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チー牛、限界を知る。  作者: 七七街


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2話「チー牛、パーティの空気を読めず、人間関係の限界を知る」

面白い面白くない意見を頂けたら励みになります!

 翌朝、真壁恒一は、異世界に来て二日目にして「もうちょっとこう、段階ってものがあるだろ」と思っていた。


 理由は簡単である。


 目の前で、リゼットが腕を組み、非常に嫌そうな顔をしていたからだ。


「だから何でそうなるのよ」


「いや、違うって。ほんとに違う」


「じゃあ何で受付嬢に“今日はどんな依頼なんですか”って必要以上に低い声で聞いたの」


「必要以上ではないだろ」


「必要以上だったわよ」


 朝のギルドは前日ほど騒がしくはないが、それでも十分に人が多い。依頼板の前で内容を見比べる者、朝食代わりに黒パンをかじる者、昨夜から飲み続けているのか顔色の悪い者。そんな中、恒一は受付カウンターの前に立ち、何となく大人っぽい雰囲気を出そうとして、完全に失敗したところだった。


 しかも失敗したのを、リゼットに見られていた。


「別にいいだろ、それくらい」


「よくない。朝から気持ち悪い」


「言い方!」


「安心して。夜でも気持ち悪いから」


 ひどい。


 だが、恒一は反論しきれなかった。昨日の「足手まといになるだけの奴じゃなかった」が思った以上に効いてしまい、今朝の自分はほんの少し、浮かれていた自覚がある。いや、ほんの少しではないかもしれない。実際、ギルドに入ってきた瞬間に「昨日とは違う俺」を演出しようとしたし、受付嬢に対しても少し落ち着いた男感を出そうとした。結果は、必要以上に声の低い不審者である。


【現在のあなたの限界】

・昨日の一言を過大評価する余地:かなり大きい

・「もしかして俺、もう少し評価されてるのでは」思考:危険

・現実把握:早急に必要


「黙れよお前は……」


「何」


「いや何でもない」


 小声で返すと、カウンター奥の受付嬢が仕事用の笑顔でこちらを見た。昨日と同じ人だ。栗色の髪をきっちり束ね、書類をさばく手つきに無駄がない。可愛い、とは思う。だが同時に、彼女が自分を見ている目が「仮登録のちょっと危なっかしい新人」以上のものではないことも、薄々わかってきた。


 わかってきたが、諦めきれるほど人間は早く大人になれない。


「コーイチさん、仮登録の方はこちらの依頼からになります」


 受付嬢は板を一枚差し出した。採取補助、荷運び、雑用、簡単な見回り。昨日リゼットが言っていた通り、かなり制限がある。危険度の高い依頼は当然受けられない。


 恒一は板を見て、少し肩を落とした。

 わかっていた。

 わかっていたのだが、どこかで少しは期待していたのだ。「昨日の実績がありますので、特別にもう少し上も」とか、そういう展開を。


 ない。

 現実はそういうふうにはできていない。


「で、どれ行くの」


 リゼットが横から覗き込む。


「……荷運びか、見回りですかね」


「見回りはやめた方がいい」


「何で」


「一人で妙な気を起こして、絶対余計なことするから」


「信用なさすぎない?」


「昨日の夜、仮登録証を見ながらにやにやしてた人が何言ってるの」


「何で知ってんの」


「ドン爺が言ってた」


 裏切り者め。


 そのドン爺は、少し離れた卓で黒い飲み物をすすっていた。朝から何を飲んでいるのか知らないが、顔色は無駄に良い。目が合うと、にんまり笑って手を振ってくる。腹立たしい。


