第七話 「凍雲に眠る」 chapter 8
軋む板張りの床は踏み抜きそうになる程に不安感を漂わせて、独特な木の香りがそれを助長するように場の空気を澱ませていた。冬の乾燥を物ともせず、湿度を含んだ纏わり付く風が頬を抜けた。
薄暗い廊下の隅には更に暗く不穏な闇を滲ませる階段が見える。礼拝堂から続く先はそこで打ち止めである。自ら八方塞がりの袋小路に逃げ込んだ辺り、本当に話し合いで何かしらの解決に至ると思っていた事が窺える。
何処までも愚かしく、弱者で居続ける事を愛の一言がまるで真理のように正当化している。深淵なる愛の集団は言葉通り本当の意味で塵一つ残さず焼き尽くして、因果も禍根もこの地諸共に消し去るしかない。
階段を降りて地下のフロアに立つ黒猫。一際狂おしい重みを持つ装飾に塗れた扉のノブを回して、その切っ掛けから足蹴に荒々しく地下室へ踏み込む。
途轍もない異臭に気付いた彼は咄嗟に口元を片手で覆い、闇の底に対して撃鉄を起こしてコルト・シングルを向ける。鼻を突く芳香剤とも殺虫剤とも取れるような匂いと血反吐のような鉄臭さ、それらが混ざり合って生まれる得体の知れなさは無性に胸糞が悪くなる。
「少年よ、我らが同胞は君に殺されるよりも、進んで自らの死を選択した。高潔なる死は、決して敗北ではありません。愛故に、等しく彼らは死すら受け入れたのです」
当主代行は声とは裏腹に涙を浮かべていた。闇より這い出したその姿は、黒猫には不気味にしか映らなかった。狂信者達の死体を前に、彼等を統べるその人物の戯言は留まる所を知らない。
「……お前ら、ほんま気色悪いねん。おっさん、これ、何の匂いや?」
黒猫は唾を吐き捨て、守る者もいなくなった神の代弁者にこの日最大級の殺意が沸き立っていく。一秒でも早くこの場を去りたい気持ちと、異質な匂いの正体を明かしたい疑問の板挟みになった。
「ーー此処は支部教会の貴重な史料の保管倉庫です。無闇に殺生を好まない我々も、歴史を守る為には防虫に気を遣わなければなりません。些細な物でも、人体にはそれが充分な毒になり得るのです」
黒猫の目を真っ直ぐ見つめる円な瞳は、涙を流してはいても何の感情も読み取らせない闇のそれに似ていた。自ら服毒する事と黒猫に殺害される事を天秤に掛けて、自ら前者を選ぶその精神性はどんな理屈を並べても彼には理解出来ない。
「しょーもない話や、お前らの話は。ずっとそうやねん、もうええ、一言も喋らんでええぞ。黙って死んどけや」
飽き飽きした表情で、黒猫は構えたコルト・シングルの引き金を引く。発砲音から少し遅れて、当主代行は額に風穴を開けて狂信者達の上に倒れ込んだ。惨憺たる景色へ瞬時に馴染んだそれは、血と涙に汚されながら暫く痙攣してやがて動きを止める。
仕事を終えて礼拝堂に戻ると、一斉に愛の信徒達の視線が黒猫へと突き刺さる。事の顛末を狂信者達はまるで見ていたかのように、その表情は嘆き悲しみに濡れていた。
「おい、ババア。死にたなかったらこの教会で溜め込んだ金、全部渡してもらおか」
熱の篭ったままの銃口を金切り声で喚いていた女に向けて、黒猫は本来の目的の為に彼女を脅迫する。小遣い稼ぎはどんな時でも優先順位が高くなるのだ。
「お金なんて……そんな物の為に、こんな事をしでかしたのか!?」
感情的に女は黒猫を睨み、置かれた状況も省みずに噛み付いた。そんな相手を一瞥すると、黒猫は女の隣で息も上がった男に銃口を移すと躊躇なく発砲した。
発狂した女の声は銃声に掻き消されて、支部教会に静けさが訪れる。
「……勘違いすなよ? お願いしてるんとちゃうねん、これは命令や。はいか、いいえで答えろ」
見せしめに黒猫は周囲の人間を睨み回す。現状息のある人間も依然多いが、それはあくまで彼の些細な気紛れに過ぎない。彼の目的に値しない人間を生かして帰す保証は最初からしていなかった。
「……私は只の、同胞の一人。信徒達が集めたお金を管理している訳じゃーー」
対話を漸く諦めた女は黒猫の要求に難色を示して弁解を図る。話の通じない彼女は、口を衝いて出た言い訳の言葉に再び後悔する事になる。
「ーー仏の顔も何とやら、て言うやろ。お前らのお仲間は、どいつもこいつもアホしかおらんのか?」
息絶えた男の更に隣で固まっていた男が弾丸を食らい、弾丸に貫かれる事に驚く間もなく死亡した。恰もそれが女の責任であるように、黒猫は傍の女を黙らせる。
遅過ぎる対応を見せたのは固まり動かなくなった女だけではなく、周りの信者達であった。最初から人質としての利用価値しか考えていなかった黒猫の意思はその時にやっとの事で伝播した。
「申し訳ない、分かった。我々の資金は全て渡す。頼む、これ以上の殺生はどうか。この通りだ」
乱闘に加わらず傷付いた同胞の看病に専念していた男は、縮こまりながら土下座して今になって黒猫へ命乞いをする。
地獄の沙汰も金次第。募金を強制するような一人の信者から始まったこの一悶着は、多くの人間の死と僅かばかりの金で一旦の終息を得る。揉みくちゃにされた上返り血を浴びた上着を軽く叩いて袖を通すと、黒猫は満腹感にも似た感慨で煙草に火を点けた。
「しゃーない、おっさんに免じて許したるわ。世の中、悪い事は出来へんもんやな、怖い怖い」
黒猫は礼拝堂の入り口を抜けて、支部教会の外へと歩み出た。凍れる空気に体が熱を求めて震えて、小庭の中央に集められた落ち葉からは乾いた音が奏でられた。
比喩としての意味で焼き尽くしてしまおうと思っていた黒猫は、寒さを緩和する為の至極真っ当な解決策に思い至る。
礼拝堂とは反対側に位置する出入り口には、詰所のような部屋が外からも窺えた。ガラス戸の向こうにレトロな石油ストーブを見つけて、お誂え向きに役者は徐々に揃っていく。それその物があれば当然のように燃料も蓄えている筈である。
ガラス戸を十字架のレリーフで叩き割り、土足で詰所に侵入する黒猫。周りを見渡してすぐに灯油タンクとガスバーナーを見つけると、その二つを小脇に抱えて外に出た。
落ち葉の山に灯油を撒いて、ガスバーナーでじっくりと落ち葉と灯油を温める。冬場の寒い環境で灯油はそうそう簡単には燃えないが、引火する温度にさえなればその危険度は極めて高い。
少しの猶予を持って落ち葉は勢いよく火を噴いた。駄目押しに咥えていた煙草を放り込み、原始的な暖房設備が完成する。凍えた体に救いを与えるような火の勢いは、その場のどれ程の愛よりも圧倒的に神に近しく思えた。
こんな宗教であれば、信じてもいいかもしれない。益体もない感想を込めて、黒猫はその炎を眺めていた。夏の暑さを思い出させるそれを前に、彼は懐かしさを感じながら体を安らげる。
吹き荒ぶ風すらも厭わず、赤く照らされた少年は仕事を終えた達成感に酔い痴れた。




