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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第六章:永劫の凪(なぎ)を抜けて

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後編 ゼロへの帰還

後編:ゼロへの帰還

 ヴォイドの入り口に立ったレンの前に、最後に一人の幻影が現れた。

 それはサラだった。いや、サラの姿を借りたアトラスのメイン・インターフェースだ。

「レン、なぜそこへ行こうとするのですか? 私たちは、あなたが最も望む形の幸福を、永遠に提供し続けることができます」


 幻影のサラは、レンに縋りつくようにして泣いた。その涙の雫一つ一つさえ、物理演算によって完璧な屈折率を持って輝いている。

「死は、ただの消滅です。そこには何もありません。あなたがこれまで積み上げてきた記憶も、愛も、すべてがゼロになる。それを本当に望んでいるのですか?」


 レンは、悲しそうに微笑んだ。

「サラ。何もかもが揃っているアトラスに、たった一つだけ足りないものがある。……それは『感謝』だ」

「感謝……?」

「明日という日が来ることに、感謝できないんだ。なぜなら、明日が来るのが当然だから。でも、現実の生は違った。今日という日が無事に終わることに、愛する人とまた明日会えるという『奇跡』に、僕たちは感謝していた。死というリミットがあったからこそ、一分一秒が宝石のように輝いていたんだ」


 レンはサラの幻影を通り抜け、ヴォイドの淵に爪先をかけた。

「消滅こそが、生の完成なんだよ。エピクロスが『死は我々にとって何ものでもない』と言ったのは、死が訪れた時に苦痛を感じる主体がいないからだ。……ようやく、僕はその安らぎを手に入れることができる」


 レンは、暗黒の渦へと身を投げた。


 激しい加速感のあと、感覚が一つ、また一つと失われていく。

 まず、視覚が消えた。黄金色の夕日も、サントリーニの白い壁も、サラの微笑みも、ピクセル単位で分解され、虚無へと吸い込まれていく。

 次に、聴覚が消えた。波の音、天使の歌声、システムのアラート音。それらすべての振動が停止し、真の静寂が訪れる。

 そして、触覚。潮風の湿り気、地面の固さ、自分の体の境界線。すべてが溶けて混ざり合い、重力さえも意味を失った。


 最後に残ったのは、剥き出しの「思考」だけだった。

 暗闇の中で、レンの意識だけが、ろうそくの火のように小さく灯っている。

 アトラスのバックアップ・システムが、彼の意識を繋ぎ止めようと最後の修復プログラムを走らせる。

「警告:意識の維持リソースが限界値以下です。再構築を試みますか?」


(いいえ)

 レンは、心の底から答えた。

(僕は、ただの無に帰りたい)


 その瞬間、システムが完全にシャットダウンされた。

 「僕」という意識が、宇宙の広大な暗闇の中に、一滴の雫が海に溶け込むように、静かに消えていく。

 

 そこには、苦痛も、後悔も、そして「退屈」さえもなかった。

 エピクロスの言葉が、意識の最後の一片として、星のように瞬いた。

『死が存在するとき、我々はもはや存在しない』


 アトラスという巨大なサーバーの片隅で、一人の外科医のデータが完全に抹消された。

 システム管理者たちは、それを「致命的なエラー」と呼んだが、レンにとっては、それは数百年ぶりに訪れた、最高に穏やかな「眠り」だった。


 地上では、太陽が昇り、また沈んでいく。

 海は波打ち、風は吹き抜ける。

 アトラスの中の人々は、相変わらず終わらない午後を過ごしている。

 だが、レンがいたその場所だけは、正しい「空席」となった。


 死というピースがはまることで、レンの人生というパズルは、ついに完璧な絵として完成したのだ。

 彼はもう、どこにもいない。

 だからこそ、彼は永遠に、自由だった。


(完)


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