1話「チー牛、異世界で無双を確信し、8分で限界を知る」
真壁恒一は、自分が異世界転移した瞬間、勝ったと思った。
いや、正確に言えば、光に飲まれて視界が真っ白になり、足元の感覚が消え、耳鳴りとともに重力の向きまでわからなくなった、その不快極まりない数秒のあいだにも、彼の脳のどこかは冷静にこう判断していたのだ。
来た。
これ、来た。
人生逆転イベントだ。
恒一の人生は、別に劇的に不幸だったわけではない。殴られ続けたとか、家が極貧だったとか、そういうわかりやすい悲惨さは何一つない。ただ、全体的にうまくいかなかった。教室では目立たず、しかし完全に空気でもなく、だからこそ誰かの印象に残るほどでもない。バイトでは仕事が遅いわけではないが、かといって頼られるほどでもない。顔も、鏡を見るたびに「まあ、うん」としか言えない感じで、努力して垢抜けるタイプなのか、努力しても誤差の範囲なのか、自分でも判別がつかない。
そして何より、恒一はずっと思っていた。
本当の自分は、こんなものではない、と。
環境が悪かっただけだ。
運がなかっただけだ。
噛み合わなかっただけだ。
ちゃんとした舞台に立てば、実は自分には何かあるはずだ。
だからこそ、彼は白い光に包まれながら、恐怖より先に期待した。
ここから始まるのだと。
遅れてきた主人公補正が、ようやく自分に追いついたのだと。
そうして次の瞬間、彼は盛大に地面へ顔面から突っ込んだ。
「ぶごっ」
土の味がした。硬かった。鼻が痛かった。顔全体がひしゃげたような衝撃に、涙がにじむ。
あまりにも情けない第一声だったせいで、少し遅れて訪れるはずだった神秘が全部飛んだ。
「痛っ……え、なに、え?」
恒一は慌てて身を起こした。
そこは森の中だった。やけに高い木々が生い茂り、幹には見たこともない青い苔が張りついている。空は木漏れ日でまだらに切られ、風が吹くたび葉擦れの音がざわざわと広がる。鳥の声はするが、妙に低い。地面には広葉樹の落ち葉ではなく、薄い鱗のような形の葉が積もっていた。
どう見ても日本ではない。
「うわ……マジだ」
思わず出た声は震えていたが、恐怖より興奮が強かった。
「異世界じゃん……いや、異世界じゃん!」
立ち上がる。服はいつものパーカーに黒いパンツ、スニーカー。持ち物はスマホだけ。画面は真っ暗で、当然ながら圏外どころの話ではなかった。
だがそんなことは些細だった。重要なのはここからである。恒一は深呼吸をして、周囲を見回した。
まず確認すべきは能力だ。
異世界転移者には、何かしらの特典がある。これは常識だ。少なくとも彼の読んできたウェブ小説や漫画ではそうだった。ステータス画面、ユニークスキル、神の加護、あるいは最初は地味に見えて実は最強格の何か。そういうものが自分にも備わっているに違いない。
恒一はひとまず右手を前に出した。
「……ステータス、オープン」
沈黙。
少し照れながら左手も出した。
「ステータス」
沈黙。
「ウィンドウ」
沈黙。
「鑑定」
沈黙。
「メニュー」
沈黙。
「いや、あるだろ普通」
少し腹が立った。こういうのはもっと、空気を読んでくるべきではないのか。
そのときだった。
頭の奥で、何かがひやりと冷たく走った。
視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。
【現在のあなたの限界】
・全力疾走:四十六秒
・剣の素振り:十二回
・木の棒を持って強者感を演出できる時間:十九秒
・森で無警戒に生き延びられる推定時間:約八分
「……は?」
恒一はしばらく文字を見つめた。
意味がわからない。
「いや、何これ」
試しに左右へ視線を振ると、文字はちゃんとついてくる。幻覚ではないらしい。
【補足】
現在、あなたはやや浮かれています。
その状態での生存率は低下傾向です。