「ほれ、コーイチ。今日はこれじゃ」


 彼は一枚の依頼書をひらひらさせた。


「西街道の護衛補助。荷馬車一台、商人一家付き。町から隣村までの短距離じゃ」


「護衛補助?」


「本来なら仮登録には回ってこん依頼なんじゃが、人手不足でのう。わしとリゼットが受けるついでじゃ。おぬしは雑用兼見張り補助」


 恒一の胸が少しだけ高鳴る。

 昨日よりは一歩、前へ出た感じがする。


 護衛。

 冒険者っぽい。

 しかもリゼットとドン爺と一緒だ。完全な一人ではない。そう思うと、妙にやる気が出てくる。


「やります」


「即答ね」


 リゼットは少し眉を上げた。


「言っとくけど、昨日みたいに都合よくいくと思わないで。戦う相手が魔物より人間の時は、もっと面倒だから」


「人間って、盗賊とか?」


「それもあるし、護衛対象のほうもね」


「護衛対象が?」


「商人は金を運ぶ。家族連れならなおさら、事情が多い。事情の多い人間が集まると、大抵ろくなことにならない」


 言い切るリゼットの口調に、経験の重みがあった。

 恒一は少しだけ緊張する。


 だが同時に、昨日の成功が心のどこかに残っていた。

 今度も何とかなるかもしれない。

 いや、何とかしてみせるべきだ。

 そう思っている自分がいる。


【現在のあなたの限界】

・ほどよい自信:少しあり

・根拠のない期待:それなりにあり

・今日もまた調子に乗る可能性:高め


「毎回うるさいなほんとに……」


「だから何」


「いやだから何でもないって」


 こうして、真壁恒一の異世界二日目は、西街道の護衛補助から始まった。


 護衛対象は、町外れの馬車止めで待っていた。


 荷馬車は一台。幌付きで、積み荷は樽と木箱、それから布に包まれた長物がいくつか。商人は四十代半ばくらいの男で、上等な布の上着を着ているが、商売人らしい愛想の良さはあっても、どこか神経質そうな目をしていた。名をハルヴァンというらしい。


 家族は三人。

 妻のミレナ。品の良い顔立ちだが、口元がきつい。

 娘のソフィ。十六、七くらいだろうか。色の薄い髪を編み込み、旅装の上から薄い外套を羽織っている。町の娘というより、もう少し育ちの良い家の雰囲気があった。

 それに、荷台の後ろで働いている従者らしき青年が一人。名はオルド。無口で、手際がいい。


 恒一は最初にソフィを見て、少しだけ姿勢を正した。

 自分でもわかるくらい、露骨だったと思う。


【現在のあなたの限界】

・自然な第一印象:普通に難しい

・「落ち着いた男」演出:失敗しやすい

・相手の第一印象:まだほぼゼロ


 うるさい。


 リゼットはそれを横目で見て、心底どうでもよさそうに言った。


「荷物持って」


「はい」


 即座に現実へ戻された。


 出発前の確認で、ハルヴァンは何度も積み荷を見ていた。樽の数、木箱の位置、布包みの紐。全部自分の目で確かめないと気が済まないらしい。そのたびに従者のオルドが「問題ありません」と淡々と答える。妻のミレナはそんな夫に少し苛立っているようで、だがそれを表立って言うこともなく、娘の外套の襟元を直している。


 出発して一時間もしないうちに、恒一は理解した。


 この一家、空気が重い。


 最初にそれを感じたのは、休憩中の水袋の回し方だった。ハルヴァンが妻へ渡し、妻が娘へ渡し、娘が少しだけためらってから口をつける。そのあと従者へ行くかと思えば、ハルヴァンが無言で受け取り、自分で飲んだ。些細なことだ。だが、妙に引っかかる。


 会話も少ない。

 ハルヴァンは必要なことしか言わず、ミレナは夫へ短く返し、ソフィはもっと喋らない。オルドは従者として完璧な距離を保っている。


 ぎくしゃく、というほど露骨でもない。

 だが、どこかぴんと張った糸の上に皆が座っている感じがした。


 恒一は何となく落ち着かなくなった。

 この感じ、嫌いではない。いや、好きなわけではないが、見覚えがある。誰も喧嘩していないのに、もう少しで何かが起きそうな空気。教室でも、バイト先でも、家庭でも、人が集まる場所にはたまにある、あの薄い緊張だ。


 そのとき、不意に視界の端に文字が出た。


【対象:ハルヴァン一家】

・会話の余裕:減少中

・相互不信の限界:中程度

・小さなきっかけで口論に発展する可能性:あり


 恒一は思わず二度見した。

 人間関係まで出るのか、これ。


【補足】

限界は体力だけではありません。


「便利なのか不便なのか、ほんとわかんねえな……」


「何か言った?」


 すぐそばを歩いていたソフィが、初めてこちらへ声をかけてきた。


 恒一は一瞬固まった。

 近くで見ると、予想以上に整った顔立ちだった。目元は柔らかいが、その奥に警戒がある。旅慣れていないお嬢様という感じではなく、もっと別の事情で無理をしている目だ。


「いや、その、独り言で」


「そう」


 会話終了。

 あまりにも早い。


 だが恒一は、ここで終わってはならない気がした。

 この世界で生きていくなら、多少なりとも人と話せるようにならなければならない。昨日だって、ギルドで自分の印象が悪かったのは、結局そのへんの不器用さもある。今ここで一歩踏み込んで、少しでも自然に話せれば――


