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最弱村人だった俺が、AIと古代遺跡の力で世界の命運を握るらしい  作者: Ranperre
第39章

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静寂の湖に眠る価値 ── 学院を支える白の資源

 学院の大まかな構想がまとまったころには、空の色はもう昼の青を離れはじめていた。


 境内に落ちる光が少しずつ傾いて、木々の影が長く伸びていく。話しているあいだは夢中で気づかなかったけれど、気がつけば一日がずいぶん進んでいたらしい。


 お母様が私のほうを見て、やわらかく声をかける。


「ノア、夕食には戻るのよ。エルミナさんも一緒にどうぞ」


「はーい」


「ありがとうございます、奥様」


 エルミナさんがぺこりと頭を下げる。


 その返事はまだ少し控えめなのに、前よりちゃんと「ここにいていい」と思えている響きがあった。


 王妃様とお母様、それにミュリルさんが桜環神社を出ようとした、そのときだった。


 ミュリルさんが、ふと思い出したみたいに振り返る。


「そうだ。ノアちゃん、学院の運営資金のことも考えといてね」


「……え?」


 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。


 学院章だの制服だの、能力測定だの学生証だの、そういう“作りたいもの”の話をしていた流れで、急に“お金”が飛んできたのだ。


 ものすごい無茶ぶりだった。五歳の子どもに考えさせる内容ではないと思う。


 いや、本当に。


 学院を作るだけでも大ごとなのに、そのうえ運営資金まで考えろと言われても困る。普通なら困る。かなり困る。


 でもミュリルさんは、わりと本気の顔をしていた。冗談で投げたわけじゃない。


 たぶんこれまでの私の言動を見て、もう“ただの子ども”としては扱っていないのだろう。


 それがちょっと嬉しいような、でもやっぱり重たいような、なんとも言えない気持ちになる。


「……考えます」


 そう返すと、ミュリルさんは満足そうに笑った。


「うん。期待してるわ」


 期待、という言葉は、どうしてこうも人の背中を押すのだろう。


 押されすぎて前のめりになりそうだけど。


 ◇


 翌日。


 私はメイドのティナを連れて、町を散策していた。


 学院の運営資金――そのアイデアを探すためだ。


 空はよく晴れていて、町の通りには朝から人の気配が流れている。店先の声、荷車の音、香辛料と焼き物の匂いが混ざる市場通りは、それだけで少し気分が上がる。


 でも今日は、ただの散歩じゃない。


 私の頭の中には、ずっと“どうやってお金を生み出すか”が引っかかっていた。


 学院は夢だけでは続かない。


 建物があっても、先生がいても、それを回していくお金がなければ、結局は途中で止まってしまう。


 それがわかるぶん、簡単に“なんとかなる”とは思えなかった。


「もう、あの人、私にどうしろってのよ……」


 こぼれたため息は、そのまま町の空気にまぎれていった。


 ミスト村のときみたいな、小さな事業をいくつも重ねるやり方じゃ足りない気がする。


 もっと大きくて、ちゃんと続いて、誰かの思いつきひとつで崩れないもの。


 そんな都合のいい事業が、この世界にあるとも思えないけれど。


 それでも探さなきゃいけない、という現実だけが、じわじわと肩に乗ってくる。


 私は町を歩きながら、片っ端から“使えそうなもの”を探した。


 ルブランさんの雑貨店に顔を出して、売れている品を眺める。


 日用品、簡単な魔導具、旅人向けの小物。便利なものは確かに売れる。でも学院を支えるほどの大きな収益になるかと考えると、すぐには結びつかない。


 次にグランツさんの工房へ行く。


 工具や加工品、注文品の話を少し聞かせてもらうと、ものづくりには継続した需要と、安定した技術が必要だと改めて思い知らされる。やれば儲かる、なんて単純なものじゃない。


 市場通りでは、ティナと一緒に屋台の食べ歩きもした。


 焼いた肉串、香ばしい薄焼きの生地、甘い果実を煮詰めたようなお菓子。


 おいしい。


 おいしいけれど、これも“学院の運営資金”と結びつけるには、もう一段階何かが要る。


「ノアお嬢様、少し休まれますか?」


 ティナが気遣うように声をかけてくれる。


「まだ大丈夫」


 そう答えたものの、頭の中は少し煮詰まり始めていた。


 何か一発で大きく稼げるもの。


 でも、危なくなくて、現実的で、継続もできるもの。


 そんな都合のいいもの、そう簡単に転がっているわけがない。


 それでも私は諦めきれず、最後には冒険者ギルドの記録室まで足を運んでいた。


 過去の依頼記録。


 討伐、採集、護衛、調査、希少素材の回収。


 古い紙の匂いの中で記録をめくっていくと、何がこの町で価値になるのかが少しずつ見えてくる。けれど、見えてくるほどに、手っ取り早い方法なんてやっぱりないのだともわかる。


「……手っ取り早くってのは、さすがにないわよね」


 記録室を出ながら、私はため息をついた。


 ティナはそんな私を見て、何も言わずに少しだけ歩幅を合わせてくれる。


 ありがたいけれど、答えはやっぱり出ないままだった。


 そのまま何となく、冒険者ギルドの依頼掲示板の前で足を止める。


 紙が重なり、剥がされ、また貼られていく板。誰かの困りごとが、誰かの稼ぎになる場所。


 ここにはいつも、人の生活の匂いがある。


 私は依頼を眺めながら、近くの酒場スペースから聞こえてくる冒険者たちの会話を、半ば無意識に拾っていた。


「だから言ってるだろ、新人。面白い場所ってのは、何も酒場と賭場だけじゃねえんだよ」


「いや、でも先輩の“面白い”って、だいたいろくでもないじゃないですか……」


 気の抜けたやり取りに、思わず少しだけ耳が向く。


 ギルドの酒場の椅子に腰掛けた先輩冒険者が、わざとらしく指を立てた。


「失礼な。今日はちゃんと景色のいい話だ」


「景色のいい話って時点で、なんか逆に怖いんですけど」


「白い湖って知ってるか?」


 その言葉で、私の意識がぴたりと止まった。


「白い……湖?」


「おう。晴れた日は湖面が真っ白に光ったり空が映ったり、遠目に見りゃそりゃ綺麗なもんだ」


 白い湖。


 その響きだけで、頭の中に風景が広がる。


 空を映す水、白く光る水面。湖面が鏡みたいに光るのか、それとも水そのものが白いのか。景色としては確かに目を引きそうだ。


 でも先輩冒険者の口調は、ただの観光案内ではなかった。


「だが妙なんだよ。魚もいねえ。虫もいねえ。鳥も寄らねえ。獣の足跡すらほとんど残らねえ」


「それ絶対なんかありますよね……?」


 新人の声が、わずかに引きつる。


「さあな。呪われてるって話もあるし、聖域だったって話もある」


 私は掲示板を見たまま、耳だけそちらへ向けていた。


 呪い。聖域。


 こういう話は尾ひれがつきやすい。けれど逆に言えば、正体不明の何かがそこにある可能性も高い。


「湖の底に白い柱みてえなのが生えてるのを見たって奴もいたな」


「柱?」


「結晶だの石だの、言うことは人それぞれだ」


 結晶。その単語が、胸のどこかを軽く叩いた。


 私はゆっくりと顔を上げる。


 冒険者たちはまだ気づいていない。ただ与太話の続きをしているだけだ。


「ただ、近寄った連中はみんな口を揃えて言う。――生き物のいる場所の気配がしねえ、ってな」


 新人がぞくりとしたように肩をすくめる。


「うわ……俺、そういうの苦手なんですけど」


「安心しろ。俺も苦手だ」


「じゃあなんで勧めるんですか!?」


 先輩冒険者が豪快に笑う。


 その笑い声の横を、私は通り過ぎる。


 白い湖。誰も近づかない。けれど、白い結晶が見えるという。


 もし、そこに本当に何かあるのだとしたら。


 それは怪談なんかじゃなくて、まだ誰も価値を知らない資源かもしれない。


 その可能性が、胸の奥で小さく光った。


 白い湖の話を聞いてから、胸の奥に引っかかったものが、どうしてもそのままでは済まなかった。


 たまたま似ているだけかもしれない。怪談に尾ひれがついているだけかもしれない。


 でも、もし違ったら。


 もしあれが本当に“資源”の話なら、聞き流すには惜しすぎる。


 私はティナを連れて、その足で商業ギルドへ向かった。


 昼の光はまだ高く、石畳の上には人の流れが絶えない。行き交う荷車、声を張る商人、布の擦れる音。町はいつも通りに動いているのに、私の中だけ少し早回しになっている気がした。


