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チー牛、限界を知る。  作者: 七七街


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4話「チー牛、恋と勘違いの果てに、心の限界を知る」

 収穫前祭の朝、真壁恒一は、宿の洗面台代わりの水桶をのぞき込みながら、心の底から「いや、別に今日はそういう日じゃない」と自分に言い聞かせていた。


 水面に映る顔は、相変わらずだった。

 急に整うわけでもない。異世界補正とか、主人公補正とか、そういう便利なものはこの世界に来てから一度も発動していない。髪を手で整えたところで、せいぜい「少し寝癖が減った」程度の変化しかない。


 それでも恒一は、いつもより少し丁寧に襟を直していた。


 今日は町の収穫前祭だ。

 広場には露店が並び、芸人や行商が来て、昼から夜にかけて酒と音楽でそこそこ騒がしくなるらしい。ギルドの依頼も普段より軽く、危険な討伐より、祭りの警備や迷子の保護、荷運び、酔っ払いの仲裁みたいなものが多いと聞いていた。


 つまり平和だ。

 平和な日には、人は余計なことを考える。


 恒一がここ数日、少しだけ調子に乗っていたのも事実だった。

 異世界に来たばかりの頃よりはましになった。ギルドでも完全な厄介者ではなくなり、リゼットやドン爺と動くことも増え、役に立てる場面も出てきた。ラグナ村の一件以降、少なくとも「いてもいなくても同じ」ではないと、自分でも思えるようになってきている。


 町の子どもに声をかけられることもある。

 ギルドで荷物を運んでいると、誰かが「そっち頼む」と当然のように頼んでくることもある。

 受付のイリナも、前よりは少しだけ話しやすくなった、気がする。


 気がする、というのが危険だった。


【現在のあなたの限界】

・客観性:やや低下

・「最近ちょっと認められてきたのでは」期待:上昇中

・祭りによる浮かれ:それなり


「毎回ほんとうるさいな……」


 小さく言ってから、恒一は肩を回した。

 今日は軽い依頼だと聞いている。なら多少、心に余裕があるのも仕方ない。祭りなのだから、少しはそれっぽい気分になっても許されるはずだ。


 そう思いながらギルドへ向かう道を歩くと、町はもう普段とは違う空気に包まれていた。


 通りの上に色布が張られ、店先には香草を編んだ飾りが下がっている。いつもは朝からしかめ面の商人たちも、今日は半分くらい表情が緩んでいた。焼いた串肉の匂いと甘い菓子の匂いが風に混ざり、露店の準備をする音がそこらじゅうで鳴っている。


 ギルドの中も同じだった。

 酒場の机は半分ほど片づけられ、掲示板には軽い依頼が並ぶ。酔客の相手、迷子の保護、広場周辺の見回り、喧嘩の仲裁。派手さはないが、人手は必要なものばかりだ。


 受付カウンターの奥で、イリナがいつものように書類を整理していた。

 栗色の髪をきっちり結い上げた、隙のない仕事ぶりは変わらない。ただ今日は髪留めの飾りが少しだけ明るい色で、それが祭りの空気に妙に合っていた。


 恒一はそのことに気づいて、気づいた自分が少し嫌になった。

 こういうところを見てしまうと、あとで勝手に意味を増やしてしまいそうだからだ。


「おはようございます」


 できるだけ自然に言う。

 イリナは顔を上げて微笑んだ。


「おはようございます、コーイチさん。今日は早いですね」


「まあ、祭りなんで」


「そうですね。見回り補助、お願いできますか?」


 業務連絡だった。

 わかっている。

 わかっているのに、恒一の心のどこかは、その自然な応対だけで少し浮いた。


「できます。どの辺を?」


「東広場から南通りまでです。リゼットさんと一緒にお願いします」


 そこで現実へ戻る。

 当然だ。自分が単独で任されるわけではない。


 だが、イリナはそこで少しだけ目を細めた。


「何ですか?」


「いえ、今日はちょっと雰囲気違うなと思って」


 心臓が一瞬だけ跳ねた。


「え」


「髪、整えました?」


 終わった、と思った。

 この程度の一言で勝手に意識してしまう自分が、あまりにも単純すぎて終わっている。


「まあ……ちょっとだけ」


「いいと思いますよ。祭りですし」


 それだけである。

 それだけなのに、恒一の中で「いいと思いますよ」が妙に反響した。


【現在のあなたの限界】

・この一言を必要以上に重く受け取る危険:高

・事実:髪型への社交辞令的コメント

・深読み:推奨されません


 推奨されません、じゃないんだよ。

 推奨されなくても、人間は勝手に深読みする生き物なんだよ。


 そこへ、横から低い声が入った。


「朝から何その顔」


 リゼットだった。


 今日はいつもの軽装だが、腰に巻いた布だけ少し色が入っている。赤茶色の刺繍が細く走り、普段より少しだけ華やかだ。ほんの少しの違いなのに、祭りのせいか妙に目についた。


