第五章 寒冷(6)
その出来事が起きたのは、高校一年生の二学期の、とある休日だった。
俺は父さんと二人きりで家のリビングにいた。
そのとき、父さんは真剣そうでありながら、どこかとてもあっさりとした口調で言った。
「逐幸、俺もそろそろ故郷に帰って、隠居する頃なんだ。人生の大半を仕事に費やしてきたが、これからは自分のことを考えたいと思っている」
え……?
これは……どういう意味だ。
当時の俺には、父さんが何を言っているのか分からなかった。
いや……その瞬間、俺は自分が聞いた言葉を理解することを拒んでいた。
そんな俺に対して、父さんはそのまま話を続けた。
「俺は先週、もう仕事を辞めた。明日には故郷へ帰る。そこにはお前の祖父さんと祖母さんが残した土地があるし、俺が育った場所でもある。向こうの環境を整えていきたいと思っている。だが……もう俺は、お前の母さんと一緒に暮らし続けることができない」
そのとき、俺の頭には、父さんと母さんがいつも互いに大声を出しながら話すことで意思疎通をしていた光景が浮かんだ。
いや、もしかしたら、それも多少はコミュニケーションと呼べるのかもしれない。
だが、互いに自分の言いたいことを言い終え、それをまるで最終決定の宣言であるかのように扱ってしまうことも多かった。
母さんは祖母さんの世話をしていたことで、精神状態が悪化したことがあった。
……母さん自身もそのことを恨みに思い、口にしていた。
だが、俺がこの家で見てきた状況から判断すると、父さんが祖母さんをこちらの家に連れてきて長期間世話をさせたときも、やはり話し合いをせず、母さんにそのまま押しつけていた。
その一方で、母さんもまた、二人が納得できるような話し合いをすることはなかった。
だから、無理に言うなら、二人とも上手くできなかったところがある。
そして俺は……今になってようやく、「家」という器に開いていた穴に気づいた。
いつの間にか、その亀裂は途方もなく大きくなっていた。
もし俺にその力があったなら……いや、家の中での俺の立場を考えれば、当事者である二人を説得するのは難しかっただろう。
「……」
俺は黙ったまま、自分の答えを考えた。
そして最後に、俺はこう言った。
「じゃあ……向こうでは身体に気をつけて……何か自分で処理できない問題があったら、近所の人に助けてもらうか、電話で連絡して」
その言葉は、まるで父さんを別の場所へ追いやってしまうようだった。
だが俺の頭に浮かんだのは、昔読んだ本にあった、親族同士が最後の言葉を喧嘩で終えてしまい、その後二度と会う機会が訪れなかったという一場面だった。
仕方がないんだ……俺にはできない……これ以外に、俺に何が言える?
俺でさえ、次第に母さんから受けるプレッシャーに耐えられなくなっていた。
俺には、父さんを止めることも、父さんの決断を止めることもできなかったようだ。
「もういくらか金を母さんに振り込んでおいた。お前と弟の学費やら何やらも含めてある。残りは母さんに任せてくれ。母さんにも多少は貯金がある」
こんなことを俺に言って、何の意味があるんだ……?
心の中ではそう叫びながらも、その一方で、もう一人の俺が冷静な声で「そうか、なら少なくとも何学期かは学費のことで悩まずに済む」と言っていた。
「分かった……」
俺はまるで力が抜けたように答えた。
「……ああ」
父さんはそこで初めて、少しだけ真剣な表情で低い声を返した。
そして、その翌日、俺が起きると──母さんは早番の仕事へ出かけ、弟は遊びに出かけ、父さんはすべての荷物を持って家を出ていた。
燦々とした陽光が玄関のベランダから差し込み、熱を帯びた強い風まで吹き込んでいるのに、俺はまるで深い穴の底へ落ちてしまったような気分になった。
俺は途方もなく寒く感じた。
その後──
「……勘違いするなよ。俺はお前に頼んでなんかいない。俺のことは何も気にしなくていい」
大学への進学が決まった後、俺はその期間にある出来事が原因で弟とも決裂した。
弟は県外の高校に合格したことをきっかけに家を出て、一人暮らしを始めた。
俺たち兄弟は幼い頃から、母さんの方針によって互いに敵視し、競争するように育てられた。
そのため、大人になった俺たちの間には、もう兄弟としての情などほとんど残っていなかった。
俺は、友達のような関係から二人の関係をもう一度築き直せると思っていた……結局、それも無理だった。
このとき、俺は二つのことを理解した。
一つ目──コミュニケーションは、二人とも相手を理解しようとする意思があって、初めて成り立つということ。
二つ目──俺たちの家は、すでに完全にばらばらになってしまったという事実。
どうして物語の中にも、現実の生活にも、あんなに温かい家庭がたくさんあるのに、俺の家はこんな有様なんだ?
