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最弱村人だった俺が、AIと古代遺跡の力で世界の命運を握るらしい  作者: Ranperre
第39章

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学院の姿、少しずつ ── 装いと刻印と、未来を映す鏡

 冬の中盤を少し過ぎたころ。


 学院の準備は、目に見える速さで進んでいた。


 最初にあの屋敷を見たときは、まだ使えそうな場所という感じだったのに、今はもう違う。門をくぐって庭を見るだけで、そこがこれから子どもたちの通う場所になるのだとわかるくらいに、空気そのものが変わってきていた。


 荒れていた庭はきれいに整えられ、伸び放題だった草は刈られ、石畳の隙間まできちんと掃除されている。裏手の芝生も均されて、踏みしめたら気持ちよさそうなくらい整っていた。


 人が手を入れると、場所はこんなにも表情を変えるのかと、見るたび少しだけ感心する。


 屋敷の中も同じだった。


 広めの個室だった部屋は、教室になるらしい。壁には大きな黒板が取りつけられていて、子ども用の机と椅子がいくつか並べられている。まだ数は揃いきっていないけれど、それでもそこに小さな背中が並ぶ光景はもう想像できた。


 リビングだった場所は職員室になるそうだ。


 先生たちの机が並び、書類棚が置かれ、湯気の立つお茶と一緒に授業の話が交わされる場所になるのだろう。想像すると、少しだけ“本当に学院なんだ”という実感が強くなる。


 家主の寝室だった部屋は学院長室。


 そこには大きな机と、扉付きの本棚が並んでいた。椅子も少し高そうなやつだ。応接用のテーブルとソファまで置かれていて、その部屋だけ少し空気が違う。


 ここに王妃様が座るのだろうか。


 そう思うと、なんだか妙に似合う気がしてしまう。


 食堂の長テーブルは、そのまま使うらしい。


 でも調理場は違った。


 壁を壊して広くしたそうで、前よりずっと開けた空間になっていた。大人数で調理できるようにという話だったけれど、かなり大胆だと思う。あの壁、本当に壊したんだ……と少し驚いた。


 夜宴用のパーティルームは講堂になるそうだ。


 正面に段が設けられて、演台が置かれていた。そこに立って話す人。前に並ぶ生徒たち。入学式や卒業式、集会、発表の場――そういう光景が、部屋を見ただけで自然に浮かぶ。


 たぶんダンスの練習とかもするんだろうな。


 パーティルームだった名残があるからか、そこだけ少し床も広くてきれいだった。


 屋敷にもともとあった家具や装飾品は、王妃様が選別したそうだ。


 言われてみれば、たしかに王妃様っぽい。


 貴族感はちゃんとあるのに、派手すぎない。上品で、でも冷たくない。初めて入る子どもたちが縮こまりすぎないくらいの、ちょうどいい落ち着きがある。


 私は結構好きだった。


 そして、エルミナさんが吹き飛ばした部屋。


 あそこは錬金術工房になるらしい。


 必要な備品は、例の錬金術の屋敷から運び込んだそうだ。試験管や器具、棚や薬品瓶が並んでいるのを見ると、あの部屋だけ急に“研究室”の顔になる。


 あのキメラは処分されたそうだ。まあ、あのまま屋敷に置いていたら印象は悪い。


 でもふと、私は思う。


 エルミナさんがここで実験していたら、また爆発するんじゃないかな。


 ……いや、さすがに学院の中では慎重になると思いたいけれど。


 ほかにも、図書室に保健室、事務室まで設けられた。


 ますます学院らしくなっていく。


 図書室には、もともと屋敷にあった本も並べられていた。前の住人が魔法の研究をしていたそうで、魔導書の数が多い。まだ整理しきれていない棚もあるけれど、それでも本が並んでいるだけで、その部屋はすでに“静かに知識が眠る場所”みたいに見えた。


 屋敷の門も、今はただの門じゃない。


 その上のアーチには、私が提案した大きな学院章が掲げられる予定だ。


 今はグランツさんが製作中とのことだった。完成が待ち遠しい。


 あの月と虹とイリディオンの意匠が、門の上に本当に掲げられたら、きっと私はしばらく見上げてしまうと思う。


 エルミナさんはというと、最近は商業ギルドに呼ばれて、塩湖の塩の精製をギルド職員と研究しているそうだ。


 本人は「簡単ですよ」と言っていた。私も前世の学校で習った。


 でも、あれは科学実験の小さな規模での話だ。ギルドがやろうとしているのは工場レベルの話になるはずだ。この世界であの規模をどうやって作るのか、正直かなり興味はある。


 でも、たぶん全部は理解できないだろうなとも思う。


 理解できなくても、動き出しているというだけで、少しわくわくする。


 そんな中、今の私は――


 王妃様とお母様に連れられて、町の仕立屋に来ていた。


 制服のサイズ合わせだ。


 店の中には布の匂いが満ちていて、柔らかな紺色の生地が何枚も目に入る。針が何本も刺さり、仮縫いの白い糸がところどころに残っているその服は、まだ完成前なのに、もう十分かわいかった。


 そして何より。


 私が描いた制服のイメージと、ほとんど同じ見た目になっている。


 頭の中にあったものが、そのまま布になっている感じがして、少し変な気分だった。


 サイズ合わせが終わって、しばらくすると制服が完成した。


 店員さんに促されて、私は試着室へ入る。


 手渡された服を一つずつ受け取る。


 白いシャツ。


 リボン。


 紺色のジャケット。


 プリーツのスカート。


 そして、ケープ風の外套。


 布の感触が指先にすべるたび、胸の奥が少しずつ落ち着かなくなる。


 嬉しいのだと思う。


 でもそれだけじゃなくて、これを着たら本当に“学院の生徒”になるような気がして、少しだけくすぐったい。


 試着室の中で着替える。


 シャツの襟を整えて、リボンを結んで、ジャケットを羽織る。スカートの裾を見て、外套を肩にかける。


 鏡に映った自分を見て、私は少しだけ息を止めた。


 ……ちゃんと、それっぽい。


 描いたときは絵だった。


 でも今は、本当に着るための服として目の前にある。


 紺色は落ち着いていて、でも暗すぎない。金の縁取りが夜空に差す光みたいに効いていて、胸元の学院章も、思っていたよりずっとしっくりきていた。


 私はカーテンを開ける。王妃様とお母様が、こちらを見た。その視線を受けた瞬間、さっきまでのくすぐったさが少しだけ強くなる。


 先に声をあげたのはお母様だった。


「かわいいわよ、ノア」


 その言葉は、素直にうれしかった。胸の奥に、ほわっとあたたかいものが広がる。私はたぶん少しだけ照れていたけれど、それでも笑ってしまう。


 王妃様は、服の線や全体のバランスを確かめるように見てから、納得したように頷いた。


「学院の生徒にふさわしい装いですわね」


 その言葉も、やっぱり素直にうれしい。かわいいだけじゃなくて、“学院の生徒としてふさわしい”と言ってもらえるのは、また少し違う重みがある。それはたぶん、夢の服じゃなく、これから本当に使われる服として認められた気がするからだ。


「その格好のまま、写真を撮りましょう」


 店の人がそう言った。


「写真?」


「学院の宣伝に使うのだそうです」


 私は一瞬きょとんとした。私でいいのかな。


 制服を着た一番最初の生徒という意味ではたしかにそうだけど、宣伝に使うって、ちょっと大ごとな感じがする。


 でも王妃様もお母様も反対はしなかった。


 むしろ、当然のように進んでいく。


 見た目が古いカメラの前に立たされる。


 大きな箱みたいな形で、前に丸いレンズがついている。前世の写真館で見るような、ずいぶん古い時代のカメラに似ていた。


「では、そのまま少しだけ顔をこちらへ」


 言われた通りに姿勢を整える。


 胸元のリボン、スカートの裾、外套の流れを少しだけ意識する。どういうポーズが正解なのかよくわからないけれど、店員さんの指示に従って立つしかない。


 ぱしゃり、時間を切り取るような瞬間があった。


 私はそのままじっとして、撮られるのを待つ。


 一体どんなポスターができるんだろう。


 自分が着た制服の絵が、今度は宣伝の絵になる。


 そう思うと、なんだか少しだけ変な気持ちで、それと同じくらい楽しみだった。



 ―― 屋敷に戻ってきて私はふとあることを思い出す。


 お母様にお父様の誕生日を聞いたとき、私は思わず変な声を出しかけた。


 もうすぐだった。


 もうすぐ、というより、ほとんど目の前だった。


「えっ、そんなに近いんですか」


「そうよ」


 お母様は何気ない調子で答えたけれど、私の中では急に時計の針が速くなったみたいだった。


 まずい。プレゼントを考えないと。しかも今から。


 慌てる気持ちのまま、その日の午後はずっと頭の中で“お父様が喜びそうなもの”を探していた。


 お酒は違う気がした。


 評議会の時に渡したけど、たぶん喜んではくれる。でも、それはいろんな人からもらい慣れていそうだし、私から贈るなら、もう少し『使うたびに思い出すもの』がいい。


 実用的なもの。お父様が普段使うもの。


 事務仕事。机。書類。筆記用具。……ペン。


「そうだ」


 その瞬間、頭の中でひとつ形が見えた。


 ガラスペンだ。


 前世で見たことがある。透明な軸の先に繊細な溝が刻まれていて、インクをちょんとつけるだけで長く字が書ける、少し特別な筆記具。


 綺麗で、実用的で、机仕事をする人に似合う。お父様があれを使っている姿、ちょっと見てみたい。


 そう思ったら、じっとしていられなくなった。私は早速、グランツさんの工房へ向かった。


 ◇


「おう、嬢ちゃん。いらっしゃい。この前はありがとうな」


 工房に入ると、いつものように金属と木材と少し焦げた匂いが混じった空気が迎えてくれた。奥のほうでは、何かを削る音が規則的に響いている。


「こんにちは、グランツさん」


「それで、今日はどうしたんだ」


 私はすぐに本題を口にした。


「実はガラスでペンを作りたいんです」


 そう言うと、グランツさんの目が少し丸くなる。


「ガラスのペンか」


 そのあと、口の端が持ち上がった。


「へぇ、また面白いもんを考えるな」


 面白い、と言われると少しだけ胸が軽くなる。


 突拍子もないと言われなくてよかった。


「なら今、うちのガラス職人が来てる。そいつに頼むといい」


「ありがとうございます」


 私がそう返すと、グランツさんは工房の奥へ向かって声を張った。


「おーい、ルクレア!」


 少し間があって、足音が近づいてくる。


 現れたのは、若いエルフの女性だった。


 細身で、背はすらりと高い。光を受けると淡く透けそうな白金色の髪を後ろでひとつにまとめていて、耳はやっぱり長い。工房仕事をしているせいか服装は動きやすく整えられているのに、どこか空気がすっとしていて、立っているだけで“エルフ”だとわかる人だった。


「なんか用、グランツさん」


 少しだけ気だるげな口調。


 でも目はちゃんとこちらを見ている。


「はじめまして、ノア・リベルです。よろしくお願いします」


 私が頭を下げると、ルクレアさんは私の顔を見て、少しだけ目を細めた。


「リベルって、領主様ところの娘さんかい」


「はい」


「へえ。あたしはルクレア・フェリアーナ。技術ギルドのこの工房でガラスを専門にしてる。よろしく、ご息女様」


 それ以上、妙に持ち上げたりはしなかった。でも、その“へえ”の中には少しだけ興味のようなものがあった。


 私はすぐに、ガラスペンのことを話した。


 お父様の誕生日が近いこと。お父様への贈り物にしたいこと。綺麗で、でもちゃんと使える筆記具がいいこと。


 話しながら、自分の中でも少しずつ作りたいものの輪郭がはっきりしてくる。透明な軸、手に馴染む重さ、先端の細い溝。できれば少し上品で、でも華美すぎないもの。


 ルクレアさんは途中で何度か小さくうなずきながら、最後まで聞いてくれた。


「なるほど。ガラスのペンか」


 言い終えたあと、彼女はそう返した。


 その声には、面白がる響きと、少しだけ試すような響きが混じっていた。


「ずいぶん難しいことを言うじゃないか」


「難しいんですか」


 私は素直に聞き返す。難しいとは思っていた。


 でも、やり方さえ教わればなんとかなるくらいのものかもしれない、とも思っていた。


 ルクレアさんは、口元だけで少し笑う。


「見てもらったほうが早いね」


 その言い方が、やんわりしているようでいて、たぶん実際に見れば簡単にはいかないとわかる、という意味なのだろう。


「現場においで」


 促されるまま、私はルクレアさんのあとをついて工房の奥へ向かった。


 鍛冶工房のすぐ隣に、ガラス用の工房はあった。扉をくぐった瞬間、思わず息を止めそうになる。


「……あつい」


 空気そのものが熱を持っていた。


 ただ暖かいとか、暑いとか、そういう言葉では少し足りない。肌に触れる前から、熱がこっちへ押してくる感じだ。立っているだけで額に汗が滲んで、首筋に細い汗がつたう。頬のあたりまでじわっと熱を持っていくのがわかる。


