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チー牛、限界を知る。  作者: 七七街


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5/5

5話「チー牛、世界を救えないと知って、それでも手を伸ばす」


 王都近郊の街道が、朝から妙に騒がしかった。


 収穫前祭から六日後。

 真壁恒一は、ギルドの掲示板の前でざわつく人の背中を見ながら、「こういう時って絶対ろくでもない依頼なんだよな」と思っていた。最近ようやく、異世界の空気の変化にはそれなりに慣れてきた。平和なざわめきと、面倒ごとのざわめきは少し違う。今のこれは後者だ。


 掲示板の前には、普段は軽口を叩いている冒険者たちまで険しい顔で集まっている。受付の奥ではイリナを含む職員たちが慌ただしく書類を回し、奥の扉から支部長らしき男まで出てきていた。


 リゼットが腕を組み、掲示板の上段を見て小さく舌打ちする。


「最悪」


「何」


 恒一が横から覗き込むと、依頼書の文字が目に入った。


 王都西方の古代遺跡群にて魔力暴走の兆候あり。

 周辺の村落に避難命令。

 ギルド登録者は等級に応じて召集。

 危険度、特級。


 その下に、見慣れない但し書きがあった。


 ――現地では正規兵・学術院・魔導技師団が共同対応中。

 ――古代魔導兵器の起動が疑われるため、無断接近禁止。


 恒一は思わず二度見した。

 古代魔導兵器。

 こういう言葉は、だいたい厄介の極みである。


「何それ」


「知らない方が幸せなやつ」


 リゼットはそう言ったが、表情はいつもの辛辣さより少し重い。冗談で済まない類の空気だ。


 そこへドン爺がふらふらと近づいてきた。

 珍しく朝から酒は持っていない。代わりに、やけに真面目な顔だった。


「古代遺跡の封印が半端に破れたらしいの。王都の学術院の連中が掘り返して、止められんようになったとか何とか」


「掘り返したって、そんな簡単にやばいやつ掘り返すのかよ」


「人は昔から、やばいものほど掘り返したがる」


 ひどい真理だった。


 恒一はもう一度依頼書を見た。

 特級。無断接近禁止。正規兵と技師団。

 明らかに、自分のような仮登録上がりが首を突っ込む規模ではない。


 そう思った瞬間、視界の端に文字が浮かぶ。


【現在のあなたの限界】

・この件の中心人物になれる可能性:低い

・英雄的活躍への期待:推奨されません

・でも無関係ではいられない可能性:高い


 その最後が、嫌だった。


「コーイチさん」


 イリナがカウンターの奥から呼ぶ。いつもより声が硬い。


「はい」


「リゼットさんとドン爺さんは現地支援班に入ります。コーイチさんは――」


 一瞬、言葉が詰まる。

 当然だ。

 当然なのだが、ほんの少しだけ胸が冷える。


「避難誘導班に回ってください。後方支援です」


 リゼットがちらとこちらを見る。

 ドン爺は何も言わない。

 イリナの判断はまったく正しい。前線ではない。遺跡攻略でもない。避難誘導。今の自分にできる範囲としては、正しい配置だ。


 だが、その正しさが少し悔しい。


「……わかりました」


 返事をした瞬間、自分の声が少し平坦すぎた気がした。


 イリナはそれに気づいたらしいが、表には出さなかった。


「西側の農村帯から人を王都手前の宿場町へ動かします。老人と子どもが多いので、途中の崩れや混乱に気をつけてください」


「はい」


「あと、絶対に前線へ行かないこと」


 その一言は、妙に重かった。

 念押しされると、逆に意識してしまう。


 リゼットは武装の確認をしながら言う。


「聞いたわね」


「聞いたよ」


「どうせ変な顔してるから言っとくけど、今回はほんとに規模が違う」


「……わかってる」


「わかってない顔してる」


 否定できないのがつらい。


 その日の午前、恒一は避難誘導班として町を出た。


 同行するのは荷車三台、村の使い走りをしている若者が二人、ギルドの下級登録者が三人。戦闘向けの編成ではなく、人をまとめて移動させるための面子だ。年寄りを荷台へ乗せ、泣く子どもをなだめ、道が悪い場所では車輪を押す。派手さはない。だが必要な仕事だ。