 恒一が一瞬そちらを見たのを、彼女は見逃さなかったらしい。


「何」


「いや、別に」


「言っとくけど、祭り仕様なのは動きやすさと見た目の両立で、別に誰かに見せたいとかじゃないから」


「何も言ってないだろ」


「顔に書いてあるのよ」


 怖い。

 本当にこの女はそういうところが怖い。


 見回りの依頼は、平和だが平和なりに忙しかった。

 東広場では子どもが走り回り、酒を飲んだ大人が朝から機嫌よく肩を組み、露店の主人が場所取りでもめる。危険な討伐より体力は使わないが、人間相手のめんどうさが凝縮されていた。


 恒一は最初の一時間で、迷子の子どもを二人親元へ戻し、酔った男同士の言い争いを一件、リゼットの後ろから「まあまあ」と言って悪化させかけ、さらに焼き菓子屋の主人から「手伝うならちゃんと持て」と怒られた。


 祭りの平和は、決して穏やかさと同義ではない。


 それでも、どこか楽しかった。

 町の人間が普段よりずっと表情豊かで、多少の失敗も祭りの勢いで流れていく感じがある。子どもたちの笑い声も多く、剣を抜かなくていい一日というだけで、空気の重さがまるで違った。


 昼前、広場の噴水近くで一息ついたとき、リゼットが串焼きを片手に言った。


「今日は妙に機嫌いいわね」


「悪いよりいいだろ」


「気持ち悪いくらい前向き」


「そこまで?」


「そこまで」


 彼女は容赦がない。

 だが、口調ほど突き放してはいなかった。祭りだからか、彼女自身も少しだけ緩んでいる気がする。


「だって平和じゃん、今日は」


「平和な日の方が人は面倒よ」


「それはもう今朝から思ってる」


「でしょ」


 そこでリゼットはふいに恒一を見る。


「……でもまあ、最初の頃よりはまし」


「何が」


「人と話すときの気持ち悪さ」


「ちょっと待てよ、褒めてんのかそれ」


「半分くらいは」


 半分くらい。

 しかし、リゼット基準ではかなり良い方なのはわかった。


 こういう小さな会話の積み重ねが、恒一の中でよくない方向の希望を育てていく。

 リゼットは辛辣だが見捨てない。

 イリナは仕事として丁寧だが、前よりは少し会話が自然になってきた気がする。

 町の空気も明るい。

 自分も少しずつここに馴染めている。


 もしかして。

 もしかして、自分ももう少し――


【現在のあなたの限界】

・根拠の薄い自己評価上昇:進行中

・「異世界での俺、わりと悪くないのでは」思考:危険

・祭り補正を実力と誤認する可能性:高


 黙れ。


 午後、見回りの持ち場が変わり、恒一は一時的に単独で南通りを巡ることになった。完全な単独行動ではなく、広場の反対側にリゼットがいて、何かあればすぐ呼べる距離ではある。それでも「一人で任されている」感覚が少し嬉しい。


 そんな折だった。

 飾り布の陰になった細い路地で、声をかけられた。


「あなた、ギルドの人よね?」


 振り向くと、若い女が立っていた。

 年は恒一と同じくらいか、少し上。祭り用の淡い色の服を着て、髪には細い銀糸の飾りを編み込んでいる。整った顔立ちに、柔らかい笑み。少なくともこの町で見かける娘たちの中でもかなり目を引く方だ。