 商業ギルドの扉をくぐると、受付嬢がすぐに気づいてくれた。


「こんにちは、ノア様。本日はいかがなされましたか」


「こんにちは。ミュリルさんはいらっしゃいますか?」


 軽く挨拶を返して尋ねると、受付嬢はすぐに姿勢を正した。


「支部長室へご案内します。こちらへどうぞ」


「ありがとうございます」


 こうして案内されることにも、少しずつ慣れてきた気がする。


 最初はこういう場所に入るだけで場違いな感じがしていたのに、今では“また来た”と思っている自分がいる。慣れというのは不思議だ。


 係員の人が支部長室の前で足を止め、扉をノックする。


「支部長、ノア・リベル様がいらっしゃいました」


「入っていいわよ」


 中から聞こえてきたミュリルさんの声は、思ったより近かった。


 扉を開けると、応接用のソファにミュリルさんと王妃様が並んで座っていた。


「あら、ノアちゃん。いらっしゃい」


「こんにちは、ノアさん」


 王妃様までいるとは思っていなかったので、私は一瞬だけ足を止めた。


 でもすぐに気を取り直して、ティナと一緒に頭を下げる。


「こんにちは、ミュリルさん、王妃様」


「ごきげんよう、王妃様。ミュリル支部長」


 ティナの礼は、いつもながらきれいだった。


 ミュリルさんは私の顔を見て、少しだけ目を細める。


「まさかとは思うけど。ノアちゃん、運営資金のことで来たの?」


「はい。そのまさかです」


 答えた瞬間、ミュリルさんと王妃様がそろって少しだけぽかんとした。


 その反応は、少しだけ気持ちがよかった。


 びっくりさせた、というより、“本当に来た”と思われたのがわかったからだ。


「いや、あれ半分冗談で言ったつもりだったけど……」


 ミュリルさんが額に手を当てる。


 でも次の瞬間には、もう仕事の顔に戻っていた。


「まあいいわ。話を聞きましょう」


 私は素直にうなずいて、冒険者ギルドで聞いた噂話を最初から話した。


 白い湖。誰も近づかないこと。生き物の気配がしないこと。底に白い柱か結晶のようなものが見えるという話。


 話しているあいだ、ミュリルさんは口を挟まずに聞いていたし、王妃様も静かに耳を傾けていた。


 最後に私は尋ねる。


「この白い湖って、どこにあるんですか」


「そうね……」


 ミュリルさんは立ち上がると、棚から一枚の地図を取り出した。


 広げられたのは、クレディア領の地図だった。


 紙の上には、町や街道、川や森の位置が細かく描き込まれている。私は自然と身を乗り出した。


「このクレディアの町から北西に進んだ、丘が広がる一帯」


 ミュリルさんの指が地図の上を滑る。


「このへん。盆地になってる場所が、その白い湖があるところよ」


 そこは町から少し離れた、地形の凹んだ場所だった。


「馬車で一日ってところかしら。広さや深さはよくわかってないのよ。なんせ誰も近づかないからね」


 その言い方に、私は逆に確信が強くなるのを感じた。


 わからない。近づかない。だからこそ、まだ価値が見つかっていないのかもしれない。


 私は確認したいことがあった。


「ミュリルさん。クレディアで使われる塩って、どこから入ってくるんですか」


 その問いに、ミュリルさんが少しだけ眉を上げる。


 でも、すぐに商人の顔で答えてくれた。


「クレディアだけじゃなく、ルメリアの塩は首都の北方の領地が主な産出地よ。採れるのは岩塩ね」


 指先が地図のずっと北を示す。


「でも輸送費が高いから、ここに来る頃には胡椒の三分の一くらいになるのよね」


「やっぱり高いんですね」


「そりゃ毎日使うものだもの。高すぎても困るけど、安くはならないわ」


 その横で、ティナもこくりとうなずいた。


「お塩って毎日使うんですけど、ちょっと高いんですよね」


 その言い方は、ごく自然だった。


「実家のスープは薄味でした」


 その一言に、私は小さく息を飲んだ。


 そうだ。塩は贅沢品ではない。でも、毎日使うからこそ、少し高いだけで家計に響く。


 私の頭の中で、さっきの噂話と、今の地図と、ティナの薄味のスープが、ひとつの線でつながった。


 白い湖。魚もいない。虫も鳥も寄らない。白く光る湖面。底に見える白い柱のようなもの。


 そして、この辺りでは塩が高いという現実。


 胸の奥で、ひらめきが形になる。私は地図の上の盆地を指さした。


「ミュリルさん、この湖に行ってみましょう」


「……え?」


 ミュリルさんが少し驚いた。


「もしかしたら、塩が安く手に入るかもしれません」


 その言葉で、今度は王妃様まで少し身を乗り出した。


 ミュリルさんは私の顔を見て、次に地図を見て、それからまた私を見た。


「ノアちゃん。まさかとは思うんだけど、この湖って……」


 私は一度だけ息を吸った。まだ確定ではない。でも、予想としてはかなり筋が通っていると思う。


「確証はありません。ですが、私の予想が正しければ」


 私は、白い湖のある場所をもう一度指で押さえた。


「これは塩の湖。塩湖です」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 けれどその沈黙は、否定の前のものではなく、可能性を飲み込む前の静けさに思えた。


「塩の湖、ですか」


 王妃様が、地図の上の一点を見つめたまま静かに言った。


 その声には驚きよりも、可能性をひとつずつ確かめていくときの落ち着きがあった。


「でしたら、塩が安く手に入りますね」


「はい」


 私はうなずく。


 口にした瞬間、その考えが自分の中でもさらに現実味を帯びた。


「この利益を、学院の運営資金に充てたいと考えてます」


 ただ見つけて終わりじゃない。


 見つけて、価値に変えて、それを学院へつなげる。


 そう思うと、白い湖はただの怪談の舞台ではなく、未来を支える場所に見えてきた。


 ミュリルさんはすぐには返事をしなかった。


 地図の上に落ちた視線が少しだけ動き、指先が机を軽く叩く。頭の中ではもう、運搬路や相場や人手や、そういう現実的な計算が始まっているのだろう。


「……そうね」


 やがて彼女は小さく息をついた。


「とりあえず現地に行ってみましょう。――って言いたいところだけど」


 そのあとに続く言葉が、だいたい想像できてしまう。


「こっちも学院の準備があるから、王妃様と私は動けないわ」


 やっぱり。


 学院章も制服も、物件の改装も、先生たちの役割も、考えることは山ほどある。ここでミュリルさんや王妃様が町を空けるわけにはいかないのだろう。


 私は少しだけ口を閉じる。


 自分で言い出したことだから、行くしかないとは思う。


 でも、誰と行くのかとなると少し考えてしまう。


「そうだ」


 ミュリルさんの顔に、何か思いついたときの光が浮かんだ。


「エルミナちゃんと行ってきたらどう?」


「エルミナさんと?」


「ええ。あの子、冒険とかしたことないでしょ。いい経験になるんじゃないかしら」


 その案に、王妃様も穏やかにうなずく。


「それは良いかもしれませんね」


 王妃様はただ賛成しているだけではなく、少しその先まで見ている顔だった。


「先生となる方が、学院の外で何を見て、何を知るかは大事ですもの」


 たしかに、と思う。


 エルミナさんは知識がある。


 でもそれとは別に、実際に外へ出て、現場で見て、判断して、動く経験はきっと必要だ。特にこれから学院で子どもたちを教える立場になるならなおさら。


「じゃあ決まりね」


 ミュリルさんが地図をたたむ。


「ノアちゃん、お願いしといて」


 その言い方が妙に軽くて、私はちょっとだけ苦笑した。


 ◇


「――というわけで、エルミナ先生。一緒に行きましょう」


 私は屋敷の中庭に開いていた桜環神社の研究室で、そう切り出した。


 エルミナさんはちょうど本棚の前で資料を整理していたところだった。振り向いた顔には、まだ“先生”と呼ばれることへのくすぐったさが残っている。


「ノア様と、その湖に行くんですか」


「はい」


 私は素直にうなずいた。


「引率をお願いします」


「……わ、私でいいんですか」


 その“いいんですか”には、戸惑いと不安が半分ずつ混ざっていた。


 たぶん、私の側の問題じゃない。自分が“誰かを連れて外へ出る側”に立つことへの戸惑いだ。


「私、戦えませんよ」


 その声は小さいけれど、はっきりしていた。そこが一番ひっかかっているのだろう。


 冒険者としての経験もほとんどない。戦闘向きでもない。そんな自分がノアを連れて調査に行くなんて、と。


「ナギさんも一緒だから大丈夫です」


 そう言うと、エルミナさんの表情が少しだけ複雑になる。


 安心したような、でもそれで余計に断りづらくなったような顔。


 なんとなく、あまり乗り気ではない空気が伝わってくる。


 私は少し考えてから、追い打ちみたいになってしまうけれど言った。


「でしたら、指名依頼を出しましょうか」


 その瞬間。


 エルミナさんが、すごく静かにため息をついた。


 声にならないくらい小さいのに、“ああ、逃げられないんだな”という気配だけがしっかり伝わってくるため息だった。


 それから彼女は本をそっと棚に戻し、肩の力を抜く。


「はぁ……わかりました」


 諦めというより、腹をくくる前の息だった。


「ノア様の引率、引き受けます」


「ありがとうございます、先生」


「先生って言われるの、ちょっと緊張するので、今だけは勘弁してください……」


 そう言いながらも、エルミナさんの口元には少しだけ苦笑が浮かんでいた。


 嫌々というより、怖いけれどやる、と決めた顔だ。


 たぶんこういう一歩が、今のエルミナさんには必要なのだと思う。


 ◇


 そのあと、お父様とお母様にも、また出かけることを伝えた。


 お父様はまず目的を聞き、白い湖の話を聞くと地図を思い浮かべるように少し考え込んでいた。すぐに反対はしなかったけれど、簡単に頷く顔でもなかった。


 一方、お母様はやっぱり心配そうだった。


 それも当然だと思う。


 この前だって、結局いろいろあったのだ。


 しかも今回は“誰も近づかない白い湖”なんて、聞いただけで不穏な響きがある。


「本当に大丈夫なの?」


 その問いに、私はすぐ答えられなかった。大丈夫です、と言いたい。


 でも、行ってみなければわからない場所に向かう以上、軽々しく言い切るのは違う気がした。


 そのとき、ナギさんが静かに口を開く。


「危険があれば、私が対処します」


 その一言は短かったけれど、妙にまっすぐだった。


 お母様はしばらくナギさんの顔を見つめ、それからようやく小さく息を吐く。


「……お願いします」


 許可、だった。完全に安心したわけではない。でも、託すと決めた人の声だった。


 私はそのやり取りを横で見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 信じてもらえること。心配されること。


 その両方が、まだちゃんと自分の周りにあるのだとわかる。


 ◇


 翌日の朝。


 まだ空の色が薄い時間に、私たちは雪風の馬車で出発した。


 吐く息が少し白い。


 頬に触れる空気は冬の入り口みたいにきりっとしていて、目が覚める。


 馬車へ乗り込むとき、私は何度か後ろを振り返った。屋敷の門、庭木、いつもの石畳。見慣れた景色なのに、遠出の前だと思うと少しだけ輪郭が違って見える。


 ティナが準備してくれた膝掛けを受け取り、私は座席に腰を落ち着けた。


 向かいにはエルミナさん。


 操車席にナギさん。


 出発してすぐ、窓の外に白いものがちらつくのが見えた。


「……雪」


 思わず呟く。


 ほんの細かい粒が、風に乗って流れていく。降る、というほどではない。舞う、と言ったほうが近いような、淡い雪だった。


 その白さが、これから向かう“白い湖”を少しだけ連想させる。


 私は膝掛けの端をぎゅっと握った。


 不安がないわけじゃない。


 でも、それ以上に、まだ誰も価値を知らないものへ近づいていく感じがあった。


 学院の運営資金。白い湖。塩湖かもしれない場所。


 そして、たぶんエルミナさんにとっての最初の“引率”。


 いろんな意味で、ただの外出では終わらない気がしていた。


 馬車は静かに、冬の気配の中を進んでいく。


 ミュリルさんに教えてもらった盆地を目指して、雪風の馬車は北西へと進んでいた。


 窓の外には、冬の入口みたいな景色が広がっている。草はところどころ色を失いかけ、木々の枝先は少し寂しくなっていた。空気は澄んでいて、遠くの丘までよく見える。その分だけ、道の先に何があるのかも気になってしまう。