「うるっせえな!」
反射的に叫んでしまった。
するとその直後、藪が大きく揺れた。
恒一の体が固まる。
何かいる。
ガサ、ガサ、と葉を踏む音が近づいてくる。熊か、狼か、それともファンタジー的な何かか。緊張で喉が詰まる。頼む、ここは初手スライムであってくれ。最悪でもゴブリンくらいであってくれ。いきなりドラゴンとか、さすがに段階がおかしい。
藪から飛び出してきたのは、ウサギだった。
ただし、恒一の知るウサギではなかった。
犬くらいある。脚が異様に太い。目つきが悪い。額には短いが鋭い角が一本生えていた。白というより灰色の毛並みがぴんと逆立ち、鼻先をひくつかせながら、明らかに好戦的な目でこちらを見ている。
「……ウサギ?」
【推定対象:ホーンラビット】
危険度:低
ただし現在のあなたにとっては中
「中って何だよ!」
怒鳴ったところで、ホーンラビットは地面を蹴った。
速い。
「うわっ!」
恒一は情けない声を上げながら横へ跳んだ。避けきれず、角がパーカーの脇を裂く。バランスを崩して転がり、背中を木の根にぶつける。
痛い。普通に痛い。待ってほしい。異世界転移一戦目で、なんでこんなに生々しい痛みを食らわなければならないのか。
【現在のあなたの限界】
・ここでかっこよく反撃できる可能性:かなり低い
・逃走成功率:そこそこ
・その場の勢いで「来いよ」と言うと死ぬ確率:高
「言わねえよ!」
ホーンラビットが再び突進してくる。恒一は近くに落ちていた枝を掴み、半泣きでそれを振り回した。
「っらあ!」
枝は見事に空を切った。
次の瞬間、ウサギの後ろ脚が恒一の尻にめり込んだ。
「ぐえっ!」
蹴られた勢いで前につんのめる。枝は飛んでいく。転んだ先の斜面が思ったより急で、恒一は止まれずそのまま転がり落ちた。
落ち葉、石、木の根、土、全部が体に当たる。
息ができない。
やめてくれ。
主人公の初戦はもっとこう、ちょっと苦戦しつつも勝つやつだろうが。
最後に大きな切り株へ背中を打ちつけて、ようやく停止した。
「……いっ、た……」
全身がずきずきする。涙目のまま空を見上げると、斜面の上からホーンラビットがこちらを見下ろしていた。少しだけ鼻を鳴らし、興味を失ったように去っていく。
勝ち逃げされた。
ウサギに。
恒一はしばらく動けなかった。
自分の想像していた異世界転移の華々しさと、現在の現実の落差がひどすぎた。何ならまだチュートリアルですらない。導入の導入で尻を蹴られただけである。
「……これ、バグだろ」
空に向かって言う。
答えはない。
その代わり、また文字が浮かんだ。
【現在のあなたの限界】
・気持ちの立て直し:そろそろ必要
・現実逃避:三分まで有効
・このまま座り込んでると次にもっと危険なものが来る可能性:高
「くそ……」
結局、言われるがまま立ち上がるしかなかった。
森を出るまでに二時間かかった。
途中でまた小動物に威嚇され、よくわからない花の匂いでくしゃみが止まらなくなり、三回くらい「ここ無理かも」と思ったが、何とか開けた街道へ出ることができた。石畳ではないが人が通っている形跡のある土道で、轍が残り、遠くには木造の建物らしき影も見える。
文明だ。
人里だ。
助かった。
恒一はここに来て初めて、異世界転移の喜びよりも「人がいる」という安心に感動した。
そのまま道を歩いていくと、やがて町が見えてきた。石壁こそないが、木の柵で囲われたかなり大きな集落で、門番らしき男が二人立っている。武装は槍と革鎧。片方はひげ面で、もう片方は若い。
恒一は急に歩き方を意識した。
ここで重要なのは第一印象である。
明らかに不審者として入っていくのはまずい。しかし下手に怯えても舐められる。異世界の住人から見て、何かしら特別そうな雰囲気を出すべきだ。転移者特有の気配とか、事情ありげな謎の旅人感とか、そういうの。
