第一章 繋がり(4)
『もしもし……? 私は繫 端月です』
スマートフォンを耳元に当てると、端月の声が向こう側から聞こえてきた。
まるで誰かがすぐ近くから自分に話しかけているようで、耳にそっと息を吹きかけられているような感覚さえ覚える。
俺の心臓はどきどきと高鳴っていたが、意識して平静を装いながら答える──
『こんばんは……俺は旭 逐幸です』
うっ……この感じ、全然平静じゃない。自分でも、話している声がとても硬くなっていると感じる。
すると、端月が風鈴のような軽やかな笑い声を上げた。
『知ってるよ』
平凡な一言に過ぎないはずなのに、まるで秘密の暗号のように神秘的で、胸が高鳴る。
しばらくの間、俺はどう返事をすればいいのか分からなかった。通話の経過時間を示す秒数だけが、一秒ずつゆっくりと進んでいく。
『えっと、俺も実は何を話せばいいのか分からない。ただ君の声が聞きたかった。ただ、それだけなんだ』
この言葉を聞いて、端月はまた笑ったようだった。数秒経ってから、彼女は答えた。
『ありがとう。うん──どうせおしゃべりなんだから、何を話してもいいよ。思いついたことを話してみて。そうだ、今日配られたチラシに、新入生合宿のイベントの紹介があったでしょう。私は行くつもりなんだけど、逐幸は参加する?』
彼女に名前を呼ばれたことで胸がときめいたが、その気持ちを少し抑えながら、俺は鞄の中からそのチラシを取り出した。
チラシには確かにイベントの開催日と、支払う必要のある費用が記載されていた。日程は二日一泊で、県外のどこかにあるイベント施設の会場を借りて行うらしい。そこには山を表すイラストもあり、自然に触れられるよう山の中で開催されることを示している。
ある程度のお金はかかるものの、高校を卒業して十八歳になってから俺はアルバイトを始めており、それなりに貯金もしていたため、支払うことはできる。
『うん、行くよ。俺も端月と一緒に参加したいから』
二人きりでのデートとは違うけれど、それだからこそ別の楽しさもあるのだろう。そう考えると、胸の中がほんのり温かくなった。
『それなら準備しておかないとね。同じグループになるとは限らないけど、それでも一人で話せる時間はあると思う』
端月は一秒ほど間を置き、それから言った。
『逐幸は、楽しみにしてる?』
その言葉を聞くと、なぜか心臓が一拍飛んだような気がした。
『俺……』
思わず、何を意味しているのか自分でも分からないような呟きが漏れた。
頭の中には、過去に母さんと交わした会話が浮かんでくる。
──逐幸、あの男のこと、どう思ってるの?
──はあ? あの人にも、そういう決断をした理由があるって? 私たち二人のコミュニケーションが足りなかっただけ? 冗談じゃない!
──よく聞きなさい。私はあんたの母親なんだから、あんたは私の言うことを聞けばいいの! 今は私があんたたち兄弟二人を養ってるんだから。
──私だって、何もかも放っておいていいんだよ。自分一人で実家に帰ればいいんだから。何もかも投げ出すくらい、誰だってできるでしょう。
『俺……』
俺は夢言のように呟き続けていた。そのとき、端月の声が割り込んできた。
『大丈夫だよ。緊張しなくていいから、ゆっくり話せばいいよ。ね?』
思わず泣きそうになり、俺は手の甲で酸っぱくなった鼻の奥を擦った。
おそらく端月は、俺がまだ緊張していると思ったから、こんなことを言ってくれたのだろう。
けれど俺にとっては、誰かに優しく抱きしめられているようだった。耳元でそっと「心配しなくていい」、「怖がらなくていい」と言われているような感覚だった。
『俺、すごく、楽しみにしてる。イベントに参加するのを。君の笑顔が見たいから』
この言葉を口にしたと同時に、頭の中に以前読んだ魔法バトル小説の一場面が浮かんだ。主人公が黄金色の夕日の下で、ヒロインと約束を交わしていた場面だ。
『私も楽しみにしてる。もしかしたら前日の夜は眠れなくなるかもしれないね。寝過ごさないように、目覚まし時計がちゃんとセットされているか確認しないと』
端月は後半の言葉には特に反応しなかった。もしかすると、少し変だと思っただけなのかもしれない。けれど、それは間違いなくそのときの俺の気持ちだった。
そのとき──
『もし今、自分の表情を写真に撮ってくれたら、私も自分の写真を一枚送ってあげてもいいよ。どう?』
ん? これはどういう展開なんだ?