「こういう旅って、けっこう大変ですよね」


 口に出した瞬間、少し早まった気もした。


 ソフィは恒一を見た。

 返事をするまでの一拍が、やけに長い。


「……そうね」


 それだけだった。


 だが恒一は、逆に話題を拾えると思ってしまった。

 会話が完全に切られたわけではない。ならば繋げられる。


「俺はこういうの初めてなんで、ちょっと新鮮で」


「へえ」


「西街道って、いつも危ないんですか?」


「日によるんじゃない」


 薄い。

 返答があまりにも薄い。


【現在のあなたの限界】

・自然な会話継続:残り二往復

・相手の社交辞令余力:少なめ

・このまま頑張ると“微妙にしつこい人”判定:近い


 いや、でもここで引くのも不自然では。

 引いたら引いたで「会話下手」が確定してしまう気がする。

 何とかもう一つ、うまいこと――


「ソフィさんって」


「コーイチ」


 横から低い声が刺さった。


 振り向くと、リゼットがとても冷たい目で見ていた。


「前、歩いて」


「……はい」


 護衛対象に不用意に絡むな、ということだろう。

 恒一は恥ずかしさと情けなさで耳が熱くなりながら、馬車の前方へ移った。


 少しして、リゼットが隣へ来る。


「何」


「いや、何って……」


「護衛中に、依頼人の娘へ妙に話しかける理由、ある?」


「妙にってほどじゃないだろ」


「妙だった」


 即答。

 痛い。


「お前、さっきから“感じよく見られたい”が顔から漏れてるのよ」


「そんなに?」


「かなり」


 恒一は思わず口をつぐんだ。

 自覚がないわけではなかったが、そこまで露骨だったのか。


「別に話しかけるなとは言わない。でも、今じゃない。相手が何考えてるかもわからないときに、自分の都合で距離詰めると嫌われる」


「そんな、嫌われるってほど……」


【現在のあなたの限界】

・現実逃避:発動中

・“そこまで悪くないはず”という自己弁護:やや多い

・客観視:不足


 うるさい。


 しかも、リゼットの言葉は嫌なくらい身に覚えがあった。これまでの人生でも、何となく「今の一言、失敗だったな」と思うことは多かった。だが、では次からどう直せばいいかはよくわからない。黙りすぎても浮く。話しかけてもズレる。ちょうどよく人と関わるやり方が、恒一にはずっと曖昧だった。


「で、どうすればいいんだよ」


 思わず少し荒く言ってしまう。


 リゼットは意外にも怒らず、歩調も変えなかった。


「まず、自分が今どの位置にいるか考えること」


「位置?」


「相手にとって、お前は何者?」


「……護衛の補助」


「そう。昨日一日で急に魅力的な謎の男になったわけじゃないの」


 リゼットの声は辛辣だが、妙に的確だった。


「知らない男に、移動中に、気を使って会話してるだけかもしれないって想像しなさい」


 恒一は何も言えなかった。


 言われてみれば、その通りなのだ。

 ソフィが自分と会話したのは、ただ無視するのも不自然だから最低限返してくれただけかもしれない。そこに特別な意味を見出すのは、自分の都合でしかない。


「……ごめん」


 小さく呟くと、リゼットは少しだけ肩をすくめた。


「私にじゃなくて、次から相手に気をつければいい」


 昼前、街道沿いの林で最初の休憩を取った。


 馬に水を飲ませ、荷車の車輪を確認し、各自が軽く腹を満たす。ドン爺は干し肉をやけに美味そうに噛み、ハルヴァンは帳面を開いて積荷と時間を何度も見比べている。妻のミレナは娘に食事を勧めるが、ソフィはあまり食欲がなさそうだった。