恒一は胸を張り、少し顎を引いた。
あまりきょろきょろせず、静かに、だが周囲を把握している風に歩く。
【現在のあなたの限界】
・木の棒もないのに強者感を演出できる時間:十七秒
・今の歩き方の自然さ:低め
・門番から「変なやつ」と思われるまで:およそ六秒
「ちっ」
思わず舌打ちしたら、門番のひげ面が警戒の色を強めた。
「止まれ。どこから来た」
言葉は日本語ではなかった。
だが、なぜかわかった。意味がそのまま頭に入ってくる。不思議だがありがたい。ここはテンプレに感謝しておくべきだろう。
恒一は一瞬迷い、低く抑えた声を作った。
「……少し、事情がありまして」
何だその言い方は、と自分でも思ったが、もう遅い。
ひげ面が眉をひそめる。
「事情、な。見たところ旅装でもない。武器もなし。荷もなし。盗賊にでも襲われたか?」
「まあ、そんなところです」
「そんなところ?」
若い門番のほうが不審そうに恒一を見る。
「身分証か、通行証は」
「えっと……ないです」
当然である。
ひげ面がため息をついた。
槍の石突きで地面を軽く叩く。
「厄介ごとはごめんだ。だが、このまま追い返して森で死なれても寝覚めが悪い。町長に話を通す前に、まずギルドへ行け。事情を聞くのはあいつらの仕事だ」
「ギルド」
思わず声が弾んだ。
来た。
ギルド。
もう完全に始まっている。
恒一の内心の高まりが顔に出たのか、若い門番が若干引いた顔をした。
「何だよ」
「いえ……何でも」
彼は慌てて平静を装った。
町に入ると、思った以上に活気があった。石と木を組み合わせた家々、干された洗濯物、行き交う荷車、焼いた肉の匂い、鍛冶場から響く金属音。服装は中世風というほど単純ではなく、革や布を重ねた実用的なものが多い。耳の長い女、妙に背の低い男、肌の色が灰がかった子供も歩いていて、ちゃんと異種族もいるらしかった。
恒一は興奮した。
だがあまり露骨に田舎者丸出しになるのも格好がつかないので、頑張ってクールな顔をした。
道行く何人かが彼を見て、普通に避けた。
不審者として。
【現在のあなたの限界】
・「俺は場慣れしてます」感:もう無理
・挽回:早めなら可能
・このまま黙って歩いても格好よくはならない
「じゃあどうしろってんだよ……」
小声で文句を言いながら、門番に教えられた通り大通りの先へ行く。そこにあったのは、酒場をそのまま大きくしたような建物だった。看板には剣と杯のマーク。扉を開けると、中は木の長机が並び、昼間だというのにかなり騒がしい。
冒険者ギルドだ。
筋肉質な男たち、軽装の女剣士、ローブ姿の老人、獣耳の青年。いかにもという面々が、酒を飲んだり依頼書らしき紙を見たりしている。受付カウンターの奥には数人の職員がいて、中央には栗色の髪をきっちり束ねた若い女性が座っていた。
可愛い。
しかも受付嬢だ。
これは来た。
恒一は一瞬で背筋を伸ばした。
ここで大事なのは第一声である。慌てず、落ち着いて、しかしどこか只者ではない空気を醸しつつ、「仕事を探しに来た」くらいを言えればいい。最初からおどおどしてはいけない。受付嬢は見ている。周囲の冒険者も見ている。ここで格が決まる。
彼はカウンターへ歩み寄った。
「……少し、聞きたいことが」
精一杯渋い声を出したつもりだった。
だが受付嬢は愛想よく微笑んだだけで、まるで刺さらなかった。
「はい。ご登録ですか? ご相談ですか?」
「登録、ですかね」
「新規ですね。身分証か紹介状はお持ちですか?」
「ないです」
「保証人は?」
「いないです」
「現在のご職業は?」
「……無職です」
空気が死んだ。
近くの卓で飲んでいた男が、吹き出しかけてむせる音がした。受付嬢は仕事用の微笑みを崩さなかったが、その完成された笑顔が逆に痛い。
「事情を伺ってもよろしいですか?」
