第四章 試練(1)
演奏会は無事に終わり、ステージの上で、黒い演奏服を身にまとい、バイオリンを手にした青年と、ピアノ伴奏を担当した年配の男性が、観客の拍手の中で互いに抱き合っている。その姿から、二人の間にある絆を感じることができた。続いて二人は観客のほうへ身体を向け、皆に挨拶をした。
俺と端月は二人とも絶えず拍手を送り、今日の演奏のために心を尽くし、こんなにも素晴らしい音楽を届けてくれたことに感謝した。
俺はまさか、バイオリンが弓を使わず、指だけで弦を弾くことができるとは思ってもいなかった。しかも彼は一度に何本もの弦を弾いていて、その技術には鳥肌が立つほど驚嘆した。それに、とても小さな音まで奏でることができるのに、雲を突き抜けるような音と、針の落ちる音のような繊細な音との間を自在に切り替えている……バイオリニストというのは、もしかして魔術師にこれほど近い職業なのだろうか?
そして端月によれば、彼女は伴奏を担当した人もすごいと思ったらしい。ピアノの音はバイオリンの音を覆い隠しやすいというのに、この演奏では正確なコントロールによって、主役となる楽器を引き立てていた。
青年の音色には大胆でありながら繊細な印象があり、伴奏の男性は抱き合ったときの落ち着いた年長者らしい風格に相応しいものだった。演奏中も、演奏後の謝幕でも、この演奏から流れ出す感情を俺は感じ取っていた。
「どうやら今回の演奏、かなり気に入ったみたいだね。また機会があったら来ようか」
「うん、一度聴いたら、ほかの人の演奏も聴いてみたくなったよ。交響楽の生演奏って、どんな感じなんだろうね」
俺たちは帰り道を歩きながら、演奏会の話をしていた。
頭上の弦月は優しく俺たちに寄り添い、街灯の純白の光が俺たちの影を映し出している。二人はほとんど寄り添うように歩いていたため、影もまた一つに混ざり合っていた。
どこかの店に入って少し座っていこうかと話していたものの、もう夜の九時を過ぎていて、時間も遅い。それに二人とも明日の朝八時には授業があるため、仕方なく諦めることにした。
いつの間にか、端月の家の近くまで来ていた。別れようとしたそのとき、端月が名残惜しそうな眼差しを見せた。どちらから先に始めたのか、それとも二人同時だったのかは分からない。俺たちの唇が再び触れ合った。
「前に……俺たち、五回ファウルをしたら退場になるって話したよね」
「でも、ここには審判はいないよね……?」
んっ、ん……──ん、ん……────……ん…………───
俺たちは、最初に一人一回ずつ始めたら終わりにしようと約束していたはずなのに、結果的にはまったく終わる気配がなかった。
この辺りの路地には明かりこそあるものの、俺たちがいる場所はちょうど光が弱く感じられるところだった。それに夜はほとんど人通りもなく、二人とも思わず気持ちが高ぶっていった。
小さな身体を抱きしめ、その身体の温もりを感じながら、唇と唇の間で何度も深い甘さを感じる。
そして、俺たちが何度行ったり来たりしたのか分からなくなった頃、端月の肩がわずかに震えたように見えた。
今回が終わったあと、彼女は俺に恥ずかしそうな表情を向け、頬を赤らめた笑みを浮かべた。
「そろそろ終わりにしたほうがいいと思う。そうじゃないと、このまま続けたら、逐幸が大きなオオカミになっちゃうよ。どう思う?」
彼女の意味は理解できた。強く抱きしめている間に、俺の身体のある部分もまた発達して大きくなってしまい、そのことに彼女も気づいたらしい。
「えっと、それは俺も、確かに……あまりよくないと思う……」
俺は少し恥ずかしくなったが、その反応がまた彼女を笑わせた。そこで俺は意を決して言った。
「じゃあ、これが最後ね」「うん」
端月はこの誘いを受け入れた。俺たちはゆっくりと近づき──唇で互いをじっくりと感じ……そしてゆっくりと離れた。
「おやすみ」
「バイバイ」
家へ向かう端月に手を振ると、端月も一声返してくれた。ところが途中まで歩いたところで、また振り返って俺に手を振った。
「バイバイ」
その恥ずかしそうで、思わず愛おしくなる姿が、そのとき俺の目に深く焼き付いた。
駅まで歩いて電車に乗って帰宅すると、もう夜の十一時頃になっていた。
リビングは真っ暗で、母さんの部屋へ続く廊下の辺りだけに明かりがついていた。
