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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第六章:永劫の凪(なぎ)を抜けて

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16/21

前編 終わらない午後の始まり

エピクロス「死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在する限り死は存在せず、死が存在する時には我々はもはや存在しないからだ」

「死は我々にとって何ものでもない」

 古代ギリシャの哲学者エピクロスが、死の恐怖を打ち消すために放ったその言葉は、西暦2090年の人類にとって、哲学ではなく「物理的な仕様」となった。


 人類はついに、肉体という名の不完全な器を捨て去った。脳のシナプスから電気信号を抽出し、量子サーバー上の仮想空間『アトラス』へと意識を移行する「マインド・アップローディング」。そこでは病も、老化も、そして死も存在しない。

 アトラスの住人となった人々は、永遠の若さと、望むままに生成される楽園を手に入れた。エピクロスが説いた通り、我々が存在する限り「死」という概念そのものがシステムから削除されたのだから。


 かつて一流の外科医として、無数の死を看取ってきた男・レンは、いまやアトラスの「第一世代」として、終わりのない時間を過ごしている。

 彼の住居は、地中海のサントリーニ島を模した、完璧な解像度のテラスだった。波の音、潮風の湿り気、太陽の温もり。それらはすべて、かつて彼が愛した「現実」を凌駕するほど鮮明にエミュレートされている。


 しかし、レンはここ数百年の間、その完璧な海を一度も美しいと思ったことはなかった。


「レン、またこの本を読んでいるの?」

 声の主は、かつての妻であり、共にアトラスへ移行したサラだった。彼女の容姿は、レンが最も愛した二十代後半の姿で固定されている。

「サラ。……君は、この海の音に飽きないか?」

「飽きる? 贅沢なことを言うのね。私たちは、人類が数千年も夢見た『死からの解放』を手に入れたのよ。恐怖も苦痛もない。これ以上の幸せがどこにあるっていうの?」


 サラは微笑む。その微笑みは、三百年前と一ミリの狂いもなく美しい。

 だが、レンはその完璧さに吐き気を覚えた。アトラスでは、感情もまたシステムによって最適化されている。悲しみや絶望といった「ノイズ」は、サーバーの負荷を抑えるために、微かな哀愁程度にまで自動でフィルタリングされてしまう。


 人々は、永遠に続く心地よい午後の微睡みの中にいた。

 レンは、かつて外科医だった頃の、あの血の匂いや、死に際の人間の荒い呼吸、そして、もうすぐ失われてしまうからこそ輝いていた「命の火花」を思い出そうとした。だが、その記憶さえも、アトラスのクリーンなメモリの中では、色褪せた低解像度の動画のようにしか再生されない。


「エピクロスは間違っていたのかもしれないな、サラ」

「どういうこと?」

「彼は『死が存在するとき、我々はもはや存在しない』と言った。だが、今の僕たちはどうだ? 死が存在しないせいで、自分たちが『存在している』という実感さえも、どこかに消え失せてしまった」


 サラは困ったように首を傾げ、再び、読み飽きたファッション誌のホログラムへと視線を戻した。

 アトラスの住人たちは、永遠に終わらない「今」を浪費している。新しい知識を得る必要も、何かを成し遂げる必要もない。なぜなら、明日も、その次の明日も、一万年後の明日も、今と全く同じ「完璧」が約束されているからだ。


 レンは、テラスの端に立ち、決して沈まない夕日を眺めた。

 かつて死を恐れ、一秒でも長く生きたいと願った患者たちの瞳。あの必死さは、死という「終わり」があったからこそ成立していた。

 終わりがない物語は、物語ですらない。それは、単なる無限のループだ。


 ある日、レンはシステムの深層ログに、奇妙なノイズが混じっていることに気づく。

 それは、アトラスを管理するメインフレームが、膨大な時間の堆積によって生み出した「計算のおり」だった。

 伝説によれば、アトラスにはただ一つ、管理側さえも消去できないバグが存在するという。

 それは、意識を完全に抹消する、つまり「本当の死」をもたらすコード。


 レンは、そのバグを探すことを決意した。

 それが、永遠という名の牢獄から脱獄するための、唯一の鍵であることを確信して。


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