 そう、必要な仕事だ。

 わかっている。

 わかっているのだが、心のどこかで、もっと大きなことが起きている場所へ意識が向いてしまう。


 西方の空には、昼前から黒い雲のようなものが見えていた。

 雨雲ではない。魔力が濁ったような、光を吸う灰黒色の帯。ときおり空気が震え、遠くで地鳴りのような音がする。


 避難民の列がそれを見て怯え始める。

 子どもが泣き、大人が空を仰ぐ。

 恒一はそのたび、「大丈夫です、距離がありますから」と言いながら、自分でも半分しか信じていなかった。


【対象:避難民の群れ】

・疲労:上昇中

・恐慌の限界:中

・一度でも空から異常が見えれば混乱拡大の可能性:高


 やるべきことは明確だった。

 歩調の維持。声かけの順番。休ませる場所。崩れかけた荷車の補修。

 恒一は自分の能力を使って、誰がどこで足を止めるかを見ながら、人の流れを途切れさせないよう必死に動いた。


 それでも、心の端ではずっと別のことを考えていた。


 リゼットは大丈夫だろうか。

 ドン爺は。

 特級危険ってどこまでの規模なんだ。

 古代魔導兵器って、そんなものを相手にしている現場で、自分のいる場所は本当に正しいのか。


 夕方前、避難民の最後尾を宿場町へ通し終えたころ、それは起きた。


 西方の空で、黒い雲が裂けたのだ。


 光ではない。

 むしろ逆だ。黒い空間が縦にひび割れ、その奥から白く濁った脈動が覗く。地面が震え、宿場町の屋根瓦がかたかたと鳴る。誰かが悲鳴を上げた。


 恒一の視界に、文字が一斉に流れた。


【対象:西方遺跡群】

・封鎖の限界:超過

・暴走進行:加速

・最悪の場合の被害範囲:宿場町を含む


 血の気が引いた。


 宿場町の外れで、避難民たちが空を見上げて凍りつく。泣き声が広がり、大人たちの足が止まる。今ここでパニックになれば踏み合いになる。けれど、それ以前に、あの遺跡が本当に崩壊するなら、この宿場町すら安全ではない。


