第三章 明月(7)
「お父さんとはあまり話さないんだよね。じゃあ、お母さんは?」
俺は思わずそう尋ねた。端月はすぐには答えず、数秒待ってから、少し小さな声で言った。
「中学二年生の時に、私のお母さんはいなくなったの。だから、それから家には私とお父さんの二人だけ。お父さんは芸能イベントを企画する仕事をしているの。展示会や公演の準備をしたり、会場の手配をしたり、いろんな人と連絡を取ったり、いろいろな機材を確認したりしなきゃいけないから、夜はいつも帰りが遅かった」
そのおかげで、私は自立するようになった――端月は柔らかな笑みを浮かべた。
俺に、優しいのに、それでいてまるで砕けたガラスの縁に切りつけられたような、胸が痛む感覚を与えた。
俺は彼女に何と言えばいいのか分からず、「その気持ちは分かるよ」とも言えなければ、何か慰めになる言葉を口にすることもできなかった。二人の呼吸が聞こえるその一瞬、俺は別の話題を切り出した。
「春高に無事合格してから、覚えてる。それは二学期に入って、二か月くらい経った頃だった。ある日、俺の父さんが『自分のことはちゃんと大事にしろ。俺は田舎に帰って老後を過ごす』って言って、翌日には、その言葉通り、この家から出て行ったんだ」
俺は平静な声で言えていただろうか。それとも、こんな話をすることで、かえって端月を心配させてしまうだろうか? いや、優しい性格の彼女なら、きっと俺のことを心配してくれる。でも、俺が今伝えたいのは、それだけではなく――。
「これについて何も感じなかったと言ったら、それはあり得ない。でも、だからこそ、俺は自分のそばにいる大切な人を、もっと大事にするようになった。だからあの時は――たとえ君が俺に一言話しかけてくれただけでも、俺のことを一度見てくれただけでも、あるいは授業中、たまたま話し合う必要があって、二人が同じグループになっただけでも、その瞬間が幸せだったんだ」
「そして――今、この瞬間が俺にとって一番幸せな時だ。これからは、俺たちをもっと幸せにしていく……だから、もし君が苦しいと感じたら、俺がそばにいるよ」
それを聞いた端月は少し目を見開き、それからまぶたを伏せ、口元を何度かかすかに震わせた後、やがて微笑みに変わった。
「ねえ、手、ちょっとだけ離すね」
そう言われて、俺は名残惜しそうに彼女の手を離した。まさか、ティッシュやスマホでも取り出すつもりなのだろうか?
俺が戸惑っていると、端月は空いた両手で、俺の肩を押さえた――。
俺の頬が突然、彼女の吐息の温かな息遣いを感じると同時に――。
唇にも、心を揺さぶる柔らかさが触れた。
……ん、ん――……。
俺の脳は瞬時に考えることが難しくなり、朦朧とした状態に陥った。
どれほど時間が経ったのか分からないが、彼女の吐息がゆっくりと遠ざかって、俺はようやく今何が起きたのかを意識した。
いや……俺は無意識に応じていたから、その間に何が起きたのかはよく分かっている……ただ、それについて考える力が戻ってきたのは、すべてが終わった後になってからだった。
「ありがとう……えっ?」
端月は、先ほど俺が言ったことに対してお礼を言っているようだったが、今となってはその言葉さえ、俺の今の気持ちを隠すことはできなかった――。
ん、ん……――――。
─────────────────────………………。
そして俺は再び彼女との距離を縮め、ようやく離れた後、俺たちはそれぞれ息を吐き、身体も呼吸に合わせて動き、抑えきれない興奮によって揺れていた。
端月の瞳は潤んだような、魅惑的な光に染まっていた。そして俺が少し下を向き、わずかに光を帯びた彼女の唇を見た時になって初めて、自分の唇にはまだ滑らかな感触が残っていることに気づいた――あれは口紅ではなく、リップクリームだろう……。
しばらくして、二人の状態がようやく少し落ち着いた。
端月は表情を引き締め、それからいかにも不満そうな表情を作って言った。
「不意打ち……反則だよ」
あまりにも可愛らしい姿だったため、俺は「先に始めたのは君じゃないか」と突っ込むことさえ忘れ、直感的に別のことを思った。
「確か、バスケットボールのルールでは、五回ファウルをすると退場になるんだよな」
俺が呆けたような声を出すと、端月はもう表情をこらえきれなくなった。