 炉の前では、赤く光る塊がゆっくりと形を変えていた。


 光と熱と、溶ける音。


 金属を打つ鍛冶工房とはまた違う、粘るような熱気がそこにはあった。


 ルクレアさんはそんな空気の中を、慣れた足取りで進んでいく。


「ここで作るガラスは主に花瓶やオブジェなんかの装飾品、照明や食器なんかの調度品さ」


 言いながら、作業台の上に置かれたガラスの花瓶や器、色の入った大小さまざまな飾りを指先で示す。


「ガラスを溶かして、膨らませて形を作る。調度品も、ガラスを溶かして形を整える」


 私は炉の中を見つめながら、その言葉を頭の中でなぞる。ガラス全体を熱して、やわらかくして、そこから形を作る。


「つまり、ガラス全体を熱しているということですか」


「その通り」


 ルクレアさんはあっさり頷いた。それから私の顔を見る。


「あんたが作ろうとしてるものは、たぶん逆だろうね」


「逆?」


「全部を溶かして作るんじゃなくて、一部だけを熱して、くっつけたり、細かく形を出したりする感じだ」


「……あ」


 言われてみれば、その通りだった。


 前世で見たガラスペンは、もっと繊細だった。大きなガラスの塊を吹いて作る器とは違う。持ち手と、ペン先の溝のある部分を、細い作業で組み合わせていくようなイメージだ。


「うちには小さい火で、しかも高火力を出せるものがないんだよ」


 その一言に、私は少し考える。大きな炉では熱が広がりすぎる。


 欲しいのは、ピンポイントで熱を入れる火だ。


 私は近くにあった紙を借りて、思いついたガラスペンの形を描いていった。


 長い雫みたいな持ち手の部分。


 それより少し短く、先端へいくにつれて細くなるペンの部分。


 全体としては、すらっとしていて、でもどこかやわらかい印象の形がいい。


「こんな感じで……」


 私は紙の上を指でなぞる。


「持ち手は長い雫で、こっちがペン先です」


 ルクレアさんが横から覗き込む。


「ふうん」


「ペンの先端は、溝のあるガラスをくっつけたいんです」


「溝のガラスか」


 その言葉で、ルクレアさんの目が少しだけ動いた。


「これに似たもんなら、前に作ったね。ちょっと待ってな」


 そう言うと、彼女は工房の奥にある物置のほうへ入っていった。


 がさごそと何かを探す音がして、しばらくしてから、細長いガラス棒を何本か抱えて戻ってくる。


「ほら」


 差し出されたそれを見て、私は思わず目を見開いた。


 細いガラス棒の表面に、縦に細かな溝がいくつも入っている。断面は歯車みたいになっていた。


「前に試しに作ったけど、“使えない”って放置されてたやつだよ」


「使えない……」


 でも私から見れば、まさに欲しかった形に近い。


 インクを絡め取るための溝。


 ガラスペンの先端に必要なのは、たぶんこれだった。


「おーい、ルクレア」


 そのとき、工房の入口からグランツさんの声がした。


 振り向くと、片手に箱を抱えて立っている。


「以前商業ギルドから買ったやつだが、これ使えるかもな」


 ルクレアさんが眉をひそめる。


「もう、無駄遣いして。どうせまたガラクタなんじゃないの」


「ガラクタかどうかは見てから言え」


 グランツさんが作業台に置いたのは、見た目だけなら前世の理科室で見たガスバーナーにそっくりなものだった。


 細い筒状のバーナー。


 バーナーの下から伸びる管。


 そしてそれが、小さな引き出し付きの箱に繋がっている。


「……これ」


 私は思わず近寄る。本当に、かなりバーナーっぽい。


「この箱に燃料を入れてな」


 グランツさんが引き出しを開き、そこへ炭を入れてみせる。管についている弁を開く。


「こっちの、とんがりのスイッチを押すと火が出るんだ。火力も調節できるってよ」


 そう言って、バーナーの根本の部品をひねるようにして押す。


 ぼっ、と小さな火が出た。


「……!」


 私は少しだけ身を乗り出す。


 火口が狭い。炎が一点にまとまっている。これなら。


「ルクレアさん、これなら小さい火で高火力を出せます」


「ほんとかい?」


「たぶん」


 私は前世の理科の実験を思い出す。


 火力を上げるには、燃料の量だけじゃなく空気の入り方が大事だったはずだ。たしか、最初は赤っぽい火で、それを調整すると――


 私はバーナーの調節部分を慎重に動かす。燃料調節ねじを開く。次に空気調節ねじを開いて空気が入るようにする。


 炎の色が揺れる。赤から、橙へ。そして、中心がすっと青く変わった。しかも炎に勢いがある。


「これです」


 思わず声に少し力が入る。


「……青い」


 ルクレアさんが、珍しくはっきり驚いた顔をした。


「本当だ。すごいね、あんた」


 グランツさんも、腕を組んだままにやっと笑う。


「やっぱ買っといてよかっただろ」


「たまたま当たりだっただけでしょ」


 そんなことを言いつつも、ルクレアさんの目はもう完全に道具のほうへ向いていた。


 使える。その顔だった。私は青い炎を見つめる。


 前世では当たり前だった理科室の火が、この世界では“使い道のわからない道具”として箱にしまわれていた。それが今、ガラスペンを作るための火になる。


 なんだか少し、不思議で、嬉しい。


「よし。これなら」


 ルクレアさんが、ガラス棒を手に取る。


「早速、作ってみようじゃないか」


 その言葉に、私の胸の奥がぱっと明るくなった。


 熱い工房の中なのに、別の意味でまた体温が上がる。


 お父様の誕生日に贈るためのガラスペン。


 今から、それが本当に形になり始めるのだと思うと、汗も熱気も、少しだけ気にならなくなっていた。


 作業は、思っていたよりずっと繊細だった。


 まずは土台になる太めのガラス棒を、適当な長さに切る。そこへ、先端になる溝入りのガラス棒を合わせるため、それぞれを青い炎の上へかざして熱していく。


 ガラスは、急に溶けるわけじゃない。


 最初はただ光を受けているだけみたいなのに、しばらくすると表面がやわらかくなって、少しずつ粘りを持ちはじめる。その“変わり始める瞬間”を見逃さずに合わせるのが大事らしい。


 私は息を止めるみたいにして、その手元を見つめた。


 熱したガラス同士が、ぴたりと重なる。


 押しつけるというより、くっつくべき場所へ連れていく感じだった。ガラスは脆いものだと思っていたのに、熱の中ではこんなにも素直に形を変えるのかと、見ているだけで少し不思議になる。


 接合ができたら、今度は溝の入ったガラス棒のほうを熱しながら、くるくると捻っていく。


 捻る。


 伸ばす。


 そのまま少しだけ引き、雫みたいな形を作る。


 私はその動きを目で追いながら、頭の中で何度も“こういうことか”と繰り返していた。言葉だけで聞くより、実際に見ると一気にわかる。


 やがてルクレアさんは、ちょうどいいところで先端をちぎった。


 熱を持ったまま細く伸びた部分が、糸みたいに頼りなく揺れる。


「ここは残さない」


 そう言って鋏を入れる。


 ぱち、と小さな音。


 糸のような先端が落ちて、切り口が丸く整えられる。


 それだけなのに、急に“ペン”らしく見えた。


 最後に冷やす。


 熱を持っていた透明なガラスが、少しずつ落ち着いていく。冷えていくあいだも、光の反射がどこか特別に見えて、私はじっとそれを見守っていた。


 そして。


 試作のガラスペンが完成した。


「ノアちゃん、試しに書いてみて」


 ルクレアさんが、できたばかりのそれを私へ渡す。


 指先に乗ったガラスは、思っていたより軽かった。


 でも軽すぎるわけでもなく、持つとちゃんと“道具”として手に収まる。透明な持ち手の中を、さっきまで炎にいた名残みたいな光が細く走っていた。


 私はインク壺に先端をつける。


 溝のあいだに、黒いインクがするりと絡む。


 それを紙の上へ運んで、そっと自分の名前を書いた。


 ノア。


 紙の上に、一定の太さの文字が現れる。


「……おお」


 私は思わず、その文字を見つめた。


 羽ペンだと、どうしても筆圧で太さが揺れる。インクの乗り方にも癖があるし、書くたび少しだけ線の表情が変わる。


 でもこれは違う。線の太さが揃っている。前世のボールペンみたいに、すっと同じ幅で文字が出るのだ。


「これです」


 胸の奥が少し熱くなって、私は顔を上げた。


「私が想像するガラスペンです」


「ってことは成功だね」


 ルクレアさんがにっと笑う。


「はい。ルクレアさん、すごいです」


 そう言うと、ルクレアさんは少しだけ肩をすくめた。


「すごいのはノアちゃんだよ」


 その言い方は軽いのに、ちゃんと本気だった。


「これを基本にして、いろいろ作れそうだね」


 いろいろ。その言葉に、私の頭の中でもう次の形が動き出す。


「ガラスの中に宝石を入れたペンとか、作れそうだ」


 ルクレアさんがそう言う。


 私は一瞬、ラメ入りのペンみたいなものを想像した。


 きらきらして、光の角度で色が変わって、たぶんすごくかわいい。


 でも今回は、お父様への贈り物だ。


 かわいいより、たぶんもっと別の方向がいい。


「領主様に贈る品なんだろ」


 ルクレアさんも、そこはちゃんとわかっていたらしい。


「なら、もっと凝ったものを作らないとね。どういうのがいい」


 私はすぐに近くの紙を引き寄せた。


 今度は試作ではなく、本番の形だ。


 お父様が机で使うもの。


 派手すぎず、でもただの道具では終わらないもの。


 私は持ち手に螺旋の入ったペンのデザインを描いた。


 透明なガラスの中に、緩やかにねじれた流れが見えるような形。持ったとき、光が中で少しだけ動くように見えるはずだ。装飾はそれだけ。余計な飾りはつけない。


 描き終えて、ルクレアさんに見せる。


「ずいぶんシンプルだね」


 少しだけ意外そうな声だった。


「こんなのでいいのかい」


「はい」


 私は迷わずうなずく。


「世界で初めてのガラスペンですから」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけその重みを感じた。


 世界で初めて。この世界にまだないもの。それを、お父様へ贈る。


「それだけで、お父様は喜んでくれるはずです」


 私はそう信じていた。


 飾り立てるより、“初めてそこに現れたもの”そのものの価値を、きっとお父様はわかってくれる。


 ルクレアさんはしばらく私の描いた線を見てから、ふっと笑った。


「世界初か。うん、すごくいいね」


 その言葉に、私は少しだけ胸を張る。


 熱い工房の空気の中で、透明なペンはまだ始まりの光を閉じ込めたまま、静かにそこにあった。



「明日、またおいで。ノアちゃんの想像通りのものを作っておくよ」


 ルクレアさんは、熱の残る工房の前でそう言った。


 その声は軽いのに、不思議と頼もしかった。できるかどうかを曖昧に濁すのではなく、「作っておく」と言い切ってくれるのが、ものづくりをする人の言葉だなと思う。


「はい、よろしくお願いします」


 私は深く頭を下げた。


 工房を出ても、胸の奥にはまだ熱が残っていた。さっきまでの炉の熱気だけじゃない。透明なガラスが形になっていくのを見たあとの、高ぶりみたいなものだ。


 明日には、お父様へ贈るためのガラスペンができる。


 そう思うだけで、足取りまで少し軽くなる。


 屋敷へ戻る道すがらも、私はずっとそのことを考えていた。


 持ち手の螺旋。透明な軸の中を走る光。インクを含んだ先端が、紙の上を滑る感じ。


 完成が楽しみだった。


 それと同時に、工房へ寄ったことで別の欲まで刺激されてしまった。


 ものづくり欲、みたいなものだ。


 何かを思いついて、それを形にして、手で触れられるものになるまでの過程を見ると、なんだか無性に自分でも何か作りたくなる。


 戻ったら何か作りたいな。


 そんなことを考えながら屋敷へ入ると、リビングにはお母様と王妃様がいた。


 窓の外は、もう少しで夕方になるところだった。傾きかけた光が部屋の中をやわらかく照らしていて、二人はその中でくつろぐようにソファへ座っていた。


 私も夕食まで、そこへ混ざることにした。


 ふかい椅子に身体を沈めると、張っていた気持ちが少しずつほどけていく。工房の熱と、外の冷たい空気の両方を通ってきたあとだから、屋敷の中のあたたかさが妙に心地よかった。


 お母様と王妃様は、何か静かに話していた。


 その様子を私はぼんやり眺める。


 お母様が笑う。


 王妃様も、やわらかく微笑む。


 そのやりとりはいつも通りに見えた。見えたのだけれど、しばらくしてから、私は急にあることに気づいた。


 ……あれ。


 二人とも、お腹が大きい。


 でも、太ったという感じではない。


 服の上からでもわかる、やわらかな丸み。今まで視界には入っていたはずなのに、なぜか今この瞬間まで、きちんと意味として受け取れていなかった。


 それはたぶん、最近いろいろありすぎたせいだと思う。


 評議会だ、学院だ、塩湖だ、魔晶石だ、ガラスペンだと、気持ちがあちこち走っていて、一番身近な変化を今さら見つけてしまった。


「お母様」


 私は思わず身体を起こす。


「もしかして、私に弟か妹ができるんですか」


「あら、ノア。今頃気づいたの」


 お母様が少しおかしそうに笑う。


 王妃様も、くすっと肩を揺らした。


 その反応で、私はますます“本当なんだ”と実感する。


 今まで自分があれこれ走り回っていた気がする。


 そうか。そんなあいだに、ちゃんと時間は進んでいたんだ。


「王妃様も、ご懐妊されたのですね。おめでとうございます」


 そう言うと、王妃様は胸の前で手を重ね、静かに頷いた。


「ありがとうございます、ノアさん」


 その声音には、やわらかな喜びがあった。


「我が王家に、新しい希望が増えますね」


 希望、という言葉が、妙にきれいに聞こえた。


 王家に生まれる子ども。


 それはただ家族が増えるというだけではなくて、本当に“国の未来”の意味まで持ってしまうのだろう。


 でも今の王妃様は、そういう重みごと、静かに抱いているように見えた。


「お名前は、もうお決まりですか」


 私がそう聞くと、王妃様は少し考えるように目を細めた。


「そうですね。どんな名前がいいかしら」


「そうだわ、ノア」


 お母様が、ふと思いついたようにこちらを見る。


「あなたが名前を付けてはどうかしら」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。頭の中で言葉がうまく意味を結ばない。


「ええぇぇえ」


 変な声が出た。


「そんな、王妃様のお子さんですよ。王子か王女になる方ですよ。名づけなんて恐れ多いです」


 慌てて言うと、自分の声が少し上ずっているのがわかる。


 いや、本当に。


 お爺様の馬の名前を付けたのとはわけが違う。あれは黒馬が気に入ってくれたから成立したけれど、今回は王家の子どもだ。重みがまるで違う。


「そ、その、いやというわけではなくてですね」


 言いながら、自分でも何を言っているのか少し怪しくなる。


 断りたいわけではない。


 でも軽々しく頷ける話でもない。


「でも、お爺様の馬には気に入られたそうじゃない」


 お母様が、少し楽しそうに言う。


 私は思わず眉を寄せた。


「馬の名づけと同レベルで言わないでほしいです」


 そんな適当でいいわけが――


「いいですね」


 王妃様が、あっさりと言った。


「ノアさん、何かいい名前はありますか」


 ……いいんだ。


 いや、よくない気もするんだけど、王妃様がこんなに穏やかな顔で尋ねてくると、“駄目です”と言い切るのも難しい。


 私はしばらく、二人の顔を見比べていた。お母様は面白がっている。王妃様は本気で聞いている。


 その温度差が少しおかしくて、でもそのどちらにも悪気がないことが余計に困る。


 名づけ。名前。新しい命に贈る最初の言葉みたいなもの。


 そう考えると、軽く口にするのがますますためらわれた。


 でも一方で、胸の奥には別の感情もある。


 お母様のお腹の子。


 王妃様のお腹の子。


 まだ会ってもいない、小さな命たち。


 その存在を知ったばかりの今は、ただ少し、あたたかかった。


 私は膝の上で指先を重ねる。すぐには答えられなかった。


 けれど、考えてみたいとは思った。ちゃんと、似合う名前を。


 生まれてくるその子たちが、呼ばれるたびに少しだけ幸せになるような名前を。


 そんなふうに考え始めた時点で、もう半分引き受けてしまっているのかもしれない――と、私は少しだけ思った。



 名前を考えるにしても、まずは近しい人たちの名前を知らないと始まらない。


 被ったら気まずいし、王家にはきっと“使われやすい音”とか“避けたほうがいい響き”みたいなものもあるだろう。何も知らずに勢いで出してしまって、実は先代の犬の名前でした、みたいなことになったら目も当てられない。