 ギルドの下級登録者の一人が叫ぶ。


「もっと東へ動かすべきだ!」


「でも老人がもう歩けない!」


「馬車も足りねえ!」


 現場が揺らぐ。


 恒一はその場で、初めてはっきり理解した。

 このままでは、いくら後方支援をしていても足りない。

 前線の崩壊がそのままこちらに届く。


 そして、視界にまた文字が出る。


【現在のあなたの限界】

・ここで後方だけ見ていて全員を救える可能性:低い

・前線に行って何とかできる可能性:それも低い

・それでも行く価値:あります


 それは命令ではなかった。

 ただの事実として表示されていた。


 恒一は歯を食いしばった。


「……ここ、頼めるか」


 隣にいた下級登録者へ言う。


「何?」


「列の管理。老人と子ども優先で、動ける奴だけ先に東へ寄せて。パニックになるやつは、とにかく座らせろ」


「お前は」


「前、見てくる」


「は!?」


 当然の反応だった。

 だがもう、頭の中では別の計算が走っていた。


 ここに残るのが正しい。

 それはわかる。

 でも、前線が壊れたら後方の正しさごと吹き飛ぶ。

 なら、自分にできる範囲で、その壊れ方を少しでも変えるしかない。


 宿場町から西へ向かう途中、空気はどんどん重くなった。

 草木の色がくすみ、土の下から微かな熱が伝わる。風はあるのに、音が少ない。鳥も虫もいない。遺跡群に近づくにつれて、世界の輪郭そのものが薄くなっていくようだった。


 やがて見えたのは、崩れた石塔群と、その中央で脈打つ巨大な光だった。


 いや、光ではない。

 黒と白のあいだみたいな、目が受け止めきれない色。

 遺跡の中心に半球状の膜が広がり、その内側で何か巨大な機構が回っている。歯車にも骨にも見える構造体。古代魔導兵器というより、世界にあってはいけない装置だ。


 その周囲で、兵と冒険者たちが必死に防衛線を張っている。

 魔物ではない。遺跡から湧いた石と金属の人形たちが、無表情にこちらへ押し寄せていた。壊しても壊しても、また別のものが起き上がる。


 そしてその中心近くに、見覚えのある背があった。

 リゼットだ。細剣を振るい、息を切らしながらも前線を支えている。

 少し離れた場所ではドン爺が杖を掲げ、大規模な魔術で防壁を維持していた。だが二人とも明らかに消耗している。


 恒一は思わず走り出しかけて、止まった。


【現在のあなたの限界】

・ここで勢いだけで飛び込んだ場合:高確率で死ぬ

・リゼットの隣で戦える可能性:ほぼない

・やるべきこと:観察と判断


 くそ、と思う。

 でも正しい。

 ここで前に出てもただの死体が増えるだけだ。


 恒一は岩陰に身を潜め、全体を見た。


 兵たちの動き。

 人形の湧き場所。

 遺跡中央の脈動。

 防壁の強弱。

 傷者の位置。

 退路。


 すると、その中で一つの存在が異様に浮かび上がった。


 中央の膜のすぐそばで、一人の男が立っている。

 黒灰の外套。長身。年は三十手前くらいか。顔色は悪いのに、その目だけが異様に冴えていた。男は片腕に黒い金属の腕輪のような器具をつけ、それを遺跡の核へ接続している。


 そして視界に文字が出る。


【対象:不明の男】

・能力:限界突破型

・代償:高

・短時間で出力を強制的に引き上げる性質

・自己崩壊の危険:極めて高い


 恒一は息を呑んだ。


 限界突破型。

 自分の能力と、あまりにも対照的な言葉だった。


 その男がこちらを向く。

 距離はあるのに、視線が合った気がした。


 次の瞬間、そいつは地面を蹴った。

 まるで音が遅れるほど速く、防壁の一角へ移動し、正規兵三人を一撃で吹き飛ばす。人間の動きではない。ありえない速度と力だ。だが同時に、腕輪の部分から黒いひびのようなものが腕へ走っていくのが見えた。