「人前であと三回か四回も反則するのは無理そうだから、私たちはここまでにしようか」
彼女の笑顔につられて、俺も笑った。俺は腕時計を確認し、「そろそろ入場できそうだな」と言ってから立ち上がった。
端月は頷き、俺の手につかまって立ち上がった。
彼女はその間もこっそりと周囲を見回し、誰かがこちらに視線を向けていないか確認していたようで、俺は思わず微笑んだ。
俺たちはそれぞれ家のことでいくつかの苦労や感情を抱えているけれど、それらをこれから、俺たちが共に築いていく時間によって少しずつ消化していければいいと思う。
そんな気持ちを抱きながら、俺は彼女の手を大切につなぎ、二人で階段の上へとゆっくり進んでいった。
俺たちは二階へ上がると、平行に並んだ三つの入口があり、それぞれの入口には一人から二人の係員が配置されていた。端月がスマホに表示した二次元コードのチケットを提示すると、係員は読み取り機で二つの二次元コードを順番に読み取り、「これで入場できます。今夜はどうぞお楽しみください」と言った。俺たちは相手に礼を言い、一緒に入口へ入った。
入口の向かいにはサービスカウンターがあり、左側はロビーのような空間、右側は演奏ホールとトイレへ続いていた。
俺たちは左側へ向かった。この時、ちょうど演奏会の開演前のプレトークが行われていた。音楽を専門とする大学講師の一人がノートパソコンをプロジェクターのスクリーンにつなぎ、演奏者の紹介を始め、過去の演奏音源も流していたので、演奏会に初めて参加する人でもある程度の背景説明を得られるようになっていた。
ロビーの両側には二つの螺旋階段が設けられており、階段には赤い絨毯が敷かれていた。吹き抜けになった天井には巨大な宝石のような透明なクリスタルのシャンデリアが吊るされ、明るい黄色の照明によって透明なクリスタルが眩い光を反射し、まるで空の星々を室内へ運び込んだかのようだった。
プレトークを聞き終えた後、俺と端月はお互いにトイレへ行く必要がないことを確認し、二次元コードに記載された座席番号に従って上の階へ向かうことにした。
端月の父親が用意してくれたチケットは、かなり良い席だったようだ。壁に近いために反射音が音楽を邪魔することもなく、ほかの座席エリアに視界を遮られることもない、二階右側の中央の座席だった。
楽器の独奏を聴くのに適した階と、交響楽を聴くのに適した階も、どうやら違うらしい。
交響楽はより多くの楽器を演奏し、より壮大な効果を追求するため、この場合は四階の座席のほうが音場効果が良い場所らしい――もちろん、これはすべて端月から聞いた話を、俺が受け売りしているだけだ。
俺と端月は指定された座席に座り、各自の荷物を足元に置くと、何をすればいいのか分からないような感覚になった。
俺は前方の舞台へ視線を向けた。そこにはすでに一台のピアノが置かれていた。そして今回の演奏会はバイオリンの演奏会で、使用される楽器にはバイオリンとピアノが含まれていた。
「端月、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ん? 演奏曲目の小冊子について聞きたいなら、それはサービスカウンターで別に買うんだよ。さっき言うのを忘れてた」
「ああ、だからみんな一人一冊持ってるみたいなんだな。でも、俺が言いたいのはそれじゃないよ」
それに対して端月は軽く笑い、「分かってるよ。だからわざと追加で教えてあげたんだ」と言い、俺は「端月先生、そんなに熱心に教えてくれてありがとうございます」と言ってから、尋ねた。
「俺が聞きたいのは、端月って音楽に詳しいのかってこと。なんだか俺、演奏の内容が分からない気がして……」
俺はアニメの楽曲に興味はあるものの、それも興味があるという程度で、音楽を深く研究したことはない。それに、今日のバイオリン演奏には、古典音楽がかなり多く含まれていて、時代的には近くても、俺がまったく触れたことのない現代音楽もある。
婉曲に言ったとしても、アニメ音楽と国歌と校歌にしか触れてこなかった俺にとっては、難易度が一段高いどころではなく、おそらく世界一高い超高層ビルよりも高いだろう。
今の俺は、ほかの装備もなく、素手で高層ビルの外壁を最上階まで登らなければならないようなものだ。こんなこと、本当に誰かにできるのか……?