俺がそこへ歩いていって廊下の電気をつけると、スリッパを履いた母さんが、ついさっきまでカップ麺を入れていたらしい、少しだけスープの残ったどんぶりを持って歩いてきた。母さんは俺を一目見ると、「おかえり」と言い、俺は頷いて「うん」と返した。そのあと、バスタオルと着替えを手に取って浴室へ向かった。浴室のドアを閉めて、ようやく少し息をつけるような気がした。
少し前、母さんが帰宅したとき、わざとらしいほど不自然な声で大きく「ただいま!」と言っていた時期を思い出した。たぶん、少しでも家にいるような感覚を埋めたかったのだろう。でも俺には、ただびくびくすることしかできなかった──
一度、俺が母さんの職場へ行ったことがある。その日は母の日で、母さんの同僚たちにせがまれたり、けしかけられたりして、俺は母さんを抱きしめた……その日の帰宅後、母さんは俺に険しい表情を向けて「なんであんなことしたの」と言った。それ以来、俺は母さんのこの方面について、ある種の警戒心を持つようになった。どんな否定的な反応をされるのか分からない以上、淡々と返事をするのが最善なのだ。
鏡の中に映った裸の自分の姿を眺めながら、俺はまたため息をつきたくなった。
風呂から上がると、もう十二時近くになっていた。明日の授業のことを考えれば、早めに寝たほうがいいだろう。
スマートフォンを充電ケーブルにつなごうとしたとき、ちょうど画面が点灯し、メッセージが届いていることに気づいた。
端月だった。
俺は少し慌てながらチャット画面を開き、それからゆっくりと笑みを浮かべた。
『誰かさんがあまりにも熱烈だったせいで、私の唇、今ちょっと腫れてるみたい』
『あ、でもネットで調べたら、少し時間が経てば自然に腫れが引くって書いてあったから、心配しなくて大丈夫』
『おやすみ』
俺はひとまずパソコンチェアに座り、どう返事をしようかと考えた。そして最後に決めると、以下の文章を入力した。
『休んだあとに元に戻っているか確認するなら、明日俺が近距離で検査してあげられるよ』
『本当にダメだったら、俺たちでアイスを買って食べよう。多少は冷やして温度を下げる代わりになると思う』
『君が言っていたその誰かさんは、今もまだ君と三十分間キスしたいと思ってる。次は素直に彼の要求に応えてあげてください』
『君が好きだ』
『君が一番好きだ』
『おやすみ』
最後の送信ボタンを押したあと、俺は安堵の微笑みを浮かべながら部屋の電気を消した。
「おはよう、かつ姉」
SUNRICEの厨房で、褐色の制服を身につけた俺はタイマーを見つめながら、制服に着替えたかつ姉に挨拶をした。
「おはよう。あとで持っていくときは、ちょっと気をつけてね」
「了解」
俺がそう返事をしたところで、タイマーがピピピピと鳴った。俺はそれを止めると、ガスコンロの上に置かれた円柱状の大鍋の蓋を持ち上げ、脇へ置いた。そのとき、熱々の蒸気が立ち上り、俺の頬もまた蒸し暑い空気を感じた。
大鍋の上には桶状の茶こしが掛けられており、中には紅茶の茶葉が入っている。しばらく浸していたため、茶葉は濃い色になり、縮れた状態になっていた。
俺は取っ手を持って茶こしを脇へ移動させた。下の鍋に残った濃い黒色の液体が、淹れ終わった紅茶だ。
計量した砂糖をビニール袋からザッザッと鍋の中へ入れ、続いて船を漕ぐオールのような形をした木製のお玉で液体をかき混ぜ、砂糖が完全に溶けて粒が見えなくなるまで混ぜる。
続いて、かなり重い大鍋をガスコンロから二つあるシンクの片方へ移動させる。もう片方のシンクには、すでに押し下げ式の取っ手が付いた保温容器が二つ用意されていた。俺はステンレス製のお玉で大鍋の中の紅茶をすくい、保温容器へ入れていく。
容量はすでに計算してあるため、二つの保温容器に均等に分けると、水位はだいたい三分の二ほどになる。俺は片方の保温容器に蓋をしてしっかり締め、それからもう一方の保温容器の半円形の取っ手を持ち上げて製氷槽の前まで運び、アイススコップで製氷槽の中の氷をすくって保温容器へ入れる。
熱い紅茶の中へ落ちた氷が、爽やかなシャッシャッという音を立て、液体の水位もそれにつれて上がっていく。入れる氷の量はだいたい決まった回数のスコップ分で、氷を入れ終えたら、先ほどのオール型の木製お玉を容器の中へ入れてかき混ぜ、終わったら保温容器の蓋を閉める。
こうして、元から用意してあった保温容器と合わせれば、一つはアイスティー、もう一つはホットティーになる。営業開始前に素早く紅茶を作っておくことが最優先だ。そしてその間、かつ姉は食材の仕込みと、客がそのまま取っていけるサンドイッチの準備に追われていた。
