第二章 両端(4)
先輩は司会を務めながら時間を確認し、あらかじめ用意しておいた、つなぎとして使う話題を話している。俺は先に一度トイレへ行くことにした。どうせ俺たちのグループの番まではまだ時間があるので、俺はメンバーに一声かけ、近くにいた先輩にトイレの場所を尋ねてから歩き出した。
廊下には案内となる照明があったため、俺は迷うことなく無事にトイレへたどり着いた。
用を済ませると、俺は洗面台で手を洗ったが、床のタイルに何かが落ちていることに気づいた。
それは先輩たちが一人一人身につけている深緑色の腕章で、上には金色の糸で「スタッフ」という文字が刺繍され、安全ピンも付いていた。どうやら誰かの先輩が手を洗った際に腕章が外れていることに気づかず、洗面台の下に落としてしまったようだ。
俺は腕章を拾い上げ、先輩たちに返すことにした。帰り道のコンクリート製の緩やかな坂道を歩いていると、一人の先輩が慌ただしくこちらへやって来た。俺の手にある腕章を見ると、途端にほっとしたような表情を浮かべた。
「よかった、機動班の人か? さっき人手が必要になったから先に応援を出したんだけど、今は二人一組で各ポイントを巡回する必要があるんだ。俺は現場の進行管理だから、あまり長く現場を離れられなくて、今は一時的に仲間に代わってもらっているだけなんだ。だから、もう一人と一緒に巡回してもらえないか頼みたい。俺についてきてくれ!」
俺が反応する暇もないうちに、その先輩は引き返して活動場所へ戻ろうとした。俺は慌てて後を追うしかなかった。
「それじゃあ、お二人ともよろしく! ちょうど現場にほかの人手がなくなっていたんだ。二人がいてくれて助かったよ。それじゃあ、よろしくね!」
先輩は俺をスタッフ専用の区域まで連れていくと、すぐにステージ付近へと急いで戻っていった。
俺と一人の先輩は、互いに顔を見合わせることになった。
その先輩は栗色の長い髪をしており、毛先が緩やかに巻いている。見たところ、パーマをかけているようで、長さは腰まで届いていた。表情は穏やかで、上半身にはラベンダー色のスタッフ用シャツを着ており、下半身は長ズボンに包まれ、足には布靴を履いている。
穏やかなお姉さんのような印象で、音楽ホールのステージで優雅な楽器を演奏していそうな感じさえする。
「こんにちは、私の名前は奏 湖櫻、教育学部二年生。あ、でもこっちは教育学部と科学教育学部の人しかいないんだっけ。とにかく、先に出発しましょう。私、もう無線機を持ってきたから、時間を無駄にするのもあまりよくないし。歩きながら話しましょうか?」
「あ、あの、すみません、奏先輩……俺は同じ学部の一年生、旭 逐幸です。この腕章は俺が拾ったもので、誰かがトイレに忘れていったみたいです」
「え、え……?」
奏先輩は途端に固まった。それも無理はない。せっかく見つけてきた助っ人が、突然自分はスタッフではないと言ったのだから、どうしたって呆然としてしまうだろう。
「あの、さっきの先輩の話だと、少し人手が足りないみたいですけど?」
先輩は少しずつ冷静さを取り戻したが、複雑な表情を浮かべ、それから苦笑しながら頷いた。
「湖櫻でいいよ。うん、ほかの班で何かあったみたいで、応援に人を多めに出したんだって。でも、大したことではないらしいよ。ただ、この山荘では夜の活動中は必ず二人で行動する決まりになっているの。そうしないと、うっかり変なものに遭遇してしまうかもしれないんだって。
だから二人一組で各ポイントを巡回することになっていて、今はちょっと困っているところ。でも、大丈夫。じゃあ、逐幸は先に一年生の隊列へ戻って。私たちでまた何とかするから。あ、腕章は私に渡してくれればいいよ。失くした人に返しておくから」
先輩はそう言ったものの、俺がそのまま立ち去るのもあまりよくない気がした。どうせ俺も絶対に活動へ参加しなければならないわけではないし、せっかくだから少し手伝うことにしよう。いや……実のところ、俺の本音は――スタッフがどうやって各ポイントを巡回するのか気になっていたのだ。これは創作の素材として取り入れられそうだった。そこで俺は先輩に言った。
「それじゃあ、湖櫻先輩、俺も手伝えます。巡回するだけでいいんですか?」
「え? いいの? いや……でも、そもそも私たちは後輩たちのためにこの活動を開催しているのに、今度は後輩に手伝ってもらうんじゃ本末転倒じゃないかな」
「ここに来てから、俺は先輩たちにいろいろと世話になりましたから、少しくらい恩返しさせてください。それに、俺一人が少し手伝うだけで、ほかの学生たちがそのまま活動に参加できるなら、俺はかなりお得だと思います。というか、こういうのって格好いいと思うんです。だから、ぜひ俺に手伝わせてください」