 私は少し姿勢を正して、王妃様へ向き直った。


「王妃様。参考までに、ご家族のお名前を教えていただけますか」


「そうですね」


 王妃様はやわらかく頷いた。


「では、紙に書いておきましょう」


 その言葉を聞くと、部屋の隅に控えていた執事頭のユルゲンさんが、音もなく動いた。


 いつの間にか机の端へ紙とペンが用意される。その動きがあまりにも自然で、一瞬“もともとそこにあったっけ”と思うくらいだった。


 王妃様は紙を引き寄せると、迷いなくペンを走らせていく。


 ひとつずつ記される文字を、私は横からじっと見ていた。


 先代王の名。


 バルドレオン・アルベリク・ファン・デル・アルマシア。


 ……強そう。


 すごく強そうだ。


 鎧を着ていて、低い声で命令して、戦場の真ん中に立っていそうな名前だと思った。


 次に王太后の名。


 ユノ・フレミアス・ファン・デル・アルマシア。


 こっちは少し印象が違う。


 柔らかいのに、奥に芯がある感じがする。優しそうでもあるし、でも絶対にただ優しいだけでは済まない人の名前だ。


 それから、戦争で亡くなった王様。


 ルクシアス・フレミアス・アルベリク・ファン・デル・アルマシア。


 これもまた王様っぽい。


 凛々しいのに、どこか光の感じがある名前だと思った。お爺様からいいヤツだったと聞いているからかもしれないけれど、紙の上の字を見ているだけで少し胸が静かになる。


 王妃様ご本人の名。


 アウレリア・アルカディア・ファン・デル・アルマシア。


 これは、やっぱり似合う。


 気品があって、華やかで、でも派手というよりは整っている。王妃様が話す声の響きまで、そのまま名前にしたみたいな印象だった。


 最後に、第一王女の名。


 セラーディア・アルカディア・アルベリク・ファン・デル・アルマシア。


 その文字列を見たとき、私は少しだけ目を止めた。


 きれいな名前だと思った。


 柔らかくて、でも王女としての格もちゃんとある。光と花と、少しの気高さを混ぜたみたいな感じがする。


 私は紙の上を見つめながら、頭の中でひとつずつ音を転がしてみる。


 バルドレオン。


 ユノ。


 ルクシアス。


 アウレリア。


 セラーディア。


 王家の名前って、やっぱりそれだけで空気が違う。


「お子さんは、第一王子か第二王女になるのですね」


 私がそう言うと、王妃様は小さく頷いた。


「ええ」


「男の子だと……責任重大ですね」


 言いながら、自分で言葉の重さに少しだけ顔が引きつる。


 王様になるかもしれない子どもの名前。しかも、それを考えてって言われている。


「そんなに深く考えなくても大丈夫ですよ」


 王妃様はやわらかく言った。


 でも、その“大丈夫”が余計に重い。


 深く考えなくていいと言われて、本当に軽くできる話じゃない。むしろ、そう言われると余計に“いや、深く考えますよね普通”となる。


 私は紙を見つめたまま考える。


 王子様か、王女様か。男の子と女の子、二つに分けて考えるか。それとも、どちらにも使えそうな名前にするか。


 この世界の名前の響き。


 王家の名前の並び。


 その中に、今から新しく加わるひとつ。


「王妃様」


 私は少し顔を上げた。


「何か希望はありますか。強そう、とか、優しそう、とか」


 そう聞くと、王妃様は少しだけ目を伏せた。


 考えるまでの短い間があって、それから静かに答える。


「そうですね」


 声は穏やかだった。


「生まれた子は、おそらく将来、アルマシアの王になると思いますから」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ引き締まる。


 王になる。


 それを、こんなにも静かに口にするのが王妃様らしかった。


「それにふさわしい名前がいいですわね」


「……ですよね~……」


 私は小さく呟いた。そりゃそうだ。王様か。


 前世にだって王様はたくさんいた。物語の中にも、歴史の中にも、ゲームの中にも。でも、どれがいいだろう。頭の中に名前がいくつか浮かんでは消える。


 アレキサンダー。


 ……強いけど、なんか他国を侵略しそうだ。


 ギルガメッシュ。


 ……響きはすごいけど、贅沢三昧の慢心王とか言われそう。


 いや、かっこいいんだけど。かっこいいけど、王妃様の前で出す名前としてはだいぶ危ない気がする。


 ほかにもいくつか思い浮かぶ。


 でもどれも、どこか“前世で見た強い王様”そのままの匂いが強すぎる。借り物感があるというか、その名前に背負わせる物語があまりにも濃い。


 私は唇の内側でそっと息を転がす。


 この世界にちゃんと馴染んで、王家の名前の並びに入っても違和感がなくて、それでいて王にふさわしくて――


 そこで、ふとひとつの名前が頭の中に浮かんだ。


 アルトリア。


 私は心の中で、その音をそっと置いてみる。


 ……あれ。


 これ、男性でも女性でもいけるかもしれない。


 しかも、王妃様の“アウレリア”と少し響きが似ている。まったく同じではないのに、並んだときにどこか血筋の気配がある。


 そして、私が知っている伝説の騎士王の名でもある。


 この世界でそれをそのまま言うわけじゃない。


 でも“王にふさわしい名”として通すには十分な力がある。


 我ながら、いい名前を思いついた気がした。


 決して前世からの丸写しではない。オマージュと言ってほしい。


 私は紙の上の王家の名をもう一度見てから、そっと王妃様へ向き直った。


「アルトリア、という名前はどうでしょう」


「アルトリア……」


 王妃様が、その音をゆっくり繰り返した。


 私は少しだけ緊張しながら続ける。


「はい。私が知る伝説の騎士王の名前です」


 言ってから、胸の奥がひとつ鳴る。


 変じゃないかな。


 重すぎないかな。


 王家の名前の並びに置いて、浮かないかな。


「王妃様のお名前とも、音が似ています」


 そのことも、私は大事だと思った。まったく同じではない。


 でも、並んだときにどこか家族の響きがある。王妃様の“アウレリア”と、私の中で思い浮かんだ“アルトリア”は、遠すぎず近すぎず、ちょうどいい距離で響き合う気がした。


「王妃様、いかがでしょうか」


 王妃様はすぐには答えなかった。


 紙の上に並んだ王家の名前たちを見つめ、それから口の中でそっと新しい名を転がすみたいに、もう一度だけ呟く。


「アルトリア……」


 その横顔に、少しずつやわらかい色が差していく。


「とても、いい響きですね」


 私は内心で、ほっと息をついた。気に入ってもらえたらしい。


 それだけで、肩のあたりから何かがふっと抜ける。


 王妃様は、先ほど家族の名を書き記した紙へ、静かに新しい文字を書き足していく。


 アルトリア・アルカディア・アルベリク・ファン・デル・アルマシア


 その長い名前が紙の上に現れた瞬間、私はそれがもう“候補”ではなく、ひとつの未来の姿みたいに見えた。


 王妃様はその名前を、しばらく愛おしそうに眺めていた。


 そして、そっとお腹をさする。


「アルトリア……」


 その呼び方は、まだ生まれてもいない子に向ける声なのに、もうすでにどこかやさしかった。


 私はその光景を見て、なんだか胸の奥があたたかくなる。


 名前って不思議だ。


 まだ姿も見えない相手に、急に輪郭が生まれる。


「ねえ、ノア」


 お母様が、少し楽しそうな声で言った。


「私たちの子にも、名前つけてみる?」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「えぇぇ、その子はお父様とお母様で相談してください」


 私はすぐに首を振る。


「私はどんな名前でも、その子を愛しますよ」


 その答えに、王妃様がくすっと笑う。


 お母様も、ちょっとだけ口元を上げた。


「参考までに聞いておきたいのよ」


「しょうがないですねぇ……」


 私は少しだけ肩を落とす。結局、逃がしてはもらえないらしい。


「どんなのがいいんですか」


「王様っぽい名前」


「何でですか!」


 思わず、すごく素で聞き返してしまった。


 お母様は当然のように言う。


「男の子だったら、クレディア領を継ぐかもしれないでしょ」


「ああ……そういうことですか……」


 私は少しだけ遠い目になる。


 たしかにそうだ。


 王子ほどではないにしても、領主の子どもなら、その先に背負うものはやっぱり軽くない。


 それにしても、お母様もお爺様と同じで、無茶ぶりが過ぎると思う。


 少しだけ気が緩んだところへ、すぐ新しい宿題を投げてくる。


 王様っぽい名前、かぁ。


 私はソファの背に身体を預けながら、頭の中の引き出しをまた開け始めた。


 前世で聞いた名前。物語の中の王。歴史上の王。英雄っぽい響き。


 でも強すぎず、重すぎず、この世界の名前にも馴染むもの。


 なんか、あったかなぁ。


 そう考え始めた時点で、たぶん私はもう断りきれていないのだと思った。


「生まれてからでもいいですか」


 私は少しだけ考えてから、そう言った。


「かなり候補があるので」


 本当は、まだそこまで絞れていない。


 王様っぽい名前、と言われて頭の中にいくつか浮かんではいるけれど、どれもそのまま出すには少し早い気がした。生まれてくる子の顔も、声も、何も知らないまま決めてしまうより、ちゃんと会ってから考えたい。


 それに、名づけってたぶん、そういうものだ。


 ただ響きがいいだけじゃなくて、その子を見て、抱いて、呼んでみて、ようやくしっくりくる名前がある気がする。


「ええ~、王妃様だけずるい~」


 お母様が、急に少しだけ身を乗り出した。


「私の子にも付けて~」


「お母様?」


 私は思わず目を瞬かせる。駄々をこね始めた。しかも王妃様の前で。


 さっきまで領主夫人らしい落ち着いた顔で話していたのに、急にこういうところが出てくるから、お母様はたまにかわいい。


 王妃様は、それを見てとうとう声を出して笑っていた。


「あっはっはっ」


 やわらかな笑い声が、部屋の空気をふわっとほどいていく。


 王妃様がこんなふうに肩の力を抜いて笑っているのを見ると、こちらまで少し気持ちが軽くなる。


「そうですね」


 王妃様は笑いの余韻を残したまま、穏やかに頷いた。


「生まれてからでも、遅くはないですものね」


「そうですよ、お母様」


 私はその流れに乗るように言った。


「生まれてから付けましょう」


 お母様は少しだけ唇を尖らせたけれど、やがて諦めたように小さく息をつく。


「分かったわ」


 その返事は、思ったより素直だった。


「それまで、お父様と考えましょう」


 その言い方に、私はなんだか少しだけほっとした。


 結局、名前はお父様とお母様で考えるのが一番いいのだと思う。私が口を出すのは楽しいけれど、それでも最後に決めるのは家族の役目だ。


 王妃様は、机の上の紙へ視線を落とす。


 そこにはアルトリアの名が、まだ新しい文字のまま静かに残っていた。


 お母様はお腹にそっと手を当てている。


 その手つきは、さっきまでの駄々っ子みたいな調子とは違って、ちゃんとやさしかった。


 私はその二人を見ながら、胸の奥にあたたかなものが広がるのを感じていた。


 新しい命が、ふたつ。


 まだ姿も見えない、小さな存在たち。


 そのことを知った日が、こんなふうに名前の話で笑いながら終わっていくのが、なんだかとてもよかった。


 こうして、子どもたちの名づけ騒動は、ひとまずの収束を迎えた。



 ──翌日。


 朝の稽古がひと通り終わるころには、身体の芯がじんわりあたたまっていた。


 木剣を振り、足を動かし、呼吸を整えて、ようやく肩のあたりから余計な力が抜けていく。冬の外ならきっと吐く息も白いのだろうけれど、桜環神社の中は今日も変わらず春の空気だった。


