4話「チー牛、恋と勘違いの果てに、心の限界を知る」
収穫前祭の朝、真壁恒一は、宿の洗面台代わりの水桶をのぞき込みながら、心の底から「いや、別に今日はそういう日じゃない」と自分に言い聞かせていた。
水面に映る顔は、相変わらずだった。
急に整うわけでもない。異世界補正とか、主人公補正とか、そういう便利なものはこの世界に来てから一度も発動していない。髪を手で整えたところで、せいぜい「少し寝癖が減った」程度の変化しかない。
それでも恒一は、いつもより少し丁寧に襟を直していた。
今日は町の収穫前祭だ。
広場には露店が並び、芸人や行商が来て、昼から夜にかけて酒と音楽でそこそこ騒がしくなるらしい。ギルドの依頼も普段より軽く、危険な討伐より、祭りの警備や迷子の保護、荷運び、酔っ払いの仲裁みたいなものが多いと聞いていた。
つまり平和だ。
平和な日には、人は余計なことを考える。
恒一がここ数日、少しだけ調子に乗っていたのも事実だった。
異世界に来たばかりの頃よりはましになった。ギルドでも完全な厄介者ではなくなり、リゼットやドン爺と動くことも増え、役に立てる場面も出てきた。ラグナ村の一件以降、少なくとも「いてもいなくても同じ」ではないと、自分でも思えるようになってきている。
町の子どもに声をかけられることもある。
ギルドで荷物を運んでいると、誰かが「そっち頼む」と当然のように頼んでくることもある。
受付のイリナも、前よりは少しだけ話しやすくなった、気がする。
気がする、というのが危険だった。
【現在のあなたの限界】
・客観性:やや低下
・「最近ちょっと認められてきたのでは」期待:上昇中
・祭りによる浮かれ:それなり
「毎回ほんとうるさいな……」
小さく言ってから、恒一は肩を回した。
今日は軽い依頼だと聞いている。なら多少、心に余裕があるのも仕方ない。祭りなのだから、少しはそれっぽい気分になっても許されるはずだ。
そう思いながらギルドへ向かう道を歩くと、町はもう普段とは違う空気に包まれていた。
通りの上に色布が張られ、店先には香草を編んだ飾りが下がっている。いつもは朝からしかめ面の商人たちも、今日は半分くらい表情が緩んでいた。焼いた串肉の匂いと甘い菓子の匂いが風に混ざり、露店の準備をする音がそこらじゅうで鳴っている。
ギルドの中も同じだった。
酒場の机は半分ほど片づけられ、掲示板には軽い依頼が並ぶ。酔客の相手、迷子の保護、広場周辺の見回り、喧嘩の仲裁。派手さはないが、人手は必要なものばかりだ。
受付カウンターの奥で、イリナがいつものように書類を整理していた。
栗色の髪をきっちり結い上げた、隙のない仕事ぶりは変わらない。ただ今日は髪留めの飾りが少しだけ明るい色で、それが祭りの空気に妙に合っていた。
恒一はそのことに気づいて、気づいた自分が少し嫌になった。
こういうところを見てしまうと、あとで勝手に意味を増やしてしまいそうだからだ。
「おはようございます」
できるだけ自然に言う。
イリナは顔を上げて微笑んだ。
「おはようございます、コーイチさん。今日は早いですね」
「まあ、祭りなんで」
「そうですね。見回り補助、お願いできますか?」
業務連絡だった。
わかっている。
わかっているのに、恒一の心のどこかは、その自然な応対だけで少し浮いた。
「できます。どの辺を?」
「東広場から南通りまでです。リゼットさんと一緒にお願いします」
そこで現実へ戻る。
当然だ。自分が単独で任されるわけではない。
だが、イリナはそこで少しだけ目を細めた。
「何ですか?」
「いえ、今日はちょっと雰囲気違うなと思って」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
「え」
「髪、整えました?」
終わった、と思った。
この程度の一言で勝手に意識してしまう自分が、あまりにも単純すぎて終わっている。
「まあ……ちょっとだけ」
「いいと思いますよ。祭りですし」
それだけである。
それだけなのに、恒一の中で「いいと思いますよ」が妙に反響した。
【現在のあなたの限界】
・この一言を必要以上に重く受け取る危険:高
・事実:髪型への社交辞令的コメント
・深読み:推奨されません
推奨されません、じゃないんだよ。
推奨されなくても、人間は勝手に深読みする生き物なんだよ。
そこへ、横から低い声が入った。
「朝から何その顔」
リゼットだった。