 あれは、自分を燃やしている。


 ドン爺がその一撃を見て吐き捨てる。

「まだやるか、壊れかけ!」


 男は笑う。

 ひどく乾いた笑みだった。


「壊れるから価値があるんだろうが」


 声がここまで届いた気がした。


 その瞬間、恒一は理解した。

 あれが、この事件の中心だ。

 古代魔導兵器を起動し、無理やり限界を超え続けている男。自分とは真逆の思想で動く存在。


 自分は、限界を見て止まる側だ。

 あいつは、限界が見えても踏み越える側だ。


 だから強い。

 そして、だから壊れる。


 だがその壊れ方が、ただ一人で済むわけではない。

 あいつが核を暴走させれば、この一帯ごと吹き飛ぶ。


【対象:遺跡核】

・出力:危険域

・安定維持:不可能に近い

・完全暴走まで:近い


【対象:前線全体】

・持久の限界:近い

・全滅回避のためには戦線整理が必要


 恒一は走った。

 前へではなく、横へ。

 まずリゼットのいる防壁へ回り込み、届く声で叫ぶ。


「リゼット!」


 彼女が振り向く。

 驚きと怒りが同時に顔に出た。


「何で来たの!」


「後ろがもたない! ここが飛んだら宿場町までいく!」


「だからってお前が来てどうするの!」


「全体を見る!」


 叫び返した瞬間、自分でも少し笑いそうになった。

 あまりにも地味だ。

 だがそれしかない。


 リゼットは歯を食いしばり、数秒だけ考えた。

 その間にも石人形が迫る。彼女はそれを斬り払いつつ、吐き捨てるように言う。


「だったらちゃんと役に立ちなさい!」


「やってる!」


 恒一はすぐドン爺の方へ走る。

 老人は防壁を維持しながら片目だけでこちらを睨んだ。


「来おったか阿呆」


「褒め言葉として受け取る!」


「受け取るな」


 だがその声には、完全な拒絶はなかった。


 恒一は核と戦線全体を見比べた。

 人形は無限ではない。湧きの強弱がある。核の脈動に合わせて増減している。そして男が腕輪で出力を上げるたび、核が大きく揺れ、そのタイミングで防壁の歪みも強くなる。


 つまり、男の限界突破が核の不安定化を加速させている。


 視界に線が見え始める。

 人形の波。

 兵の疲労。

 リゼットの踏み込み回数。

 ドン爺の魔力残量。

 退路の細さ。

 崩落しそうな柱。


 全部が、壊れる一歩手前でつながっていた。


「ドン爺! 次の大きい脈動のあと、防壁一度切れる!」


「見えとる!」


「切れた瞬間、東じゃなく北へ引いて!」


「北?」


「そっちの石塔、次に崩れる! 崩れたら人形の波が一瞬止まる!」


 ドン爺は舌打ちしつつも、指示を飛ばす。

 防壁の兵たちが位置をずらし、リゼットも半歩分だけ戦線を寄せる。


 次の瞬間、核が大きく脈打った。

 黒白の膜が膨らみ、防壁がきしむ。

 男が腕輪をさらに押し込み、狂ったように笑う。


「足りねえ、もっとだ!」


 その声と同時に、北側の石塔が崩れた。


 轟音。

 石人形の群れが巻き込まれ、ほんの数秒だけ波が止まる。


「今!」


 恒一の叫びに合わせて戦線が引き、傷者が後退する。

 その数秒で、前線の空気が変わった。

 ギリギリの持久が、少しだけ延びる。


 男が初めてはっきりこちらを見た。

 不快そうに目を細める。


「何だ、お前」


「お前よりは壊れてないやつだよ!」


 反射で返した。

 たぶん今のは一生に一度の決め台詞だった。

 即座に視界へ文字が出る。


【現在のあなたの限界】

・挑発の格好良さ:少し上振れ

・でも油断すると死ぬ


 うるさい。


 男は鼻で笑い、再び核へ手を伸ばす。

 すると腕輪から走るひびが肩まで届いた。皮膚が裂け、黒い光が漏れる。見た目からして、人間の体が耐えられる状態ではない。


【対象:不明の男】

・自己崩壊まで:近い

・しかし核暴走が先に来る可能性:高い


 その事実が恐ろしかった。

 あいつはもう、自分が壊れることすら止める気がない。

 それどころか、自分が壊れる前に全部巻き込んで終わらせるつもりだ。


 英雄ではない。

 でも、英雄気取りよりずっと厄介な種類の狂い方だった。


 リゼットが息を切らしながら隣へ来る。

「どうするの」


 それは、恒一に決断を預ける問いだった。

 重すぎる。

 でももう、そういう位置に来てしまっている。


 恒一は全体を見る。

 全員助けるのは無理だ、と直感した。

 今ここで、全てを守る選択肢はない。

 遺跡核を止める。

 そのためには男を核から引きはがす。

 だが正面から倒す力は、自分たちにはない。

 なら崩落と自壊を利用するしかない。


 そして視界の端に、一つだけ細い線が見えた。


【対象:南側支柱群】

・連結の限界:近い

・特定箇所への衝撃で崩落誘発可能

・崩落時、核への導線が断たれる可能性:高


 あれだ。

 でも、崩せば近くの人間も巻き込む。

 退路を先に作らなければならない。


「リゼット、全員を南東へ寄せて」


「理由」


「南側の支柱を落とす」


 彼女の目が見開く。


「正気?」


「半分くらい!」


「足りない!」


「でもあいつを核から剥がせる!」


 ドン爺が後ろで怒鳴る。

「やるなら早う決めい! こっちも限界じゃ!」


 恒一は腹を括った。


「南側の支柱を落とす! その前に南東の退路を空ける! 傷者優先、動けるやつは引きながら人形を寄せろ! リゼット、男の注意を核から一瞬だけ切って!」


「注文が多い!」


「わかってる!」


 それでも、彼女は動いた。

 そういう人だ。

 文句を言いながら、必要ならやる。


 戦線が少しずつ南東へ寄る。

 兵たちが傷者を引き、ドン爺が最後の大きめの火球で人形の波を散らす。恒一は崩落予定の支柱群を見ながら、タイミングを計った。


 男がそれに気づき、核から離れてこちらへ来ようとする。

 だがリゼットがその進路へ踏み込んだ。


「行かせると思う?」


 男の拳と、リゼットの剣がぶつかる。

 ありえない。素手で刃を受けるな。

 だが男の腕はすでに人間のものではなくなりかけていた。黒い光を散らしながら、無理やり出力を上げる。


「限界を知らねえ雑魚が、邪魔を――!」


「知ってるから止めてんのよ!」


 リゼットの叫びが響く。


 その数秒。

 それで充分だった。


「ドン爺!」


「おうよ!」


 老人の杖から雷光が走る。

 恒一が指さした支柱の継ぎ目に正確に叩き込まれ、石と金属の接合部が悲鳴のような音を立てた。すでに限界に近かった支柱群が一斉に傾く。


 男が振り向く。

 遅い。


 崩落が始まった。


 南側の支柱が連鎖的に折れ、巨大な石塊が核への導線を断ち切るように落ちる。男は跳び退こうとしたが、その瞬間、腕輪が限界を超えたらしい。黒いひびが全身へ走り、膝をつく。