 神社の外では雪が降っているらしい。


 けれどここには、その気配は届かない。


 風はやわらかく、日差しも穏やかで、木々の色まで少しあたたかい。こんな場所で鍛錬していると、外が冬だということを時々忘れそうになる。


 鍛錬場には、いつの間にか黒板が設置されていた。


 しかも机と椅子まで用意されている。


 たぶんナギさんが準備してくれたのだろう。


 木剣の音が響く場所に、こうして“授業をする場所”の形が混ざるのは少し不思議だった。でも今の私たちには、むしろそれが自然に思える。


 鍛錬場の端では、イリディオンがいつものように寛いでいた。


 大きな身体を横たえ、片目だけこちらへ向けている。昼寝には最高の場所なのだろう。実際、その姿は“珠竜”というより、日向ぼっこに成功した大きな猫みたいにも見えた。


 ……いや、サイズは全然猫じゃないけど。


 そして今日は、以前から話していたエルミナさんの授業の日だった。


 付与と刻印。


 私は勝手に、もっと簡単なものを想像していた。


 何かに文字を書いて、魔力を流して、はい完成――くらいの、前世のゲーム的な感覚だ。でも、授業が始まってすぐ、その考えがだいぶ甘かったことを思い知らされる。


 エルミナさんは黒板の前に立ち、少し緊張しながらも、今日はちゃんと先生の顔をしていた。


「以前お話した魔導具の作り方ですが、作成に必要な工程が多いんです」


 その声は、以前よりずっと迷いが少ない。


 教える内容を自分の中で整理しきっている人の話し方だった。


「用意する物は、いくつかに分かれます」


 そう言って、黒板に順番に書き出していく。


「一つ、媒体」


 白い文字が黒板に現れる。


「これは、効果を乗せる対象そのものです」


 剣、杖、指輪、外套、靴――エルミナさんは例を挙げるたびに、こちらを見るようにして説明してくれた。


「なんでもいいわけではありません。素材との相性があります」


 そこで私は、自分の中にあった“適当に物へ魔法を乗せる”みたいな感覚を修正する。


 対象そのものが大事。


 しかも相性まである。


 つまり、最初の時点でもう選別が始まっているのだ。


「二つ、触媒」


 次の単語が黒板に加わる。


「宝石、魔石、魔力を蓄えた鉱物、属性の宿った素材……」


 その言葉を聞きながら、私は思わずイリディオンの鱗のことを思い出してしまった。


 やっぱり高価な素材が必要になるのか。


「術式に必要な性質を、“物質として”支える役割があります」


 物質として支える。


 その言い方が妙に印象に残る。


 つまり、魔法は目に見えないものだけれど、それを現実に固定するためには、ちゃんと現実の材料が要るのだ。


「三つ、刻印」


 エルミナさんは、ここで少しだけ声を落ち着けた。


「物に直接、意味を持つ文字や記号を刻み込み、魔力の通り道そのものを固定する工程です」


 私は思わず、自分の指先を見た。


 刻み込む。


 書くだけじゃなく、固定する。


 それは思っていたよりずっと“工学”に近かった。


「四つ、術式陣」


 黒板の文字が増える。


 エルミナさんの指先が、今度は円を描くように黒板の上を動いた。


「魔力の流れを整え、役割を分け、効果を固定する設計図です」


 設計図。


 その言葉で、私の頭の中に一気に何かが繋がる。


 これ、魔法というより回路図だ。


「ここが外周。封枠です」


 指先が円の外側をなぞる。


「内側は制御線。交点は変換点。中央は核」


 エルミナさんの説明に合わせて、黒板の上に円と線が描かれていく。


「どの属性を、どう流し、どこで留めるかを組むんです」


 私は目を瞬かせた。かなり本格的だ。いや、本格的という言葉でも少し足りない。


 これはもう、“魔法を使う”というより“魔法を設計する”の領域に見える。


「五つ、定着」


 最後の工程が書かれる。


「詠唱で術式を起動し、魔力を流し込み、媒体と触媒と刻印と陣を、一つの系として固定します」


 一つの系。


 その表現が、なんだかすごく格好よかった。


 でも次の一言で、格好いいだけでは済まないこともすぐにわかる。


「ここで失敗すると、何も起きないか、最悪の場合、焼けます。砕けます。暴発します」


 急に現実の危険度が上がった。


 エルミナさんは、こちらの反応を見てから続ける。


「だから正式な付与や刻印は、専門家の領域なんです」


 その声には、誇張がなかった。ただ、長く整理された事実だけがある。


「設計も、加工も、定着も、どれか一つ欠けたら駄目です」


 なるほど。そりゃ難しいはずだ。


 前世のロールプレイングゲームみたいに、“鍛冶屋で付与しました、終わり”みたいな簡単なものではない。


 ちゃんと知識があって、技術があって、失敗したときの危険も背負う人たちがいるからこそ成立している。


「魔法学院では、これらを総称して『魔導刻印術』と呼んでいます」


 エルミナさんは、少しだけ誇らしそうにその言葉を言った。


「一般には略されて、刻印術の名で浸透しています」


 魔導刻印術。


 その響きだけで、急に学問っぽさが増す。


「この技術が確立される前は、一時的な付与が主でした」


 そこでエルミナさんは、黒板からこちらへ向き直った。


「ですがこの刻印術で、剣は聖剣や魔剣に。鎧や盾も、物理攻撃から守るだけでなく、魔法から守ったり、回復したりなどの効果を持たせることができるようになりました」


 その説明を聞いているうちに、私は自然と想像していた。


 強そうな武器。


 光る剣。


 属性をまとった槍。


 回復機能つきの鎧。


 つまり――


 ロールプレイングゲームのような、強そうな武器や防具を、自分たちで作れるようになったということか。


 すごい。ものすごく夢がある。


 私は無意識に、自分の持ち物へ意識を向けていた。


 取り出したのは、エンチャントペンシル。


 以前、これで自分のドレスと下着に《防汚》《消臭》、さらに《自己修復》の文字を書いたことがある。


 文字通り、その効果は表れていた。今も続いている。


 ティナは前に言っていた。


「ノア様のお服はいつもきれいですね。お洗濯の必要がありません」


 そのときは便利だな、くらいにしか思っていなかった。


 でも、いまエルミナさんの説明を聞いたあとで見直すと、このペンシルの異常さが逆に際立つ。


 媒体、触媒、刻印、術式陣、定着。


 そんな複雑な工程を必要とするはずのものを、これ一本で、しかもただ文字を書くだけでやってしまっている。


 私はエンチャントペンシルを見つめたまま、少し黙る。


 もしかして、このペンシル。刻印術より、すごいんじゃない?


 私は机の上に置いたエンチャントペンシルを手に取って、エルミナさんへ見せた。


「エルミナさん、これなんですけど」


「……その筆記具がどうかしましたか?」


「これで服に付与をしたことがあるんです」


 そう言って、以前自分のドレスや下着に《防汚》《消臭》《自己修復》の文字を書いたこと、その効果が今も続いていることを話す。


 説明している途中から、エルミナさんの顔が少しずつ変わっていった。


 最初は、ぽかんとしていた。


 でも次の瞬間には、こめかみを押さえていた。


「ありえません……」


 絞り出すような声だった。


「書いただけで付与ができるなんて。しかも、触媒や術式陣なしに効果が続いている?」


 目がだんだん遠くなっていく。


「はぁ……一体どうなってるんですか……?」


 もう半分独り言だった。


 こっちへ向けて言っているようでいて、たぶん本人の中で理論と現実が激しくぶつかっているのだと思う。魔法学院で学んだ刻印術の体系と、このペンシルのやっていることが、どうやってもきれいに重ならないのだろう。


 私は少しだけ肩をすくめる。


「これはルブランさんの雑貨店で買ったものです」


「雑貨店……?」


「はい。あと、これが入っていたのはカード型のアイテムボックスでした」


 そこまで言うと、エルミナさんの表情が少しだけ落ち着いた。


「ああ……」


 今度は納得の色が混じる。


「それは古代遺跡由来のものですね」


「やっぱりそうなんですか」


「ええ。魔法学院でも、たまに見かけました」


 エルミナさんは、ようやくこめかみから手を離した。


「授業で教わった理論なんかを飛び越えたような能力を発現するものが多かったです」


 少しだけ苦笑する。


「理解はできませんでしたけど」


 その言い方が妙に正直で、私は少しだけ安心する。


 わからないものを、わからないとちゃんと言ってくれる人のほうが信じられる。


「ですが」


 エルミナさんの視線が、今度はエンチャントペンシルへ戻る。


「それがあれば、ノア様が作りたい“能力を診る鏡”ができそうですね」


「ですよね」


 これがあれば大掛かりな工程はいらない。それに試すなら小さいものがいい。


 大きな鏡でいきなりやって暴発したら嫌だし、まずは実験だ。


 私はさっそくストレージユニットの中から手鏡を取り出す。


 自分の部屋の、卓の端に置かれていた手鏡だった。


 丸くて、持ち手のついた、普通の鏡。


 私はそれを持ち上げて、光の加減を変えながら表面を見る。


 さて、なんて書こうか。


 “能力を見る”だけなら単語は浮かぶ。でも、短すぎると意味がぼやける気がした。


 だったら、熟語でしっかり意味を持たせたほうがいい。


 候補を頭の中で並べる。


 鑑定。


 分析。


 看破。


 照覧。


 ……うん。


 まずはこれくらいでいいかもしれない。


「能力鑑定……才能分析……」


 私は小さく呟きながら、エンチャントペンシルを鏡の表面へ当てた。


 すう、と文字を書いていく。漢字だけは不思議と手が迷わない。


 能力鑑定。


 才能分析。


 書き終えた文字が、淡く光った。


 そして、鏡の表面へそのまま沈むように定着していく。


「ノア様は不思議な文字を書きますね」


 エルミナさんが横からそう言った。


 そうだろうな、と思う。この世界だと、漢字はたぶん謎文字だ。


 意味を知らなければ、ただの複雑な記号にしか見えないはずだ。


「さて、何が出るかな」


 私は鏡を自分へ向ける。少しだけ胸が鳴る。


 失敗するかもしれない。でも、成功したらかなり大きい。


 鏡が、一瞬だけ光った。


 ほんの短い、でもはっきりした反応。そして次の瞬間、鏡の中に文字が浮かび上がった。


「おお……」


 最初に出たのは、基本情報だった。


 名前。


 身分。


 身長。


 体重。


 そこまではいい。まだわかる。でも、その次に出たものを見て、私は少しだけ固まった。


 バスト。


 ウエスト。


 ヒップ。


「……そこまで数値化されるの」


 思わず口に出る。


 いや、いらないでしょ、その情報。少なくとも能力を見るための鏡にそれは要らない。


 出す項目はちゃんと考えないと駄目だ。そういうところまで律儀に拾わなくていいのに。


 そして、その下。


 本命の能力欄が現れた。


 ……でも。


「……多い」


 私は思わず眉を寄せる。能力の欄が、異常に多かった。しかも評価までついている。


 AからEまで。さらにプラスとマイナスもある。Aの上はSで表示されていた。


 たぶん、可能性ゼロ以外を全部出しているのだろう。


 だから種類が多い。


 多すぎる。


 そりゃ、私の適性が複数あるのは自覚していたけれど、こうして一覧で出されるとちょっと圧がある。


「SSとかSSSとかはないのかな……」


 鏡を見ながら、ついそんなことを考える。


「もしかしてSの上はUとか?」


 なんだかガチャのレア度みたいだ。


 後ろからエルミナさんも覗き込んでくる。


 でも、文字でびっしり埋まった鏡面を見た途端、すごく冷静な顔になった。


「……予想はしていましたが」


 一拍おいて、ぴしゃりと言う。


「これは“良すぎる失敗例”ですね」


「失敗なんですか」


「ええ」


 言われてみればそうだった。情報量が多すぎる。


 先生用ならともかく、生徒用としては論外だ。これでは見せられても混乱するだけだし、鏡そのものへの負荷も大きそうだった。


 そう思った瞬間。


 ぱき、と小さな音がした。


「……あれ」


 手の中の鏡の表示が、すっと消える。


 次の瞬間、鏡面に細い亀裂が走った。


 一本、二本、三本。


 ひびが蜘蛛の巣みたいに広がっていく。


「え、なんで……」


 最後まで言い切る前に、鏡は割れた。


 ぱりん、と軽い音を立てて、手鏡はそのまま粉々に砕ける。


 私は反射的に手を引いた。


 細かな破片が、机の上へきらきらと散る。


「これは……」


 エルミナさんは、驚くより先に説明の口調になっていた。


「付与した能力に対して、媒体や触媒の強度が足りないと起こる現象です」


 砕けた鏡の欠片を見ながら、落ち着いて続ける。


「魔導具作成で、頻繁に起きる事例ですね」


「やっぱり強度の問題か……」


 私は砕けた鏡を見つめる。


 予想はしていた。していたけれど、実際に割れると少しだけ悔しい。


 でも、逆に言えば原因ははっきりしている。


 人の能力を見るためには、もっと強い媒体が必要だ。


 この程度の鏡では支えきれない。


 そうなると――


 頭の中で、候補が二つ浮かぶ。


 魔晶石。あるいは、イリディオンの鱗。


 私は散った鏡の欠片の向こうに、自分の次の実験の形をもう少しだけはっきり見ていた。


 魔晶石。塩湖で見たものは、最大でも大人の膝くらいの長さだった。


 あれでも十分に大きい。むしろ最初に見たときは、あんなものが自然に生えていること自体がおかしかった。でも、鏡の媒体として考えると、あのくらいでは少し心許ない気もする。


 湖の底なら、もっと大きいものがあるだろう。


 けれど、おそらくそこには主がいる。


 シェイドが「手を出さないほうが賢明だ」とまで言った相手だ。迂闊に近づいて、資源どころかこっちが資源になるような真似はしたくない。


 そうなると――


 やっぱり、イリディオンの鱗か。


 私は鍛錬場の隅へ視線を向けた。イリディオンは、そこで丸くなっていた。


 身体はあんなに大きいのに、寝るときの格好は妙に猫っぽい。翼をたたんで、尾を身体のそばへ寄せて、頭を前脚のほうへ沈めている。月虹の珠竜というより、巨大な日向ぼっこ好きの獣みたいだった。


 もちろん、その体を覆う鱗は見事だ。


 光を受けるたびに細かな虹色を返す、滑らかで硬そうな鱗。


 でも見た限りでは、鏡になりそうなほど大きなものは見当たらなかった。


 なら、小さい鱗を姿見の台に一枚ずつ貼り付けるか。


 でも、たぶんうまく張り合わせたとしても、見た目は割れた鏡にしかならない。機能はするかもしれないけれど、学院で使うものとしては、ちょっと不安を煽りすぎる気がする。


 私がそんなことを考えていると、イリディオンがゆっくり目を覚ました。


 大きな頭が持ち上がり、顎を空へ向けて、のびをするように大きな欠伸をする。


 そのときだった。


「っ、眩しい」


 私は思わず目を細めた。


 イリディオンの胸元に、太陽の光が反射したのだ。


 ただの反射じゃない。


 そこだけが、ほかの鱗と違う光り方をしていた。


 私は思わず一歩近づく。


 よく見ると、イリディオンの胸には大きな一枚の鱗がついていた。


 それは、他の鱗とは明らかに違っていた。


 一枚だけ、巨大で、平滑で、楕円形をしている。まるで鏡板そのものみたいな外観だった。表面はほとんど完全な鏡面で、太陽の光を受けて淡い虹色の光彩を放っている。


 大きさも異常だった。人の背丈を超えている。


 百八十センチ……いや、二百はあるかもしれない。


 普通に、鏡として使える大きさだ。


 あれを使えれば、そのまま鏡が作れる。


 いや、むしろ“もう鏡”だ。


 でも。


 前に本人に怒られたんだよね。


 鱗が欲しいと口にしただけで、だいぶ本気で警戒された。あの大きな鱗も欲しいって言ったら、さすがに怒るかな。怒るよね。普通に考えたら胸板くださいって言ってるようなものだし。