 恒一は何となく、オルドのほうへ近づいた。


 無口な青年は、馬具の締め具合を確認している。年は二十代半ばくらいか。短く切った髪、日に焼けた首筋、動作に無駄がない。たぶん、かなりちゃんとしている人間だ。


 話しかけるなら、こういう相手のほうがまだいいかもしれない。年も近そうだし、仕事の話なら変なことにはならないはずだ。さっきリゼットに言われたばかりで慎重になっていたせいもあり、今度はかなり言葉を選んだ。


「……手際いいですね」


 オルドはちらとこちらを見た。


「仕事ですから」


 返答は短いが、さっきのソフィよりはまだ温度がある気がする。

 恒一は少しだけ勇気づけられた。


「こういう護衛、よくあるんですか」


「ある方です」


「大変そうですね」


「慣れます」


 ここで終わるべきか。

 終わるべきかもしれない。

 だが恒一は、今度こそ普通に人と会話できる可能性を感じていた。こういう、必要なことを必要なだけ話す感じなら、自分でも――


「ハルヴァンさん一家って、何かあったんですか」


 言った瞬間、自分で「いやそこ行くのかよ」と思った。


 オルドの目がすっと細くなる。


「どうしてそう思うんです」


「いや、何となく……空気が」


「見えるんですか」


「え?」


「空気が」


 言い方は穏やかだったが、明らかに警戒されていた。

 しまった。

 踏み込みすぎた。


「いや、別に詮索したいとかじゃなくて」


「なら聞かない方がいい」


 きっぱりと切られた。


【現在のあなたの限界】

・信用維持:下がり気味

・“悪気はない”で済まされる範囲:狭まっています

・これ以上は本当にやめた方がいい


 恒一は引きつった笑みのまま、「そうですよね」とだけ返した。

 最悪である。


 少し離れた場所で、それを見ていたらしいドン爺が、あとでわざわざ近寄ってきて言った。


「おぬし、人の地雷を踏むのう」


「好きで踏んでるわけじゃないですよ」


「好きじゃなければ踏んでよいわけでもなかろうて」


「正論で殴るのやめてくれません?」


「やめん」


 やめないらしい。


 午後に入るころ、問題は起きた。


 西街道の中ほど、林が少し深くなる辺りで、馬車の片輪がぬかるみに取られたのだ。昨日の雨が残っていたのか、見た目より地面が柔らかい。大きく傾いたわけではないが、このまま無理に進むと軸を痛める。


 ハルヴァンが苛立った声を上げた。


「何をしている、早く引け!」


 オルドが馬の手綱を調整しながら答える。


「無理に引くと車輪を傷めます。まず荷を少し降ろした方が」


「時間がないんだ!」


「ですが――」


「ですが、ではない!」


 そこで空気が一気に悪くなった。


 ミレナが眉を寄せる。


「あなた、声を荒げる必要はないでしょう」


「必要がある! 到着が遅れれば困るのは君も同じだろう!」


「だからといって、誰彼構わず当たらないで」


「当たっているつもりはない!」


 ソフィが小さく息を飲んだ。

 オルドは黙る。

 リゼットが面倒くさそうに額を押さえた。


 恒一の視界に文字が走る。


【対象:ハルヴァン】

・精神的余裕:かなり低下

・焦燥の限界:近い

・このまま放置した場合の口論拡大率:高


【対象:ミレナ】

・不満の蓄積:高め

・夫への信頼:低下中

・「今言うべきでは」とわかっていても止まれない限界:近い


【対象:ソフィ】

・緊張:高い

・発言我慢の限界:近い


 何これ。

 怖いくらい見える。


 リゼットとドン爺はまず馬車の対応をしようとしていたが、このままだと人間関係のほうが先に壊れそうだった。


 恒一の胸の中に、嫌な既視感が広がる。

 誰かが少し強い言い方をし、別の誰かが言い返し、それまで溜まっていたものが一気に噴き出して、もう戻せなくなる。よくある。とてもよくある。だいたい、そういうときに「まあまあ」と軽く言うやつが一番役に立たない。