い、いや、いや、いや──! 今の俺にはどう考えても無理だろう。端月の写真はすごく欲しいんだけど……
『えっと、ごめん。これはちょっと難しそうだ。君だけ写真を送ってくれるのは駄目かな?』
『駄目だよ。それじゃ不公平でしょう。だったら、合宿当日まで待つしかないね。残念』
端月の口調には、最後に笑みが滲んでいるのが分かった。
『じゃあ、普段学校に行ってるときはどうするの?』
『できるだけ冷静にして、笑顔を見せないようにするよ』
『もともと何を考えているのか分かりにくいのに、お願いだからこれ以上難易度を上げないでよ』
『普通の人には気づかれないと思うんだけど……』端月のその言葉はとても小さく、それから彼女は続けた。
『少しくらい難易度を上げても、あなたにとっては大したことじゃないと思う。私はあなたを信じてるから』
『分かったよ。頑張ってみる……』
俺は少しからかわれているように感じたが、胸の中にはくすぐったいような感覚があった。
その後、俺たちはしばらく話し続けた。俺がパソコンを再び起動させると、右下に表示された時刻はすでに夜十時になっていたが、もう少し頑張ろうと決め、先ほどのファイルを開いた。
そして創作をしている間、俺の胸にはずっと、言葉では言い表せないような温かな感覚があった。
今日は新入生合宿の日だ。まだ朝七時前だというのに、何台もの観光バスが校内の正門ロータリーに順番に並んでいた。朝食を買った俺は、横断歩道を渡り、学校の警備室脇にある歩行者用通路を通った。
天気予報によれば、今日は一日中暑くなるらしい。薄い雲は陽射しをほとんど遮ることができず、歩いているだけでも少し汗ばむように感じる。
教育学科と科学教育学科、この二つの学科の学生たちが鐘楼のそばにある石畳の上にまばらに立ち、乗車できる時間を待っていた。一般の学生はそのまま通り過ぎていくため、立ち止まっている彼らが一緒に新入生合宿へ参加するメンバーなのだということは、すぐに分かった。
俺は端月に、もう到着したとメッセージを送った。端月はとても短く「私ももうすぐ着くから、大丈夫」と返してきた。
買ってきたサンドイッチを食べながら、俺は静かに周囲の人々を観察していた。そこから何かを得たいというより、人間の行動を観察することそのものに、俺は一種の楽しさを感じていた。
おそらく大半はスマートフォンをいじったり、雑談したりしているだけなのだろうが、彼らの表情や姿勢を観察するのもなかなか面白い。そして、ときどきある瞬間に相手の考えていることが分かると、答えがぴたりと合ったような感覚があった。
以前、ネットで心理学に似たような実験を見たことがある。複数人で会話している場合、人は自分が重要だと感じている相手に対して、身体やつま先を向ける傾向があるらしい。これが実際の状況に当てはまるのかどうか、俺にもよく分からない。それでも、そういうことを考えながら観察するのは面白かった。
俺は黙々と朝食を食べ終え、空になった紙袋をビニール袋に入れて鞄の中へしまった。バスに乗ってからトイレに行きたくならないよう、豆乳やほかの飲み物は買わなかった。それに、かさばる容器は飲み終わった後に鞄へ入れるのも難しい。それが二つ目の理由だった。
時刻が七時五分に近づいた頃、端月の姿が正門に現れた。彼女は白地に爽やかな柄の入った半袖のトップスを着ており、下は濃い色のジーンズだった。手には大きめのトートバッグを持っていて、中には一泊する際に使う着替えや、そのほかの用品が入っているのだろう。
黒い髪は淡い緑色のヘアゴムで一つにまとめられており、いわゆるポニーテールの髪型だった。見た目から夏らしさに満ちていて、ひときわ魅力的だった。
「おはよう。待った?」端月が俺の前まで歩いてくると、青みがかった瞳が生き生きとした輝きを見せた。
この台詞は、一般的なラブコメでよく使われる定番の言い回しだ。実際に自分が遭遇してみると、俺に言えるのは自分の感想だけだった──
「うん、ずっと君を待ってた。おはよう」
俺はできるだけ喜びに満ちた声を抑えようとしたが、それでもうっかり表に出てしまったように感じる。端月はまずそよ風のような軽い笑い声を漏らし、それから俺に一歩近づいた。
「いつ乗れるか分からないね。今日はすごくいい天気だから、ちょっと暑いね。定期的に水分補給をしたほうがよさそう」
「予定表には七時十分に乗車できるって書いてある。その後、三十分まで待って、遅くとも四十分には出発するみたいだ。あ、もう乗れるようになった」
俺たちがそう話していると、観光バスの前後の乗降口の蓋が左右へシュッと動き、二つの学科の学生たちは暑さから逃げるように次々と車内へ移動していった。
「俺たちも行こう」
「うん」
俺は端月のトートバッグを持ってあげようと思ったが、彼女はこの程度の距離なら大丈夫だと言って、俺の申し出を断った。俺たちは手を繋いで観光バスのほうへ移動した。距離はとても短い。それでも手を繋ぎたい──俺はもう、こんなふうになってしまったのだろうか? 俺は思わず、心の中でそんなツッコミを入れた。