「ノアよ。授業は終わったのか」


 イリディオンが、まだ少し眠たげな声で言う。


「ううん、まだ続いてる」


 私は視線を胸元の大きな鱗へ引かれたまま答えた。


「今、ノアさんと実験をしていたところです」


 エルミナさんが、横からきちんと補足してくれる。


 私はその流れのまま、イリディオンに『能力を診る鏡』の話をした。


 能力鑑定。


 才能分析。


 それを手鏡に書いてみたこと。


 一回見ただけで砕けたこと。


 情報が多すぎたこと。


 そして、もっと強い媒体が必要だということ。


 イリディオンは途中で口を挟まずに聞いていた。


 最後まで聞き終えると、低く喉を鳴らす。


「それは道理であろう」


 あっさりした声音だった。


「我の目と似たことを、人間が作ったもので診ようとしたのだ」


 その言い方は少しだけ誇らしげで、でもたしかにその通りでもある。


「力が釣り合っていない。故に砕けたのだ」


「うーん……やっぱりそうか」


 私は頷く。


 わかってはいたけれど、イリディオンにそう言われると妙に納得感がある。


 そこで、イリディオンの目が少し細まった。


 何かを思いついた顔だった。


「おそらく我の鱗でも、回数を重ねれば砕けるやもしれぬ」


「えっ」


 私は一瞬、そっちへ食いつく。


 鱗、使っていいんだ。


 いや、まだいいとは言ってないけど、少なくとも“鱗を媒体にする”話自体は前提に乗ってきている。


「だが、燃料になるものを付ければ長く使えるであろうな」


「燃料?」


「例えば、ノアが塩の湖で見つけた魔晶石などだ」


 私は思わずエルミナさんと顔を見合わせた。


 なるほど。


 イリディオンの鱗を媒体にして、魔晶石を触媒として使う。


 使うたびに魔晶石から力を補充する構造にすれば、鏡自体へ直接かかる負荷を減らせるかもしれない。


「それなら、砕ける恐れはありませんね」


 エルミナさんも、すぐにその考えへ乗った。


 さっきまでの授業の内容と、今の話が頭の中で繋がったのだろう。媒体と触媒。刻印と定着。その全部が、急に現実味を帯びてくる。


 私はもう一度、イリディオンの胸の大きな鱗を見た。


 まるで最初からそこに答えが貼ってあったみたいに、あの鱗が輝いて見える。


「ちなみに、なんですけど」


 私は慎重に聞いた。


「イリディオン。その胸についてる大きな鱗って、何ですか」


「む、これか」


 イリディオンは、自分の胸を少しだけ見下ろすようにした。


「古のエルフが、我についてあれこれ調べていたな」


 イリディオンは、自分の胸元にある巨大な鱗をわずかに揺らしながら、どこか懐かしそうに言った。


「その時に、身体のあちこちに名前を付けていた。変わったヤツだったがな」


 古のエルフ。


 なんだかその響きだけで、すごく知識欲を刺激される。絶対に研究者タイプだ。しかもかなり濃い。ドラゴンの身体の各部に名前を付けて回るなんて、たぶん普通の人ではない。


「そやつが、この鱗に『月虹鏡鱗』という名を付けていた」


「月虹鏡鱗……」


 私はその名前を、思わず口の中で繰り返した。


 なにそれ。かっこよすぎない?


 全部の音がちゃんと意味を持っていて、しかも並べたときに妙に綺麗だ。適当に格好つけた感じじゃなく、ほんとうに“そう呼ぶしかない”みたいな名前になっている。


「ちなみに」


 イリディオンは、さらにあっさり続けた。


「この鱗の奥には、我の魔力の中枢がある」


「……え?」


 私は一瞬、言葉の意味を頭の中で並べ直した。


 鱗の奥。


 魔力の中枢。


 つまり、かなり大事な場所では?


「それにも名を付けおってな。月虹炉心、というらしい」


「月虹炉心……」


 それもまた、やたら格好いい。


 格好いいけど、内容は全然笑えない。炉心って、どう考えても中心部とか心臓部とかそういう意味だ。


 私は思わず眉を寄せた。


「イリディオン、そんなに自分の弱点を話して大丈夫なの?」


 たとえ私たちがどうこうできなくても、そういう情報って普通は隠すものじゃないのかなと思う。


 でもイリディオンは、鼻を鳴らすようにして答えた。


「ノアやエルミナに話したところで、貴様らに倒される我ではないぞ」


 その言い方は、いかにもイリディオンらしかった。


 自信満々で、少しも迷いがない。


 でも実際、たしかにそうだと思う。


 今の私やエルミナさんじゃ、イリディオンに勝てる気はしない。勝てる気がしないどころか、本気で相手をする想像すら難しい。


「……それはそうですけど」


 私は少しだけ口を尖らせる。


 正論で返されると、逆に困る。


 でも、その圧倒的な強さの上に成り立っている余裕なんだと思うと、それもまた少し納得してしまう。


 私はもう一度、あの巨大な鏡面みたいな鱗を見る。


 月虹鏡鱗。


 その名を知ったら、なおさら“ただの大きな鱗”には見えなくなった。


 このまま能力を診る鏡にできたら、どれだけすごいものになるだろう。


 私は少しだけ言葉を選んでから、口を開いた。


「イリディオン。その大きな鱗を、能力を診る鏡にしたいんだけど……」


 言いながら、胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 さっきまでの会話で、完全に拒絶される感じではないとわかってはいる。


 でも、それでもやっぱり“胸の大事な鱗を使わせて”と言っているのだ。断られてもおかしくない。


 イリディオンは私たちのほうを見た。


 その蒼の瞳は、思っていたより静かだった。


 たぶん、さっきまでの実験の話や、砕けた手鏡のことを聞いた時点で、なんとなく察していたのだろう。


「やはりそうか」


 短く、でも納得したように言う。


 そして次の瞬間、イリディオンはすっと立ち上がった。


 白銀の鱗がいっせいに月光みたいな光を返し、鍛錬場の空気がわずかに揺れる。


「ならば、我の住処まで来るがよい」


「住処?」


 私は思わず聞き返した。


 以前、イリディオンが桜環神社に初めて来た時に決めた場所。


 神社の領域のどこかにある、彼のための空間。


 イリディオンは答える代わりに、私たちへ背を向けた。


 そして、大きな身体を少しだけ低くする。


「さあ、我に乗れ」


 その言葉に、私とエルミナさんは同時に目を瞬いた。


「落とされぬように、しっかり掴まるのだぞ」


 ドラゴンに乗る。その言葉の意味が、少し遅れてじわじわ実感になる。


 ……え、乗るの?ほんとに?


 いや、イリディオンがそう言ってるんだから乗るんだけど。


 でもドラゴンの背に乗るなんて、人生初の経験だ。


 前世でも当然ないし、今世でももちろん初めてだ。


 胸の奥が、緊張と興奮で変な鳴り方をする。


「の、乗るんですか……」


 隣でエルミナさんが、私の気持ちをそのまま代弁した。


 声がちょっと上ずっている。


 でも、ここまで来て“やっぱりやめます”とは言えない空気だった。


「大丈夫です、たぶん」


「その“たぶん”が怖いんですけど!?」


 もっともだった。


 でも私だって、たぶんとしか言えない。


 イリディオンの背は思っていたより広く、しっかりしていた。鱗のあいだに手をかける場所もある。けれど高い。普通の馬とは比べものにならないくらい高い。


 私は深呼吸して、イリディオンの前脚のあたりから身体をよじ登る。


 鱗は硬いのに、冷たすぎない。陽を浴びた石のような感触だった。なんとか背の上へ出ると、思った以上に見晴らしが高い。


「うわ……」


 思わず声が漏れる。


 鍛錬場がいつもより小さく見える。


 桜環神社の木々の高さが、ここからだと少し違って感じる。


 一方エルミナさんは、だいぶ苦戦していた。


「ひっ……た、高い……」


「エルミナ先生、こっちです」


 私は手を伸ばし、なんとか引っ張り上げる。


「す、すみません……!」


 背に乗った時点で、エルミナさんの顔はもうだいぶ強張っていた。精霊と契約した召喚士でも、ドラゴン騎乗には別の勇気がいるらしい。


 イリディオンの背は広いけれど、それでも振り落とされたくはない。


 私たちは言われた通り、しっかりと鱗の隙間や体の出っ張りに掴まった。


「行くぞ」


 その低い声が響いた瞬間。


 イリディオンの翼が、大きく広がった。


 白銀の膜が陽の光を薄く返す。次の瞬間、その翼が一度、強く羽ばたいた。


 どっ、と風が起きる。


 私は反射的に身体を低くした。髪がばさっと後ろへ流され、服の裾が揺れる。鍛錬場の砂が舞い、木々の葉までざわめいた。


 そして少しずつ、身体が浮く。最初は本当に少しだけだった。


 地面から離れたのかどうか、自信が持てないくらいの高さ。でも次の羽ばたきで、その曖昧さは一気に消えた。鍛錬場が下がる。石畳が遠ざかる。宿の屋根が、視線の下に入る。


「本当に浮いてる……」


 思わず声が漏れた。


 私たちが跨る下には、確かにイリディオンの身体がある。しっかり掴まっている感触もある。なのに、自分がいる位置だけがどんどん高くなっていく。


「しっかり掴まっておれ」


 イリディオンの声が届いた直後。


 私たちは空を飛んだ。


 視界が、一気に開く。


 桜環神社の木々が下へ流れ、石畳が線みたいに細くなり、昼の空気が真正面から身体へぶつかってくる。


 鳥になった気分って、たぶんこういうことを言うんだろうな。


 落ちる不安より先に、目の前に空が広がる感じがあった。


 けれど、感動ばかりしてもいられなかった。


 飛んでいると、風がそのまま身体へ叩きつけられる。髪が顔に貼りつくし、目を開けているのも少しつらい。息を吸おうとすると、空気が口の中へ強く流れ込んできて、うまく呼吸ができない。


「っ……」


 私は体を低くしてイリディオンの身体にしがみつく。


 後ろではエルミナさんも、同じように身体を縮めていた。


「シルフ、風から守って!」


 エルミナさんが、ほとんど叫ぶみたいに呼びかける。


 風の精霊はすぐに応えた。


 薄緑の光がふわりと広がり、私とエルミナさんを包むように丸い結界が張られる。次の瞬間、身体へ直接叩きつけていた風がやわらいだ。


「あ……」


 呼吸が、一気に楽になる。


 髪も必要以上に暴れなくなり、目も開けていられる。


「ありがとうございます」


 シルフは結界の外をくるりと回って、少し得意そうだった。


 向かう先は、火の祠がある山のほうだった。


 その山の輪郭ははっきりとわかる。以前、祠へ向かったときは馬車で中腹まで来たけれど、上から見るとまた全然違う。山の稜線が大きく、どこか静かに呼吸しているみたいだった。


 やがてイリディオンが高度を少しずつ落とす。


 視界の先に、森と湖のある場所が見えてきた。


 私は思わず目を凝らす。


 その水辺は不思議とやわらかく見えた。木々に囲まれた静かな湖。どこか、ミスト村の湖に似ている。


 懐かしい、というほど昔ではないのに、胸の奥で何かがそっと揺れる。


 イリディオンがそこへ降り立つ。


 羽ばたきの最後の風が木々を揺らし、私たちは静かな地面へ戻った。


「着いたぞ」


 降りた場所のすぐ近くには、洞穴があった。


 岩肌に口を開けた、イリディオンの身体に十分見合う大きさの洞穴だ。たぶん、ここが住処なのだろう。


 私は背中から降りながら、少しだけきょろきょろと見回した。


 水の気配。


 木の匂い。


 昼の静けさ。


 塩湖とはまるで違う。こちらはちゃんと、生き物が息をしている場所の空気だった。


 そして、洞穴の中を見た瞬間。


「……わ」


 思わず声が漏れた。


 そこには、イリディオンの身体から剥がれ落ちた鱗が溜まっていた。


 一枚や二枚じゃない。


 洞穴の端に、鱗が埃みたいに積もっている。


 普通の生き物なら抜け毛とか落ちた羽とか、そういう感覚なのかもしれない。でも、相手はイリディオンだ。抜け落ちる“鱗”ひとつひとつが、十分すぎるくらい綺麗で、素材として価値がありそうに見える。


「ここにある鱗は持っていって構わん」


 イリディオンが当然みたいに言った。


「好きに使うといい」


 その言葉に、私は洞穴の奥をもう一度見る。


 そして、その中に一枚だけ、明らかに特別なものがあることに気づいた。


 立てかけるように置かれている、大きな鱗。


 鏡みたいに平滑で、虹色の光を返す一枚。


 月虹鏡鱗だ。


 胸に付いていたものと同じ、綺麗に剥がれた一枚が、そこにあった。


「本当に使っていいの?」


 私は思わず聞き返した。


 普通の鱗ならともかく、これだけは別格に見える。


 でもイリディオンは、あっさりと言う。


「我が持っていても溜まるだけだからな」


 そして少しだけ肩をすくめるみたいに、翼を揺らした。


「貴様らが持っていたほうが、価値があるのだろう」


 その言い方に、私は少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。


 素材としての価値を理解しているのに、それを自分の執着ではなく、使う側へ渡せるのがイリディオンらしい。


「これだけあれば、いろいろ実験できそうですね」


 エルミナさんはすでに、足元の鱗を一枚手に取っていた。


 研究者の顔になっている。


 角度を変えて見たり、厚みを指で確かめたり、表面の滑らかさを光にかざしたり。その姿を見ると、もう頭の中で何通りもの加工法を組み立てているのがわかる気がした。


「イリディオン、ありがとうございます。全部いただきますね」


 私はそう言って、ストレージユニットを取り出した。


 鱗をひとつずつ収納していく。


 大きな鏡鱗も。


 洞穴の隅に溜まっていた細かなものも。


 気づけば、あれだけ散らばっていた鱗がすっかりなくなって、洞穴の中が妙にすっきりしていた。


 まるで掃除したみたいだ。


「ふむ」


 イリディオンがその様子を見て、満足そうに喉を鳴らす。


「たまにノアがここに来て、我の寝床を掃除してくれると助かる」


「掃除?」


「鱗が溜まると、時々身体に刺さるのでな」


 私は思わず、洞穴の中を見回した。


 イリディオンの寝床。


 そこに抜け落ちた鱗が溜まり、それが身体に刺さるから、掃除してくれると助かる。


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中に浮かんだのは、なぜか完全に“ペットの寝床の掃除”だった。


 体裁は居候。


 でも実態は、けっこうペット寄りなのでは?