 わかっている。

 わかっているのだが、だからといって自分がうまく止められるとも思えない。


 だが、視界の文字は容赦なく変化していく。


【対象:ソフィ】

・発言まで:近い

・内容:父への反発の可能性大


 やばい。

 これはやばい気がする。


 ソフィが顔を上げた。

 唇が動く。


 恒一は反射的に前へ出た。


「あの!」


 全員がこちらを見た。

 最悪だ。

 注目を集めてしまった。


「……車輪、抜くの、先に荷を少し下ろした方がいいと思います」


 何を言っているのか、自分でも少しわからなかった。

 でも、今はとにかく話の矛先をずらすしかない。


 ハルヴァンが苛立ち混じりに睨む。


「そんなことはわかっている!」


「じゃ、じゃあ、俺がやります」


「何を」


「荷下ろしです。あと、その……」


 ここで恒一は、普段の自分なら絶対言わないようなことを口にした。


「奥さんと娘さんは、少し向こうで休んでた方がいいかもです。泥はねますし」


 それはたぶん、嘘ではなかった。

 でも本音は別だ。

 今この場で、家族三人を同じ位置に置いておくとまずい。何かが決定的になる気がした。


 ミレナが少し怪訝そうな顔をしたが、リゼットがすぐに乗っかった。


「そうね。泥だらけになるのは嫌でしょ。馬も落ち着いてないし、少し離れて」


 彼女が言うと、説得力が違う。

 ミレナは不承不承うなずき、ソフィを連れて数歩離れた木陰へ移動した。


 ハルヴァンはまだ苛立っていたが、オルドとドン爺、それに恒一も加わって荷を少しずつ降ろし始めると、口を出す方へ意識が割かれた。

 樽が重い。

 木箱も重い。

 恒一は普通に息が上がった。


【現在のあなたの限界】

・荷運び:あと五往復

・見栄で「余裕です」顔を保てる時間:短い

・腕:すでに少しつらい


 うるさいが、助かる。

 おかげで無理な持ち方はしなくて済む。


 作業の合間、ハルヴァンが小さく舌打ちした。


「こんなところで足を止めるとは……」


 その声には、ただの苛立ち以上の切迫があった。

 恒一は荷を置きながら、思わず口を開く。


「急いでるんですか」


「当たり前だろう」


「いや、その……かなり」


 ハルヴァンは答えない。

 代わりにオルドが短く言った。


「旦那様」


 余計なことを言うな、という声音だった。


 だが、恒一には見えてしまった。


【対象:ハルヴァン】

・隠し事の保持限界:近い

・誰かに当たり散らしたい欲求:上昇中

・恐怖:高い


 恐怖?


 焦りではなく、恐怖。


 その違和感が残ったまま、馬車は何とかぬかるみから抜けた。積み荷を戻し、再出発する。だが空気はさっきよりもさらに張っていた。沈黙の質が変わったのだ。単なる気まずさではなく、皆がそれぞれ別のことを考えていて、それを言えずにいる重さ。


 夕方が近づくころ、ついにそれが表に出た。


 街道脇の古い石橋を渡る手前で、前方の茂みから三人の男が現れたのだ。剣、短槍、弓。服装は旅人風だが、立ち方が違う。道を塞ぐように横へ広がり、にやついた目で馬車を見る。


「おっと、待ちな旦那」


 弓を持った男が言う。

 声音は軽いが、軽いだけに余計に嫌な感じがする。


「急いでるところ悪いが、この先は通行料をもらってんだ」


「そんなもの、聞いていない」


 ハルヴァンが強く言い返した。

 その声が、ほんの少し上擦っていた。


 リゼットが前へ出る。ドン爺も杖を下げたまま位置をずらし、オルドが馬の前に立つ。恒一は一歩遅れて、その場の空気を読み取ろうとした。


【対象:盗賊風の男たち】

・戦意:中

・本気で殺す気:低〜中

・狙い:馬車そのものより、特定の積み荷か人物の可能性


 人物?