 それを見て、恒一はなぜか走っていた。


 自分でも意味がわからない。

 ただ、あのままでは崩落にリゼットが巻き込まれると思ったのだ。


【現在のあなたの限界】

・ここでさらに前に出るのは推奨されません

・でも間に合う可能性:わずかにあり


 わずかなら、やるしかない。


「リゼット!」


 腕を掴む。

 彼女が驚いた顔をする。

 そのまま思い切り引く。体格差でまともに引けるはずもないが、ちょうどリゼットも後退に入っていたため、二人まとめて崩落の外側へ転がり出た。


 次の瞬間、支柱が完全に落ちた。

 轟音と砂塵。遺跡核への導線が断たれ、黒白の膜が大きく揺らぐ。男が叫び声を上げる。怒りか、苦痛か、その両方かもしれない。


 だが、終わりではなかった。


 導線を失った核は、今度は内側から暴れ始める。

 不規則に脈打ち、周囲の空間が歪む。遺跡そのものが崩れかけていた。


【対象:遺跡核】

・停止:不完全

・暴走:最終段階

・残された時間:ごくわずか


 恒一は起き上がる。

 喉の奥に鉄の味がした。

 リゼットも起き、額の血をぬぐう。


「まだ終わってない!」


「見ればわかる!」


 ドン爺が叫ぶ。

「このままでは全部吹き飛ぶぞ!」


 兵たちが退き始める。

 傷者も運ばれている。

 だが遺跡中央に近い何人かはまだ動けていない。崩落で足を取られた者、気絶した者、そして――あの男さえも、まだ核のすぐそばで倒れていた。


 恒一は一瞬、迷った。


 助けるのか。

 あれを。

 この惨事の中心を。


 その迷いの間にも、視界の文字は容赦なく並ぶ。


【対象:遺跡中央の生存者】

・全員救出:不可能

・優先順位の選択が必要


 頭が真っ白になりそうだった。

 こういうのは嫌だ。

 全部助けたいに決まっている。

 でも無理だ。

 能力がはっきりそれを示している。


 なら、選ぶしかない。


 恒一は瞬時に見た。

 気絶している兵二人。崩れた足場に引っかかった技師一人。男は自力で動ける可能性がほぼない。核の暴走まで残りわずか。リゼットとドン爺も限界に近い。


「兵二人と技師を先に!」


 叫ぶ。

 自分の声が震えたのがわかった。


「男は」


 リゼットが問う。


 恒一は息を呑み、吐いた。


「……後だ」


 その判断が正しかったのかはわからない。

 でも、今はそれしかない。


 三人で中央へ駆ける。

 リゼットが兵を抱え、恒一が技師の腕を引き、ドン爺がもう一人を浮かせるように魔力で支える。足場が悪い。遺跡全体がきしむ。視界が白黒に揺れる。


 運び終えた時点で、残り時間はほとんどなかった。


 男はまだそこにいた。

 膝をつき、腕輪が砕け、全身に走ったひびから黒い光を漏らしている。顔を上げたその目は、もう焦点が定まっていなかった。


 恒一はその場で立ち止まった。

 足が前に出ない。

 自分たちにはもう余裕がない。

 ここで戻れば、全員危険だ。


 男がかすれた声で言う。


「何で……止まる」


「……」


「こういう時、英雄なら最後まで来るだろ」


 笑っているのか泣いているのかわからない顔だった。


 恒一は、その言葉に妙な怒りを覚えた。


「俺は英雄じゃねえよ」


 言い返す。

 はっきりと。


「だから、全部は拾えない」


 男の目がわずかに見開く。


「でも、拾える分は拾った。今の俺にできるのはそこまでだ」


 情けない。

 格好悪い。

 でも、本音だった。


 男は数秒だけ黙り、それからひどく弱い声で笑った。


「……そうかよ」


 次の瞬間、核が最後の脈動を始めた。

 もう猶予はない。


 リゼットが怒鳴る。

「コーイチ!」


 恒一は振り返り、走った。

 後ろは見なかった。

 見たら足が止まる気がしたからだ。


 遺跡の外縁へ飛び出した瞬間、世界が白く裂けた。


 轟音。

 熱ではなく、圧力が背中を殴る。地面に叩きつけられ、耳がしばらく何も聞かなくなった。砂塵。石片。咳。視界が白く濁る。


 どれほど経ったのかわからない。

 最初に戻ってきたのは、誰かの怒鳴り声だった。


「生きてるなら返事しなさい!」


 リゼットだ。

 恒一は咳き込みながら手を上げた。