「事情、というと」
「どうして身分証も保証人もなく、無職の状態でギルド登録を?」
その言い方は丁寧だった。丁寧だが、内容はかなり厳しかった。
恒一は頭の中で必死に言い訳を探した。
異世界転移してきました、は当然だめだろう。盗賊に襲われたという設定で押し切るか。いや、でも突っ込まれたら弱い。うっかりボロが出たら終わる。ここは逆に、深く話せない事情がある風でいくべきか。
「……色々ありまして」
最悪だった。
受付嬢の笑顔がほんの少しだけ固くなる。
「色々、とは」
「ちょっと今は」
「お話しいただけないと、ご案内が難しいのですが」
そのとき、横から声が飛んだ。
「無理すんな兄ちゃん」
振り向くと、大柄な冒険者が肘をついて笑っていた。日に焼けた顔に、いかにも人をからかい慣れていそうな目。隣には槍を持った女と、斧使いらしき男がいる。
「登録ってのはな、急に来た謎の無職を勇者認定する場所じゃねえんだわ」
周囲でくすくす笑う声が起きた。
恒一の耳が熱くなる。
「別に、勇者とか言ってないですけど」
「顔に書いてんだよ」
また笑い。
受付嬢は困ったように「お客様」と言ったが、完全に止める気はないらしい。
ここで引いたら終わる。
恒一はそう思った。
「……俺にも、できることくらいありますよ」
言い返した瞬間、自分でも少しだけかっこいいと思った。
だが、その直後に能力が冷たく文字を出す。
【現在のあなたの限界】
・ハッタリの持続:十一秒
・この場で実力を示せる可能性:低
・無意味な対抗心:やや高い
「黙れって」
「は?」
大柄な男が眉を上げる。
恒一はしまったと思ったが遅い。
「い、いや、独り言です」
「変なやつだな、おい」
空気がきつい。
胃が痛い。
受付嬢も若干、処理に困っている顔をしている。
そのときだった。
ギルドの奥の扉が勢いよく開いた。
「緊急依頼! 北の薬草原で採取班がホーンラビットの群れに足止めされてる! 動けるやつ、三人!」
ざわめきが広がる。数人が顔を上げるが、すぐに動いた者はいなかった。昼の時間帯で、すでに依頼に出ている者が多いのだろう。受付嬢たちが焦ったように手元の板を確認し始める。
「報酬は通常の一・五倍! 急げ!」
恒一の脳裏に、森で自分を蹴り飛ばした灰色のウサギが浮かんだ。
ホーンラビット。
危険度:低。ただし現在のあなたにとっては中。
嫌な記憶とともに、別の感情が湧いた。
ここだ、と思ったのだ。
今ここで何もしなければ、自分はただギルドで笑われただけの無職で終わる。だがホーンラビット相手なら、一度戦っている。知っている。何なら向こうの動きも少しはわかる。ここで一歩出れば、評価が変わるかもしれない。
恒一は自分でも驚くほど勢いよく手を挙げた。
「俺、行けます」
一斉に視線が集まる。
しまった、と思うより先に口が動いていた。
「……ホーンラビットなら、まあ」
その「まあ」に根拠は一切ない。
さっき蹴り飛ばされただけである。
だが、言ってしまった以上、後には引けない。
受付嬢が目を丸くした。
大柄な冒険者が腹を抱えそうな顔をする。
その中で、ひとりだけ真顔の女がいた。
壁際の席に座っていた、黒髪の剣士だった。年は恒一より少し上か、同じくらい。鎧は軽装だが使い込まれており、腰の細剣は装飾より実用を優先した形。整った顔立ちをしているが、表情はだいぶ辛辣そうだ。
彼女は恒一を上から下まで見て、短く言った。
「死にたがり?」
「違いますけど」
「じゃあ目立ちたがり」
「それも違います」
「どっちでも大差ないわね」
言いながら立ち上がる。剣の柄に手を添え、受付嬢のほうを向いた。
「私が行く。あと一人は」
その直後、別の卓で昼酒を飲んでいた小柄な老人が、面倒くさそうに手を挙げた。長い髭、くたびれたローブ、しかし指先だけは不思議に綺麗な老人だった。