今日はいつもの軽装だが、腰に巻いた布だけ少し色が入っている。赤茶色の刺繍が細く走り、普段より少しだけ華やかだ。ほんの少しの違いなのに、祭りのせいか妙に目についた。
恒一が一瞬そちらを見たのを、彼女は見逃さなかったらしい。
「何」
「いや、別に」
「言っとくけど、祭り仕様なのは動きやすさと見た目の両立で、別に誰かに見せたいとかじゃないから」
「何も言ってないだろ」
「顔に書いてあるのよ」
怖い。
本当にこの女はそういうところが怖い。
見回りの依頼は、平和だが平和なりに忙しかった。
東広場では子どもが走り回り、酒を飲んだ大人が朝から機嫌よく肩を組み、露店の主人が場所取りでもめる。危険な討伐より体力は使わないが、人間相手のめんどうさが凝縮されていた。
恒一は最初の一時間で、迷子の子どもを二人親元へ戻し、酔った男同士の言い争いを一件、リゼットの後ろから「まあまあ」と言って悪化させかけ、さらに焼き菓子屋の主人から「手伝うならちゃんと持て」と怒られた。
祭りの平和は、決して穏やかさと同義ではない。
それでも、どこか楽しかった。
町の人間が普段よりずっと表情豊かで、多少の失敗も祭りの勢いで流れていく感じがある。子どもたちの笑い声も多く、剣を抜かなくていい一日というだけで、空気の重さがまるで違った。
昼前、広場の噴水近くで一息ついたとき、リゼットが串焼きを片手に言った。
「今日は妙に機嫌いいわね」
「悪いよりいいだろ」
「気持ち悪いくらい前向き」
「そこまで?」
「そこまで」
彼女は容赦がない。
だが、口調ほど突き放してはいなかった。祭りだからか、彼女自身も少しだけ緩んでいる気がする。
「だって平和じゃん、今日は」
「平和な日の方が人は面倒よ」
「それはもう今朝から思ってる」
「でしょ」
そこでリゼットはふいに恒一を見る。
「……でもまあ、最初の頃よりはまし」
「何が」
「人と話すときの気持ち悪さ」
「ちょっと待てよ、褒めてんのかそれ」
「半分くらいは」
半分くらい。
しかし、リゼット基準ではかなり良い方なのはわかった。
こういう小さな会話の積み重ねが、恒一の中でよくない方向の希望を育てていく。
リゼットは辛辣だが見捨てない。
イリナは仕事として丁寧だが、前よりは少し会話が自然になってきた気がする。
町の空気も明るい。
自分も少しずつここに馴染めている。
もしかして。
もしかして、自分ももう少し――
【現在のあなたの限界】
・根拠の薄い自己評価上昇:進行中
・「異世界での俺、わりと悪くないのでは」思考:危険
・祭り補正を実力と誤認する可能性:高
黙れ。
午後、見回りの持ち場が変わり、恒一は一時的に単独で南通りを巡ることになった。完全な単独行動ではなく、広場の反対側にリゼットがいて、何かあればすぐ呼べる距離ではある。それでも「一人で任されている」感覚が少し嬉しい。
そんな折だった。
飾り布の陰になった細い路地で、声をかけられた。
「あなた、ギルドの人よね?」
振り向くと、若い女が立っていた。
年は恒一と同じくらいか、少し上。祭り用の淡い色の服を着て、髪には細い銀糸の飾りを編み込んでいる。整った顔立ちに、柔らかい笑み。少なくともこの町で見かける娘たちの中でもかなり目を引く方だ。
恒一は一瞬、言葉を失った。
「え、あ、はい」
「よかった。ちょっと困ってて」
声まで柔らかい。
こんなの、絶対によくない。
少なくとも自分のような人間にとって、急に発生していいイベントではない。
【現在のあなたの限界】
・平常心:急低下
・「え、何これ」混乱:上昇中
・ここで冷静に対応できる可能性:低め
「何かあったんですか」
声が少し上ずった。
だが女は気にした様子もなく言う。
「祭りの広場で待ち合わせをしてたんだけど、連れとはぐれちゃって。しかも少し変な人につきまとわれて」
見ると、たしかに路地の角の向こうに、こちらをうかがう男の影がある。
酔っているのか、顔が赤い。
「だから、少しだけ一緒に歩いてもらえない? ギルドの人なら安心だし」
恒一の脳内で、何かが爆発した。
いや待て。
落ち着け。
これは仕事だ。
困っている人を助けるのは当然のことだ。
そう、仕事。
仕事なのだが、それでも「ギルドの人なら安心」という言葉は、びっくりするくらい気分を良くさせた。
「もちろんです」
少し低い声が出た。
やめろ。
今のは完全に格好つけた声だった。
女は安心したように笑う。
「ありがとう。助かる」
その笑顔がいけなかった。
恒一は女を広場の方へ案内しながら、脳の片隅でずっと警鐘を鳴らされていた。
こんな都合のいいことがあるか?