 その手を、強く引かれる。


「馬鹿」


 顔を上げると、リゼットがいた。額に傷、頬に煤、呼吸は乱れている。なのに目だけはしっかりこちらを見ている。


「悪かった」


「ほんとにそう思うなら次から死にかけないで」


「難易度高いな」


 そう返した自分の声が、思ったより普通だったので少し笑いそうになった。


 周囲では兵たちが生存者を確認し、技師団が遺跡跡へ近づけないよう封鎖線を張っている。核は消えた。少なくとも、もう脈動はしていない。遺跡群の中心は半ば崩れ落ち、巨大な穴だけが残っていた。


 ドン爺が煤だらけの顔でふらふら近づいてくる。


「死に損ないが三人おるの」


「四人じゃないですか」


 恒一は思わず訊いた。

 自分でもわかっていたのかもしれない。

 それでも訊かずにいられなかった。


 ドン爺は少しだけ目を細めた。


「……あやつは無理じゃった」


 短い返答だった。

 それ以上でも以下でもない。


 恒一は小さくうなずいた。

 胸の奥に、鈍い重さが残る。

 助けられなかった。

 選んだ。

 その事実は、たぶんずっと消えない。


 だが同時に、助けられた者がいる。

 兵二人、技師一人、前線の冒険者たち、後方の避難民、宿場町の人々。全部ではない。英雄なら全部救えたのかもしれない。少なくとも物語の中の英雄なら。


 けれど自分は、そうではなかった。


 その夜、宿場町の簡易詰所は負傷者と疲れ切った人々で溢れていた。

 恒一は包帯を運び、水を配り、寝台の足りない場所では床へ毛布を敷いた。戦いは終わったが、仕事は終わらない。そういう現実が妙にありがたかった。何かしていないと、考えすぎそうだったからだ。


 作業の合間、イリナが王都から駆けつけてきた。

 普段より少し乱れた髪のまま、負傷者の名簿を確認している。恒一を見つけた瞬間、珍しくはっきり息を吐いた。


「……よかった」


 その一言が、予想以上に沁みた。


「避難誘導、途中で抜けたって聞いた時はどうしようかと」


「すみません」


「あとでちゃんと怒ります」


「はい」


 それでも彼女の目は、怒りだけではなかった。

 そこにある安堵が、業務上のものだとしても十分だった。


 夜更け、詰所の外でようやく一息ついたとき、リゼットが隣へ座った。

 石段に並んで腰を下ろし、しばらく何も言わずに風を受ける。


 遠くでは、まだ王都側の鐘が鳴っていた。

 被害の報せか、終息の合図か。よくわからない。だが今日は、それを知ろうという気力もなかった。


「……結局、お前、来たわね」


 リゼットがぽつりと言う。


「行くなって言われてたけどな」


「ちゃんと守れ」


「守ったら後ろごと終わってたかも」


 彼女は少し黙ってから、小さく肩をすくめた。


「まあ、それもそう」


 珍しく、すぐには否定しなかった。


「でも前に出て全部なんとかしようとはしなかったでしょ」


「できないってわかってたから」


「そう。それでいいのよ」


 月明かりの下で、彼女の横顔は思ったより疲れて見えた。

 当たり前だ。

 今日一日、ずっと最前線だったのだから。


「前なら、たぶん無理に英雄ぶった」


 恒一は自分で言って、少しだけ苦く笑った。


「最後まであの男も助けようとして、全員巻き込んだかもしれない」


「かもね」


「でも、今の俺はそこまでできないって知ってた」


 言葉にすると、少しだけ寂しい。

 でも、同時に少しだけ確かだった。


「英雄じゃないからな」


 リゼットはそこで初めて、ほんの少し笑った。


「やっと限界を知ったわね」


 恒一は空を見上げた。

 崩れた遺跡の方向には、もう黒い雲はなかった。夜の空がただ広がっている。


「いや」


 ゆっくり息を吐く。


「たぶん、毎回更新される」


 リゼットはその返事に、少しだけ目を細めた。

 それが呆れなのか、苦笑なのか、あるいは少しの肯定なのかはわからない。

 ただ、悪くない表情だった。


 翌朝、王都から正式な調査隊が入り、遺跡周辺は完全封鎖になった。

 報告書には正規兵と技師団、それから一部冒険者たちの名が大きく記されることになるだろう。恒一の名前は、たぶんその隅の方にも載らない。載ったとしても「支援協力者」くらいのものだ。