 恒一の背中が冷えた。


 そのとき、短槍の男が馬車のほうを見て言った。


「商品だけなら半分でいい。だが、娘さんを乗せてるって話なら、別料金だな」


 空気が凍る。


 ソフィが息を呑んだ。

 ミレナの顔色が変わる。

 ハルヴァンが一歩前に出るが、その足は怒りより先に恐怖で固まっているように見えた。


 ここで、恒一は全部が繋がった気がした。


 この一家は、単なる商売の移動ではない。

 急いでいたのは商機のためではなく、娘をどこかへ連れて行くためだ。

 しかも、そのことを誰かが知っている。


 盗賊はその情報を持っている。

 偶然の襲撃ではない。


【対象:ハルヴァン一家】

・秘密の露見:発生

・内部分裂の限界:極めて近い

・護衛成功率:現状では不安定


 リゼットが剣を抜いた。

 細い刃が夕方の光を受ける。


「道をどけるなら今のうちよ」


 弓の男が笑う。


「そっちこそ、無駄に血を流したくないだろ。こっちは別に荷なんざどうでもいい。娘を置いてけ」


 ソフィの肩が震える。

 ミレナが娘を庇うように抱く。

 ハルヴァンは歯を食いしばっているが、何かを決断しきれていない顔だった。


 最悪だ、と恒一は思った。

 ここで父親が弱気な態度を見せれば、家族の信頼は一気に崩れる。だが強気に出ても、戦える人間ではない。下手をすれば一言で全部が終わる。


 そしてたぶん、盗賊たちもそれを見ている。

 どこを突けば壊れるか。


 そのとき、ソフィが前へ出ようとした。


「私が――」


 その瞬間、恒一の視界に文字が弾ける。


【対象:ソフィ】

・自己犠牲の選択:発生寸前

・家族との関係断絶:高確率

・最悪の形で事態固定の可能性:高


 まずい。


 恒一はほとんど反射で声を張り上げた。


「待って!」


 全員がまたこちらを見る。

 本日二度目である。

 しかも今度は盗賊まで見ている。胃がひっくり返りそうだった。


「……その娘、置いてっても意味ないぞ」


 何を言ってるんだ自分は、と思った。

 だが口は止まらなかった。


「狙いが娘なら、たぶんそっちも事情を全部は知らないだろ。ここで奪っても、欲しいもの手に入るとは限らない」


 盗賊たちの目が細くなる。

 ハルヴァンがぎょっとした顔でこちらを見た。


 恒一はもう後戻りできなかった。

 だから、半分ハッタリで続けた。


「だって、あんたら、娘本人じゃなく“話”を掴んでるだけだろ。ほんとに確信があるなら、もっと人数いるはずだし」


【現在のあなたの限界】

・ハッタリ維持:あと少し

・盗賊の動揺:わずかにあり

・このまま押し切れる可能性:低くはない


 低くはない。

 なら行くしかない。


「つまり、雇い主から中途半端な情報だけ渡されて、ここで賭けてるだけだ。違うか?」


 弓の男の笑みが少し消えた。

 当たったのだ。


 その一瞬で十分だった。


「リゼット!」


 叫ぶより早く、彼女は動いていた。

 もともと狙っていたのだろう。恒一が注意を引いた間に距離を詰め、石橋の手前で一気に踏み込む。短槍の男が迎え撃とうとしたが、リゼットの刃はその槍の柄を弾き、返す一撃で男の腕を浅く裂いた。


 ドン爺の杖から火花が散る。弓の男の足元で小さく爆ぜ、体勢を崩させる。オルドは馬車の横から飛び出し、剣の男の懐へ低く入り込んだ。従者にしては動きが鋭すぎる。


 恒一は当然、戦闘の中心にはいない。

 だが今の一瞬で、場の流れがはっきり変わったのがわかった。


【対象:盗賊たち】

・統率:崩れ始め

・撤退判断の限界:近い

・弓使いが離脱を決めると連鎖する可能性:高


 恒一は弓の男を見た。

 さっきからこいつが一番、空気を読んでいる。つまり、一番最初に逃げる。


「そいつ、もう引く!」


 叫んだ瞬間、弓の男が舌打ちして後ろへ跳んだ。


「ちっ、撤収だ!」


 やはりだった。


 短槍の男は腕を押さえながら下がり、剣の男もオルドを払いのけて茂みへ退く。追えば危険だと判断したのか、リゼットは深追いしなかった。ドン爺が小さく火を散らして牽制し、三人はそのまま森の奥へ消えた。