俺が何か間違ったことをしたからなのか?
行動すべきだったときに、俺が何もしなかったからなのか?
それとも、これはすべて変えられないことだったのか?
俺は、自分が物語の主人公のように、誠意や本心、そして行動によって、自分が置かれている逆境を変えられると思っていた。
……だが後になって気づいた。
俺が変えられるのは、自分自身がコントロールできる部分だけなのだと。
つまり、自分自身だ。
関係を修復するのなら、それは俺一人の力だけではできないことだった。
俺は、とても怖かった。
なぜなら俺は今になってようやく気づいたからだ。
長い間、俺はずっと一人だったのだ。
俺のそばには、頼ることのできる存在なんて誰もいない。
自分が頼ることのできるのは、自分自身だけだ。
悔しい……どうして……どうして俺が、こんな状況に耐えなければならないんだ?
悔しい。
だから……
俺は強くなることを決めた。
──誰よりも強くなる。
少なくとも自分が掌握できる範囲、つまり創作において、自分自身が認められる存在になる。
誰にも負けない。
そして何より、自分自身にも負けない。
自分の心の弱さや不安に負けない。
だから俺は、最強のクリエイターになる。
俺が憧れている、読者に希望を与える物語を書き、俺自身が読んで救われた作者先生のように、そんな素晴らしい作品を創り出せる存在になる。
どうせ、こんなぼろぼろになってしまった俺の人生を何に使えばいいのかも分からない。
それなら、立派なクリエイターになって、ちょうど暇つぶしにしてしまえばいい。
自分の一生を使って完成させればいい。
もし……ただそう言うだけなら、苦痛しか感じないだろう。
だが実際には、俺は創作が何よりも好きだった。
作品を読むことは俺を幸せな気持ちにしてくれるし、自分の好きなキャラクターや展開を考えることも、同じように胸が高鳴るほど楽しい。
無数の作品が生まれていく中で、たとえ練習作であったとしても、すべて俺が自分の情熱と労力を費やして磨き上げた結晶だ。
俺は誰よりもそれらを低く評価している一方で、誰よりもその尊さを理解している。
物語を創作することで、俺は生き続けられるような気がした。
いや、生きているという感覚を得られるようになったのだろう。
今ではそれは、俺の存在証明となり、俺の人生と切り離せないものになっている。
大切な人は、結局いつか自分のそばから離れていく。
「家」という存在も、まるで冗談のように短い時間で崩壊してしまう。
だからこそ俺は、絶対に奪われることのないものを求めるようになった。
そして、あるアニメを観た後、「世界一」という言葉が俺の目の前に現れた。
そうだ。
世界一というのは、つまり最強ということだ。
それなら、俺が思う世界一を目指してみよう。
こうしてその日、「逐夜」というペンネームを持つ俺、旭 逐幸は、世界一のクリエイターになることを志し、そのために熱く胸をたぎらせていた。
俺はベッドの上でゆっくりと目を覚ました。
少し身体を起こしてから、机の上に置いてあるスマートフォンを手に取り、時間を確認すると、今日は土曜日だと気づいた。
もともと八時に設定していたアラームはまったく役に立たず、俺は今日も午前三時になってから眠ったことを少し思い出した。
そして、このところの疲労が完全に蓄積していたらしく、昼近くまでそのまま眠ってしまったのだが、それでも俺はひどく疲れていた。
母さんはすでに仕事へ行ったらしく、部屋を出ても家の中には人の気配がなかった。
玄関には、彼女のサンダルだけが置かれていた。
以前起きた出来事が夢となって現れたようで、俺はそのせいで頭が重くぼんやりしていた。
この不快感から逃れるために洗面所へ向かい、清水で口をゆすぐと、頭が少しずつ起動していくような感覚があった。