鉄板の上では目玉焼きとハムがジュージューと焼かれ、反対側の食材バーには洗ったレタスも用意されていた。かつ姉は手際よくトーストをさまざまな食材の上に重ね、食材を挟みながら四段に積み上げたあと、ナイフでトーストを半分に切った。そしてそれぞれをサンドイッチ専用の保存袋へ入れ、カシャッとテープ台から透明なテープを引き出して、折り畳んだ保存袋を留めていく。
俺も以前サンドイッチを作ったことがあるため、前半の工程は俺にとって難しくなかった。しかし、サンドイッチを潰さないようにしながら、素早く保存袋へ入れ、きれいな折り目を作るのは簡単なことではなかった。何しろ俺は手先が器用なほうではない。練習するしかなかった。
俺は順番にレシート発行機、デリバリープラットフォームの注文端末、POSレジを起動した。そのあと備品を確認して補充し、大きさの違う紙コップや、その他の飲み物の在庫数、冷蔵庫と冷凍庫の温度を確認して記録し、最後にレジの中の現金の金額が正しいかどうかを確認した。そして時間までに終わらせることができると、今日は勝ったような気分になる。これは俺が心の中で始めた小さなゲームだった。
「そうだ。あのことのあと、私はあなたのお母さんに電話して、あなたのことをすごく褒めておいたよ。店員にあんなに満足してくれるお客さんは珍しいからね。その場でお礼を言っただけじゃなくて、あとからネットのお店の口コミでも、長い文章を書いてうちの店を褒めてくれたんだよ」
サンドイッチを作り終えたかつ姉が朝食は何が食べたいかと俺に尋ね、俺は前と同じものでいいと答えた。彼女は軽やかに「分かった」と返事をすると、俺と自分の朝食を作り始め、その話題を持ち出した。
彼女が言っていることには、俺にも覚えがあったものの、大したことではないように感じていた。ただ、その客にはいろいろな要望があり、俺は一つ一つできる限り対応した。そして彼は私物を店に忘れていったため、俺が一時的に店で預かり、最後には本人が取りに戻ってきた。それから、以前に聴覚障害のある友人が注文に来たことがあり、そのとき俺が白紙のメモ用紙を使って注文を手伝い、いくらなのかを伝え、無事に食事を購入できるようにしたことなどを話していた。
それに、かつ姉がこの話を持ち出したことで、俺の顔にも影が落ちた。
昨日、母さんからこのことについて話された。母さんはリビングで電話を終えると、振り返って俺にこう言った。
──店長さんから電話があって、あなたはよくやっているみたいだって。でも、ああいう人はたいていちょっと格好をつけているだけなのよ。
──それに、時給が上がるとも言っていないし、特別なボーナスが出るとも言っていない。私には、ただ口で言っているだけにしか見えないわ。
──逐幸、こういうことに出くわすこともあるから、くれぐれも調子に乗らないで、自分の仕事をきちんとやればいいの。
母さんがどう考えているのかはともかく、少なくとも俺には、かつ姉が心から俺を褒めてくれていることが感じられたし、普段からもよく面倒を見てもらっている。そのため、そんな言葉を聞くと多少は不快な気持ちになった。
「逐幸、どうしたの?」
かつ姉が俺に困惑したような眼差しを向けた。どうやら俺の反応がかつ姉の注意を引いたらしい。心配させないように、俺はすぐに首を横に振って何でもないと言った。
「そうなんだ。あ、朝ご飯できたよ。今日は特別に、ちょっとした秘密兵器も入れてみたから、食べてみて」
かつ姉はレタス、肉、目玉焼きを挟んだトーストを保存袋に入れ、俺に差し出した。俺は礼を言ってトーストを受け取り、一口かじってから、彼女の言う秘密兵器の正体に気づいた。
「──ピーナッツバター」
「正解」
そのとき、かつ姉はすでにしばらく使わない器具を片付け終え、自分の分の朝食を手に取って答えた。
ピーナッツバターを加えたトーストは、まるで魔法をかけられた剣のように、より高い破壊力を発揮する。簡単に言えば、すべての食材を一つの統一された風味に融合させながら、それでも幾重にも重なったような味わいを生み出している。俺はかなり美味しいと思った。
客が来る前の空いた時間、俺たちはそのままカウンターに立ち、雑談をしながら朝食を食べた。
あ、さっき紅茶の味を確認するのを忘れていた──トーストを食べ終わってからそのことを思い出し、俺は慌てて清潔な細長いグラスを一つ取り、保温容器の取っ手を押し下げてアイスティーを一杯注ぎ、それから一口試飲した。
うん、いつも通りの味だと確認できて、俺はほっとした。




