第六話 「翼を捥がれた鳥」 chapter 10
工場街の片隅。使用目的がなくなり人気のないガレージが並ぶ通りには、冷えた空気と青白い月の光とで淡く闇に沈む。
そんな閑散とした廃墟の中で鎖を引き摺る音が無遠慮に鳴り響く。耳障りな音も苦情を出す人間がいなければ交響楽団の演奏とさえ呼べる。
報復の為には打って付けな場所を用意していた事だけは認めるとして、何より気に入らない不満を昂らせた黒川は八つ当たり気味に目の前の存在を見据えた。
鉄筋剥き出しのフレームから簡易的に吊り下げた鎖に、吉澤は意識のない状態で繋がれている。顔に残る生々しい傷は彼の今までの所業を思えばまだまだ生温い。
黒川は呑気に眠り続ける吉澤に向かって、どれ程の月日を超えたか知れない雨垂れが溜まった茶色い水を盛大に掛ける。生身を痺れさせるような水に、吉澤は強制的に覚醒する。状況を理解出来ずに視線を彷徨わせる彼の目には、正面に立つ彼がそのまま死神同然に思えた。
「ーー気持ちよう寝てんちゃうぞ。自分の立場、ちゃんと分かってんのか?」
煙草を燻らせて汚物を見るような視線が吉澤に突き刺さる。下着しか身に付けていない上に掛けられた水が相俟って、死の恐怖にも似た戦慄に生傷だらけの体が震える。
「……只でさえ埃臭いのに煙草まで吸われたら環境最悪じゃない。外で吸ってきなさい」
白い肌に人形のような整った顔立ちの少女に、吉澤は最早何事かも理解出来なくなる。自身の通っている学校の制服を着ていても、全く知らない人間が其処にいた。
彼にとって学校は何でも思い通りになる猿山であり、手下でなくとも逆らう人間はいなかった。教職員には猫被りと成績で、生徒達には後ろ盾と暴力で全てを牛耳っていたのだ。
「気に入らんねやったら、お前が出ていけや。力仕事だけ俺に振りよって、何が俺には任せておかれへんやねん」
不満たらたらの黒川は、吉澤にとって意外でしかない。自身の威光を歯牙にも掛けない存在を、更に顎で使う少女が末恐ろしかった。
「無駄に騒がしく暴れるぐらいなら、最初から私の手伝いでもしてなさいよ。校長の要望は守れって言ったの忘れたの?」
口喧嘩の応酬は延々と続き、放置されたままの吉澤は次第に自身が危機的状況にある事を理解していく。時既に遅い彼の自覚もお構いなしで、二人の小競り合いは徐々に熱を帯びる。
「お、待、た、せー、シロちゃん。やだ、あんた可愛くなったんじゃない? 最近全然遊びに来てくれないから、私心配してたのよ」
突如現れた筋骨隆々な肉体と女と言われても信じてしまう程の整った顔立ちの男が白井に抱き着いた。場の空気を全て掻っ攫う彼の存在感に、二人の口喧嘩は強制的に打ち止められる。
「ホーちゃんこそ、美しさが突き抜けてる。ちょっと色々あってさ、今日は急でごめんね」
普段の彼女からは考えられない程に、白井は随分と楽しそうである。姦しい会話に花が咲く中、黒川に気付いた男が目の色を変える。
「シロちゃん、この子が例の黒猫ちゃん? 待って、やだ、ちょっと。どストライクなんですけど。あんたにも負けないくらい可愛いじゃない!」
口元を隠して丸聞こえの声量で耳打ちする男に、黒川は面食らう。浮世離れした存在から久々に呼ばれた自身の名をやけに懐かしく感じた。
「おい、何する気やねん? 井戸端会議でもする気なんか」
寒そうな表情で震える吉澤に吸い終えた煙草を弾き飛ばして、黒川は状況説明を求めた。目線だけで圧力を感じる程の男の息遣いに危険な香りを嗅ぎ取る。
「クイーン・ホーネット・オブ・マリアでぇーす。両性具有の超絶新人類で、シロちゃんのマブダチやらしてもらってます! クロちゃんて呼ばせてもらうね!」
暑苦しい身振り手振りで、何とも言えない自己紹介が終わる。芸名なのか源氏名なのか、彼には理解が及ばなかった。
「ーーそこに吊るしてる奴、最低最悪のゴミ屑野郎なの。ホーちゃん好みの顔だと思って、お仕置きしてあげて欲しいんだけど。お得意のあれでね」
白井の淡々とした説明を受けて、ホーネットの顔は嗜虐性に満ちていく。男女の垣根を超越した究極の生命体を自称するその人物の本質は、マゾスティックとサディスティックの両立である。
「あんなキラキラした王子様みたいな子がねぇ、世も末だわ。クロちゃんの方が闇が深そうだし唆られるけど、今日の所は王子様で我慢する。仕方ないからね」
彼もとい彼女の熱い投げキッスとウィンクが黒川に投げられて、爛々と艶めく足取りでホーネットは吉澤へと迫る。
上半身に女を、下半身に男を備える両性具有。心も体も二面性を持ち合わせて、どんな相手も簡単に調教と開発で更生させてしまうホーネットは吉澤にとって特効薬となる存在かもしれない。
虐げるばかりの彼のこれまでの人生は、今日この日から全てを根本から塗り替えられていく。抵抗の余地がないまま感情に伴わない体の反応に、彼の中を歪に形成していた人格は斯くも容易く蹂躙されていく。
「しょーもない終わり方やな、ほんまにこんなんで済ますんか?」
黒川は快楽すら滲ませるような吉澤の絶叫を聞いて、煮え切らない感情を持て余す。相手が一般人でありかつ中学生という事を差し引いても、こんな顛末には不完全燃焼と言う他ない。
「石川さん達の願いを聞いてあげてるだけよ。私だってこんな奴、生かしておく必要性は感じない。それにーー」
白井は不貞腐れる黒川の肩を軽く叩くと、ホーネットに哀れな羊を託して隣のガレージへ歩いていく。
打ち捨てられたガレージは複数の軒が並び立つ長大な敷地を誇る。その中ではまだまだ白井の準備した禊は終わらない。
「ーーあんたばっかが、悪者にならなくていい。今回だって、もっと上手いやり方はあった筈。本当、馬鹿なんだから」
黒川には聞こえない程に小さく、それでいて芯の通る強い声音で白井は呟いた。
何時の間にやら購入していた缶ハイボールを煽る姿を尻目に、彼女は自身の仕事に取り掛かる。