この言葉を聞くと、端月は真剣な表情を作り、それから言った。
「実はね、私もよく分からないの」
「え? 本当なのか……? でも、高校の頃からよく演奏会に来てたって言ってたよな」
「逐幸、私たちの高校は進学校だったでしょう。私は音楽の経験もないし、勉強で忙しかったんだから、どうして突然、音楽が分かるようになるの? 私にできるのは、せいぜいクラス合唱コンクールの練習中に、誰がサボって声を出していないか聞き分けることくらいかな」
「それなら俺にも分かるよ。でも、分からないって言うけど、君は別に嫌がっているわけじゃないよな。それどころか……俺にも分かるくらい、君は演奏会を聴きに来るのを楽しみにしてる」
端月はすぐには答えず、まず俺の左手を取った。恋人つなぎをすると、彼女の指と指の間にある温度を感じることができた。
「うん、楽器が奏でる音が好きだから。特にバイオリンとピアノ。バイオリンの音はとても滑らかで、聴いていると感情が込められているように感じるし、ピアノはポロンポロンと鳴って、まるで星明かりが照らす音とか、遠くで響いている澄んだ鐘の音みたいなの」
そうたとえてはみたものの、星明かりが照らす時にはきっと音なんてないから、これはただの私の想像だけど――端月はそう笑って付け加えた。
「私ね、すごい演奏者って、音楽をまったく知らない観客にも情景を見せることができると思うの。前に、裸足で楽しそうにピアノを弾いている演奏家を聴いたことがあるんだけど、その人の音楽は、霧が立ち込める静かな湖面に、突然一筋の月明かりが差し込んで、霧を突き抜けていくような感じだったの。それで、その人が弾いていた曲がちょうどベートーヴェンの『月光』だったんだ。すごいことだと思わない?」
端月の声は子供が自分の好きなものを話しているようで、目も彼女が言っていた星明かりのようにキラキラと輝いていた。俺は思わず彼女の興奮に影響され、顔に笑みを浮かべた。すると、ふと一つの細部にも気づいた。
「ああ――だから、さっき言ってた小冊子を優先して買わなかったんだな」
「正解。だって、私はあの曲の背景を全然知らないから。それに、たとえそこにたくさんの知識が書かれていたとしても、やっぱり直接感じ取ったほうが、舞台上の演奏者が伝えようとしている音楽をもっと楽しめると思うから」
彼女の言葉を聞いて、俺はふとお互いに共鳴しているような感覚を覚えた。
「そういうことなら、俺たちはどちらも感じる派ってことだな。あいにく、これは俺がクリエイターとして今まで意図的に隠してきた強みなんだ。先生、今回はうっかり君を超えてしまうかもしれないぞ」
「ふふ、それじゃあ、これから有望な優秀クリエイターに感想を教えてもらおうかな」
そう言いながら、端月は自分の肩を俺の肩に触れさせ、数秒そのままにしてから離した。
人をドキドキさせる温もりが一緒に離れていき、俺は少し名残惜しく感じた。
俺は自分が口にした言葉をもう一度考えた。
俺が今まで培ってきた最大の長所は、一見すると作品を分析して自分のものとして取り入れる能力のように見えるが、つい最近になって、過去の俺が長い間抑圧し、さらには自分自身さえ忘れていた感情と、子供の頃から持っていた感受性こそが、自分の中に潜んでいて、今、一点一点掘り起こして使い始めている能力なのだと気づいた。
いつか俺がこの力を本当に使いこなし、感じたものを完全に文章へと変換し、物語の構成に組み込むことができたなら、大きな飛躍的突破口になると思う。
けれど、今この瞬間、俺が一番欲しいのは、やはり自分の力で恋人を笑顔にする力だった。
そこで俺は、自分の気持ちを次の言葉に込めた――。
「それなら、家に着くまで、君の頭の中は俺の感想でいっぱいになっちゃうかもしれないな」
けれど、俺が口を開く直前、端月はちょうど顔を舞台のほうへ向けた。
頭上の照明も、まるで示し合わせたかのようにゆっくりと暗くなっていった。
俺は心の中で、端月はこれから始まる演奏を聴く準備ができたのだろうと思っていたが、その時、恋人にかけた小さな魔法がどうやら効果を発揮したらしいと感じた。
なぜなら、彼女はまず指先で俺の指をそっと何度か擦り、その後、甘えるようにもう一度俺の手を握り直したからだ。