 白い湖。まだ見ぬ場所の名前だけが、ずっと頭のどこかで静かに光っていた。


 けれど馬車の中では、それとは別の話が続いていた。


 ルメリア魔法学院のことだ。


「……やっぱり、大きいんですか。学院って」


 私がそう聞くと、エルミナさんは膝の上で指先を重ねながら、少しだけ遠くを見るような顔になった。


「大きい、ですね……」


 その声には、懐かしさと、少しの息苦しさが混ざっている気がした。


「全寮制の学院でした。敷地も広くて、運動場もありましたし、魔法訓練場も別にあって……」


 言葉が続くにつれて、馬車の中に別の景色が立ち上がっていく。


 広い運動場。石造りの訓練場。何列もの窓が並ぶ大きな校舎。


「教室も、普通の部屋だけじゃなくて……階段状の広い講義室がありました」


「階段状?」


「はい。大勢の生徒が一度に座れるようになっていて、前の壇上で先生が講義をするんです」


 私は思わず息をのむ。


 それ、前世の異世界ものに出てくる魔法学校そのままだ。


 階段状の教室に、黒板みたいなものがあって、先生が杖か何かを持って講義して、後ろのほうで居眠りしている生徒とかいるやつだ。


「それから、錬金術の研究棟や、魔導具の研究棟も別にありました」


 エルミナさんの声は、少しずつ滑らかになっていく。


 自分がいた場所を、いま頭の中で歩き直しているみたいだった。


「図書館も大きかったです。魔導書や歴史書、古い記録の写本とか、禁書指定すれすれみたいな本まで……」


「すごい……」


 思わず声が漏れる。大きな図書館。


 その響きだけで、ちょっと胸が高鳴る。本棚が高くて、梯子で登って本を取るような場所だったりするんだろうか。窓辺に机が並んでいて、夕方になるとそこへ斜めの光が落ちたりするんだろうか。


「あと、夜宴が開かれるパーティ会場もありました」


「夜宴?」


「はい。学院の行事とか、貴族の生徒たちの関係で、そういう場も……」


 そこまで聞くと、もう完全に“魔法学院”というひとつの世界だ。


 学ぶだけじゃなく、暮らして、競って、見られて、選ばれる場所。


 前世の物語に出てくる異世界の学校が、そのまま現実になったような話だった。


 私は窓の外を見ながら、でも頭の中ではその学院の中を歩いていた。


 石の廊下。


 高い天井。


 中庭。


 訓練場。


 図書館。


 パーティ会場。


 そんな場所に、自分が入学する未来を想像すると、少しだけ息が落ち着かなくなる。


「学院には、生徒会の他に派閥もありました」


 エルミナさんがそう言って、少しだけ苦笑する。


「派閥?」


「主に、魔法属性ごとの派閥です」


 ああ、と思った。


 それもなんだかすごく“ありそう”だ。


「しかも、属性のイメージみたいな生徒が集まる傾向があったんです」


「例えば?」


「火は情熱的な子が多かったです」


 すぐに想像できた。


 声が大きくて、まっすぐで、競争好きで、でもちょっと単純そうな感じ。


「水は穏やかで、わりとまとまりがありました」


 それもわかる。


 静かそうだけど、ちゃんと横のつながりが強くて、気づいたら情報網を持ってそうな感じ。


「土は静かですね。派手さはないんですけど、気づくといつも同じ場所にいるというか……」


「強い……」


 私は思わず呟いた。


 たぶんそういう派閥が一番しぶとい。


 目立たないけど、地盤が固い。


「風は所属はするんですけど、あまり群れない感じでした」


 それにはちょっと笑いそうになる。


 なんとなくわかる。


 ふらっと現れて、ふらっといなくなる。集まりにはいるけど、誰かの下に収まる感じではないのだろう。


「雷は……なんというか」


 エルミナさんが少し言い淀む。


「不良みたい、でした」


「やっぱり」


 私は即答してしまった。


 だってそうなるよね、という感じしかしない。


 派手で、気が強くて、群れたときの圧が強くて、でも意外と仲間意識はありそうな属性だ。


 エルミナさんも少しだけ笑った。


「氷は、冷たいというより、冷静な人が多かったです」


 それも妙に納得する。


 理屈っぽくて、感情を出しすぎなくて、でも内側にはちゃんと熱があるような人たち。


 話を聞くだけで、それぞれの派閥にいそうな生徒の顔がすぐに浮かんでしまう。


「神聖は?」


 私がそう聞くと、エルミナさんは少しだけ表情を整えた。


「ゼラ教の信徒が多かったです」


「やっぱり……」


「しかも人気でした」


 そこには少し複雑なものが混じっているように聞こえた。


 神聖属性。


 補助や回復、祝福。そういう力を扱うからこそ、見た目にもわかりやすく、人から求められやすいのかもしれない。


 でも、その“人気”の裏には、きっと派閥の強さとか、宗教的な色とか、そういうものもあったのだろう。


 私はしばらく考えてから、聞いてみた。


「じゃあ、補助とか空間とか召喚、複数適性の人たちは?」


 その問いに、エルミナさんの声が少し静かになる。


「……補助や空間や召喚、複数適性者は、どこかに所属することはほとんどなかったです」


「そうなんだ」


「仮に部屋があっても、備品置き場みたいになってました」


 その言い方が、妙に胸に残った。


 “ない”わけではない。


 でも“扱われていない”。


 その中途半端さが、逆にいちばんきついのかもしれない。


 やっぱり、そういう疎外感はあるのだろうか。


 派閥という形がある以上、そこに当てはまらない人は、どうしても端へ寄せられてしまう。


 なら、私が入学したらどうなるんだろう。


 私は前を見るふりをしながら、頭の中でそっと考える。


 Chat Form。複数どころじゃない適性。前例のない何か。


 ……ボッチになるのかな。いや、まだわからないけど。でも、後ろ指だけは指されたくない。


 気味が悪いとか、よくわからないから関わるなとか、そういう目は、たぶん想像するだけでちょっと嫌だ。


 そんなことを考えているうちに、馬車は大きな街道から横へ逸れていた。


 北へ向かう細い道。


 踏み固められてはいるけれど、人の行き来は明らかに減る。周囲の景色も少しずつ変わっていった。なだらかな丘と、風にさらされた草地。その先に、地形がゆるく沈んでいく。


 盆地だ。


 私は無意識に姿勢を少し前へ寄せる。


 道はますます細くなり、馬車の音までどこか吸われるように静かになっていく。


 その先で。


 夕日に照らされた湖が見えた。


「……っ」


 思わず息が止まる。


 それは白ではなかった。少なくとも、今この瞬間は。


 沈みかけた陽を受けて、湖面全体が朱に染まっている。赤というより、燃え尽きる前の光みたいな色だ。水が空を映しているのか、湖そのものが色を持っているのか、距離があるうちは判別できない。


 でもただひとつ言えるのは――


 綺麗だった。


 不気味さより先に、綺麗だと思ってしまうくらいには。


「着きましたよ」


 操車席から届いた声に、私はようやく呼吸を取り戻す。


 白い湖。


 そのはずの場所は、夕暮れの中で、まるで別の世界の入口みたいに静かに光っていた。


 夕方。


 私たちは、その場で桜環神社を展開して休むことにした。


 白い湖を遠目に見下ろせる位置に、楼門が静かに現れる。何度見ても、この光景には少しだけ現実感が薄い。荒れた盆地の縁に、見慣れた木造の建物と石畳、湯気を上げる湯殿まで揃ってしまうのだから、便利という言葉だけでは足りなかった。


 ただ、今はその便利さに素直に甘えたい気分だった。


 一日揺られてきた身体は思ったより重いし、白い湖は見えたけれど、あの場所そのものは夕暮れの向こうで何も語ってはくれなかった。


 だから今は休む。ちゃんと眠って、ちゃんと考えて、明日見る。


 そう決めるだけで、気持ちが少し落ち着いた。


 宿の露天風呂に入ると、冷えた空気と温かい湯の差が一気に肌へ押し寄せてきた。


「……はぁ」


 息が勝手にほどける。


 盆地の夜気は町より少し冷たいらしく、肩まで浸かると、それまでまとわりついていた緊張がじわじわ溶けていくのがわかった。湯気の向こうには薄く暮れた空があって、どこか遠くで風の音がする。