 昔の自分なら、それを悔しいと思ったに違いない。

 何で自分は中心じゃないんだとか、もっと評価されるべきだとか、そういうことを考えただろう。


 でも今は、不思議とそこまでではなかった。


 宿場町の外れで、避難していた子どもが母親の手を引いて笑っている。

 前線から運ばれた兵が、まだ顔色は悪いが息をしている。

 技師は意識を取り戻し、泣きながら礼を言っていた。

 リゼットは生きている。

 ドン爺も、朝からもう酒を探しているらしい。

 イリナは怒ると言いながら、負傷者の処置表を手伝う恒一へ普通に仕事を振ってきた。


 それで、よかった。


 派手な拍手もない。

 誰も「お前が世界を救った」とは言わない。

 実際、救ってもいない。あれは多くの人間が動いて、ようやく被害を抑えた結果だ。自分はその中で、壊れる順番を少し見て、少しずらしただけにすぎない。


 けれど、その「少し」がなければ、たぶんもっと多くが終わっていた。


 それなら十分だと思えた。


 詰所の片づけを終えたあと、恒一は一人で井戸の水を汲んだ。

 桶の水面には、相変わらず見慣れた顔が映る。急に格好よくなったわけでも、英雄の顔つきになったわけでもない。たぶんこれからも、そこまで劇的には変わらないだろう。


 それでも、最初に異世界へ落ちてきた日の自分とは、少しだけ違う顔をしている気がした。


 あの頃は、主人公になれると思っていた。

 次は自分の番だと、何の根拠もなく信じていた。


 今は違う。

 自分はたぶん、物語の真ん中に立つタイプではない。

 最強にもなれない。

 英雄にもなれない。

 恋愛で一気に人生が好転することも、たぶんない。


 でも、だから終わりではない。


 英雄が壊れる前に止めるとか。

 誰かが折れる前に支えるとか。

 全部は救えなくても、少しでもマシな壊れ方へ持っていくとか。

 そういう役割なら、自分にもできるかもしれない。


 視界の端に、いつもの文字が浮かぶ。


【本日のあなたの限界】

・英雄適性:ありません

・無双の予定:白紙

・それでも誰かを助ける余地:あります

・総評:世界は救えないが、終わらせないことはできる


 恒一はしばらくその文字を見てから、小さく笑った。


「……それで、十分かもな」


 返事はない。

 だが今は、なくてよかった。


 王都近郊の大騒動から三日後、ギルドへ戻ると、いつもの喧騒が少しずつ戻り始めていた。大きな危機のあとでも、人は腹が減るし、依頼は溜まるし、机は拭かなければならない。そういうどうでもいい現実が、妙にありがたい。


 イリナが帳簿を見ながら言う。


「コーイチさん、この荷物、倉庫の二段目へお願いします」


「はい」


 素直に受け取り、運ぶ。

 木箱は普通に重い。

 腕が少し痛む。

 でも持てる。


 その横を、リゼットが通りがかった。

「で、次は?」


「次?」


「限界更新したんでしょ」


 恒一は箱を置きながら、少し考えた。

 答えはすぐには出なかったが、昔ほど焦りもしない。


「……とりあえず、今できることちゃんとやる」


「地味」


「うるさい」


「でも、前よりまし」


 そう言って、彼女は軽く口元を上げた。


 それだけで充分だった。


なにも変わらないの夜。

 真壁恒一は、自分が世界を救う英雄ではないと知った。

 そして、それでも手を伸ばす役にはなれるのだと知った。


 最強じゃない。

 万能でもない。

 格好よく決まりもしない。


 けれど、限界が見えるからこそ選べる戦い方がある。

 壊れる前に止める。

 終わる前にずらす。

 派手な勝利ではなく、誰かがまだ立っていられる明日を残す。


 それはたぶん、主人公の勝ち方ではない。


 でも、自分の勝ち方にはなり得るのだと、彼はようやく思えた。


 異世界の空は、今日もやたらと広かった。

一応この話で完結なのですが、

良かったら反応頂けたら嬉しいです

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