祭りの日に、綺麗な娘から声をかけられて、一緒に歩いてくれと言われる?
あるとしても、自分に?
だがもう一つの脳は、その疑問に対して即座に反論する。
いや、ないわけじゃない。
自分だってギルドの補助として動いているし、少しは信用されてきたのかもしれない。
今の自分なら、こういうことがあってもおかしくないのでは。
異世界で少しずつ居場所ができてきた結果として。
つまり、認められ始めているのでは。
【現在のあなたの限界】
・理性:抵抗中
・承認欲求:かなり元気
・危険:都合のいい解釈が加速しています
加速している自覚はあった。
あったのに、止まらない。
女は名をフィアと名乗った。
町の外から来た行商人の親類で、祭り見物に来たのだという。話し方は穏やかで、よく笑う。しかも、恒一が少し言葉に詰まってもちゃんと拾ってくれる。これはまずい。すごくまずい。
「あなた、この町の人じゃないわよね?」
「え、わかります?」
「少しだけ。でも、今はもう馴染んでる感じがする」
それはだめだ。
その手の褒め方はだめだ。
刺さるから。
恒一はたぶん、そのあたりから完全に浮かれ始めていた。
フィアの話に相槌を打ち、少し冗談めいた返しまでしている自分に、どこかで「おや?」と思った。あれ、自分、こんなに自然に喋れる人間だったか。もしかして、相手次第では普通に感じよくいけるのでは?
やはり、今まで環境が悪かっただけで――
その瞬間、視界に大きく文字が走った。
【対象:フィア】
・好意:不明瞭
・会話誘導:高い
・あなたの承認欲求を刺激する発言傾向:強い
・警戒を推奨
恒一の足が少し止まる。
「どうしたの?」
「いや……」
女は首を傾げる。
その仕草すら整いすぎていて、逆に不自然に見えてきた。
好意が不明瞭。
会話誘導が高い。
承認欲求を刺激する発言傾向。
そんな表示、今まで出たことがない。
少なくともここまで露骨なのは初めてだ。
「連れって、どこで待ってるんですか」
慎重に訊くと、女は少しだけ目を瞬いた。
「広場の時計塔の近く、だったかな」
「だったかな?」
「人が多くて、ちょっと混乱しちゃって」
曖昧だ。
さっきから細かいところが曖昧すぎる。
しかも、いつの間にかかなり人通りの少ない方へ誘導されている。広場から離れている。恒一の背中に冷たいものが走った。
「……ちょっと待ってください」
女は笑顔のまま、ほんのわずかに表情を止めた。
「何?」
「あなた、本当に誰かとはぐれたんですか」
その瞬間、空気が変わった。
女の笑顔がそのままの形で、温度だけが消える。
ひどく不自然な無表情だった。
「勘のいい人、嫌いじゃないわ」
声色まで少し違った。
柔らかさが消え、どこか乾いた響きになる。
「でも、もう少し遅く気づいてくれた方が楽だったのに」
次の瞬間、路地の向こうの景色が揺らいだ。
露店の色布が溶けるように流れ、石畳の色がずれる。目の前の女の輪郭まで、水面のように波打った。
幻術だ、と恒一は理解した。
【対象:フィア】
・正体:幻術師
・狙い:対象の警戒を解き、誘導
・恋愛感情:ありません
・かなりありません
「最後の一行いる!?」
思わず叫んだ。
幻術師は笑った。
「何それ、誰と喋ってるの」
答える余裕はなかった。
彼女――いや、そいつが指を鳴らすと、路地の奥の空間がさらに歪み、恒一の視界に別の景色が流れ込んできた。
広い広場。
歓声。
自分を囲む人々。
真ん中に立つのは、自分だ。
服は今より少し整っていて、背筋も伸び、顔つきまで妙に自信に満ちている。周囲の人間がこちらを見て、感心したように、好意的に、期待を込めて笑っている。
リゼットがいる。
今より少し柔らかい顔でこちらを見ている。
イリナもいる。仕事用の微笑みではなく、もっと個人的な、親しい笑みで。
町の子どもたちが「コーイチ兄ちゃん」と集まり、ギルドの冒険者たちが肩を叩く。
その中で、幻術師の声だけが耳元で甘く囁く。