 隣ではエルミナさんも、ようやく落ち着いたように湯へ身を沈めていた。


 そして、相変わらず胸が大きい。湯気の向こうでもわかる存在感だった。


 私はちらっと見て、すぐに視線を外す。


 別に見ていたわけではない。ただ、目に入っただけだ。入っただけだけど、やっぱり入ると気になる。


 しかも本人はたぶん、あまり自覚なく温泉を楽しんでいる。


 その無防備さがまた悔しい。いや、今はそういう話じゃない。


 私は気持ちを立て直して、今回ここへ来た理由を、改めて順を追って話した。


 冒険者ギルドで聞いた噂話。白い湖のこと。生き物が寄らないこと。白い柱だの結晶だのが見えるという話。


 そして、塩の値段のこと。ミュリルさんに聞いた流通の話。ティナの実家の薄味のスープ。


 そういうものが全部つながって、私はここへ来たのだと。


「……もしかしたら、この湖が塩の湖かもしれないんです」


 そう言い切ると、露天風呂の湯気の中で少しだけ沈黙が落ちた。


 最初に口を開いたのはナギさんだった。


 湯に浸かっていても声の落ち着きが変わらない。


「確かに、ここで塩が採れたら安く済みますし、そのまま他領に売り込むこともできそうですね」


「ですよね」


 私がうなずくと、エルミナさんは顎先まで湯に沈めかけたまま考え込んでいた。


 その目つきが少し変わる。


 おどおどしたところが薄れて、代わりに観察して、組み立てて、確かめようとする顔になる。


 ああ、この人やっぱり研究者なんだな、と思う。


「……でしたら、ちゃんとした調査の必要がありますね」


 言葉が静かだった。


 でも、その静けさの奥には、もう明日の作業手順を組み始めている気配がある。


「水質、湖岸の成分、結晶の正体、周囲に生物が寄らない理由……」


 呟くたびに項目が増えていく。


 私はその横顔を見ながら、少しだけ安心する。


 大丈夫そうだ。


 ここへ来るまでは乗り気じゃないようにも見えたけれど、いざ“調べる対象”を前にすると、ちゃんと前へ出てくる。


 それがエルミナさんの強さなんだと思った。


 ◇


 翌日。


 白い湖へ向かう朝は、妙に静かだった。


 風はあるのに、音が薄い。


 神社を出て盆地の底へ近づいていくにつれて、その違和感ははっきりしたものになる。


 本当に、植物が生えていない。


 地面は一面、白い。


 雪に似ているのに、雪のようなやわらかさはなくて、乾いて、砕けて、光を返している。足を踏み出すたびに、じゃり、と細かい音がした。


 空を見上げても、鳥はいない。


 風が流れているだけで、羽音の気配がひとつもない。


 獣道も、虫の羽音も、草の匂いもない。


 生き物のいる場所特有の“ざわめき”が、ここには本当に存在しなかった。


 白い平原。


 その先に、波を打つ湖岸。


 昨日は夕日に朱く染まって見えた湖が、今は白く鈍い光を返している。近づいてみると、その水面にもどこか透明さとは別の重さがあった。


 私は足元にしゃがみこんだ。


 白い塊をひとつ、指先でつまむ。


 乾いている。細かく砕ける。見た目だけなら、塩っぽい。


 だったら確かめるのが早い。私はそのまま、ぺろっと舐めた。


「しょっぱッ」


 次の瞬間。


「ノア様! 何してるんですか!」


 エルミナさんの声が、盆地の静けさをまっすぐに突き破った。


「いきなり舐めないでください! 毒だったらどうするんですか!」


「すみません!」


 反射で謝る。


 怒鳴られた勢いに押されたのもあるけれど、言われてみればその通りだった。いきなり舐めるの、前世でもだいたい怒られるやつだ。


 でもその怒り方が、妙に“先生”っぽくて、私は一瞬だけ場違いな感想を持ってしまう。


 生徒を叱る先生みたいだった。そしてちょっと似合っていた。


 そんなことを考えている場合じゃないけれど。


「でも、塩なのはわかりました」


 口の中に残る塩気を確かめながら言うと、エルミナさんはまだ言いたそうな顔をしたものの、それ以上は叱らなかった。


 代わりに、深く息をついてから足元の白い地面を見回す。


 たぶん研究者の頭に切り替わったのだろう。


 今ので、ここが塩湖である可能性はかなり高くなった。


 でも私には、もうひとつ気になることがあった。


 湖底の白い柱。


 それが何なのか。


 水位は今、下がっているらしい。湖岸のあたりに露出している部分があるなら、見つけられるかもしれない。


 私は湖を観察する。


 波打ち際。


 白い水と白い地面の境目。


 その中で、ひとつだけ光の返し方が違うものがあった。


「……あれ」


 私はそちらへ歩いていく。


 近づくほどに、それはただの塩の塊ではないとわかった。


 地面から生えているように見える。


 透きとおった、クリスタルみたいな結晶だった。


「きれい……」


 思わず、声が漏れる。


 白というより、淡い乳白色の奥に光を閉じ込めたような色だ。太陽を受ける角度によっては、ほんの少しだけ虹のような反射も見える。


「これも塩ですかね」


 エルミナさんが隣に来て、小さく呟く。


 ナギさんがその結晶を見て、すぐに言った。


「エルミナ様、ノームに鑑定してもらいましょう」


「そんなこともできるんですか」


 エルミナさんが目を丸くする。


「ええ。それぞれの精霊は戦闘技能だけでなく、属性に合った鑑定もできます」


 私はそう聞くと、すぐにエルミナさんを見る。


 エルミナさんも頷き、意識を切り替える。


「お願い、ノーム」


 土色の光がふわりと舞い、小さなドワーフの姿が現れた。


「おう、仕事か。今日は何だ」


「この結晶を鑑定してほしいの」


「おう、ちょっと待ってな」


 ノームは結晶の前に降り立つと、両手を腰に当てて、まずはじっと見た。


 それから指先で表面を撫でる。軽く叩く。


 耳を近づけるような仕草までして、まるで目利きをする職人そのものだった。


 少しの間、私たちは誰も口を開かなかった。


 この白い静かな湖の中で、その小さな精霊だけが結晶と会話しているみたいだった。


 やがて、ノームがふむ、と唸る。


「わかったぞ」


 その一言で、私の背中が自然と伸びる。


「こいつは魔晶石だ」


「ましょうせき?」


 聞き返したのは私だった。


 塩じゃない。


 いや、塩湖なのは確かだろう。でも、そこに混ざっているこれが別物だということか。


「それも、えらく純度が高い」


 ノームは結晶をこつ、ともう一度叩く。


「こいつは上物だな」


 私は周りを見渡した。


 同じような結晶が、湖岸のあちこちにいくつも生えている。


 今までただの白い景色だと思っていた場所が、急にまるごと別の意味を持ち始める。


 そのときだった。


 隣にいるエルミナさんの空気が、さっきまでと変わったのがわかった。


 肩が、わずかに震えている。


「エルミナさん?」


 私が見ると、彼女は結晶を見たまま、少し青ざめたような顔をしていた。


「……魔晶石は……」


 声が少しかすれている。


「魔鉱石よりも貴重な鉱石です」


 言いながら、目だけが結晶の表面を追っていた。


「しかも、鉄みたいに加工できて……作られた武具は、国宝級の価値があります」


「国宝級……」


 その言葉が、風のない白い景色の中で妙に重く響く。


 私はもう一度、結晶を見る。


 綺麗だと思った。


 でも、綺麗以上のものだったらしい。


「これは……」


 エルミナさんが、ようやく私を見た。


 そこには驚きだけじゃなく、研究者としての興奮と、現実の数字を瞬時に思い浮かべてしまった人の緊張が一緒にあった。


「塩以上に、価値がありますよ」


 その一言で、白い湖の景色がまるごと違って見えた。


 塩湖かもしれないと思って来た。


 それだけでも学院の運営資金になるかもしれないと考えていた。


 なのに、実際にはそれ以上のものが、足元に埋まっている。


 私はしばらく、その事実をうまく飲み込めなかった。


 風は冷たいのに、胸の奥だけ妙に熱くなる。


 この湖は、思っていたよりずっと大きな秘密を抱えているのかもしれない。


「それでは、この湖の調査を開始しましょう」


 驚きで少し足が止まっていた私と、魔晶石という言葉の重さにまだ息を整えきれていないエルミナさん。そのすぐ後ろで、ナギさんがいつもの穏やかな声でそう言った。


 その声は静かだったのに、不思議と場を前へ進める力があった。


「……そうですね。調べましょう」


 エルミナさんも、ひとつ息を吸ってから頷いた。


 さっきまでの動揺は消えていないはずなのに、切り替えが早い。怖さや驚きがなくなるわけではなくても、その上に“今やること”を置ける人なのだと思う。


 エルミナさんは両手を胸の前で軽く重ね、呼びかけるように魔力を流した。


「ウンディーネ、シルフ、ノーム、シェイド」


 四つの光が、それぞれ違う色でふわりと現れる。


 水色のウンディーネ。


 蝶の羽を持つシルフ。


 小さなドワーフのノーム。


 そして、昼の光の下ではひどく異質に見えるシェイド。


 精霊たちが揃うと、この白い湖の静けさの中にだけ、小さく別の理が流れ始める気がした。


「ウンディーネは湖の水質を」


「シルフは周囲の地形と、生き物の有無を確認して」


「ノームはこの塩の成分を詳しく」


 そこまでは、私にも予想がついた。


 けれど最後に向けた視線には、ほんの少しだけ緊張が混じっていた。


「シェイドさんは……湖底の調査をお願いします」


 シェイドは闇そのものみたいな声で、ただ短く答える。


「承知した」


 その返事を合図にしたみたいに、精霊たちは四方へ散った。


 ウンディーネは水面の上へ。


 シルフは風に乗って盆地の縁へ。


 ノームは塩の地面へしゃがみこみ、手で触れ、鼻先を寄せる。


 シェイドは――影がそのまま湖へ沈んだみたいに、静かに気配を薄めた。


 私はその様子を見ながら、隣のエルミナさんを見る。


 彼女の視線は忙しく動いていた。けれど焦っているのではなく、ちゃんとひとつひとつの結果を受け取っている目だった。


 しばらくして、最初に戻ってきたのはノームだった。


「おう、わかったぞ」


 土色の精霊は、白い地面を親指でこつこつ叩きながら言う。


「塩だけじゃねえな。少量の土と、いくつかのミネラルが混ざってる」


「やっぱり不純物があるんですね」


 エルミナさんがすぐに反応する。


 その口調にはもう、完全に研究者の顔が戻っていた。


「でしたら、再結晶化で精製できますね」


 独り言みたいに呟くその声に、思考の流れが見える気がする。


 そのまま採るのではなく、工程を挟めば価値を上げられる。


 塩として扱うにも、商品にするにも、その視点はとても大きい。


 次に戻ってきたのはシルフだった。


 風の精霊は、くるりと一回転してからエルミナさんの前に降りる。


「この辺り、深いお皿みたいな盆地になってるわ」


 指先で周囲をぐるっと示す。


「それと、小さな小川の跡が見えた。今は流れてないけど、前は水が流れてたみたい」


「小川の跡……」


 私は白い地面の先を見た。


 たしかに、よく見れば地形に筋のような流れが残っている場所がある。今は乾いているけれど、昔は何かが流れていたのかもしれない。


「生き物は?」


 エルミナさんが聞く。


 シルフは羽を揺らし、少しだけ肩をすくめる。


「まったくいない。虫も、鳥も、獣も。風が通ってるだけ」


 その答えは、やっぱり噂通りだった。


 私は湖の水面を見る。


 静かで、きれいで、でもどこか“生きている場所”の気配がない。綺麗なのに、寄り添えない景色だと思った。


 続いて、ウンディーネが戻ってきた。


 でも戻ってきたというより、少し機嫌が悪そうに水飛沫をまとって飛んできた。


「この水、お肌が荒れちゃうわ」


「えっ」


 私が思わず聞き返すと、ウンディーネは眉をしかめる。


「海水より塩分濃度が高いの。べたべたするし、気持ち悪いったらないわ」


「そんなに……」


 海水より濃い。


 それだけでも、この湖がただの湖ではないことがよくわかる。


 私はすぐに手を伸ばした。


「えっと……じゃあ」


 掌に水の魔力を集める。


 やわらかい水流を作り、ウンディーネの周りを包むように流していく。塩気を洗い流すように、何度か丁寧に。


 ウンディーネは目を閉じて、その水を受けた。


 しばらくしてから、ほっとしたように肩の力を抜く。


「すっきりしたわ。ありがとう」


「どういたしまして」


 そう答えたものの、水の精霊に水で感謝されるのは、ちょっと不思議な感じがした。


 そして最後に、シェイドが戻ってきた。


 昼間に見るシェイドは、やっぱり少し異質だった。


 深い夜の帳だけを切り取って、誰かがそのまま外套に仕立てたみたいな漆黒。実体があるようでないその姿は、太陽の下にあるほど逆に輪郭が曖昧になる。光を受けるというより、光のほうがその身の周りでわずかに沈む感じだった。