 恒一は一瞬、言葉を失った。


「え、あ、はい」


「よかった。ちょっと困ってて」


 声まで柔らかい。

 こんなの、絶対によくない。

 少なくとも自分のような人間にとって、急に発生していいイベントではない。


【現在のあなたの限界】

・平常心:急低下

・「え、何これ」混乱:上昇中

・ここで冷静に対応できる可能性:低め


「何かあったんですか」


 声が少し上ずった。

 だが女は気にした様子もなく言う。


「祭りの広場で待ち合わせをしてたんだけど、連れとはぐれちゃって。しかも少し変な人につきまとわれて」


 見ると、たしかに路地の角の向こうに、こちらをうかがう男の影がある。

 酔っているのか、顔が赤い。


「だから、少しだけ一緒に歩いてもらえない? ギルドの人なら安心だし」


 恒一の脳内で、何かが爆発した。


 いや待て。

 落ち着け。

 これは仕事だ。

 困っている人を助けるのは当然のことだ。

 そう、仕事。

 仕事なのだが、それでも「ギルドの人なら安心」という言葉は、びっくりするくらい気分を良くさせた。


「もちろんです」


 少し低い声が出た。

 やめろ。

 今のは完全に格好つけた声だった。


 女は安心したように笑う。


「ありがとう。助かる」


 その笑顔がいけなかった。


 恒一は女を広場の方へ案内しながら、脳の片隅でずっと警鐘を鳴らされていた。

 こんな都合のいいことがあるか?

 祭りの日に、綺麗な娘から声をかけられて、一緒に歩いてくれと言われる?

 あるとしても、自分に?


 だがもう一つの脳は、その疑問に対して即座に反論する。

 いや、ないわけじゃない。

 自分だってギルドの補助として動いているし、少しは信用されてきたのかもしれない。

 今の自分なら、こういうことがあってもおかしくないのでは。

 異世界で少しずつ居場所ができてきた結果として。


 つまり、認められ始めているのでは。


【現在のあなたの限界】

・理性:抵抗中

・承認欲求:かなり元気

・危険:都合のいい解釈が加速しています


 加速している自覚はあった。

 あったのに、止まらない。


 女は名をフィアと名乗った。

 町の外から来た行商人の親類で、祭り見物に来たのだという。話し方は穏やかで、よく笑う。しかも、恒一が少し言葉に詰まってもちゃんと拾ってくれる。これはまずい。すごくまずい。


「あなた、この町の人じゃないわよね?」


「え、わかります?」


「少しだけ。でも、今はもう馴染んでる感じがする」


 それはだめだ。

 その手の褒め方はだめだ。

 刺さるから。


 恒一はたぶん、そのあたりから完全に浮かれ始めていた。

 フィアの話に相槌を打ち、少し冗談めいた返しまでしている自分に、どこかで「おや?」と思った。あれ、自分、こんなに自然に喋れる人間だったか。もしかして、相手次第では普通に感じよくいけるのでは?