「これが欲しいんでしょう?」
心臓が嫌な音を立てた。
「認められて、頼られて、ちゃんと格好よく見られる自分。少し頑張ったくらいじゃ手に入らないものを、一気に欲しかったんでしょう?」
やめろ、と思った。
だが目を逸らせない。
幻は、都合がよかった。
あまりにも都合がよすぎる。
リゼットは自分に辛辣ではなく、ちゃんとわかりやすく好意的だ。
イリナは業務以上の関心を向けている。
ギルドの連中も、昔のように笑ったりせず、最初からこちらを評価している。
強くて、頼られて、ちゃんと中心にいる自分。
欲しくないはずがなかった。
こんなもの、欲しいに決まっている。
【現在のあなたの限界】
・承認欲求への耐性:低下
・この幻を信じたい気持ち:高い
・ここで流されると後悔します
幻の中で、リゼットがこちらへ手を差し出した。
「行くわよ、コーイチ」
声まで柔らかい。
こんなの、自分の知っているリゼットではない。
なのに、それが少し嬉しいと思ってしまう自分がいる。
イリナも言う。
「やっぱり、あなたは特別でしたね」
違う。
違うのに、聞きたい言葉だった。
恒一は歯を食いしばった。
苦しい。情けない。腹が立つ。自分に対して。
これが全部、図星だからだ。
恋だと思っていたものの中に、どれだけ承認欲求が混じっていたのか。好かれたいのではなく、好かれる自分でいたいだけだったのではないか。格好いい主人公みたいに、ちゃんと中心にいて、認められて、そういう自分を手に入れたいだけだったのではないか。
フィアの幻は、その最悪のところを正確に突いていた。
「……ふざけんな」
掠れた声が出た。
幻のリゼットが微笑む。
幻のイリナが頷く。
どちらも、あまりにも都合がいい。
「ふざけんなよ」
恒一は一歩下がった。
幻術師の眉がわずかに動く。
「それ、そんな顔しないからな」
「何?」
「リゼットはそんな簡単に優しくしないし、イリナさんはそんな距離の詰め方しない」
自分で言って、少しだけ胸が痛かった。
でも本当だ。
「みんな、そんな都合よく俺の欲しい言葉言わないんだよ」
言葉にするたび、幻の輪郭が少しだけ歪む。
それは希望を手放す痛みというより、嘘を嘘として認める痛みに近かった。
「俺が欲しいの、恋愛とか以前に……」
そこで、ようやく自分の口から本音が出た。
「ただ、ちゃんと認められたいだけじゃん……」
格好悪い告白だった。
誰に言うでもない、自分への白状だ。
その瞬間、幻がひび割れた。
広場も歓声も、柔らかな笑顔も、薄いガラスみたいに砕けて消えていく。
フィアの顔が露骨に歪む。
「最悪ね。こういうの、自分で認めるタイプなんだ」
「俺も最悪だと思ってるよ」
恒一は息を吐いた。
頭が重い。心も重い。けれど、さっきまでよりはずっと視界がはっきりしていた。
【対象:フィア】
・幻術維持:不安定
・近接戦闘:低め
・逃走傾向:高い
たぶん、こいつは正面から戦うタイプではない。
なら今やるべきことは一つだ。
「リゼット!」
全力で叫ぶ。
肺が痛いほどの声だった。
次の瞬間、路地の入口から風のようにリゼットが踏み込んできた。
細剣が一閃し、フィアは舌打ちしながら後ろへ跳ぶ。完全には避けきれず、外套の裾が裂けた。
「祭りの日にしょぼい手口使ってんじゃないわよ」
リゼットの声は冷たい。
彼女の背後では、少し遅れてドン爺も杖を構えていた。広場での異変に気づいて追ってきたのだろう。
「コーイチ、大丈夫?」
珍しくストレートな問いだった。
恒一は少しだけ息を整え、「たぶん」と答える。
フィアは状況の悪さを悟ったのか、苦い顔で後退する。
「面倒。普通もう少し簡単に引っかかるのに」
「引っかかったよ、かなり」
恒一は正直に言った。
その正直さに、フィアが少しだけ目を丸くする。
「へえ」
「でも、だからこそバレた」
強がりではない。
たぶん本当だった。