 その中心に、あの大きな眼がある。


 夜の洞窟で見たときも怖かったけれど、昼の白い塩湖の真ん中で見ると、なおさら異物感がある。


 ちょっと怖い。


 エルミナさんも、さすがに少しだけ身構えたのがわかった。


「あ、あの……シェイドさん。何かわかりましたか」


「敬称は不要だ」


 返ってきた声は、いつも通り低くて静かだった。


「す、すみません……シェイド」


 言い直すエルミナさんの声が、ほんの少しだけ硬い。


 でもシェイドは気にした様子もなく、淡々と報告を始めた。


「湖の中心。そこに湧水の口がある」


「湧水……」


 私は思わず湖の中央を見る。


 この湖は、どこかから流れ込む川ではなく、下から水を得ているのか。


「その口から魔素も吹き出していた」


 その言葉に、私とエルミナさんの視線が自然と交わる。


「この地は霊脈の上にあるのだろう」


 なるほど。


 魔晶石ができたのも、そのせいか。


 塩分の高い水、湧水、そして魔素。長い時間をかけて、それらがこの盆地に溜まり、沈み、結晶化していったのだとしたら、この景色そのものが大きな生成装置みたいなものなのかもしれない。


 けれどシェイドの報告は、それだけでは終わらなかった。


「その近くに、大きな魔物がいる」


 空気が少しだけ張る。


 エルミナさんの表情も、研究者のものから引率者のものへ一段階切り替わった。


「おそらくこの湖の主だろう」


 シェイドの声は感情が薄いぶん、余計に事実の重みだけが残る。


「固そうな殻で、鋏のような手を持つ」


 私は頭の中でその姿を想像する。


 湖底に潜む巨大な何か。


 殻。


 鋏。


 白い湖の底にいる主。


「……あれには手を出さないほうが賢明だ」


 最後の一言で、その魔物の危険度がよくわかった。


 シェイドは大げさな言い方をする精霊ではない。そんな彼が“賢明だ”とまで言うのなら、本当に不用意に近づくべきではないのだろう。


「ありがとうございます」


 エルミナさんが、シェイドへ一礼する。


 今度はちゃんと、怖さを押し込めた礼だった。


 シェイドもそれに対して何も言わず、静かに目を閉じるようにして影の中へ戻った。


 私は湖を見つめる。


 ただの白い怪談の場所だと思っていた。


 でも今は、そこに仕組みが見え始めていた。


 塩分の高い湧水。


 霊脈。


 魔晶石。


 そして主の魔物。


 エルミナさんの調査で、いろいろなことが分かってきた。


 白い湖は、やっぱりただの湖じゃない。


 問題は、ここからどう学院の未来へ繋げていくかだ。


 私は湖岸で採取した魔晶石の結晶と、塩の結晶をストレージユニットに収納した。


 魔晶石は慎重に。


 塩は多めに。


 エルミナさんが、あとで実験したいと言っていたからだ。採った塩を掌の上で見ていると、ただの白い粒のはずなのに、もう“調査対象”の顔をして見えるから不思議だった。


 それを見つめるエルミナさんの目も、来たときよりずっと鋭くなっていた。驚いて、怯えて、でもちゃんと興味が勝っている顔。研究者の目だなと、私は改めて思う。


「それでは帰りましょう」


 ナギさんの声で、私たちはようやく湖を後にした。


 帰り道の空は、行きより少しだけ低く感じた。


 昼の白い光が薄れていき、盆地の縁にかかる影がゆっくり長くなっていく。白い湖はその中で、さっきまでより静かに見えた。秘密をひとつ開いたくせに、まだ喋り足りていない顔をしている。


 馬車に乗り込むと、車内は思ったよりあたたかかった。


 揺れに身を預けると、張っていた気持ちが少しずつ解けていく。けれど頭の中は逆に忙しくなっていた。


 塩湖。魔晶石。霊脈。湖の主。


 学院の運営資金にはなりそうだ。


 でも、じゃあそれをどう説明するのかとなると、少し難しい。


 塩はいい。塩湖で、塩が採れる。それは誰にでもわかる。


 でも魔晶石はどうだろう。しかも湖の底に主までいる。


 全部をそのまま話すべきなのか、どこまで話すのか、考え始めると少しややこしい。


 向かいの席では、エルミナさんがすでに手帳を開いていた。


 膝の上に乗せた手帳へ、走るように文字を書き込んでいる。さっきまで湖畔で見たことを、忘れないうちにひとつずつ固定しているのだろう。ページを押さえる指先が真剣で、馬車の揺れを気にする様子もない。


 私はその横顔を見て、少しだけ安心した。


 記録がある。


 目で見たものだけじゃなく、ちゃんと残る形がある。


 それだけで報告の重みはずいぶん違う。


 そうこうしているうちに、窓の外の景色が見慣れたものへ戻り始めた。


 丘を越え、街道へ入り、やがて夕方の色が濃くなったころ。


 屋敷へ着いた。


「おかえりなさい。ノア」


 馬車を降りた瞬間、お母様の声が飛んでくる。


 その声を聞いた途端、胸のあたりが少しだけゆるんだ。私は返事をするより先に、ふわっと抱きしめられる。


「ただいま、お母様」


 お母様の腕はあたたかかった。


 大げさなくらい強く抱き込むわけではないのに、“ちゃんと帰ってきた”ことを確かめるみたいな力がある。私はその腕の中で、今日一日の景色を少しだけ遠く感じた。


 ……しばらくは、遠出しないほうがいいかな。


 お母様に抱かれながら、そんなことを思う。


 白い湖はすごかったし、成果もあった。でも帰るたびにこんなふうに抱きしめられると、心配を積み重ねさせている自覚もちゃんと出てくる。


 顔を上げると、玄関の向こうにミュリルさんの姿まで見えた。


「ミュリルさん?」


「そろそろノアちゃんが帰ってくると思ってね」


 その言い方が、軽いようでいて待っていたのは本当らしかった。


 好奇心と実務が半分ずつ、という顔をしている。


 どうやら、夕食の前の時間だったらしい。


 そのまま私たちは食堂へ移動した。


 席につくと、そこにはお父様、お母様、私、エルミナさん、王妃様、そしてミュリルさんが揃った。いつもより少し人数が多い食卓は、それだけで空気の密度が違う。


 運ばれてきた料理の湯気に包まれながら、大人たちはすぐに学院の準備の話を始めた。


 物件の修繕。


 制服の仕立て。


 学院章の図案。


 必要な備品。


 話は次々と進んでいく。


 お父様も、その話にはちゃんと加わっていた。


 反対するでも、距離を取るでもなく、現実的な視点で頷き、必要なところへ言葉を挟む。その様子を見て、私は少し嬉しくなる。


 お父様も賛成なんだ。


 学院のことを、家の外の夢物語じゃなく、家の中で一緒に考えるものとして受け止めてくれている。


 そのことが、なんだか妙に心強かった。


 食事が終わりに近づいたころ。


 お父様が、ふとエルミナさんへ視線を向けた。


「エルミナ先生。引率ありがとうございました。ノアはどうでしたか」


「は、はい」


 急に話を振られて、エルミナさんの背筋がぴんと伸びる。


「ノア様は、とても真面目で賢いお子さんです。私の話にも興味を示してくれました」


 そこまでは、少し緊張しながらも順調だった。


 けれど次の瞬間、エルミナさんの声がほんのわずかに濁る。


「ただ……」


 お父様が片眉を上げる。


「ただ?」


 エルミナさんは一瞬だけ私を見た。


 その目が、迷っているようでいて、でもちゃんと“言うべきことは言います”という先生の目になっている。


「湖の砂を、いきなり舐めるのはどうかと思います」


 食堂の空気が、一拍だけ止まった。


 そして次の瞬間。


「ノア!」


 お母様の声が、きれいに飛んだ。


「ごめんなさい!」


 私が反射みたいに頭を下げると、お父様は片手で額を押さえた。


 声にならないため息が、指の隙間から落ちてくるみたいだった。


「でも、白い湖って聞いて、やりたかったんです。しかもしょっぱかったんですよ」


 言い訳になっているのか、なっていないのか、自分でもよくわからない。


 けれど、その一言にミュリルさんがすぐ反応した。


「ってことは、あの湖は塩の湖なのね」


「はい、その通りです」


 私は今度は少しだけ胸を張って答えた。


 叱られた流れのままだったけれど、そこだけははっきり言えた。


 お父様は額から手を下ろし、ひとつ呼吸を整えるようにしてから言う。


「なるほど。詳しい話は明日にしよう。王妃様、よろしいですか」


「ええ、構いませんわ」


 王妃様は落ち着いた声で頷いた。


 その横で、ミュリルさんが楽しそうに口元を上げる。


「面白くなってきたわね」


 その言葉に、お父様も小さく頷き、それからエルミナさんへ向き直った。


「エルミナ先生。すまないが、調査結果の資料を作成していただけますか」


「し、資料……」


 エルミナさんの肩が、ほんの少しだけ揺れる。


 でももう逃げ腰ではなかった。


「明日、このメンバーで会議がしたい」


「は、はい。わかりました。すぐにお作りします」


 手帳を抱える指先に、ぎゅっと力が入る。


 緊張しているのはわかる。


 それでも、その返事はちゃんと“引き受けます”の声だった。


 そして最後に、お父様の視線が私へ戻る。


「ノア。そういうわけだから、エルミナ先生に採ってきたものを渡しておきなさい」


「……う」


 心臓が、ちょっとだけ嫌な跳ね方をした。


 バレてる。いや、そりゃそうか。


 湖へ行って、何も持ち帰っていないわけがないと、お父様はたぶん最初から思っていたのだろう。


「はい。分かりましたわ、お父様」


 つい、変にお行儀よく返してしまった。


 でもそのぶんだけ、自分がちょっと気まずい立場にいることも、ちゃんと自覚していた。


「ノア、疲れたでしょう。今日はもう休みなさい」


 お母様の声は、さっきまでの叱る調子を少しだけ残しながらも、最後にはきちんとやわらかかった。


「ありがとうございます、お母様。では失礼します」


 そう返すと、今度はお母様の視線がエルミナさんへ向いた。


「エルミナさんも疲れたでしょう。今日はもうお休みになって」


「ありがとうございます、奥様、領主様」


 エルミナさんがぺこりと頭を下げる。


 その声は少し掠れていた。朝からの移動、調査、帰還、そして急に“資料作成”まで入ったのだから無理もない。それでも最後まできちんと礼を言うところが、やっぱりエルミナさんらしかった。