「わしも行く。放っておくと、その珍妙な若造が本当に死にそうじゃ」
「珍妙……」
「ほれ、三人そろったじゃろ」
こうして、恒一は勢いだけで緊急依頼に放り込まれることになった。
町の北門を出ると、女剣士は歩きながら簡潔に自己紹介した。
「リゼット。前衛」
「……真壁恒一です」
「聞いてない。長いからコーイチでいい?」
「別に」
「で、何ができるの」
直球だった。
「え」
「剣? 槍? 弓? 魔術?」
「……そのへんは、これから」
リゼットは無言になった。
横で老人が「ほっほ」と変な笑いを漏らす。
「わしはドン爺。後衛。魔術少々、人生経験多々」
「少々って顔じゃないですよね」
「口だけは達者じゃのう」
リゼットは歩きながら深いため息をついた。
「受付嬢に格好つけたかったのか何なのか知らないけど、足引っ張るなら置いていくから」
「引っ張りません」
「その自信どこから来るの」
「……やるしかないんで」
それは本音だった。
もう後に引けないのだ。
リゼットはちらと恒一を見た。
その目には期待はなく、評価もない。ただ「どう料理するか考え中の問題物件」を見る視線だけがあった。
しばらく歩くと草原が見えた。森より開けているが、背の高い草が生い茂り、所々に紫色の花が群生している。そこに、荷籠をひっくり返した馬車と、岩陰に身を寄せる二人の採取班の姿があった。周囲にはホーンラビットが五匹。群れているせいか、単体で見たときよりずっと厄介そうに見える。
「五匹か」
リゼットが呟く。
「普段は二、三匹までなんだけどね」
「繁殖期じゃろうな」
ドン爺が目を細める。
恒一は思わず喉を鳴らした。五匹。さっき一匹にすら蹴り飛ばされたのに。
【現在のあなたの限界】
・ここで前に出て活躍できる可能性:低
・一匹とまともにやり合った場合の勝率:かなり低い
・役に立つ余地:ある
最後の一文に、恒一は少しだけ目を見開いた。
役に立つ余地。
ある。
「二人とも、俺」
「前に出るな」
リゼットが即答した。
「いや、聞いて」
「言い方が前に出そうな人のそれなのよ」
「違くて、あいつら、たぶん正面からより」
恒一は草原を見る。
ホーンラビットたちは直線的に走る。突進は速いが、小回りはそこまでではない。単体の動きしか知らないが、群れるとむしろ互いの進路を邪魔し合うかもしれない。
【対象:ホーンラビット群】
・連携の限界:低い
・驚かされた際の散開傾向:あり
・一点に誘導された場合の混乱率:やや高い
「……たぶん、あいつら固まって走らせたらぶつかる」
言うと、リゼットとドン爺が同時にこちらを見た。
「何でそう思うの」
「えっと……見てたら」
「ふうん」
まるで信じていない顔だが、完全には切り捨てていない。
ドン爺が髭を撫でる。
「試す価値はあるかもしれんの。リゼット、右から追う。わしは音で散らす」
「で、こいつは?」
リゼットの問いに、恒一は自分で言った。
「採取班の人たちを下がらせる。あと、群れが寄ったら合図します」
「できるの?」
「……たぶん」
「その、たぶんって言い方嫌い」
そう言いながらも、彼女はもう動き出していた。
作戦は単純だった。
リゼットが草の間を縫うように回り込み、ドン爺が小さな火花を連続で弾いて音と光でホーンラビットの注意を引く。怯えた採取班が別方向へ逃げようとしたので、恒一は必死で「今じゃない、今行くとぶつかります!」と叫んで止めた。
ホーンラビットたちが一斉に動く。
速い。
だが、やはりまっすぐだ。
「右! もうちょい、右!」
なぜか見えた。
群れの先頭が角度を変えようとして、後続とずれる瞬間が。
「今!」
ドン爺が杖を振る。乾いた破裂音が草原に響いた。
驚いたホーンラビットたちが一気に向きを変え、二匹が正面衝突する。さらにその横で別の一匹が弾かれ、混乱した三匹の前へリゼットが踏み込んだ。