自分の欲しいものを正確に見せられたからこそ、逆に「こんなに都合がいいのはおかしい」と気づけたのだ。
ドン爺が杖を軽く振る。
火花が路地の壁を弾き、フィアの逃げ道を狭める。
「諦めい、小娘。祭りで人の心を釣るなら、もう少し精度を上げんといかんぞ」
「年寄りに説教される筋合いないわ」
フィアは苛立ったように言い返し、路地の上の壁へ手をついた。ひらりと飛び上がる。だがリゼットがその着地点へ先回りし、剣を突きつけた。
数秒の睨み合いのあと、フィアはようやく両手を上げた。
「はいはい、降参。今日は外れだったってわけね」
「今日は、じゃないでしょ」
リゼットは冷たく言う。
「人の心弄ぶ仕事なんて、だいたい外れよ」
捕縛されたフィアは、祭りの騒ぎに紛れて旅行者や若い見習い冒険者を狙い、財布や装飾品を盗む常習犯だったらしい。恋愛感情そのものより、「自分を特別扱いしてくれる相手」に弱い人間を見抜いて、幻術で誘導していたのだという。
ギルドへ連行されたあと、イリナが事情聴取の書類をまとめながら言った。
「被害者、けっこう多かったみたいです。皆さん、口を揃えて“相手が自分にだけ親しげだった”って」
恒一は何とも言えない顔になった。
その列に自分も危うく並びかけたわけで、笑えない。
リゼットは腕を組み、遠慮なく言う。
「まあ、お前は特に引っかかりやすそうだったわね」
「否定できないのがつらい」
「否定しなさいよ少しは」
「無理だろ、あれは……」
イリナが小さく首を傾げる。
「どんな幻だったんですか?」
恒一は固まった。
言えるわけがない。自分が都合よく認められて、格好よく見られて、好意を向けられる幻でした、などと口にしたら二度と立ち直れない。
「いや、その……」
言い淀むと、ドン爺が愉快そうに笑った。
「ほれ、言うてみい。美女に囲まれて英雄扱いでもされておったか?」
「何で当てるんだよ!」
「顔に書いてあるわい」
最悪だった。
リゼットは呆れたように息を吐いた。
だが完全に見放した顔ではない。
「ねえ、コーイチ」
「何」
「お前、自分を好きになってくれる誰かが欲しいんじゃなくて、自分を好きになれる理由が欲しかったんでしょ」
言葉が刺さる、というのはこういうことを言うのだと思った。
一瞬、呼吸が止まるくらい正確だった。
恒一は何も返せなかった。
返せないこと自体が答えみたいで、余計につらい。
リゼットはそれ以上追い打ちをかけなかった。
ただ淡々と続ける。
「別にそれ自体は変じゃない。誰だって、自分をまともだと思える根拠は欲しい」
「……うん」
「でも、それを他人からもらおうとしすぎると、今日みたいなのに釣られる」
恒一はうなずいた。
反論の余地がなかった。
祭りの警備はその後も続いたが、恒一の頭の中は半分くらいさっきのことで埋まっていた。
露店の間を歩いても、音楽が聞こえても、何となく自分の情けなさが後ろをついてくる。
それでも仕事は仕事だ。
迷子を親に返し、酔っ払いを座らせ、露店同士の小競り合いを止める。その合間にも、リゼットは普通に指示を出してきたし、イリナも普段通りに仕事を振ってきた。
不思議なことに、それが少し救いだった。
自分の中では大きな衝撃でも、世界はそこまで大げさに扱わない。恥をかいても、情けない本音を自覚しても、それで即退場にはならない。
日が落ちて、祭りの広場に灯りがともるころ、ようやく一段落ついた。
仕事はほぼ終わりで、あとは大きな騒ぎがなければ見回りを緩めていい。リゼットは屋台の端で串焼きを買い、ひとつを恒一へ投げてよこした。
「ほら」
「え、いいの」
「一応、今日は囮として役に立ったし」
「言い方」
「嫌なら返して」
「返しません」
串焼きは熱く、香草の匂いが強かった。
噛むと肉汁が出て、妙に腹に沁みる。
しばらく無言で食べてから、恒一はぽつりと言った。
「俺さ」
「うん」
「恋愛したいとか、好かれたいとか、そういうのもたぶんあるんだけど」
「あるんだ」
「茶化すなよ」