 静寂が戻る。


 誰もすぐには喋らなかった。

 馬が荒く息を吐き、風が草を鳴らす音だけが聞こえる。


 最初に口を開いたのは、ミレナだった。


「……今のは、どういうことなの」


 声は震えていたが、恐怖だけではない。

 怒りと、確認しなければならない覚悟が混ざっている。


 ハルヴァンは黙った。

 その沈黙が、何より雄弁だった。


 ソフィが低く言う。


「やっぱり、知られてたのね」


「ソフィ」


「お父様は、まだ大丈夫だって言った。慎重に動けば見つからないって。でも今の人たち、明らかに私を狙ってた」


 ハルヴァンが苦しげに目を伏せる。

 オルドは何も言わない。ただ主の横で立っている。


 恒一は、自分が余計なものまで暴いてしまった気がして、少しだけ後悔した。だが、たぶんこれは遅かれ早かれ表に出ていた。むしろ、ここで出てよかったのかもしれない。


 ミレナが夫を見る。


「説明して」


 短いが、逃げ道のない言い方だった。


 ハルヴァンはしばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。


「……ソフィには、縁談があった」


 ソフィが硬い顔になる。


「相手は隣領の有力者だ。断れば商売にも響く。だが、相手の評判が悪すぎた」


「評判が悪いどころじゃないわ」


 ミレナが吐き捨てるように言う。

 ずっと溜めていたものが、そこにあった。


「娘を嫁に出すんじゃなく、売るのと同じよ」


「わかっている!」


 ハルヴァンも声を荒げる。だが、さっきまでとは違う。今度は怒鳴りたいから怒鳴っているのではなく、自分自身にも言い聞かせているようだった。


「だから逃がそうとしているんだろうが!」


 ソフィが目を見開いた。


「……え」


「町に残れば、いずれ向こうの手が回る。だから先にお前を叔母の村へやるつもりだった。表向きは商売の移動に見せてな」


 ミレナが顔をしかめる。


「だったら最初からそう言えばよかったでしょう」


「言えるか。万が一、誰かに漏れたらどうする」


「秘密にした結果がこれよ!」


 夫婦の間にまた火種が散る。

 だが今度はさっきよりましだった。少なくとも、何について怒っているのか全員が知っている。


 ソフィは俯き、それから小さく言った。


「……私、何も知らされてなかった」


「お前を巻き込みたくなかった」


「もう巻き込まれてるわ」


 その一言が、ひどく静かだった。


 恒一はそのとき、初めてこの娘がただのお嬢様ではないとわかった。怖がってはいる。怯えてもいる。だが、その上で怒れる人間だ。何も知らされず、守られる側に固定されることへの怒りを、ちゃんと持っている。


 しばらくの沈黙のあと、リゼットが言った。


「話はあと。まずは橋を渡って、日が落ちる前に村へ入る」


 全員が現実へ戻る。

 今はまだ安全ではない。


 再出発した馬車の中は、さっきまでとは違う重さだった。重いことに変わりはないが、もう「言えない何か」が満ちているのではなく、「言ってしまった何か」を抱えている空気だ。


 それでも不思議と、少しだけましになっていた。


 日暮れ前、目的の村が見えた。

 小さな柵と風車のある、ごく普通の農村だ。門番に事情をざっと説明し、今日はここで一泊することになる。盗賊の気配がある以上、夜道を進むのは危険だった。


 宿に入って荷を下ろし終えたころには、皆だいぶ疲れていた。


 夕食は豆の煮込みと固いパン、それに薄いスープ。村の宿としては普通なのだろう。恒一は椅子に座った瞬間、腰が抜けるような疲労を感じた。戦ったわけでもないのに、昨日とは違う意味で神経を使い果たしていた。