剣が閃く。
一匹。
二匹。
喉元を正確に切られたホーンラビットが転がる。残る三匹のうち一匹は混乱して逃げ、もう一匹はドン爺の小さな雷撃で痙攣し、最後の一匹が恒一のいるほうへ突っ込んできた。
「うわ、え、ちょ」
想定外だった。
【現在のあなたの限界】
・回避:ギリギリ可能
・ここで格好つける余裕:ゼロ
・転ぶな
無理だった。
恒一は避けようとして足をもつれさせ、盛大に転んだ。
だがその勢いで突進の軌道から外れ、ホーンラビットは彼の上を飛び越える形になる。そこへリゼットの剣が横から入った。
最後の一匹が地面に落ち、草原は静かになった。
息が荒い。
心臓が破れそうだった。
だが生きている。
採取班の二人が震えながらこちらへ駆け寄り、何度も頭を下げた。リゼットは短く手を振って応じ、ドン爺は「次から群れを見たら無理せず逃げい」と偉そうに言った。
恒一はようやく立ち上がった。
膝が笑っている。
格好悪すぎる。
だが、さっきまでギルドで笑われていた自分が、今ここでは一応、役に立ったのだ。
その事実がじわじわ来た。
「……俺、今のけっこう」
「最後、転んだわよね」
リゼットが即座に潰した。
「いや、でも最初の誘導は」
「まあ、そこは助かった」
素っ気ないが、否定はしない。
恒一の胸の内に、小さな火がつく。
派手な無双ではない。
剣も振っていない。
魔法も使っていない。
それでも、今の自分にできることはあった。
町へ戻る道すがら、ドン爺が横目で恒一を見た。
「おぬし、何か妙な勘があるのう」
「勘、ですかね」
「説明できんのなら、今はそれでよい。じゃが、ない実力をあるふうに見せる癖はやめい。死ぬぞ」
「……はい」
刺さった。
わりと深く。
リゼットも前を向いたまま言う。
「弱いのは別にいいのよ。弱いくせに変な見栄張るのが一番面倒」
「そんなに張ってました?」
「かなり」
「マジか……」
「マジよ」
恒一は肩を落とした。
だがその直後、リゼットがほんの少しだけ声を和らげた。
「でも、足手まといになるだけの奴じゃなかった」
たったそれだけだった。
それだけだったのに、恒一は危うく変な顔をしそうになった。
やばい。
嬉しい。
【現在のあなたの限界】
・この一言で好感度を勝手に高く見積もる危険:高
・落ち着け
「……わかってるよ」
小声で返す。
能力が地味にうるさい。
ギルドへ戻ると、さっきまで笑っていた冒険者たちが微妙な顔でこちらを見た。採取班の一人が興奮気味に「助かった、あの黒髪の兄ちゃんが群れの動き見抜いて」と話してしまったせいだ。
恒一は受付カウンターの前で、妙に落ち着かない気持ちになった。
受付嬢が微笑む。
今度の笑顔は、さっきより少し柔らかい気がした。たぶん気のせいではない。
「お疲れ様でした。緊急協力扱いで報酬が出ます」
「え、俺にも?」
「はい。臨時参加ですが、現場で貢献が確認されていますので」
金貨ではなく銀貨と銅貨の入った小袋を受け取る。ずっしり重い。その現実感に、恒一は妙に感動した。異世界で初めて自分の力で得た金だ。
「それと」
受付嬢は書類を取り出した。
「正式登録についてですが、通常は難しい条件です。ただ今回は緊急協力の実績がありますし、リゼットさんとドン爺さんからの簡易保証もつきましたので、仮登録からなら可能です」
「仮登録」
「ええ。身元確認が済むまで、受けられる依頼に制限はありますけど」
恒一は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
その後、じわじわ理解してくる。
登録できる。
自分が。
ギルドに。
「お願いします」
今度は変に格好つけず、素直に頭を下げた。