 やはり、今まで環境が悪かっただけで――


 その瞬間、視界に大きく文字が走った。


【対象:フィア】

・好意:不明瞭

・会話誘導:高い

・あなたの承認欲求を刺激する発言傾向:強い

・警戒を推奨


 恒一の足が少し止まる。


「どうしたの?」


「いや……」


 女は首を傾げる。

 その仕草すら整いすぎていて、逆に不自然に見えてきた。


 好意が不明瞭。

 会話誘導が高い。

 承認欲求を刺激する発言傾向。


 そんな表示、今まで出たことがない。

 少なくともここまで露骨なのは初めてだ。


「連れって、どこで待ってるんですか」


 慎重に訊くと、女は少しだけ目を瞬いた。


「広場の時計塔の近く、だったかな」


「だったかな?」


「人が多くて、ちょっと混乱しちゃって」


 曖昧だ。

 さっきから細かいところが曖昧すぎる。


 しかも、いつの間にかかなり人通りの少ない方へ誘導されている。広場から離れている。恒一の背中に冷たいものが走った。


「……ちょっと待ってください」


 女は笑顔のまま、ほんのわずかに表情を止めた。


「何?」


「あなた、本当に誰かとはぐれたんですか」


 その瞬間、空気が変わった。


 女の笑顔がそのままの形で、温度だけが消える。

 ひどく不自然な無表情だった。


「勘のいい人、嫌いじゃないわ」


 声色まで少し違った。

 柔らかさが消え、どこか乾いた響きになる。


「でも、もう少し遅く気づいてくれた方が楽だったのに」


 次の瞬間、路地の向こうの景色が揺らいだ。

 露店の色布が溶けるように流れ、石畳の色がずれる。目の前の女の輪郭まで、水面のように波打った。


 幻術だ、と恒一は理解した。


【対象:フィア】

・正体:幻術師

・狙い:対象の警戒を解き、誘導

・恋愛感情:ありません

・かなりありません


「最後の一行いる!?」


 思わず叫んだ。


 幻術師は笑った。

「何それ、誰と喋ってるの」


 答える余裕はなかった。

 彼女――いや、そいつが指を鳴らすと、路地の奥の空間がさらに歪み、恒一の視界に別の景色が流れ込んできた。


 広い広場。

 歓声。

 自分を囲む人々。

 真ん中に立つのは、自分だ。


 服は今より少し整っていて、背筋も伸び、顔つきまで妙に自信に満ちている。周囲の人間がこちらを見て、感心したように、好意的に、期待を込めて笑っている。


 リゼットがいる。

 今より少し柔らかい顔でこちらを見ている。

 イリナもいる。仕事用の微笑みではなく、もっと個人的な、親しい笑みで。

 町の子どもたちが「コーイチ兄ちゃん」と集まり、ギルドの冒険者たちが肩を叩く。


 その中で、幻術師の声だけが耳元で甘く囁く。


「これが欲しいんでしょう?」


 心臓が嫌な音を立てた。


「認められて、頼られて、ちゃんと格好よく見られる自分。少し頑張ったくらいじゃ手に入らないものを、一気に欲しかったんでしょう?」


 やめろ、と思った。

 だが目を逸らせない。


 幻は、都合がよかった。

 あまりにも都合がよすぎる。


 リゼットは自分に辛辣ではなく、ちゃんとわかりやすく好意的だ。

 イリナは業務以上の関心を向けている。

 ギルドの連中も、昔のように笑ったりせず、最初からこちらを評価している。

 強くて、頼られて、ちゃんと中心にいる自分。


 欲しくないはずがなかった。

 こんなもの、欲しいに決まっている。


【現在のあなたの限界】

・承認欲求への耐性:低下

・この幻を信じたい気持ち:高い

・ここで流されると後悔します


 幻の中で、リゼットがこちらへ手を差し出した。


「行くわよ、コーイチ」


 声まで柔らかい。

 こんなの、自分の知っているリゼットではない。

 なのに、それが少し嬉しいと思ってしまう自分がいる。


 イリナも言う。


「やっぱり、あなたは特別でしたね」


 違う。

 違うのに、聞きたい言葉だった。


 恒一は歯を食いしばった。

 苦しい。情けない。腹が立つ。自分に対して。


 これが全部、図星だからだ。

 恋だと思っていたものの中に、どれだけ承認欲求が混じっていたのか。好かれたいのではなく、好かれる自分でいたいだけだったのではないか。格好いい主人公みたいに、ちゃんと中心にいて、認められて、そういう自分を手に入れたいだけだったのではないか。