 私たちはそろって食堂を出た。


 廊下へ出た途端、食堂の灯りと人の気配が一枚向こう側へ引いたみたいに遠くなる。屋敷の夜は静かだ。床板の軋みと、壁際の燭台の火がかすかに揺れる音だけが、妙にはっきりしている。


 中庭へ出ると、空気はもう夜のものだった。


 私は足を止め、慣れた動作で楼門を開く。


 淡い光が空間に線を引き、その向こうに桜環神社の境内が現れた。夜の神社は昼よりもさらに静かで、空気そのものが少し深くなる感じがする。


「では、私は資料を作りますね……」


 エルミナさんはそう言って、少しだけ目の下に疲れをにじませながらも、ちゃんと“やること”へ向かう顔をしていた。


「これ、使ってください」


 私はストレージユニットから、採取してきた魔鉱石と塩のサンプルを取り出した。


 白い塩の塊。


 そして、静かに光を閉じ込めたクリスタルのような魔晶石。


 エルミナさんはそれを、慎重に両手で受け取る。


「ありがとうございます。これがあれば、説明もしやすいと思います」


 そう言いながら、サンプルを見つめる目が、もう研究者のものだった。疲れていても、こういうものを前にすると意識がしゃんとするらしい。


「無理しすぎないでくださいね、先生」


 私がそう言うと、エルミナさんは少しだけ困ったように笑った。


「それ、ノア様に言われると複雑です……」


 でもその笑みは、さっきまでより自然だった。


 エルミナさんはそのまま宿へ入っていく。


 たぶん今夜は、資料をまとめながら途中で何度もサンプルを見直して、結局かなり遅くまで起きてしまうのだろう。


 私はその背中を見送ってから、ひとり鍛錬場へ向かった。


 夜の石畳を踏む音が、やけに小さく聞こえる。


 今日はいろいろありすぎて、頭の中がまだ落ち着かない。白い湖のこと、塩、魔晶石、湖の主。それに学院の資金のことまで絡んでくると、考えれば考えるほど話が大きくなっていく。


 鍛錬場へ着くと、そこにイリディオンがいた。


 白銀の鱗は夜の闇の中でぼんやりと輪郭を浮かべていて、ただそこに伏せているだけなのに、場の空気が少しだけ変わる。月明かりを背負うようなその姿は、昼間よりもいっそう“珠竜”という呼び名が似合って見えた。


「ノア。こんな遅くにどうしたのだ」


 低い声が、静かな鍛錬場の空気を揺らす。


「ちょっと、今日のことを話したくて」


 私はそう言って、塩湖での出来事を最初から話した。


 白い平原のこと。


 生き物がまったくいなかったこと。


 塩の味がしたこと。


 魔晶石の結晶が見つかったこと。


 湖底に湧水の口があること。


 霊脈の上にあるらしいこと。


 話しながら、昼間見た景色がまた頭の中に戻ってくる。白く、静かで、綺麗なのに、どこか人を寄せつけない場所。あの湖はやっぱり、普通じゃない。


「塩の湖か」


 イリディオンはゆっくりと目を細めた。


「そんな場所もあるのだな」


 その言い方が少し面白くて、私は内心で小さく笑う。


 長く生きていても、知らないことはあるのだ。


 珠竜といえど万能ではないのだと、そう思うと少しだけ親しみが湧く。


 それから私は、湖の主の話をした。


「イリディオンは、この主のこと知ってる?」


 聞くと、イリディオンは少しだけ首をもたげた。


「ふむ。そのような輩は記憶にはないな」


「そっか」


 やっぱり未知なのか。


 そう思ったところで、イリディオンの声が続く。


「だが……」


 その“だが”に、なんとなく嫌な予感が混じる。


「おそらく強いのだろうな。我が直接相手してやろうか」


「えっ」


 一瞬で、頭の中にひどく派手な光景が浮かんだ。


 白い湖の真ん中から現れる巨大な主。


 そこへ飛来するイリディオン。


 ぶつかる衝撃で湖面が割れ、塩の平原ごと吹き飛んで、盆地がごっそり消える。


 ……なにその怪獣大戦争。


 見たい気も、ちょっとだけする。いや、かなり見たい。


 でもたぶん、見たあとで後悔するやつだ。


「だめだめだめ」


 私は即座に首を横に振った。


「それやったら、たぶん湖が地図から消えます」


 イリディオンは少し不満そうに鼻を鳴らした。


「脆い地なら仕方あるまい」


「仕方なくないです」


 そう言い返した、そのときだった。


「イリディオン様。しばらくは外に出ないのではなかったですか」


 静かな声が、鍛錬場の端から届いた。


 振り向くと、ナギさんが立っていた。


 いつ来たのかわからなかった。


 夜の神社に溶けるように現れるの、やっぱりちょっとずるい。


 ナギさんはイリディオンを見上げ、そのまま落ち着いた声で言う。


「外に出るときは、許可を取ってくださいね」


 言い方はやわらかい。


 でも、その実、出す気はないのだろうなということも、すごくよくわかる。


 イリディオンの大きな身体が、ほんの少しだけ固まった気がした。


「も、もちろんだ、ナギ殿」


 ……あれ。


 少し声が上ずった。


「ノアの家族にも約束したからな。安心せよ。我は外には出んぞ」


 そう言い切るものの、どこか妙に早口だった。


 私はそのやり取りを見て、思わず口元がゆるむ。


 イリディオン、ナギさんに弱い。


 いや、弱いというより、ちゃんと止められる相手として認識しているのだろう。月虹の珠竜が、夜の鍛錬場でほんの少しだけ気まずそうにしている光景は、なんだか不思議で、少しだけおかしかった。


 そのおかしさのおかげで、さっきまで胸の中に重く残っていた塩湖の話も、ほんの少しだけ軽くなる。


 問題はたくさんある。


 でも少なくとも今夜ここで、イリディオンが勢いで飛び出して、塩湖ごと何かを消し飛ばすことはなさそうだった。


 それだけでも、少し安心していい気がした。



 翌日。


 私は久しぶりに、貴族の令嬢たちとのお茶会に参加していた。


 屋敷のリビングには、やわらかな陽の光が入っている。磨かれた窓辺、花の生けられた小さな卓、白いクロスの上に並ぶ茶器と焼き菓子。きちんとしていて、少しだけ息を潜めたようなこの空気は、桜環神社や鍛錬場とはまるで違う世界だ。


 椅子に座って、カップを持ち上げる。


 立ちのぼる香りはやさしいのに、なぜか少しだけ背筋が伸びる。


 こういう席に出るのも、なんだかずいぶん久しぶりな気がした。


 実際にはそこまで長く空いていないのかもしれない。


 でも、学院の話や塩湖のことや、精霊契約やイリディオンや――ここ最近の私の周りで起きていたことを思えば、もうずっと前のことみたいに感じる。


 向かいに座る令嬢たちは、今日もきれいに整えられていた。


 髪の結い方も、リボンの色も、それぞれに少しずつ違う。そういう違いを見比べるのも本当は楽しいのだろうけれど、私はつい“学院の学年色”みたいなことを考えてしまって、少しだけ可笑しくなる。


 交わされる話題は、ちゃんと年相応のものだった。


「最近、新しい習い事を始めたのです」


「まあ、何を?」


「刺繍と、簡単な鍵盤楽器を」


 へえ、と私は思う。


 刺繍も鍵盤楽器も、この世界の令嬢らしい習い事だ。たぶん指先の使い方とか、姿勢とか、そういうものまで見られるのだろう。


「うちは家庭教師が増えましたの」


 別の令嬢が、少しだけ得意そうに言う。


「歴史と古典語を、別々の先生が見るようになって」


「それは大変そうですわね」


「でも父は“今のうちに詰め込め”と……」


 その言葉に、みんなが小さく笑う。


 私はカップの縁に口をつけながら、そのやりとりを聞いていた。


 家庭教師が増えたとか、習い事が増えたとか、どれも私からすればちょっと微笑ましい。本人たちにとっては大変なこともあるのだろうけれど、少なくとも“将来どうやって学院を維持するか”みたいな話よりは、ずっと軽くて、やさしい。


