差しと声色で銀猫を深く動揺させた。
「ごちゃごちゃ五月蝿い奴を黙らせるくらいには強いぞ。それでも世の中には、まだまだ気に食わない奴で溢れてるけどな」
銀猫は取り繕うように悪人面を浮かべて、じっと見据える子供の顔と向かい合う。遠い面影が鮮烈に脳を刺して、表情が上手く作れているか途端に自信が持てなくなる。
少なくとももっと可愛げのある言葉だった筈である。遠いあの日にヒーローの存在を問うた息子は、今目の前の少年と同じ眼差しと声色で質問してきた。どんな答えをしたのか、今となってはもう思い出せない。適切な言葉が見つからず、有耶無耶にして取り合わなかったような記憶すらもある。
「……何や知らんけど、今のままよりは楽しめそうやな」
小さく溢すように少年は視線を外して窓の外を見ながら言う。銀猫はぶっきら棒なその横顔に、衝動的に手が伸びていたのだ。
黒い猫っ毛を矢鱈に撫で回して、嫌がる少年にも構わず銀猫は笑っていた。数日に渡って静かに降り続けた雨は何時の間にか止んでいた。
「よし、取り敢えず俺の下で働け。誰に文句を言われようと強くなれ、お前が生きる為にはそれしかない。先ずはそうだな……名前を考えてやろう」
一頻り笑った後に銀猫は少年に背を向けて、心を巣食う情けない迷いを振り払った。あの日死んだ息子と瓜二つな人間ベースのアンドロイドであろうとも、今を生きている少年には違った未来を垣間見てしまった。
やさぐれていた心が少しずつ解れていくように思えて、銀猫は病室を出て歩き出す。薄く蔓延る雨間の雲が、疎に開くと陽光が帯になって町を照らし出す。
荒れ狂う人生の道に、また一人のやくざ者が誕生した瞬間である。