 いや、もちろん相手は月虹の珠竜で、普通のペットとは比較にならないし、敬意はちゃんとある。あるんだけど。


 それでも、巨大なドラゴンに「寝床を掃除してくれると助かる」と言われると、急に生活感が出る。


 私は思わず笑いそうになりながら、でもなんとか堪えた。


 イリディオンは、そんな私の顔を見て少しだけ目を細めていた。



 桜環神社の境内に戻ると、私は休む間もなく実験用の鏡の製作に取りかかった。


 さすがに今日はいろいろありすぎた気もする。


 授業を受けて、手鏡を割って、イリディオンの住処まで飛んで、鱗をもらってきて――普通なら一日の出来事としてはもう十分すぎる。でも、ここまで来ると逆に勢いを止めたくなかった。


 今なら、形にできる気がする。


 そう思ってしまったのだ。


 ドライアドに頼んで材料を作ってもらう。


 木の板と、接着剤みたいな液体。


「はいこれぇ。木は軽くて扱いやすいの選んどいたよぉ」


 相変わらず気の抜けた喋り方なのに、仕事はちゃんとしている。


「ありがとう、ドライアド」


「どういたしましてぇ」


 そう言って、ふわふわと宙に浮いたまま近くの木にもたれかかる。やることをやったら、あとは見守る姿勢らしい。


 私は木の板を机の上へ置いた。


 そこへ、手のひらくらいの大きさのイリディオンの鱗をパズルのように並べていく。白銀の鏡面みたいな鱗は、角度を少し変えるだけで淡い虹色を返した。


 綺麗だ。


 ただ材料として優秀なだけじゃなく、見た目そのものに神秘がある。


 この鱗を一枚一枚、隙間ができすぎないように木の板へ貼りつけていく。接着液は透明で、乾くとほとんど目立たなくなった。


 大きさは、さっき壊れた手鏡と同じくらい。


 握れるけれど、少ししっかりした大きさ。


 それを二枚作る。


 ひとつは先生用。


 もうひとつは生徒用。


 同じ鏡に見えて、映すものは違う。


 そこを最初から分けておきたかった。


 作業をしながら、私は頭の中で“出したい情報”を整理していた。


 基本情報はそのままでいい。


 名前、身分、身長、体重――いや、バストやウエストやヒップは削る。あれは本当にいらない。鏡が律儀すぎた。


 でも、体力と魔力のような“基礎の力”は見たい。


 そして能力欄は絞る。


 全部を出すと多すぎる。少なくともC以上にして、本人にも意味があるものだけが出るようにしたい。


 それだけじゃない。


 単に“今ある能力”を診るだけじゃなく、その先の育ち方まで少し示す言葉が欲しい。


 この子はどこへ伸びていきそうか。


 何を学ぶと開くのか。


 そういう“将来の指針”みたいなものが見えたら、先生にも生徒にもずっと役に立つ。


 あと、先生が見る鏡と、生徒が見る鏡。


 その二つを、きちんと意味の違うものとして作る。


 先生が見る鏡は、生徒の能力を把握するためのもの。


 生徒が見る鏡は、自分の傾向と、育っていく方向を知るためのもの。


 同じ“真実”でも、見せ方は違っていい。むしろ違うべきだ。


 私は二枚並んだ鏡を見比べてから、エンチャントペンシルを手に取った。


 まずは先生用の手鏡から。


 文字は、できるだけ意味が明確で、重なりすぎないものがいい。


 私は鏡面へ、ゆっくりと書いていく。


 資性照覧。


 資質と性質を照らし見る。


 才質看破。


 才能の質を見抜く。


 本質開顕。


 表面じゃなく、その奥の本質を開いて顕す。


 体躯測覧。


 身体の状態と基礎値を見る。


 魔力測覧。


 魔力の量や質を測る。


 文字を書き終えるたび、淡い光が鏡面へ沈み込んでいく。


 定着している。


 この感覚は、何度見ても不思議だ。


「……これで、能力・本質・身体・魔力を総合診断する鏡になるはず」


 私は小さく呟いた。


 次に、生徒用の鏡へ向き直る。


 こちらはもう少しやわらかい意味を持たせたい。


 突きつけるのではなく、示す鏡。


 私はまた、ひとつずつ文字を書いていく。


 天資啓示。


 持って生まれた資質をひらく。


 適性導示。


 向いている方向を導き示す。


 将来託宣。


 未来を断定するのではなく、進みうる道を託して示す。


 体躯測覧。


 これは生徒にも必要だ。


 自分の身体を知ることは、力を知ることでもある。


 魔力測覧。


 魔力の基礎も、きちんと知っておいてほしい。


 これで。


 才能の上位三項目と、将来の方向。


 さらに身体測定や、基本的な魔力測定まで見られるはずだ。


 最後の文字が定着したとき、二枚の鏡面がほとんど同時にかすかな光を放った。


 まるで、役目の違う二つの目が、静かに開いたみたいだった。


 私はその光を見ながら、少しだけ満足する。


 四字熟語だと、造語でもかっこよく見えちゃうから不思議だよね。


 いや、かっこいいだけじゃなくて、ちゃんと意味を考えてはいるんだけど。


 でも、漢字を四つ並べると、それだけで急に“古代の秘術”っぽさが出る。


 この世界の人から見たら、たぶん余計にそう見えるはずだ。


 私は二枚の鏡を前にして、そっと息をついた。


 さて。


 今度は、ちゃんと割れずに映ってくれるだろうか。


 私を鏡に映したときは、能力の欄がとにかく多かった。


 数値も高かったし、表示される項目も多すぎて、あの小さな手鏡では到底支えきれなかった。しかも今回は、能力鑑定と才能分析だけじゃない。もっと刻印の数が多い。体躯測覧も、魔力測覧も、本質開顕も入っている。


 そうなると、当然もっと深くまで見るはずだ。


 このまま触媒なしで使えば、たぶんまた砕ける。


 いや、たぶんじゃない。かなりの確率で砕ける。


「エルミナさん、魔晶石をお願いします」


「はい。わかりました」


 エルミナさんはすぐに鞄を開き、中から魔晶石を取り出した。


 塩湖で採ってきたもの、小ぶりな魔晶石だ。透明感のある結晶が、掌の上で静かに光を返している。


「ドライアド、ちょっと手伝って」


「え~、またぁ」


 木の下でのんびりしていたドライアドが、いかにも面倒そうな声を出しながらふわふわと近寄ってきた。


「今度はな~に」


「魔晶石を持って、鏡に触れてほしいの」


 私の頭の中には、前世のスマホと充電ケーブルのイメージがあった。


 鏡が本体。


 魔晶石がバッテリー。


 ドライアドは……ケーブル役、かな。


 説明するとたぶん余計にややこしくなるので、そこまでは言わない。


「ふぅん」


 ドライアドは、あまり納得していなさそうな顔のまま、でもちゃんと魔晶石を受け取った。


「では、早速実験してみましょう」


 私は先生用の鏡を手に取り、エルミナさんへ差し出す。


「エルミナさん、こっちの先生用の鏡を使ってください」


「わ、わかりました」


 エルミナさんは少し緊張した様子で鏡を受け取った。


 その横で、ドライアドが魔晶石を持ったまま、鏡の木枠の端へぺたりと触れる。


 私は思わず息をひそめた。割れませんように。ちゃんと動きますように。


 そんなことを心の中で唱えた次の瞬間、鏡面が淡く光った。


「……!」


 前より安定している。


 光が一瞬で散らず、鏡の表面にやわらかく留まった。


 そこへ、文字が浮かび上がる。


 まずは名前。


 身分。


 身長、体重。


 そして身体と魔力の基礎項目。


 その下へ、能力欄が現れた。


「出てる……」


 私は思わず呟く。


 私ほどではない。


 でも、それでも細かく表示されている。召喚、補助、錬金術、刻印術――エルミナさんの中にあるものが、ちゃんと項目として浮かび上がっていた。


 身体や魔力の欄もしっかり出ている。


 そして。


 ……やっぱり胸が大きい。


 バスト93。


「そんなに大きかったんだ……」


 思わず、すごく小さな声で呟いてしまった。


「ノア様、いま何か言いましたか?」


「い、いえ、なんでも」


 危ない。


 鏡の情報量が多いと、見なくていいものまで目に入る。先生用の鏡は、その辺も後で調整したほうがいいかもしれない。


 けれど本当にすごいのは、そのあとだった。


 表示の最後に、新しい欄が現れたのだ。


 総合判定。


 鏡面に、はっきりと文字が並ぶ。


 私は思わず、声に出して読んでいた。


「総合判定……」


 総合適性

 教師:A

 召喚士:A

 補助術者:A-

 錬金術士:A-

 魔導刻印術士:B+


 総合所見

 前衛制圧型ではなく、支援・育成・精密技術・理論整理に秀でた後方中核型人材。

 単独の派手さより、環境を整え、他者を活かし、技術を形にすることで真価を発揮する。

 学院運営においては、教師・研究補佐・工房監修・召喚指導役として非常に価値が高い。


「……」


 私はしばらく、何も言えなかった。


 思った以上に、しっかり出た。


 能力の一覧だけじゃない。


 先生たちが知りたいであろう“どういう人材なのか”まで、所見として文章で出ている。


 それもかなり的確だ。


 前衛制圧型ではない、というところからもう納得しかないし、支援・育成・精密技術・理論整理という並びも、エルミナさんらしすぎる。


 派手さより、環境を整え、他者を活かし、技術を形にすることで真価を発揮する。


 ……うん。


 ほんとにその通りだ。


 私は鏡から目を離し、エルミナさんを見る。


 本人は、少し呆然としていた。


「わ、私……そんなふうに出るんですね」


 照れくさいような、でも少しだけうれしいような、複雑な顔だ。


 たぶん今まで、“教師として向いている”とか、“学院運営で価値が高い”とか、そんなふうに真正面から言われたことはなかったのだろう。


 でも鏡は、容赦なく、そして妙に正確に、それを言葉にしていた。


 私はふとドライアドを見る。


 魔晶石が、ほんの少しだけ小さくなった気がした。


 気のせいじゃない。


 最初に比べて、角が少し削れたみたいに見える。


「ちゃんと使ってる……」


 触媒として、魔晶石はきちんと機能したのだ。


 鏡そのものに負荷を集中させるのではなく、外から力を供給している。


 これなら。


 このやり方なら、いけるかもしれない。


 私は鏡をもう一度見た。


 イリディオンの鱗。


 魔晶石の触媒。


 エンチャントペンシルの刻印。


 そこから生まれた、先生用の診断鏡。


 まだ改善の余地はある。


 項目の整理も必要だし、表示の優先順位も考えたい。


 でも、少なくとも“できる”ことは証明された。


 そのことが、胸の奥をじんわり熱くした。


 能力を診る鏡。


 それはもう、ただの思いつきではなくなっていた。



 次は、生徒用の鏡だ。


 先生用がここまでうまくいったのなら、こっちも試したい。むしろ本命はこっちかもしれない。生徒が見て、自分の傾向を知って、将来の道筋のヒントをもらえる鏡。学院で日常的に使うなら、こちらのほうがずっと重要だ。


 そう思って鏡を持ち直した、そのときだった。


「あ、ノアちゃん。ここにいたのね」


 聞き慣れた声に振り向くと、ミュリルさんが境内へ入ってきていた。その少し後ろには、メイドのティナもいる。


「お嬢様、そろそろお戻りください。夕食の準備ができました」


 ティナが、いつもの落ち着いた声でそう告げる。


「もうそんな時間か……」


 私は思わず空を見る。


 神社の中は相変わらず春みたいに穏やかだけれど、時間だけはちゃんと流れていたらしい。実験していると、ほんとうにあっという間に時間が過ぎる。


 でも、その瞬間。


 私はティナを見て、ぴんと閃いた。


 ちょうどいい。


 先生用の鏡が、あれだけエルミナさんに合った結果を出したのなら、生徒用の鏡も他の人で試してみたい。しかもティナなら、日頃から私の近くにいて、性格も得意なこともなんとなくわかっている。


「ねえ、ティナ」


 私は生徒用の鏡を持ち上げた。


「こっちの鏡を見てくれる?」


「はい、かしこまりました」


 ティナは特に戸惑う様子もなく、するりと鏡を受け取った。


 こういうところ、本当に強い。


 普通なら“鏡を見て”と言われて、少しくらい不思議そうな顔をしそうなのに、ティナはまず受け取る。疑問があるとしても、やることをやってから聞く人なのだ。


 ドライアドが、まだ少し面倒そうな顔のまま鏡の端へ触れる。


「はいはい、電池役ねぇ」


 その言い方がちょっと雑だったけれど、たぶん意味は合っている。


 ティナが鏡に自分を映す。


 次の瞬間、鏡が淡く光った。


「きゃっ」


 ティナが、小さく肩を揺らす。


 でも鏡を落としはしなかった。


 光が収まると、鏡の中に文字が浮かび上がる。


「これはいったい……」


「成功ね」


 私は思わず声を弾ませた。


 鏡面に現れた内容を、すぐに読み取る。


 ――天資啓示。


 上位適性。


 一、金銭管理 A

 二、作法・応対 A-

 三、記憶力 A-


 補助適性。


 算術 A-

 地域把握 A(クレディア限定)

 槍術 B+

 水属性 B


「おお……」


 思わず、ちょっと感心した声が出る。


 すごく、ティナっぽい。


 金銭管理、作法、応対、記憶力。


 どれも納得しかない。ティナはいつも落ち着いていて、言葉遣いも綺麗で、私の持ち物や予定もよく覚えている。数字にも強いのかもしれない。地域把握がクレディア限定で高いというのも、なんだか妙に生々しくておもしろい。


