第八話 「居場所を求める者達」 chapter 9
凍える夜風に吹かれながら、男はすっかり遅くなった帰宅路を一人とぼとぼと足許も覚束ないまま歩く。少し無理をしてまで欲望を果たそうと大枚を叩いたが、その全ての思惑が予想に反して空回りした彼の懐は季節と同様に寒々としている。
狭い空から見上げる欠けた月が妙に輝いて見えて無性に腹立たしく感じた男は、慣れない舌打ちを溢して夜空を睨み付けた。人通りの少ない路地裏を最短で真っ直ぐに突き進めば自宅への近道になる。群衆の中を揉まれながら生きる人生に疲れた彼には、普段誰も通らないようなこんな道がオアシス或いは心のリセットボタンにさえ思えた。
毎日のルーティーンであるこの帰り道に、男は警戒心も忘れて前を見ずに只々歩いた。硬いアスファルトの感触は何時もと変わらず、革靴と擦れて身も心も削っていく。
足元の柔らかな感触に気付いた瞬間、男は背筋が凍り付いた。野太い呻き声が聞こえた。後悔が押し寄せて、どうやっても既に手遅れである事だけが理解出来た。
「ーーおい、おっさん! 人の足踏んどいて、詫びの一つもねぇのか?」
頬を赤らめて呂律の怪しい男は路地裏の行く手を遮った。体中からアルコールの匂いを漂わせる不穏な輩は、思考停止で固まる男にふらふらと掴み掛かる。
「何とか言えよ! てめぇの顔の汚ねぇパーツは飾りか?」
相手からされるがままに体は前後左右に振り回されて、事態は益々ヒートアップしていく。どうすればこの状況を脱せるのか、そればかりが思考を占有して肝心な言葉は何一つ出てこない。
鼻面に熱を感じて尻餅を着いた時になって、漸く相手に殴られた事を後から気付いた。生温い血の感覚が口元に垂れ落ちて、寄れたスーツに滴る様がやけに生々しく見える。
痛みは不思議と感じなかった。心だけは平静として、互いに痛み分けの状況を仕方がないと納得出来てしまった。
「何だ、その目は? てめぇから売ってきた喧嘩だろうが!」
興奮したまま収まり所を見失った悪漢は依然止まらなかった。抵抗せず只見上げていた男の顔は足蹴にされて、硬いアスファルトに後頭部を打ち付ける。世界が急速に回転したように、衝撃が体中を走り抜ける。
落ち着いていた筈の思考が徐々に加熱していく。この一撃の対価は男にとって不当な物である。痛み分けの理論上、その横暴を見過ごす事は出来なかった。
痛む体を心で振り絞って立ち上がる。先日のやくざ者の少年に完全に言い負かされたあの悔しさと自身の度胸のなさが、この瞬間の男を苛烈に燃え上がらせる。相手は酔っ払いで足取りすらも定かではない。武器も持っていない相手であれば、喧嘩慣れしていない彼でも何とかなるかもしれない。
戦う為の前準備は整った。争いを好む性格ではない彼にとって、大義名分は必要不可欠である。
「やる気か? 上等だ、俺も昔は、裏の格闘場で稼いでたんだ。生意気なおっさんを見ると、無性に殺したくなる」
不敵に笑いながらシャドーボクシングを披露する男に、一抹の不安を覚えながらも今更引き返せない衝動が彼の体を支配していた。
意外と体格に大きな差はない。格闘技の技術は相手に分があるとしても、酩酊した人間の言葉にどれ程の説得力があるのか。昔は凄かったと切り出す文言から始まる武勇伝の数々ならば、無能な上司との付き合いの場で散々と飽きるまで聞かされてきた。
覚悟を込めて男は全身全霊を込めて突貫する。顔を掠める硬い拳も腹に深々と入ってくるような膝蹴りも、痛みを堪えて芸のない只の突撃を仕掛ける。
大方の予想通り男を組み伏せる事に成功すると達成感に体が疼いた。思っていたより自身は喧嘩に強い、そんな感慨に酒を一滴も飲んでもいないのに何故か酔い痴れる。
マウントポジションを確保すると力の限りに暴れる男を太鼓でも叩くが如く殴り付けた。人間を殴るとこんなにも痛いのかと、まるで他人事のように思っていた。
「……くそ、調子に乗んなよ! おっさん」
渾身の拳槌打ちを顔面に振り下ろそうと腰が浮いた瞬間を、組み伏せられた男は見逃さなかった。膝蹴りが股間に命中して、一気に形勢は逆転する。馬乗りになって猛攻撃を仕掛けて、抵抗する相手を強引に捩じ伏せる。
ふと視界の端に脆くなって崩れた建物の残骸が目に付く。両者における力の差を知らしめる為ならば、男は何でもよかった。
弱肉強食の世界で卑怯な手段を使ってでも勝つ事は至極当然の権利である。勝った者だけが絶対的に、何より圧倒的に正しい。不変の摂理に男は蹲ったまま動かない男から離れて瓦礫を両手に抱えた。
「悪く思うなよ、命の奪り合いってのは残酷なもんだ。てめぇの弱さを恨みながら死ね、おっさん」
緩慢な動きで持ち上げた重量物を、重力を加算するように全身で投げ落とす。卵を割るように硬い骨がひしゃげる音と断末魔が小さく漏れて、完全に男は命を停止した。
寒空の下、急激に汗が噴き出す程の興奮を抱え切れず咆哮するように空を見上げる。月明かりに照らされた見ず知らずの男の顔は焦点も合わず虚空を眺めている。
物言わぬ死体へ勝利宣言すると男はふらついた足取りで路地裏から町へ歩き出した。飲み過ぎたアルコールの所為か若しくは何度も頭を打ち付けた所為か、体は重く前に上手く進めない。
立っているのか歩いているのか、それすら分からなくなった男はほんの数分前までと同じように路地裏のアスファルトへと力なく倒れ込んだ。
翌朝。時刻が深夜を回ってから降り出した雪に薄化粧された男の死体が二つ、町のとある路地裏で発見される。激しく争った末に殺し合いに発展したと予想されるネットニュースを見た吉澤は、勤務する店の近所で起こった物騒な事件に自身の行く末を重ねて少しだけ胸を痛めた。
昨晩の深酒ががんがんと頭を響かせて、そんな感慨もすぐに消えてしまう。身元すら分からない二人の人間の話題にまで、今の彼にはどうしようも出来ないのだ。
人間に唯一平等に与えられる物は死のみである。今この瞬間にも、世界の何処かでは絶えず死に溢れている。
些細なネットニュースは天気予報へと話題を変えて、暫くすると誰が興味を持っているのかさえ甚だ分からない星座占いを聞き流して彼は朝風呂に入る。疲れが溜まって取れない心身を湯船に深く浸かって温めながら、元気にしているかと孤児達の顔を思い出していた。
居場所はどんな人間にとっても必要である。罪を犯した人間も真っ当に生きている人間も、その点では何ら変わりはない。生きとし生けるものは、死のその瞬間まで等しくその原則から逃れられない。