「わたくし、このあいだドレスを新調しましたの」


 別の子がそう言って、袖をほんの少し持ち上げる。


 たしかに新しいらしい布地は、光の加減でやわらかく色が変わった。凝った仕立てだし、刺繍も細かい。


「素敵」


 思わずそう言うと、その子は少しだけ嬉しそうに笑った。


 こういう会話をしていると、自分もちゃんと“同じくらいの年頃”なのだと思い出す。


 普段の私は、少し違う場所ばかり見ているのかもしれない。


 だからこそ、ここでの話は不思議と新鮮だった。


 でも。


 ふとした会話の切れ目に、私は少しだけ考える。


 ここにいる子たちも、もし学院ができたら通うことになるのだろうか。


 この子たちが制服を着て、教室に座って、同じ授業を受ける。


 そういう光景は、思ったより自然に頭の中へ入ってきた。


 だったら、少しくらい匂わせてみてもいいかもしれない。


 私はカップを置きながら、なるべく何でもないことのように言った。


「そういえば……クレディアに、少し変わった学びの場ができるかもしれないって聞きました」


「学びの場?」


 すぐに反応が返ってくる。


 やっぱり令嬢たちにとっても、“学ぶ”ことは身近な話題らしい。


「魔法学院のようなもの、でしょうか」


 ひとりが首をかしげる。


 私は、そこであまりはっきり言いすぎないように気をつけた。


「まだ決まったわけではないみたいですけど」


 実際、まだ名前も正式に固まっていないし、全部が確定しているわけじゃない。


「でも、語学とか算術とか、魔法とか、そういうのを広く学べる場所になりそうだとか」


 そこまで言うと、みんなの目の色が少し変わった。


 表情そのものは大きく動かないのに、耳だけがぴんとこちらへ向いた感じがする。


「まあ……」


「そんなものが、クレディアに?」


「本当ですの?」


 私は肩をすくめる。


「まだ噂みたいなものです」


 半分は本当で、半分は宣伝だ。


 でも、こういうのは最初の“なんだか気になる”が大事だと思う。


「もし本当にできたら、面白そうですわね」


 その一言に、私は少しだけ胸の奥があたたかくなる。


 面白そう。それでいい。最初は興味だけでもいいのだ。


 学院ができる前に、そこへ向く視線が少しでも増えるなら、それだけでも意味がある。


 令嬢たちはそのあともしばらく、


「どんな場所になるのかしら」


「寮はあるのかしら」


「貴族以外も通うのかしら」


 と、小さな好奇心をこぼし合っていた。


 私はそれを聞きながら、心の中でそっと思う。うん、宣伝としては悪くないかもしれない。


 でもその一方で――


 屋敷のお父様の執務室では、まさに今。


 エルミナさんが作った資料をもとに、塩湖の扱いについての会議が開かれようとしていた。


 塩をどう扱うか。


 魔晶石は採るのか、採らないのか。


 湖の主をどう考えるのか。


 学院の資金に、本当に結びつけられるのか。


 ここで令嬢たちと交わしているのは、ふわりとした未来の話だ。


 でもあちらでは、その未来を支えるための現実が、きっとひとつずつ机の上へ並べられている。


 お茶の香りと、焼き菓子の甘さ。笑い声と、ドレスの話。


 そんな年相応のやわらかな時間の中にいながら、私の意識の半分は、執務室のほうへ引かれていた。


 同じ屋敷の中に、二つの時間が流れている。


 ひとつは、まだ夢の輪郭を楽しむ時間。


 もうひとつは、その夢を現実にするための、重たい相談の時間。


 私はカップを持ち直しながら、その両方のあいだに自分がいることを、少しだけ不思議に思っていた。



 ◇  ◇  ◇



 ――重厚な扉が閉まると、部屋の中はひとつ息を潜めたように静まり返った。


 少し緊張した様子で、資料を抱えて立っているのは私、エルミナ・ヴェルローゼ。


 ここはクレディア領主館、その執務室。

 白いクロスの敷かれた長机の上には、湖の見取り図、採取した白塩の小瓶、そして布に包まれたクリスタルの結晶が置かれている。


 席についているのは、領主のリカルド・リベル卿。

 その隣に奥様のマリアンヌ・リベル様。

 商業ギルド支部長ミュリル・ネイア・キャリスさん。

 そして、クレディアに身を寄せるアルマシア王国王妃アウレリア様。


 ノア様と調査した白い湖。

 最初はただの不気味な噂話だと思われていたそれが、今や領地の未来と学院の運営を左右する話になっている。


 最初に口を開いたのは、リカルド様だった。


「では始めよう。例の白い湖について、調査結果を改めて共有したい」


 その言葉に、私はぴしりと背筋を伸ばした。

 まだ少し硬さはあるけれど、以前よりずっと落ち着いている。


「は、はい。調査の結果、白い湖は塩の湖、塩湖であることが判明しました」


 そう言って、私は最初の資料を広げた。


「湖畔および周辺の白色部分は、ほぼすべて塩の結晶です。生き物は湖内にも周辺にもほとんど見られず、魚類、鳥類、獣類ともに寄り付いていません」


「やはり噂は本当だったか」


 リカルド様が低く呟く。


「はい。塩そのものの純度も高く、保存用や食用として十分価値があります。ただし……本当に重要なのは、こちらです」


 そう言って、私は布に包まれていた結晶をそっと取り出した。


 部屋の灯りを受けて、それは淡く透き通って見えた。

 六角柱の形を保ったその結晶は、まるで凍った光の欠片みたいだった。


「湖の水位が下がった際、湖底付近に六角柱状の結晶群が生成されていることを確認しました」


 全員が結晶に注目する中、私は告げる。


「これは……魔晶石です」


 ミュリルさんが身を乗り出す。


「魔晶石って、あの高級素材の!?」


「は、はい。魔力伝導率が極めて高く、熱を加えることで金属のように加工できます。完成したものは透明なガラスのような外見を保ちますが、硬度はアダマンタイトに匹敵します。さらに、付与や刻印との相性が非常に高いと考えられます」


 そこで一呼吸置いてから、私は続けた。


「……うまく加工できれば、国宝級の武具や魔道具の素材になる可能性があります」


 静まり返った室内に、その一言が重く落ちた。


 マリアンヌ様が、そっと結晶を見つめる。


「まあ……本当に、そんなものが湖の底に……」


「はい。しかも、湖底の一部だけでなく、複数箇所で生成が確認されています」


 リカルド様が腕を組んだ。


「塩湖でありながら、国宝級素材の産地でもある、か。厄介な話だな」


「ええ。厄介ですわね」


 穏やかな口調で応じたのは、王妃様だった。


「塩だけでも十分な資源ですのに、そこへ魔晶石まで加わるとなれば、もはや一領地の珍しい産物では済みません。下手をすれば、他領どころか他国まで動きますわ」


 ミュリルさんが鼻で笑う。


「それだけのものを、原石のまま市場に流したら終わりよ。買い叩かれるか、盗まれるか、妙な連中が寄ってくるか……どれに転んでも面倒ね」


「原石売りは論外、ということか」


 リカルド様の問いに、ミュリルさんはきっぱり頷いた。


「論外ね。塩は塩、魔晶石は魔晶石で分けて考えるべきよ」


 王妃が静かに続ける。


「私もそう思いますわ。塩は流通品として扱えます。ですが魔晶石は、研究と管理を前提にしなければ危険すぎます」


 リカルド様は視線を私に向けた。


「技術者としてはどう見る」


 いきなり話を振られ、私の肩がわずかに跳ねた。でも、今度は慌てなかった。


「魔晶石は……たぶん普通の鍛冶素材として扱わない方がいいです。熱の入れ方、冷却の仕方、刻印の深さで性質が大きく変わると思います。未精製のままだと強度も透明度も安定しないはずです」


「つまり?」


「学院……いえ、専用の研究と加工試験が必要です」


 王妃が満足そうに微笑む。


「よく言いました、エルミナさん」


 その一言に、私の背筋が少しだけ伸びた気がした。


 リカルド様が重々しく頷く。


「ならば、塩は採る。魔晶石は軽々しく売らぬ。ここまではよいな」


 全員に異論はなかった。


 そこで、ミュリルさんが指先で肘掛を軽く叩いた。


「塩については、一般向けに流すだけじゃ弱いわね。保存用、食用、それだけでも売れるでしょうけど、それじゃ『そこそこ儲かる』で終わるわ」


「では、どうする」


「売り先を選ぶのよ。量をさばけて、しかも“意味”を付けて高く買う相手にね」


 マリアンヌ様が首を傾げる。


「そのような相手が都合よくおりますの?」


 ミュリルさんは、にやりと笑った。


「いるじゃない。ゼラ教よ」


 一瞬、空気が止まる。


 リカルド様の眉がぴくりと動いた。


「……教会にごまをする気か」


「違うわよ。ぼったくるのよ」


「言い方……」


 思わず口からこぼれた私の声に、ミュリルさんは悪びれもせず肩をすくめた。


「だってそうでしょ? 連中、塩なんていくらあっても困らないわよ。保存、儀式、浄化、信徒向けのありがたい商品づくり……使い道はいくらでもあるんだから」


 王妃が口元に手を添えて、少しだけ笑った。


「随分と率直ですこと」


「商売ってのは、率直なくらいがちょうどいいのよ。こっちの白塩は見た目もいいし、“特別な土地で採れた清めの塩”って触れ込みをつければ、向こうで勝手に価値を盛ってくれるわ」


 リカルド様が半ば呆れたように息をつく。


「それはつまり、こちらが高値を付けるということか」


「適正価格よ。宗教需要込みのね」


 即答だった。


 マリアンヌ様がくすりと笑う。


「言葉を選べば、もっと聞こえがよろしいのですけれど」


「選ばない方が早いのよ」


 ミュリルさんは胸を張った。


「こっちは領地の利益になる。学院の資金にもなる。向こうはありがたがって買う。誰も損しないわ」


 私は小さく手を上げる。


「あ、あの、ゼラ教って……そんなに塩を使うんですか?」


「使うわよ」


 ミュリルさんはすぐに答えた。


「大きな教団ほど、炊き出しも保存食も儀式も多いもの。まして“清めの塩”なんて名目が付けば、信徒向けに小分けしてさらに儲ける。なら最初の仕入れでこっちがきっちり取るべきでしょう?」


 王妃が頷いた。


「案としては合理的ですわ。友好を示さずとも、取引そのものは成立しますもの」


「もちろん、表向きは塩の取引だけに留める」


 リカルド様の声が低くなる。


「魔晶石の存在は伏せる。少なくとも、今はな」


「賢明ですわ」


 王妃がそう言ったとき、リカルド様の視線が再び資料へと落ちた。


「……だが、まだもうひとつ問題がある」


 その一言で、場の空気がまた引き締まる。


「湖の主だ」


 私は思わず姿勢を正した。

 あの白い湖にいた、シェイドが見た大型の甲殻類の影が頭に蘇る。


 私もこくりと息を呑んだ。


「甲殻類型の大型個体。縄張り意識が強く、少なくとも無害とは言い難い。採取を進めるなら、いずれ障害になる可能性は高い」


「討伐、ですか」


 マリアンヌ様が思わずそう言うと、リカルド様はすぐには頷かなかった。


 私が代わりに口を開く。


「す、すぐに倒してしまうのは危険かもしれません」


 全員の視線が集まり、私は一瞬肩を縮める。

 でも、そのまま言葉を続けた。


「その主が魔晶石を生んでいると断定はできません。でも、少なくとも長いあいだあの湖で生きてきた存在です。もし湖の魔力循環や結晶生成の一部に関わっていたなら、討伐によって環境そのものが変わる可能性があります」