俺のその言葉を聞いた先輩は、最初は驚いた表情を浮かべ、最後には笑顔を見せた。
「そこまで言われたら、遠慮なく受けさせてもらうね。後で機会があったら埋め合わせするから、今はお願いしてもいい?」
「うん、俺は問題ないです」
「よし、それじゃあ急いで出発しましょう! あ、でももう一つだけ、ちょっと言いにくいことがあるんだけど……」
俺たちはスタッフ専用の巡回通路を歩いていた。ここは参加者とは異なる道だったが、それでも仕切り壁の隙間から、活動の様子を多少うかがうことができる。
「ごめんね、迷惑をかけちゃって」
深紅色の薄暗い照明の下で、先輩が俺に近い距離から言った。
このとき、彼女は俺の腕に腕を絡めていた。本来は、本当に超常的なものに遭遇してはぐれてしまわないよう、手をつないで歩かなければならない決まりらしいのだが、俺が彼女に自分には彼女がいると話すと、先輩は腕を組む方法で代わりにすることを提案してくれた。
「いえ、しっかり任務を終えましょう」
俺は平静を装って答えたが、頬はかなり強張っていた。
その理由は、冷房のよく効いた巡回通路で、先輩の体温が絡めた腕を通して伝わってきたからだ。それだけではなく、腕だけでなく彼女の身体が俺に触れるたびに、少し柔らかいようでいて、それでいて少し硬く感じる布地の感触まで伝わってきた。
だが、今それを口にしたら余計に気まずくなるため、俺は周囲の様子を確認することに意識を向けた。
「先輩は二年生ですよね。二年生には何か特別な活動とか、注意したほうがいい科目とかあるんですか?」
「うん、そうだね……夏休みのとき、つまり数週間前なんだけど、私たちは小学校へ行ってクラスでの実習をしたの。実習というのは、ある学校にお願いして、その学校のクラスで一週間授業を見学させてもらって、実際の先生がどのように授業をして、クラスを指導しているのかを見ること。途中で授業見学の記録を書いたり、その後で実習報告書をまとめたりする必要があるの。簡単に言えば、まず教員養成課程の学生に体験させて、その後も教師になる進路を続けるかどうかを決めてもらうものかな」
「へえ──そうなんですか。それじゃあ、学校とはどうやって約束するんですか?」
「う、うん、いい質問だね──大学の教員養成センターが資料や公文書を用意してくれるんだけど、自分で一つ学校を選んで自分で電話をかける必要があるの。学校側が実習を受け入れてくれることになって初めて、教員養成センターがその学校宛ての公文書を用意してくれるんだ」
こうして俺たちは巡回をしながら、俺は先輩にいろいろなことを教えてもらった。
巡回と言っても、実際の内容は各ポイントのほかのスタッフと合流して活動に何か問題がないかを確認したり、使用する器材や備品が足りているかを確認したりすることだった。例えば雰囲気を盛り上げるための紙吹雪を一回につきどれくらい撒くのか、その量は後から来るグループを迎えるのに十分なのか、といった具合だ。
いろいろな面から見ても、かなり良い学習の機会になった気がする。
「──じゃあ、私がこの後使い終わった教科書は逐幸に譲ってあげるね。今回手伝ってくれたお礼に。ふふん、私の授業ノートはほかの人たちから絶賛されてるんだからね」
「お、おお、ありがとうございます、先輩!」
先輩は得意げな声を上げ、腕を組んだ動作もどうやらそれほどぎこちなくなくなっていたので、俺は多少リラックスできたような気がした。
それに、大学で使う原書の教科書は一冊でもかなりの値段がする……そのことも含めて、俺は先輩に感謝した。
俺たちはすべてのポイントを回り終え、ルートに沿って元の場所へ戻った。この頃には活動もそろそろ終わりを迎え、残っているのはあと二、三組が体験していない程度だった。まあ当然と言えば当然なのだろうか、無線機での連絡から、俺が割り当てられていたグループもすでに活動を体験し終えたことを知った。
ようやく俺たちは出発地点へ戻り、スタッフ用の通路から外へ出た。そしてちょうどそのとき、俺は待っている人々の中に端月を見つけた。だが、現場には先ほどより七、八割ほど人が少なくなっていて、おそらくほかの人たちは別の場所へ行ったのだろう。
端月を見た瞬間、俺の心はようやく本当に落ち着いた。だが、俺と端月の視線が交わると、彼女は重苦しい表情で視線を逸らした。
俺は困惑したが、その後、ようやく考えられる理由に気づき、隣にいた先輩に一つお願いをした。
先輩は一人の先輩を呼び、俺の頼みを説明すると、その先輩も快く了承してくれた。
俺は端月のもとへ歩いていった。彼女は移動するつもりはないようだったが、俺の視線に正面から応えることもなかった。