 さらにその下。


 ――適性導示。


 数を誤らず、人を滞らせず、場を整える力に優れる

 支えることで大きく価値を生む者


 そして、将来託宣。


 ――汝、帳と時を正し、人と町の流れを整える者なり


「帳と時……」


 ティナが、ぽつりと呟く。


 その声には戸惑いがあった。


 でも同時に、何か心当たりのある言葉に触れたときの、小さな揺れもあった気がする。


 身体と魔力の項目もちゃんと出ている。


 こっちも問題なさそうだ。


 先生用に比べて情報量は絞られているのに、必要な方向性は十分伝わる。これなら『見せすぎないけど、役に立つ』くらいにはなっているかもしれない。


 私がそんなふうに考えている横から、ミュリルさんが鏡を覗き込んだ。


「前にノアちゃんが言ってた能力を診る鏡か。もう試作品ができたのね。さて、何が映ってるのかしら」


 最初はただ興味本位だったと思う。


 でも文字を追ううちに、その顔つきが変わった。


 驚いた顔になって、そのあとすぐ、商人の顔になる。


 あ、これはまずい。


 私がそう思った瞬間には、もう遅かった。


 ミュリルさんはティナの肩にぽんと手を置いた。


「ティナちゃん」


 声がやけに優しい。


「あなた、商業ギルドにいらっしゃい」


「へ?」


 ティナが、本当に“へ?”という顔をした。


 さすがのティナでも、これは予想外だったらしい。


 私はすぐに止めに入る。


「ちょっと、ミュリルさん」


 鏡を抱えたまま、一歩前へ出る。


「いきなりティナを引き抜こうとしないでください」


「だって、見たでしょ今の能力」


 ミュリルさんはまったく引く気がない。


「ここにおいとくにはもったいない人材よ」


「いや、ここって領主館ですよ?」


 おいておくとかそういう言い方、ちょっと違うと思う。


 でもミュリルさんの目は本気だった。金脈を見つけた商人みたいな顔をしている。いや実際、本人にとってはそうなんだろうけど。


「ティナちゃん」


 ミュリルさんはさらに畳みかける。


「給金はここの倍は出すわよ。うちに来ない?」


「ええっ!」


 今度は、ちゃんと声に出して驚いたのはティナだった。


 その反応に、私は思わずティナをかばうように前へ半歩ずれる。


 なんというか、ものすごく良い人材を見つけた瞬間のミュリルさん、行動が早すぎる。


 でも同時に、鏡が出した結果にそれだけの説得力があるということでもあった。


 ティナは、支えることで価値を生む者。


 帳と時を正し、人と町の流れを整える者。


 その言葉が、ミュリルさんの中ではもう“商業ギルド向きの逸材”として完成してしまったらしい。


 私は鏡を見て、ティナを見て、ミュリルさんを見た。


 生徒用の鏡。


 思っていた以上に、いろいろな意味で力が強い。



 商業ギルドに引き抜かれそうになるティナを半分かばうみたいに前へ出ながら、私はふと別のことに気づいた。


「ところで、何でミュリルさんがここにいるんですか」


 そう聞くと、ミュリルさんはまったく悪びれずに胸を張る。


「もちろん、学院の進捗報告を兼ねた夕食に参加するためよ」


 その言い方は堂々としていた。


 でも私には見える。


 我が家の夕食をタダで食べるためという魂胆が、すごく見える。


 まあ、いつものことか。


 そう思っていたら、ミュリルさんが「あっ」と何かを思い出した顔をした。


「そうそう。グランツから伝言を頼まれてたんだった」


 嫌な予感ではなく、妙に引っかかる響きだった。


「『例の物が完成した。さっさと取りに来い』だそうよ」


「例の物?」


 一瞬、本当にわからなかった。


 でも次の瞬間、頭の中で透明なガラスと、青い炎がぱちんと繋がる。


「あっ!」


 そうだ。


 ガラスペンの製作を頼んでいたんだった。


 完全に忘れてた。


 能力診断鏡だのティナの適性だのに気を取られて、頭の中の棚からすっぽり抜け落ちていた。


「ティナ」


 私は慌てて振り向く。


「私、グランツさんの工房に行ってくる。戻ったら夕食にするから」


「かしこまりました、お嬢様」


 ティナはまだ半分“商業ギルドにいらっしゃい”の衝撃が抜けていない顔をしていたけれど、返事はいつも通りきちんとしていた。


 私は生徒用の鏡をエルミナさんへ預ける。


「これ、ちょっと見ておいてください」


「は、はい。お預かりします」


 それだけ確認すると、私はそのまま駆け出した。




 ──「おう、やっと来たな。忘れたのかと思ったぞ」


 工房へ着くなり、グランツさんがにやりとしながら言った。


 図星だった。


 でもここで素直に認めるのはちょっと悔しい。


「そ、そんなことないです……」


 できるだけ平静を装って答える。


 たぶんあんまり装えていない。


 グランツさんは面白そうに鼻を鳴らしたあと、工房の奥へ声を飛ばした。


「おーい、ルクレア。嬢ちゃんが来たぞ」


 少しして、奥のガラス工房からルクレアさんが出てくる。


 手には、筆箱くらいの大きさの木の箱を持っていた。


 それだけで、私の胸の奥が少し高鳴る。


「ノアちゃん、完成したよ」


 ルクレアさんはそう言って、木箱を私へ差し出した。


「開けて確認してちょうだい」


 私は、箱を受け取る手つきまで少し慎重になる。


 重さは思ったより軽い。


 でも中に入っているもののことを思うと、妙に大事なものを持っている感じがした。


 そっと蓋を開ける。


 中には、上品な朱い布が敷かれていた。


 その中央に置かれているのは、ガラスペン。


「……わ」


 思わず、声がこぼれる。


 そこにあったのは、私がイメージしていた形そのものだった。


 持ち手には、緩やかな溝。


 雫型の軸が、手の中でやわらかく収まりそうな太さと長さをしている。その表面の溝は均一すぎず、不規則にほんの少し捻じれていて、光が当たるたびに流れるような陰影を作っていた。


 色は、薄い紫。


 濃すぎない、でもただ透明なだけではない色。


 派手ではないのに、ちゃんと目を引く。見る人が見れば上等だとわかるような、静かな色だった。


 先端のガラスは透明。


 そこに細かな縦の溝が入っている。


 インクを吸って、きちんと乗せるための形。試作で見たときより、ずっと洗練されて見えた。


 シンプルだ。


 でも、だからこそきれいだった。


 これを机の上に置いて、お父様が書類へ目を通しながら手に取る姿を想像すると、不思議なくらい“合っている”気がした。


「私が想像してた通りです」


 自然と、そう言葉が出た。


「ありがとうございます、ルクレアさん」


 ルクレアさんは、少しだけ肩の力を抜くように笑う。


「気に入ってもらえてよかったよ」


 その言い方に、職人らしい安堵が混じっていた。


 私はもう一度ガラスペンを見る。


 世界で初めての一本。


 少なくとも、この町ではまだ誰も使っていないはずの形。


 それが、ちゃんと“贈り物”として完成している。


「そうだ」


 私は木箱を閉じながら言った。


「代金をお支払いしますね」


 でも、それに対してルクレアさんはすぐに首を振った。


「いや、いいよ」


「え?」


「ノアちゃんに教えてもらったガラスペン。これは売れるだろうね」


 その言葉に、私は少しだけ目を瞬く。


 売れる。


 たしかに、そうかもしれない。


 実用品としても、贈り物としても映える。しかも透明なガラスは見た目が綺麗だし、色や形を変えればいくらでも展開ができそうだ。


「そうだな」


 グランツさんも腕を組んだまま頷く。


「加工も花瓶を作るよりは簡単だろうし、見た目もいい」


 そこでガラスペンをもう一度見て、続けた。


「同じ意匠をたくさん作るのもいいし、一点ものを作るのも悪くない」


 完全に乗り気だ。


 職人としての目と、商売人としての目の両方で見ているのがわかる。


 ルクレアさんも、口元に少しだけ笑みを浮かべる。


「色を変えたり、中に模様を入れたり、もっと細くしたり太くしたりもできる」


「宝石を入れる案もありましたしね」


 私がそう言うと、ルクレアさんは「そうそう」と面白そうに頷いた。


 気づけば、お父様の誕生日プレゼントの話から始まったはずなのに、新しい商品の話にまで広がっていた。


 でも、それがなんだかすごく自然だった。


 前世の知識が、この世界の工房で形になって、しかもちゃんと『売れるもの』として誰かの頭の中で回り始める。


 それは少し不思議で、でもどこか気持ちがよかった。


 私は木箱を抱え直す。


 まずはこれをお父様に贈る。


 そのあとで、このペンが町のどこかで売られる日が来るのかもしれない。


 そう思うと、木箱の中身がますます大事なものに思えた。



 ――すっかり遅くなってしまった。


 屋敷へ戻るころには、廊下の灯りもずいぶん落ち着いた色になっていた。窓の外はもう完全に夜で、私の足音だけが少し急いているみたいに響く。


 食堂の前まで来ると、私は一度だけ息を整えてから扉をノックした。


「ただいま戻りました」


 返事を待って扉を開ける。


 すると、テーブルの上にはすでに紅茶のティーカップが置かれていた。


 ……あ。


 もうみんな、食後なんだ。


 食事の香りはまだ残っているけれど、空気はもう“食べる時間”を過ぎたあとのものになっていた。少し緩んでいて、それでいて話し合いの続きをするにはちょうどいい落ち着きがある。


 お母様が、すぐにこちらを見る。


「ノア。こんな遅くまでどこに行ってたの」


「グランツさんの工房です」


 私は抱えている木箱が見えないよう、少しだけ位置をずらしながら答えた。


「依頼した品を受け取りに行ってました」


 お母様の表情には、心配がそのまま浮かんでいた。


 でも受け取った物のことは、まだ話せない。お父様へのサプライズだからね。


「ノア」


 今度はお父様が口を開く。


「これからは夕食までには戻るようにしなさい」


「はい、お父様。以後気を付けます」


 素直に頭を下げる。


 今日に関しては、完全にこちらが悪い。工房に寄って、そのまま話が広がって、時間の感覚が薄れていた。楽しいときほど時間が飛ぶの、どうにかならないだろうか。


 私が席につくと、遅れて夕食が運ばれてきた。


 湯気の立つ皿を前にすると、ようやく空腹がちゃんと戻ってくる。今日は朝から稽古も授業も実験もして、そのうえ工房まで行っていたのだ。お腹が空いていないほうがおかしい。


 私が食べているあいだ、大人たちはそのまま話を続けていた。


 お母様と王妃様の赤ちゃんのこと。


 学院の準備のこと。


 どうやら学院の職員や先生の求人と生徒の募集を始めたらしい。


 その話を聞いていると、胸の中に少しずつ実感が湧いてくる。


 ああ、本当に人を集め始めたんだ。


 学院ができるではなく、始まるという感じだ。


 建物だけじゃなくて、そこへ入る人が必要になる。


 生徒、先生、事務、学院を支える人。そういう“中身”が揃い始めると、学院は急に現実のものになる。


 でも、そこはやっぱり簡単じゃないらしい。


「剣や武術、魔法の先生候補なら、冒険者ギルドにも声をかけているんだけどね」


 ミュリルさんがティーカップを持ったまま、少し困った顔をした。


「反応がいまいちなのよ」


「やはり依頼のほうが実入りが良いからでしょうか」


 王妃様が静かに問う。


「そういうこと。教えるより依頼をこなしたほうが、お金になるのよね」


 私は食べながら、なるほどと思う。


 確かに、ランクが高い冒険者ほど受けられる依頼の報酬は高い。


 学院で先生をするのは立派なことかもしれないけれど、生活を考えたら“今すぐ稼げるほう”を選ぶ人が多いのは当然だ。


 理想と現実。


 学院の話になると、そういうものが何度も顔を出す。


 でも、それも含めて進めていかないといけないのだろう。


 ミュリルさんは次に、エルミナさんへ視線を向けた。


「エルミナちゃんの知り合いで、先生をやりたそうな子とかいない?」


「え、私ですか」


「そう。卒業生から引き入れられたらいいなって思ってるの」


 エルミナさんは少し考えるように目を伏せた。


 その沈黙が、ただ「わからない」ではないことはすぐにわかった。


「……心当たりは、あります」


「ほんと?」


「はい。何人か手紙を送ってみます」


 その返事に、私は少しだけ顔を上げる。


 お友達と一緒に先生か。


 それ、なんだかいいなと思った。


 エルミナさんがひとりで緊張しているより、少しでも気心の知れた相手がいたほうが、きっと職員室もにぎやかになるだろうし、本人も楽になるはずだ。


 職員室が、少しずつ人で埋まっていく光景を想像する。


 机が並んで、先生たちの声がして、お茶の匂いがして、誰かが授業や生徒のことを相談している。


 そういう日が、本当に来るのかもしれない。


 私が夕食を食べ終えたころ。


 ちょうどいいタイミングを見計らったみたいに、ミュリルさんが話題を変えた。


 しかもその方向が、予想通りというか、やっぱりというか。


「リカルド」


 お父様へ向かって、妙にまっすぐ言う。


「ティナちゃんを商業ギルドにほしいんだけど、いいかしら」


 私は思わず目を見開いた。


 この人、まだ諦めてなかったの?