 フィアの幻は、その最悪のところを正確に突いていた。


「……ふざけんな」


 掠れた声が出た。


 幻のリゼットが微笑む。

 幻のイリナが頷く。

 どちらも、あまりにも都合がいい。


「ふざけんなよ」


 恒一は一歩下がった。

 幻術師の眉がわずかに動く。


「それ、そんな顔しないからな」


「何?」


「リゼットはそんな簡単に優しくしないし、イリナさんはそんな距離の詰め方しない」


 自分で言って、少しだけ胸が痛かった。

 でも本当だ。


「みんな、そんな都合よく俺の欲しい言葉言わないんだよ」


 言葉にするたび、幻の輪郭が少しだけ歪む。

 それは希望を手放す痛みというより、嘘を嘘として認める痛みに近かった。


「俺が欲しいの、恋愛とか以前に……」


 そこで、ようやく自分の口から本音が出た。


「ただ、ちゃんと認められたいだけじゃん……」


 格好悪い告白だった。

 誰に言うでもない、自分への白状だ。


 その瞬間、幻がひび割れた。

 広場も歓声も、柔らかな笑顔も、薄いガラスみたいに砕けて消えていく。


 フィアの顔が露骨に歪む。

「最悪ね。こういうの、自分で認めるタイプなんだ」


「俺も最悪だと思ってるよ」


 恒一は息を吐いた。

 頭が重い。心も重い。けれど、さっきまでよりはずっと視界がはっきりしていた。


【対象:フィア】

・幻術維持:不安定

・近接戦闘:低め

・逃走傾向:高い


 たぶん、こいつは正面から戦うタイプではない。

 なら今やるべきことは一つだ。


「リゼット!」


 全力で叫ぶ。

 肺が痛いほどの声だった。


 次の瞬間、路地の入口から風のようにリゼットが踏み込んできた。

 細剣が一閃し、フィアは舌打ちしながら後ろへ跳ぶ。完全には避けきれず、外套の裾が裂けた。


「祭りの日にしょぼい手口使ってんじゃないわよ」


 リゼットの声は冷たい。

 彼女の背後では、少し遅れてドン爺も杖を構えていた。広場での異変に気づいて追ってきたのだろう。


「コーイチ、大丈夫?」


 珍しくストレートな問いだった。

 恒一は少しだけ息を整え、「たぶん」と答える。


 フィアは状況の悪さを悟ったのか、苦い顔で後退する。


「面倒。普通もう少し簡単に引っかかるのに」


「引っかかったよ、かなり」


 恒一は正直に言った。

 その正直さに、フィアが少しだけ目を丸くする。


「へえ」


「でも、だからこそバレた」


 強がりではない。

 たぶん本当だった。

 自分の欲しいものを正確に見せられたからこそ、逆に「こんなに都合がいいのはおかしい」と気づけたのだ。


 ドン爺が杖を軽く振る。

 火花が路地の壁を弾き、フィアの逃げ道を狭める。


「諦めい、小娘。祭りで人の心を釣るなら、もう少し精度を上げんといかんぞ」


「年寄りに説教される筋合いないわ」


 フィアは苛立ったように言い返し、路地の上の壁へ手をついた。ひらりと飛び上がる。だがリゼットがその着地点へ先回りし、剣を突きつけた。


 数秒の睨み合いのあと、フィアはようやく両手を上げた。


「はいはい、降参。今日は外れだったってわけね」


「今日は、じゃないでしょ」


 リゼットは冷たく言う。

「人の心弄ぶ仕事なんて、だいたい外れよ」


 捕縛されたフィアは、祭りの騒ぎに紛れて旅行者や若い見習い冒険者を狙い、財布や装飾品を盗む常習犯だったらしい。恋愛感情そのものより、「自分を特別扱いしてくれる相手」に弱い人間を見抜いて、幻術で誘導していたのだという。