そのとき、頭の中に愛する恋人の名前が突然浮かんだ。
だが俺は、自分の執着のために彼女を傷つけてしまった。
そのことを思い出すと、ますます苦しくなった。
二人は共に幸せを追い求めるために付き合ったはずなのに、今、彼女を苦しませているのは俺だった。
少し泣きたくなった。
だが、彼女を傷つけた俺に泣く資格なんてない。
だから俺は蛇口を閉め、タオルで洗った顔を拭いた。
俺の頭の中には、もう何も残っていなかった。
どんな物語の展開も思いつかない。
キャラクターも死んでしまったかのように抜け殻となり、企画そのものも突然、穴だらけになってしまったように思えた。
俺は机の前に戻った。
昨夜……いや、今朝にも触れていたコピー用紙の上には、乱雑な記号だけが残っていた。
生きていると感じさせてくれるような言葉なんて、何一つなかった。
父さんが家を出ていったあの日、俺はまず本を読もうとしたような気がする。
だが、一文字も頭に入ってこなかった。
だから紙とペンを取り出して机の前に置いた……その場面は、今日とまったく同じだった。
俺は端月に会いたい……どうしても会いたい。
だが、俺が創作の難関を突破できると思えるようになるまでは、彼女に会うことはできない。
俺はただ、彼女を傷つけ続けるしかない。
そして……彼女も父さんや弟のように、俺のもとから去ってしまうかもしれない。
あるいは、俺が心の奥底で醜く母さんを恨み、この家を恨んでいるように、端月という優しい女の子も、自分を傷つけるこの役立たずの男を恨み始めるかもしれない。
俺は力を失った。
机に突っ伏したまま、自分のベッドへと横になった。
家の中はとても静かだった。
聞こえるのは、目覚まし時計の秒針が動く音と、冷蔵庫が唸るように動いている音だけだった。
俺の頭の中には、思わずこんなことが浮かび始めた──端月をこれ以上苦しませるくらいなら……いや、俺自身をこんなに苦しませるくらいなら、端月に、俺たちはもういっそ──と告げたほうがいいのではないか。
そのとき、俺の耳元に、湖櫻先輩と会ったあの日、彼女が最後に言った言葉が響いた。
「私じゃなくてもいいから、自分が相談できると思う人に助けを求めてみなさい。あなたは私が認めた男なんだから、きっとあなたを助けてくれる人がいるはずよ」
俺はとても恥ずかしくなった。
あの日、俺は先輩に大口を叩いた。
自分の問題を解決したら、端月ともう一度きちんと向き合うと約束した。
それなのに今になって、俺はまたまったく逆のことを考えてしまっている。
俺が目を閉じようとしたそのとき、スマートフォンに一件のメッセージが届いた。
庭雪先生からだった。
そこにはこう書かれていた。
「逐幸、今日の午後、うちに来ない? 子どもがボードゲームをしたいって言ってるんだけど、私自身は休みたいし、ちょうど一人足りないのよ」
俺はチャット画面を見つめたまま、数秒間呆然としていた。
これまで先生の家には一度も行ったことがなかったので、この誘いにはかなり驚いた。
──人の家にお邪魔することになるよな……それに、俺は旦那さん本人にも会ったことがない。
こんなふうに行って、本当にいいのか?
いや……そんなこと、いいはずがないだろう?
俺は、あとで断ればいいかと思い、スマートフォンを置こうとした。
そのとき、頭の中に突然、先輩が催促するような姿が浮かんだ。
続いて先輩の姿が消え、代わりに悲しそうな端月の表情が現れた。
俺はため息をついた。
はあ、もういいか……
どうせ今、家にいたところで、コピー用紙とファイルを空白のままにしておくだけだ。
それなら、少しだけお邪魔させてもらおう。
先生へのメッセージに返信してから、俺は外出の準備を始めた。