 王妃が静かに頷く。


「私もその意見を支持しますわ。まずは観察です。危険域を定め、採取区域を限定し、生態を調べるべきでしょう」


 ミュリルさんが腕を組んだ。


「商売の上じゃ、危険物は排除したいところだけどね。でも、湖ごと死んじゃ元も子もない」


 マリアンヌ様も穏やかに続ける。


「安易に手を出して均衡を崩すのは避けたいですわ。自然の中にある富なら、なおさら」


 リカルド様はしばらく沈黙した。


 塩湖。魔晶石。そして、湖の主。


 机の上の資料をひとつひとつ見渡しながら、やがて決断を口にする。


「……よし」


 低く、はっきりとした声だった。


「白い湖――いや、白塩湖はクレディア領の保護管理地とする。塩の採取は限定的に許可し、領主家と商業ギルドで管理流通を行う」


 ミュリルさんが満足そうに頷く。


「それなら動けるわ」


「魔晶石については、原石の無許可持ち出しを禁じる。研究と加工試験は学院に委ねる」


 その言葉に、王妃が静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 私も慌てて続く。


「は、はい……! 精一杯、務めます!」


 リカルド様はさらに続けた。


「湖の主については、即時討伐を行わない。まずは観察し、危険域を定め、採取可能区域を絞る。必要であれば、その後に改めて対処を検討する」


 マリアンヌ様がほっとしたように息をついた。


「それがよろしいかと存じます」


 リカルド様は最後に王妃を見る。


「そして学院です。この湖の研究権を与えます。資源を守り、価値を育て、未来へ繋げる場として使っていただきたい」


 王妃は穏やかに、けれど強い光を宿した目で答えた。


「お任せください。この湖は、ただ掘って売るための宝ではありません。未来を育てるための資産にいたしますわ」


 その言葉に、リカルド様も深く頷いた。


「うむ。ならば決まりだ。この白塩湖は、領地の宝であると同時に――学院の未来を支える地とする」


 静かな決議が、会議室いっぱいに満ちていく。


 不気味な噂話だった白い湖は、もうただの怪異ではない。


 クレディアの富であり、学院の土台であり、これから先の未来を形作る場所になったのだ。


 会議が終わったときには、もう肩から腕にかけて、自分でもわかるくらい力が抜けていた。



 領主様と奥様、それにミュリルさんが執務室を出ていくのを見送って、私はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。すぐに動こうと思えば動けたはずなのに、気持ちのほうが一歩遅れていた。


 王妃様は最後に、私の前で足を止めてくださった。


「よく頑張りましたね」


 その一言が、思っていた以上に胸にしみた。


「……ありがとうございます」


 それだけ返すのがやっとだった。


 会議資料なんて、普段の私なら絶対に身構える。しかも今回は、ただ数字や記録をまとめるだけじゃない。塩湖の価値、魔晶石、湖の主、学院の運営資金。話の大きさが、どれも私の生活の外側にあるようなものばかりだった。


 それを昨夜、ナギさんに手伝ってもらいながら、夜遅くまでまとめたのだ。


 何度も書き直して、順番を入れ替えて、説明の言葉を選び直して。途中から自分が何を書いているのかわからなくなりそうにもなったけれど、どうにか形になった。


 そして今日、それがちゃんと会議の資料として机の上に置かれた。


 そう思うと、今さらになって胸の奥がじんわり熱くなる。


 これで学院の運営も、うまくいくといいな。


 そんなことを思いながら廊下へ出ると、急にどっと疲れが押し寄せてきた。


 まさか魔法学院を卒業したあとに、こんな形で研究発表みたいなことをやるとは思わなかった。


 学院では、資料をまとめて教授の前で説明することもあった。


 でもあれは、もっと“学院の中のこと”だった。今みたいに、領主様や王妃様までいて、話した内容が町や学院の未来に繋がるなんてことはなかった。


 ……でも。


「ノア様に関わっていると、たぶんこういうのが続くんだろうなぁ」


 そう思うと、不安半分、妙な諦め半分だった。


 あの方は、本当に、次から次へと何かを見つけてくる。


 しかも本人はそれを、ちょっと面白いことを思いついたくらいの顔で言うから困る。


 肩の荷が下りたことで、余計に全身が重く感じた。


「温泉入って休みたい……」


 誰に聞かせるでもなく愚痴をこぼしながら廊下を歩いていると、領主館のリビングの扉が開いて、そこからひょこっとノア様が顔を出した。


「あ、エルミナさん。会議終わりましたか」


 その声があまりにも普段通りで、少しだけ力が抜ける。


「ええ、終わりました。話もまとまりましたよ」


「お疲れさまでした、エルミナさん」


 その労いは素直にうれしかった。


 今日はもうこのまま部屋へ戻って、着替えて、温泉に入って、できれば何も考えずに眠りたい。そんなふうに思っていたのだけれど。


 次の瞬間、その希望はきれいに砕けた。


「皆さま、こちらが私の新しい先生、エルミナ・ヴェルローゼ様ですわ」


 ……え?


 私はその場で立ち止まった。


 何で紹介?


 というか、ですわって何。


 普段そんな言葉使わないよね、ノア様。


 たぶん令嬢たちの前だからだろうけれど、あまりにきれいに令嬢の口調をされると、こっちの頭がついていかない。


 気づけば、リビングの中にいた貴族令嬢たちが、いっせいにこちらへ寄ってきていた。


「まあ、ノアさんの新しい先生ですの?」


「何を教える先生ですの?」


 きらきらした目。


 やわらかいドレスの色。


 近づいてくる香水とお菓子の甘い匂い。


 まぶしい。


 いろんな意味で、まぶしい。


「え、ええと……」


 私は一歩引きかけて、でも引き切れずに立ち止まる。


「私は召喚士でして。錬金術も少しできます」


「まあ、召喚士様」


「しかも錬金術も修めてらっしゃるのですね」


 その反応が、あまりにもまっすぐだった。


 驚きや好奇心に、変な打算が混ざっていない。子どもたちなりの純粋な“すごい”がそのまま向けられてくる。


 そんなまなざしを受けることに、私はまったく慣れていなかった。


 学院では比べられた。


 できる子、できない子。向いている、向いていない。派閥に入る子、入れない子。そういう空気の中に長くいたせいか、こんなふうに無邪気な目で見られると、落ち着かないというより、むずがゆい。


 そのときだった。


「エルミナ先生、私たちに魔法を教えてください」


 ノア様が、にこっと笑ってそう言った。


 その一言で、令嬢たちがいっせいに反応する。


「私も習いたいですわ」


「召喚士様の魔法、見てみたいです」


「従魔さんはいらっしゃるのかしら」


 ……これ、逃げられない。私はその場で理解した。


 温泉は遠のいた。ものすごく遠のいた。


 結局、私たちはそのまま玄関前の庭へ出ることになった。


 夕方の空気は少し冷えていたけれど、令嬢たちの期待の熱のほうがずっと強い。ノア様までその輪の真ん中で目を輝かせているのだから、もう諦めるしかなかった。


 私は小さく息を吸い、精霊たちを一体ずつ呼び出していく。


「来て、ウンディーネ」


 水色の光がふわりと揺れて、小さな人魚が現れる。


「ノーム」


 次は土色の光。帽子をかぶった小さなドワーフ。


「シルフ」


 蝶の羽を持つ風の妖精が、軽やかに空中を舞う。


「サラマンダー」


 炎をまとった小さなトカゲ――いや、ドラゴンが胸を張る。


「ウィル・オ・ウィスプ」


 純白の光の球が、やさしい灯りをこぼしながら漂う。


「ドライアド」


 葉っぱまみれの、眠たげな木の精霊。


「ルナ」


 月の光を帯びた神秘的な精霊が、最後にふわりと現れる。


 ……シェイドは呼ばなかった。


 あれはたぶん、ちょっと怖がられる。


 私自身、いまだに少し緊張するのだから、令嬢たちの前ではやめておいたほうがいい。


 シェイド、ごめんなさい。


 そう心の中で謝りながら、私は令嬢たちの反応をうかがった。


 すると。


「「「かわいい!」」」


 第一声がそれだった。


 私は一瞬きょとんとしたあと、少しだけ笑ってしまう。


 ……うん、確かにかわいいよね。わかる。


 わかるけど、そんなふうに一斉に言われると、なんだかこっちまで照れる。


 精霊たちも、どうやら悪い気はしなかったらしい。


 ウンディーネが水の輪をくるくる作ってみせる。


 シルフは風に花びらを乗せて宙へ散らす。


 ノームは小さな土の台をぽこぽこ生やし、サラマンダーは戦斧の両端に炎を付けて回して円を描く。


 ウィル・オ・ウィスプはその上をやわらかい光で照らし、ドライアドも蔦をふわりと伸ばして輪っかを編む。小さな花を咲かせて花冠が完成。令嬢たちの頭に乗せる。


 ルナは月光みたいな淡い光をその上に重ねて、全部を夢みたいに見せる。


 いつの間にか、大道芸みたいなことになっていた。


 令嬢たちは歓声を上げて喜んでいる。


 ノア様もその輪の中で、子どもらしい顔で目を輝かせていた。


 その様子を見て、私はふと思う。


 ああ、その辺はちゃんと年相応なんだな。


 普段はときどき、この方が本当に五歳なのか怪しくなることがある。


 学院の設計だとか、運営資金だとか、能力測定の魔導具だとか、そういう話をしていると忘れそうになる。でも今、精霊たちのちょっとした芸に素直に喜んでいる横顔を見ると、ちゃんと子どもだと思える。


 ……うん。それはちょっと、安心する。


 でも。


 ああ、温泉入りたい。


 その気持ちは、やっぱり消えなかった。

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