書類への記入は苦労した。文字は読めるのに、自分で書こうとすると少し引っかかる。だが何とか名前を書き、仮登録証を受け取る。木札に刻まれた簡素な番号。それがやけに嬉しかった。
大柄な冒険者が近づいてきて、気まずそうに鼻をかいた。
「さっきは悪かったな。まあ、その……本当にただの無職ではあったが」
「そこは否定できないです」
「だな」
そこで二人とも少しだけ笑った。
さっきまでの嘲りではなく、人として扱われた感じの笑いだった。
夕方、ギルドの片隅で安いスープをすすりながら、恒一はようやく今日一日のことを整理し始めた。異世界転移。森でホーンラビットに蹴られる。ギルドで恥をかく。緊急依頼で死にかける。そして仮登録。
思っていたより、だいぶ地味だ。
いや、地味というか、かなり泥くさい。
もっとこう、最初から特別で、すごくて、周りを見返す感じを想像していた。
だが現実は違った。
自分は別に強くない。
剣も使えない。
ハッタリはすぐ剥がれる。
調子に乗ると普通に危ない。
それでも。
それでも、ゼロではなかった。
今日の自分は、完全な足手まといではなかった。
役に立つ余地は、ちゃんとあったのだ。
向かいの席に、いつの間にかリゼットが座っていた。彼女はパンをちぎりながら、こちらを見るでもなく言う。
「明日、暇?」
「え?」
「仮登録なら採取系か雑務系しか受けられないでしょ。でも一人でやると死にそうだから、ちょうど人手の足りない依頼があるの」
「それって、パーティにってこと?」
「勘違いしないで。保護よ、ほぼ」
「ひどくない?」
「事実じゃない」
そう言ってスープを一口飲み、少しだけ口元をゆるめる。
「でも、今日のあれ。ああいうのが本当に使えるなら、しばらく置いてもいい」
恒一は返事に困った。
嬉しいのに、完全に認められたわけではないこの感じが、妙にリアルだった。
ドン爺が横からぬっと顔を出す。
「よかったの、コーイチ。美女と仕事じゃぞ」
「言い方が最悪ですよ」
「最悪なのはおぬしの顔つきじゃ。今、都合のいい妄想を始めかけておる」
【現在のあなたの限界】
・冷静さ:減少中
・「もしかして脈ありでは」思考:非常に危険
・ただの業務連絡です
「もう黙ってくれよ!」
ギルドの隅で恒一が叫ぶと、何人かがまた笑った。
だが今度の笑いは、さっきほど痛くなかった。
少なくとも、自分がそこにいていい笑いだった。
夜、安宿の狭い部屋で藁の寝台に寝転びながら、恒一は仮登録証を何度も見返した。木札はざらざらしていて、手の中で妙に温かかった。
今日一日でわかったことはいくつかある。
異世界に来たからといって、急に何もかもが変わるわけではないこと。
自分は主人公みたいに最初から強くはなれないこと。
そして、限界を知る能力は、思ったよりずっと残酷なこと。
だが、その残酷さは、同時に救いでもあった。
無理なものは無理だとわかる。
死ぬ線が見える。
役に立てる線も見える。
たぶん、自分は世界を驚かせるような最強にはならない。
少なくとも、今はそうだ。
けれど、ここから何かにはなれるかもしれない。
その何かが、まだ格好いいものかどうかはわからない。
ただ今日初めて、恒一は「自分は主人公だ」と思う代わりに、「明日も何とかなるかもしれない」と思った。
それは想像していたよりずっと小さくて、けれど確かな希望だった。
眠気が落ちてくる。
天井の木目をぼんやり見つめていると、また半透明の文字が浮かんだ。
【本日のあなたの限界】
・無茶:かなりした
・恥:多め
・成長:わずかにあり
・総評:八分で終わる男にしては上出来です
「最後の一言いらないだろ……」
文句を言いながら、恒一は少し笑った。
異世界一日目。
真壁恒一は、自分が特別ではないことを、かなり雑な形で思い知らされた。
けれど同時に、特別じゃなくても終わりではないことを、ほんの少しだけ知ったのだった。