【本日のあなたの限界】

・気疲れ:かなり高い

・「何もしてないのに疲れた」感:強い

・実際にはそこそこしている


 そこそこしている、で少しだけ救われた気がした。


 食堂の隅で、ソフィが一人で窓の外を見ていた。

 恒一は一瞬、また話しかけようとして、止まった。

 今日何を学んだか忘れるにはまだ早い。


 だが、そのとき向こうからソフィが来た。


「……さっきは」


 恒一は目を瞬く。

 彼女は少しだけ言いづらそうにしながら、続けた。


「ありがとう。あそこで止めてくれなかったら、私、たぶん変なこと言ってた」


「いや、俺も勢いだったし」


「それでも」


 彼女は小さく笑った。

 昼間より少しだけ、ちゃんと人間らしい表情だった。


「あなた、空気読むの下手そうなのに、変なところで読むのね」


「褒めてる?」


「半分は」


 それだけ言って、彼女は戻っていった。


 恒一はしばらく固まっていた。

 悪い意味ではなく、本当に何と言っていいかわからなかったのだ。


【現在のあなたの限界】

・ここで勝手に特別な意味を見出す危険:発生中

・でも感謝は感謝で受け取ってよいでしょう

・調子に乗るな


「……わかってるって」


 わかっている。

 たぶん。

 いや、完全にはわかっていないが、少なくとも以前よりは。


 夜、宿の裏手で少し風に当たっていると、リゼットとドン爺が出てきた。


「死んだ顔してるわね」


「人間関係ってこんな疲れるんだな……」


「今さら?」


 リゼットは壁に背を預ける。


 ドン爺は面白そうに笑った。


「戦いより向いておらんのではないか」


「笑えないんですけど」


「じゃが今日は、わりとようやったぞ」


 意外な言葉に、恒一は顔を上げた。


「え」


「おぬし、剣も振れんし魔術も使えんし、会話も危うい。じゃが、人が壊れそうになる線を見るのは妙に早い」


「……それ、褒めてます?」


「褒めとる。気味悪さ込みで」


「最後の一言いらなくない?」


 リゼットが肩をすくめる。


「でも事実。今日、あの家族が決定的にこじれなかったのは、お前が一回ずらしたから」


「一回ずらしたって」


「父親と娘が真正面からぶつかる前に、話を逸らしたでしょ」


 リゼットの言葉は簡潔だが、芯を突いていた。


「ちゃんと解決したわけじゃない。でも、最悪のタイミングをずらすだけで助かることはある」


 恒一は黙った。

 そんなふうに考えたことはなかった。いや、今日の自分は無意識にそうしたのかもしれない。だが、それが役に立つ形だったのだと改めて言われると、不思議な気持ちになる。


「俺、さ」


 ぽつりと口に出た。


「思ってたより、感じのいい人間じゃないんだな」


 夜気の中に、その言葉は少しだけ重かった。


 自虐ではある。

 だが、半分は本音だった。

 今日一日で、何回も自分のズレ方を見せつけられた。話しかけるタイミング、踏み込み方、相手との距離感。悪人ではない。たぶん。だが「悪気がない」だけで人付き合いが上手いわけではないのだ。


 ドン爺がふん、と鼻を鳴らす。


「今さら気づいたの」


 さすがに少し腹が立つ。


「言い方!」


「じゃが、悪いことではないぞ」


 彼は珍しく、茶化さずに続けた。


「自分は善人じゃ、自分はちゃんとやれてる、と思い込んだままのやつの方が厄介じゃ。おぬしはようやく、自分がズレることを知った。それは始まりじゃ」


 リゼットも短く言った。


「最初から完璧に感じいい人間なんていない。大事なのは、ズレたあとに直せるかどうか」


 恒一は返事をしなかった。

 できなかった。

 胸のあたりが少し熱かったからだ。


 褒められているわけではない。

 慰められているわけでもない。

 ただ、今の自分を今の自分として見たうえで、それでも前に進めると言われた気がした。


 その感じは、思った以上に救いだった。


 夜更け、自室の藁布団に転がりながら、恒一は今日のことを反芻した。


 魔物と戦うより、人と一緒にいる方が疲れる。

 そのくせ、人間の方が一度崩れたときの被害は大きい。

 そして自分は、思っていたよりずっと、相手の都合を想像するのが下手だ。


 だが同時に、壊れそうな線が見えるのも事実だった。

 怒りの限界。沈黙の限界。自己犠牲に踏み出す一歩手前。そういうものに、なぜか自分は敏感だった。


 それが優しさなのか、ただの臆病さなのかはわからない。

 たぶん両方だ。

 でも、使い方次第では誰かを助けられるのかもしれない。


 視界の端に、また半透明の文字が浮かぶ。


【本日のあなたの限界】

・空気の読めなさ:そこそこ露呈

・会話の失敗:複数回

・人間関係の破綻回避:一応成功

・総評:めんどくさいが、ゼロではない


 恒一は天井を見上げたまま、小さく笑った。


「めんどくさい、は否定できねえな……」


 異世界二日目。

 真壁恒一は、自分が思っていたほど感じのいい人間ではないことを知った。


 だがその一方で、感じがよくなくても、人の壊れる手前を見つけて、少しだけ支えることはできるのだと知った。


 それはやはり格好のいい力ではなかった。

 けれど、格好よくなくても役に立つものがあるのだと、彼は少しずつ学び始めていた。

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