「してない」
「……でもそれより、認められたい方がでかかったんだなって、今日わかった」
夜の灯りが、広場の石畳に揺れていた。
笛の音が遠くで鳴っている。笑い声もする。祭りはまだ続いていた。
「格好いいとか、頼られるとか、ああいう自分になりたいだけで、その証明として誰かに好かれたいって思ってたのかも」
言葉にすると、かなり情けない。
けれど今日は、妙に変な見栄を張る気になれなかった。
リゼットは少し考えてから言った。
「順番が逆だったのね」
「逆?」
「誰かに好かれたから自分を認められるんじゃなくて、自分で少し認められるようになった人間の方が、結果的にちゃんと人と向き合えるってこと」
その言い方は、厳しいようでいて、突き放してはいなかった。
「今のお前、まだその途中って感じ」
「途中か……」
「むしろ、やっと入口じゃない?」
ひどい。
だがたぶん、その通りだった。
帰り道、ギルドの裏手でドン爺が待っていた。
どこからか酒を調達してきたらしく、小瓶を片手にご機嫌である。
「どうじゃ、祭りの恋模様は」
「最悪でしたよ」
「ほっほ。知っとる」
「知らなくていいんだよそういうのは」
ドン爺は楽しそうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「まあ、悪くない日じゃったろ」
「どこがです」
「欲しいものがわかった日じゃ」
老人は瓶を揺らす。
月明かりがその表面に反射した。
「人は案外、自分が何を欲しがっとるか、はっきり知らんまま生きる。おぬしは今日、自分が恋だと思っとったものの中に、承認欲求が混ざっとると知った。痛いが、進んどる証拠じゃ」
恒一は少し黙った。
この老人は、ふざけているくせに、たまにこういうことを言う。
「進んでるのかな」
「進んどる。派手ではないがの」
「ほんと地味だよな、俺の成長」
「おぬし、派手さにこだわりすぎなんじゃ」
それもその通りだった。
夜、宿の部屋に戻った恒一は、寝台へ倒れ込む前に窓を開けた。
外からはまだ祭りの音が少しだけ届く。遠い笛、笑い声、誰かの歌。平和な町の音だ。
今日、自分は恥をかいた。
かなり深いところを突かれて、しかも図星だった。
だが、それで全部が終わったわけではない。リゼットもイリナもドン爺も、普通に自分を扱った。情けないところを見せたあとでも、明日になればまた依頼は来るし、仕事も続く。
それが少しだけ、救いだった。
視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。
【本日のあなたの限界】
・恋愛耐性:低め
・承認欲求の隠蔽:失敗
・都合のいい幻想への抵抗:最終的には成功
・総評:欲しかったのは恋より拍手でした
「言い方!」
思わず声が出た。
だが、言い返しながら自分でも少し笑ってしまう。
拍手。
たしかにそうだ。
恋もあったかもしれないが、それ以上に、自分は誰かに「お前はちゃんとしてる」と言ってほしかったのだろう。格好いいと、役に立つと、いていいのだと、そういう証明が欲しかった。
けれど、それを全部他人からもらおうとしたら、今日みたいに簡単に揺らぐ。
なら、少しずつでも、自分で積み上げていくしかないのだ。
役に立った日を覚えておくとか。
失敗しても全部終わりじゃないと知るとか。
そういう地味で、拍手の鳴らないやり方で。
異世界に来てから初めての祭りの夜、真壁恒一は、自分が欲しかったのは恋愛そのものより、認められる実感だったのだと知った。
それはあまりにも格好悪い本音で、できればずっと認めたくなかった種類のものだった。
けれど認めてしまった以上、もう少しだけましな方向へ進める気もした。
祭りの音はまだ遠くで続いている。
誰かに見せるためではなく、自分がちゃんとここにいると確かめるために、恒一は目を閉じた。
その夜の眠りは、少し痛くて、少しだけ軽かった。