 ギルドへ連行されたあと、イリナが事情聴取の書類をまとめながら言った。


「被害者、けっこう多かったみたいです。皆さん、口を揃えて“相手が自分にだけ親しげだった”って」


 恒一は何とも言えない顔になった。

 その列に自分も危うく並びかけたわけで、笑えない。


 リゼットは腕を組み、遠慮なく言う。


「まあ、お前は特に引っかかりやすそうだったわね」


「否定できないのがつらい」


「否定しなさいよ少しは」


「無理だろ、あれは……」


 イリナが小さく首を傾げる。

「どんな幻だったんですか?」


 恒一は固まった。

 言えるわけがない。自分が都合よく認められて、格好よく見られて、好意を向けられる幻でした、などと口にしたら二度と立ち直れない。


「いや、その……」


 言い淀むと、ドン爺が愉快そうに笑った。


「ほれ、言うてみい。美女に囲まれて英雄扱いでもされておったか?」


「何で当てるんだよ!」


「顔に書いてあるわい」


 最悪だった。


 リゼットは呆れたように息を吐いた。

 だが完全に見放した顔ではない。


「ねえ、コーイチ」


「何」


「お前、自分を好きになってくれる誰かが欲しいんじゃなくて、自分を好きになれる理由が欲しかったんでしょ」


 言葉が刺さる、というのはこういうことを言うのだと思った。

 一瞬、呼吸が止まるくらい正確だった。


 恒一は何も返せなかった。

 返せないこと自体が答えみたいで、余計につらい。


 リゼットはそれ以上追い打ちをかけなかった。

 ただ淡々と続ける。


「別にそれ自体は変じゃない。誰だって、自分をまともだと思える根拠は欲しい」

「……うん」

「でも、それを他人からもらおうとしすぎると、今日みたいなのに釣られる」


 恒一はうなずいた。

 反論の余地がなかった。


 祭りの警備はその後も続いたが、恒一の頭の中は半分くらいさっきのことで埋まっていた。

 露店の間を歩いても、音楽が聞こえても、何となく自分の情けなさが後ろをついてくる。


 それでも仕事は仕事だ。

 迷子を親に返し、酔っ払いを座らせ、露店同士の小競り合いを止める。その合間にも、リゼットは普通に指示を出してきたし、イリナも普段通りに仕事を振ってきた。


 不思議なことに、それが少し救いだった。

 自分の中では大きな衝撃でも、世界はそこまで大げさに扱わない。恥をかいても、情けない本音を自覚しても、それで即退場にはならない。


 日が落ちて、祭りの広場に灯りがともるころ、ようやく一段落ついた。

 仕事はほぼ終わりで、あとは大きな騒ぎがなければ見回りを緩めていい。リゼットは屋台の端で串焼きを買い、ひとつを恒一へ投げてよこした。


「ほら」


「え、いいの」


「一応、今日は囮として役に立ったし」


「言い方」


「嫌なら返して」


「返しません」


 串焼きは熱く、香草の匂いが強かった。

 噛むと肉汁が出て、妙に腹に沁みる。


 しばらく無言で食べてから、恒一はぽつりと言った。


「俺さ」

「うん」

「恋愛したいとか、好かれたいとか、そういうのもたぶんあるんだけど」

「あるんだ」

「茶化すなよ」

「してない」

「……でもそれより、認められたい方がでかかったんだなって、今日わかった」


 夜の灯りが、広場の石畳に揺れていた。

 笛の音が遠くで鳴っている。笑い声もする。祭りはまだ続いていた。


「格好いいとか、頼られるとか、ああいう自分になりたいだけで、その証明として誰かに好かれたいって思ってたのかも」


 言葉にすると、かなり情けない。

 けれど今日は、妙に変な見栄を張る気になれなかった。


 リゼットは少し考えてから言った。


「順番が逆だったのね」

「逆?」

「誰かに好かれたから自分を認められるんじゃなくて、自分で少し認められるようになった人間の方が、結果的にちゃんと人と向き合えるってこと」


 その言い方は、厳しいようでいて、突き放してはいなかった。


「今のお前、まだその途中って感じ」


「途中か……」


「むしろ、やっと入口じゃない?」


 ひどい。

 だがたぶん、その通りだった。


 帰り道、ギルドの裏手でドン爺が待っていた。

 どこからか酒を調達してきたらしく、小瓶を片手にご機嫌である。


「どうじゃ、祭りの恋模様は」


「最悪でしたよ」


「ほっほ。知っとる」


「知らなくていいんだよそういうのは」


 ドン爺は楽しそうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。


「まあ、悪くない日じゃったろ」


「どこがです」


「欲しいものがわかった日じゃ」


 老人は瓶を揺らす。

 月明かりがその表面に反射した。


「人は案外、自分が何を欲しがっとるか、はっきり知らんまま生きる。おぬしは今日、自分が恋だと思っとったものの中に、承認欲求が混ざっとると知った。痛いが、進んどる証拠じゃ」


 恒一は少し黙った。

 この老人は、ふざけているくせに、たまにこういうことを言う。


「進んでるのかな」


「進んどる。派手ではないがの」


「ほんと地味だよな、俺の成長」


「おぬし、派手さにこだわりすぎなんじゃ」


 それもその通りだった。


 夜、宿の部屋に戻った恒一は、寝台へ倒れ込む前に窓を開けた。

 外からはまだ祭りの音が少しだけ届く。遠い笛、笑い声、誰かの歌。平和な町の音だ。


 今日、自分は恥をかいた。

 かなり深いところを突かれて、しかも図星だった。

 だが、それで全部が終わったわけではない。リゼットもイリナもドン爺も、普通に自分を扱った。情けないところを見せたあとでも、明日になればまた依頼は来るし、仕事も続く。


 それが少しだけ、救いだった。


 視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。


【本日のあなたの限界】

・恋愛耐性:低め

・承認欲求の隠蔽:失敗

・都合のいい幻想への抵抗:最終的には成功

・総評:欲しかったのは恋より拍手でした


「言い方!」


 思わず声が出た。

 だが、言い返しながら自分でも少し笑ってしまう。


 拍手。

 たしかにそうだ。

 恋もあったかもしれないが、それ以上に、自分は誰かに「お前はちゃんとしてる」と言ってほしかったのだろう。格好いいと、役に立つと、いていいのだと、そういう証明が欲しかった。


 けれど、それを全部他人からもらおうとしたら、今日みたいに簡単に揺らぐ。

 なら、少しずつでも、自分で積み上げていくしかないのだ。

 役に立った日を覚えておくとか。

 失敗しても全部終わりじゃないと知るとか。

 そういう地味で、拍手の鳴らないやり方で。


 異世界に来てから初めての祭りの夜、真壁恒一は、自分が欲しかったのは恋愛そのものより、認められる実感だったのだと知った。


 それはあまりにも格好悪い本音で、できればずっと認めたくなかった種類のものだった。

 けれど認めてしまった以上、もう少しだけましな方向へ進める気もした。


 祭りの音はまだ遠くで続いている。

 誰かに見せるためではなく、自分がちゃんとここにいると確かめるために、恒一は目を閉じた。


 その夜の眠りは、少し痛くて、少しだけ軽かった。

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