第六話 「翼を捥がれた鳥」 chapter 9
全ては身から出た錆、咎めるべきはそれまでの自身の所業とかつての仕打ち。長い物に巻かれるまま生きて、人間として過った道を歩いたこれまでの日々が重くその身にのし掛かる。
選択肢は二つ、強いて言うならばたった一つである。カッターナイフでよく弱者を牽制していた吉澤を思い出して、その陰に紛れて嘲笑していた自身が走馬灯のように浮かび上がる。
弱肉強食を知ったのは一体何時からか。自身が虐げられない為に他者を虐げてきた宿命を、今この瞬間にまざまざと見せ付けるのは果たして誰なのか。
思考が纏まらなくなり、呼吸は乱れて泣き出したい気持ちになる。相手の気持ちを初めて痛感した男は、土下座したまま手元に転がる二つの凶器を見下ろす。
「……やってやる! そうじゃなきゃ、ケジメ、やってやる!」
鋏に手を伸ばして、妙に鋭い斬れ味を思わせるそれに脂汗が浮く。なんて事はない工作用の道具でも、使う場その時々でこれ程まで禍々しく感じる魔力を帯びる事に気付く。
まともに研がれていない刃は柔らかな皮膚を前にして絶妙に押し返される。後少しの力を込めなければ、指を剪断するには全く足りない。
情けない呻き声がどうにも我慢出来ない。鋏を握る右手と上下の刃に挟まれた左手の小指も、石にでもなったようにまるで言う事を聞かない。
「ーー黒川君! もうやめてくれ……そんな事をしても、俺達の幼馴染は帰ってこない」
長野は見ていられない状況に、憎むべき相手を庇うように一歩前に出る。涙を浮かべつつもじっと顛末を見据える石川の肩を優しく抱いていた。
「その甘さでお前は誰を守れるんや? 世の中、食うか食われるかだけやねん。そんなやり方やと、誰ぞに同じ事繰り返されるだけや」
黒川は制止する長野を一瞥もせず、土下座したまま固まる男を見下ろして残酷に言葉を投げる。長野の目には、男は憔悴し切っているように思えた。
「確かに君の言う通り、僕は甘いんだろうな。でも、石川がこれ以上、傷付くのは見てられない! 許しはしないが、やり方は自分達で決める。黒川君、ありがとう。もう大丈夫だから」
長野は何より、幼馴染の精神衛生に配慮していた。争いを好まない性格は二人共同じような物であるが、石川のストレスを考えれば今この場で言う彼の提示するケジメに大きな意味はない。
「福井は最期、誰かの子供を身籠もっていた。正直に答えてくれ、誰があいつを追い詰めたんだ?」
覚悟を決めた長野の言葉に、周囲は凍り付く。黒川から大役を預かった彼は、最早只の虐められるだけの弱者ではなくなった。
目を逸らそうと何をしようと、現実に起きた出来事からは逃げられない。彼の腹に据えかねる思いの一端が、棒立ちで目を伏せたままの加害者達に突き刺さった。
彼は何も綺麗事で話を済ませるつもりはないのだ。
「黙ってないで答えてくれよ。何も知らない訳がないだろ!」
何も答えない周囲に、長野の悲痛な叫びが廊下を轟く。誰一人として彼と目を合わさず、沈黙がその返答となっていた。
「ーーそういうのは正攻法やけど、情に訴えるやり方は相手選ばなあかん。こいつらが絆されるような可愛い連中な訳ないやろ」
人間らしく生きて死ぬ最後のチャンスを加害者達は逃す。長野の真剣な声を無視した彼らに黒川は断罪の一手に出る。
一時凌ぎで何とか無傷で済んでいた男は、黒川の言葉で弛緩していた感情の歯車が狂い出す。薄皮一枚で切り抜けた、そんな勘違いでこの場を乗り切れると思い上がっていた。
「なぁ? 質問に答えたれや。十秒やるから喋るか痛い目見るか、好きに選べよ」
黒川は土下座したまま挙動不審な男の胸倉を掴んで、その懐に入れられた煙草を奪い取る。彼の好みの銘柄ではないが、それでも一向に構わない。相手を苦しめる為の拷問に、お気に入りの煙草を消費するのは非常に馬鹿げている。
火を点けた煙草を一吸いして、黒川は男の短く刈り上げた頭を鷲掴みにする。恐怖に怯える男の顔に赤く灯る火種が迫っていく。
「煙草の火種の温度、知ってるか? 七百度やねん。火傷するんが七十度で一秒掛かるとして、根性焼きしたらどうなるやろな?」
黒川は一切の躊躇なく、か弱い抵抗を見せる男の額に煙草を押し付けた。呻こうと足掻こうと、しっかりと握り込まれた髪を掴む手は緩まない。肉の焦げるような匂いが漂って、何ともやくざ者らしい拷問が始まる。
「自分、根性あるやんか、お前らにとってはステータスやろ? 何もかっこええとは思わんけど」
二本目の煙草に火を点けながら、黒川は周囲を囃し立てる。眼前で赤く灯る火種に男は声にならない声を上げて抵抗する。
「ーー吉澤君の指示で五人で回した! 悪かったと思ってる、やらなきゃ俺達も何されてたか分からない! 本当なんだ!」
二本目の煙草を額に突き立てられて、男は漸く真実を語る。予想通りの現実を前にして、黒川は心の中にどす黒い感情が募っていく感覚を味わう。
それは怒りではない、裏社会で時偶食らわされる拒絶反応に似た薄ら寒さに近いかもしれない。
「そんな、酷い、紗代が何したって言うの? 最低! 同じ人間とは思えない!」
表面張力の限りに涙を堪えていた石川は、残酷な現実を前に立つ事すら出来なくなった。学生達が日々勉学に励む、裏社会とはまるでかけ離れた平和が当たり前にある場所。脆く淡い幻想は加害者達の邪な欲望でいとも容易く、斯くも無惨に終わりを告げた。
「その辺でやめときなさい。黒川君、舌の根も乾かない内に暴れてんじゃないの」
背後からした声で黒川は大きな舌打ちを放つ。懸念していた邪魔な存在が登場して、彼なりの反面教師作戦は終了を迎える。顔を見ずとも、相手がどんな表情をしているか如実に感じ取れた。
「石川さん、長野君。貴方達の苦しみは、私が引き受ける。今は我慢して、あんな奴には任せておけないし」
白井は優しく寄り添うように二人に話し掛けて、その場の全てを収めようと行動に出た。怪訝な表情で振り返り睨み付けてくる黒川を一瞥すると、遅れに遅れて事態を聞き付けた教員達が怒鳴り込んできた。