 夕方のあれ、冗談交じりで流れたと思っていたのに、本気のまま持ってきたらしい。


 お父様の目が、静かに私へ向く。何かを察したのだろう。


「ノア。いったい何をしたんだ」


 私は少しだけ姿勢を正した。


 やっぱり、ここで説明する流れになるよね。


 私は能力を診る鏡について、順を追って話した。


 先生用と、生徒用の二種類があること。


 先生用は、生徒の現在の能力の把握と、人材としての適性を見るためのもの。


 生徒用は、得意分野を啓示して、成長の指針を示すためのもの。


 鏡を使うときには、魔晶石を燃料に使うこと。


 イリディオン、ドラゴンの鱗を媒体にしていること。


 話しているあいだ私は自分でも、だいぶとんでもない話をしている自覚はあった。


 でも必要だと思ったから作ったのも、本当だった。


 お父様は途中で何度か目を閉じ、それから最後に、片手で額を押さえた。


「はぁ……」


 深いため息。


「またとんでもないものを作ってくれたな」


「ごめんなさい」


 私は反射的に謝っていた。


 怒られる前の空気というか、やらかしたあとの反省というか、もうそういうものが身体に馴染みつつある気がして少し嫌だ。


 でもお父様は、すぐに首を振った。


「責めているわけではない」


 その声は思ったより穏やかだった。


「ノアが必要だと思ったから作ったのだろう」


「……はい」


 そう答えると、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 怒られてはいない。


 でも、やらかしていないわけでもない。


 どうやらまた、私の思いつきが思った以上の波紋を生んでしまったらしい。


「ノア」


 お父様が静かに言った。


「すまないが、席を外してもらえるか。大人だけで話し合いたい。それと、ティナは残ってくれ」


「はい、旦那様」


「はい。では失礼します」


 私は素直に立ち上がった。


 椅子を引いて、礼をして、食堂を出る。


 扉を閉めたあと、私は廊下で少しだけ立ち止まった。


 また騒動になってしまった。


 また、私の思いつきが大人たちの会議を増やしてしまった。


 でも。


 これは学院に必要だと思う。


 王妃様やエルミナさんは、そのことをきっと分かってくれるはずだ。


 たぶん。


 ……いや、分かってくれるといいな。


 そう思いながら、私は食堂の灯りが扉の隙間から漏れるのを、少しだけ見つめていた。



 ――屋敷のお風呂に浸かりながら、私はずっと“能力を診る鏡”に書く刻印のことを考えていた。


 お湯はあたたかい。


 肩まで沈めると、今日一日の疲れがじわじわとほどけていく。工房の熱気、鍛錬場での実験、食堂での話し合いの気配。そういうものが、湯の中で少しずつ遠くなっていく。


 それなのに、頭の中だけはまだ静かにならなかった。


 四字熟語だけで、あれだけの表示が出た。


 それはすごい。


 でも、もっと細かく設定したい。


 どこまで見せるか、何を省くか、誰に何を見せるか。そこをちゃんと詰めておかないと、また鏡が勝手に気を利かせて、バストだのヒップだのまで律儀に出してきそうだ。


 ……あれは本当に要らない。


 私はお湯の表面を指先で揺らしながら、考える。


 刻印って、文字数制限とかあるのかな。


 たぶん長く書きすぎたら、また媒体が砕けるかもしれない。


 でも短すぎると意味が曖昧になる。


 齟齬そごがなくて、でも意味がちゃんと通る方法。


 何かあったかな……


 頭の中の引き出しを、ひとつずつ開けていく。


 前世で見たもの。


 役に立ちそうな記憶。


 表示を制御する方法。


 短く、でも条件をきちんと含む書き方。


 そうしているうちに、ふと、ひとつの記憶が浮かんだ。


 トレーディングカードゲームだ。


 小さなカードの下半分の狭い枠に、文字がびっしり書かれていた、あれ。


 条件、効果、例外、制限――全部を限られた文字数の中へ押し込んで、それでもちゃんと意味が通るように書かれていた。


「確か、あれは最大で四百文字だったはず……」


 私はお湯の中でひとりごとのように呟いた。


 鏡の名前。


 刻印の見出し。


 それに、効果の説明を命令文で書く。


 無駄な言い回しを削って、必要な条件だけを残せば、文字数はかなり圧縮できるはずだ。


「これなら、いけるかもしれない」


 胸の奥で、ひとつ光がつく。


 けれど同時に、身体の疲れがそれを追いかけるように押し寄せてきた。


 今日は、さすがにもう疲れた。


 このまま湯の中で全部を詰めようとしても、たぶん途中で変な方向へ飛ぶ。そういうときは、無理に完成させるより、今出た形だけを紙へ落としておいたほうがいい。


 私はお風呂を上がって、髪を拭き、寝間着に着替えてから、自分の部屋へ戻った。


 机の上には、まだ今日の名残みたいに紙とペンがある。


 椅子へ座ると、部屋の中はしんと静かだった。


 誰もいない。


 扉の向こうの屋敷の気配も、夜の時間になってずいぶん薄くなっている。


「とりあえず、思いついた説明文を書こう」


 私は紙を一枚引き寄せた。書くのはもちろん日本語だ。


「あ、あと鏡の正式名も書いておこう」


 そう言って、ペンを走らせる。


 まずは鏡の名前。能力を映す鏡。


 それも、本番用のあの大きな鱗にふさわしい名前。


 イリディオンの“月虹鏡鱗”に刻むのなら、ただの手鏡みたいな名前では合わない。


 私は少し考えてから、紙の上へ書いた。


 月虹資性鏡:表


 そしてその下に、見出しのように並べる。


 天資啓示 適性導示 将来託宣 体躯測覧 魔力測覧


 その次に、効果の説明を命令文で続ける。


 対象一名に触れ、その者の上位適性三項、体躯の基礎値、魔力の現値、顕著なる傾向、近き将来の伸びを平易に示せ。表示は本人と許可された教師に限り、深層本質、危険因子、秘匿記録、過度なる未来像は映すべからず。心を惑わす表現を避け、導きとして簡明に記せ。


 書きながら、少しずつ輪郭が整っていく。


 生徒用は、あくまで“導く鏡”だ。


 余計な恐怖を与えないこと。


 全部を見せすぎないこと。


 本人が前を向ける情報だけを、わかりやすく示すこと。


 そのための条件を、できるだけ短く、でも意味を壊さずに詰めていく。


 次に裏。


 こちらは先生用だ。


 月虹資性鏡:裏


 見出しは、少しだけ重くする。


 資性照覧 才質看破 本質開顕 体躯測覧 魔力測覧


 そして効果文。


 対象一名の資質、才質、本質、体躯、魔力を教師向けに詳細表示せよ。現在値、伸長性、制御性、注意点、危険兆候、心身の偏り、学習適性、指導方針を整理して示し、学院の保健、教育、進路記録に資する形で留めよ。閲覧は学院長、担当教師、許可者に限り、無関係の者に漏らすべからず。


 書き終えたあと、私は一度だけ紙を離して見る。


 うん。


 たぶん、悪くない。


 まだ直すところはあるだろう。


 言葉の重複もあるし、見出しと効果の役割分担ももう少し詰められるかもしれない。


 でも少なくとも、今の私が欲しい鏡の姿は、この紙の上にちゃんと出ていた。


「とりあえず、こんなものかな」


 私は肩の力を少し抜く。


「学生証とか、先生用のファイルとかの連動は明日考えよう」


 そこまで考え始めると、たぶんまた眠れなくなる。


 今日はここで止めておいたほうがいい。


 紙を机の上に残し、ペンを置く。


 窓の外は、もう完全に夜だった。


 部屋の中には、自分の呼吸と、遠くの屋敷が時々鳴らす小さな音しかない。


「おやすみなさい」


 誰に向けたわけでもなく、そう呟く。


 一人きりの部屋で、私は静かに眠りについた。



 ── 今日は、お父様の誕生日。


 屋敷の夜宴ホールでは、朝からずっと宴の準備で大忙しだった。


 広いホールの端には長テーブルがずらりと並べられ、その上には真っ白なクロスが敷かれている。磨き上げられたグラスが整然と並ぶ様子は、それだけで少し特別な夜の気配をまとっていた。


 ホール中央にも丸テーブルがいくつも置かれていたけれど、椅子はない。


 立食形式のパーティになるらしい。


 人が集まり、行き交い、言葉を交わしながら料理をつまむための配置なのだろう。たしかにこのほうが、いろんな人と話しやすそうだ。


 ホールでは、執事頭のユルゲンさんの落ち着いた声が、絶えず飛んでいた。


「そちらの花は、もう少し奥へ」

「燭台の高さを揃えてください」

「来賓用の導線は空けておくように」


 どれだけ忙しくても、あの人の声は不思議なくらい静かだ。


 怒鳴っているわけでもないのに、誰もがその声に従って動いていく。屋敷全体がひとつの舞台だとしたら、ユルゲンさんはその裏側を支える見えない柱みたいな人だと思う。


 厨房は、さらにすごかった。


 料理長のフェルトさんの声が、絶え間なく飛ぶ。


「鍋は火を落とすな!」

「そっちの揚げ物、次の皿へ!」

「ハンバーガーは小ぶりにまとめろ、手で持てるサイズだ!」


 クレディアの伝統料理に加えて、私が教えたハンバーガーやコロッケ、それに片手で食べられる温かな軽食や鍋料理まで用意されている。


 冬だというのに、厨房の中だけは別世界みたいだった。


 油の匂い、湯気、焼ける音、煮える音。


 熱気がこもっていて、扉を開けただけでむわっと頬に当たる。料理人たちの動きは慌ただしいのに、どこかリズムがあって、見ていると気持ちいいくらいだった。


 定刻が近づくころには、玄関前の通路に来賓の馬車が列を作っていた。


 領主の誕生日ともなれば、やはり所縁のある人たちも多い。


 領政庁からは、財務局長のゴルドさん、農業局長のレヴィンさん、領騎士団団長のグレインさんも来てくれた。


 各ギルドの顔ぶれも揃っている。


 商業ギルドのミュリルさん。


 冒険者ギルドのレイファスさん。


 技術ギルドのグランツさん。


 そして、エルフ族の族長であるエルヴィンさんまで、お祝いに来てくれた。


 ほかにも、見覚えのある顔もあれば、たぶん初めて見る貴族たちもいる。衣装も雰囲気もさまざまで、でもみんな今日は少しだけ華やかだった。


 私のお友達も、両親と一緒に来てくれた。


 その姿を見つけると、少しだけ胸が軽くなる。


 こういう席は少し緊張もするけれど、知っている顔があるだけでずいぶん違う。


 楽しそうだな、と思った。


 そして、ホールが来賓でいっぱいになったころ。


 お父様が会場に現れた。


 その瞬間、ぱっと拍手が広がる。


 自然に、でも大きく。


 お父様はその拍手を受けながら、まっすぐ前を向いて歩いていく。領主として人前に立つときのお父様は、家の中で見る姿より少しだけ輪郭が鋭い。


 その横には、お母様がいた。


 お腹には新しい命を宿していて、ドレスの線も以前とは少し変わって見える。それでもお母様はとても綺麗で、柔らかな強さをまとっていた。


 お父様が前へ出る。


 会場の空気が、静かに整う。


 私は少し離れた場所から、その姿を見つめた。


「皆、今宵はよく集まってくれた」


 お父様の声が、ホール全体へ行き渡る。


「まずは、このような席を共にしてくれることに、領主として心より礼を述べたい」


 その言葉には、ただの儀礼ではない響きがあった。


「日頃より、領政庁、各ギルド、古き家々、そしてこの地を支えるすべての者たちの尽力によって、クレディアは少しずつではあるが、確かな歩みを進めている」


 私は、来賓たちの表情を見た。


 頷く人。


 静かに聞いている人。


 お父様の言葉を、ただのお祝いの挨拶としてではなく、今のクレディアの言葉として受け取っているのがわかった。


「今宵は祝いの席ではあるが、せっかくの機会でもある。近頃のクレディアの様子について、少し皆に伝えておきたい」


 そこから語られる言葉を、私は知っていた。


 でも、知っていることでも、こうしてお父様の口から“領主の言葉”として語られると、まるで重みが違う。


「この一年、クレディアではいくつかの種が芽吹き始めた」


 種。


 その言い方が、とてもお父様らしいと思った。


「そのひとつが、衛生と暮らしに関わる整備だ」


 下水処理施設が完成したこと。


 今はそれを活かすための下水路工事を進めていること。


 それが派手なものではなくても、町に暮らす者たちの日々を支え、将来の発展の土台になる大切な一歩だということ。


 お父様は一つひとつの言葉を、急がずに置いていく。


 その声を聞きながら、私はふと、これまでの出来事を思い出していた。


 ミスト村。


 塩湖。


 学院。


 どれも最初は小さな思いつきや出会いだった。


 でも今は、こうして“クレディアの歩み”として語られている。


「また、ミスト村についても、評議会での登録可決を経て、着実に調整が進んでいる」


 春には正式な調印を行い、新たな結びつきとして形にしたいこと。


 互いに支え合い、領内の安定と実りを広げていくことが、これからのクレディアにとって欠かせない道であること。


 ミスト村の人たちの顔が頭に浮かぶ。


 あの村が、こうして領の未来の一部として語られる日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかった。


「そして同じく春、クレディアには新たな学び舎として学院が開かれる予定だ」


 その言葉で、私の胸が少しだけ強く鳴った。


 来賓たちのあいだにも、わずかなざわめきが走る。


 やっぱり、学院の話は人の耳を引くのだ。


「学びは、ただ知を蓄えるためだけのものではない」


 お父様の声が、少しだけ深くなる。


「次代を担う者を育て、町と領地の未来を支える力そのものだ」


 私は、最近見てきた学院の姿を思い出していた。


 黒板。


 机。


 学院長室。


 講堂。


 制服。


 学院章。


 まだ完成していないのに、すでに形を持ち始めている場所。


「この地に根を下ろし、ここから新たな才が育っていく場となることを、私は願っている」


 その言葉に、王妃様が静かに目を伏せたのが見えた。


 学院は、いろんな人の願いが重なってできつつあるのだと、改めて思う。


「さらに、領内では新たな塩資源の兆しも見えている」


 ここで会場の空気が少し動く。


 塩は、誰にとっても無視できない話だ。


「まだ慎重に扱うべき段階ではあるが、天の与えた恵みであるならば、これもまた領地の発展に繋げていきたい」


 塩湖のことを思い出す。


 白い平原。


 静かな水面。


 塩と魔晶石。


 主の気配。


「その利の一部は、学院の運営をはじめ、人を育てるための営みに充てる考えだ」


 領地の実りを、次代へ返していく。


 その流れを、このクレディアで育てていきたい。


 そう語るお父様の姿を見ながら、私は少しだけ胸の奥が熱くなった。


 私が見つけてきたもの。


 私が思いついてきたもの。


 それらが、ちゃんと誰かの未来へつながる言葉になっている。


 それは、なんだかとても不思議で、でも嬉しかった。


「無論、これらは私一人で成し得ることではない」


 お父様は会場を見渡す。


「ここにいる諸君、それぞれの立場で力を尽くしてくれる者たちがあってこそだ」


 その言葉に、何人かがはっきりとうなずいた。


「今後とも、それぞれの知恵と力を貸してほしい」


 それは領主としての願いであり、同時に、ここにいる人たちへの信頼でもあるように聞こえた。


「今宵は祝いの席だ」


 お父様の表情が、ほんの少しだけやわらぐ。


「どうか堅苦しい話はこのあたりにして、杯と語らいを楽しんでいただきたい。そして願わくば、クレディアのこれからにも、引き続き温かい目を向けてもらえれば幸いだ」


 最後に、お父様は杯を掲げた。


「皆の健やかなる日々と、クレディアのさらなる実りに――乾杯」


「乾杯!」


 重なる声とともに、グラスが上がる。


 拍手とはまた違う、あたたかな音がホールに満ちた。


 その光景を見ながら、私は思う。


 お父様の誕生日の宴なのに、これはきっと、クレディアのこれからを祝う宴でもあるのだ。


 そして、その未来のどこかに、学院も、塩湖も、ミスト村も、まだ名前も知らない新しい命たちも、みんな繋がっていくのだろう。


 そう思うと、胸の奥で何かが静かに光る気がした。

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