月虹の珠竜と学び舎の未来 ── 制服と紋章、そして最初の授業
エルミナさんが精霊たちとの契約を果たした、その翌日。
神社の空気は昨日までと変わらず穏やかだったけれど、なんとなく私は、屋敷のまわりまで少しだけ明るくなったような気がしていた。たぶん、エルミナさんの表情が変わったからだと思う。
朝も昼も、彼女はまだどこか夢の続きを歩いているみたいな顔をしていた。
胸の奥に、あの精霊たちとの契約がちゃんと残っているのだろう。
そんな夕方のことだった。
門の向こうから、蹄の音が聞こえてくる。
私は屋敷の窓から外を見る。帰ってきたのは、お爺様だ。
そして、その隣には――見覚えのある黒馬がいた。
「わ……」
思わず小さく声が漏れる。
陽が傾きはじめた空の下で、その馬はまるで夜のかたまりみたいに黒かった。毛並みは艶やかで、大きな体には無駄な肉がひとつもない。立っているだけで圧がある。静かなのに、近寄りがたい威圧感があった。
たしか、前に商業ギルドで見かけた馬だ。どうやら本当に購入したらしい。
けれど、その威圧的な気配とは裏腹に、黒馬はお爺様のそばではずいぶん落ち着いて見えた。むしろ懐いていると言っていいくらいだ。お爺様がたてがみを軽く撫でると、気持ちよさそうに目を細めている。
……いいなあ。
私も少し触ってみたくなって、そっと近づいて手を伸ばした。
すると。
ぶふっ、と鼻を鳴らした次の瞬間、黒馬がぱくっと私の手に食いつきそうな勢いで顔を寄せてきた。
「ひゃっ!?」
私は慌てて手を引っ込める。今の絶対、嚙みにきたよね?
「ノア様、大丈夫ですか」
後ろからエルミナさんの心配そうな声が飛んでくる。
「だ、大丈夫です……たぶん……」
心臓がすごくどきどきしていた。
黒馬は何事もなかったみたいに、ふん、と澄ました顔をしている。
「気が強いのう」
お爺様が楽しそうに笑った。
「時間はかかったがやっとワシに懐いたわい。あれだけ暴れていたが懐いたら可愛いもんじゃ。しかもこの子は牝馬じゃぞ」
「牝馬……ってことは、メス……」
私は黒馬を見た。
ナギさんといい、この馬といい。
お爺様のまわりに集まる女性陣、なんだか妙に濃い気がする。
……もしかして、お爺様って強い女性にモテるのかな。
一瞬、私の頭の中に『たらし』という言葉が浮かんだ。
でもすぐに、ぶんぶんと首を振って打ち消す。いやいや、まさかね。お爺様に限ってそんな。たぶん。
「お爺様、この馬の名前は決まりましたか」
私は気を取り直して尋ねた。
お爺様は黒馬の首を軽く叩きながら、ふむ、と顎に手をやる。
「名前か。そう言えばまだじゃったのう」
そして、なぜかこちらを見る。
「……ノア、良い名前はあるか」
「えっ」
突然の無茶ぶりだった。そんな大事な役目を急に振られても困る。
でもお爺様は完全に“頼んだぞ”という顔をしているし、黒馬もなぜかじっとこちらを見ていた。
なんだろう。まるで期待されているような。
私は黒馬を見上げる。
大きい。強い。威圧感がある。
でも速さだけじゃない。どっしりとしたパワーと、長く走り続けられそうな持久力も感じる。黒くて重くて、ただそこにいるだけで周囲の空気を変えてしまうような圧。
まるで魔物とか、自然災害とか、そういう脅威の類を思わせる存在感だった。
「んー……」
私は少し考えてから、まず思いついたものを口にしてみる。
「ベヒモス、とか?」
「おお、かっこいいのう」
お爺様は嬉しそうだった。でも黒馬は、ふいっとそっぽを向いた。
あ、だめだ。
「気に入らないみたいです」
「む、そうか」
お爺様は残念そうにする。
私はもう少し考える。
「じゃあ……カラミティ。アビス。ノクス。タイラント。バハムート。バルバトス。アバランチ」
ひとつ言うたびに、黒馬の反応を見る。
けれど、どれもいまいちらしい。
耳はぴくりとも動かないし、目線もどこか冷めている。明らかに「違う」と言っていた。
「ノアよ、どれもかっこいい名前じゃな」
お爺様が感心したように笑う。
「そんなにぽんぽん出てくるなんて、まるでマグノリアみたいじゃな」
「お婆様って、そういうの好きな人だったんですか……?」
「好きじゃったなあ」
お爺様が懐かしそうに目を細める。
そうなんだ。
ちょっと意外だった。お婆様って、もっと理知的で静かな人かと思っていたけれど、そういう“強くて格好いい名前”にも心が動く人だったのかもしれない。
私はもう一度お爺様を見る。
そして、その手に握られたわけではないのに、ふと脳裏に浮かんだのは、桜環神社でお爺様が振るっていた、あの大きな大剣だった。
あまりにも巨大で。あまりにも豪快で。
あれを振るう姿は、正直、人間離れしていて格好よかった。
その記憶と、目の前の黒馬の姿が、頭の中でひとつに重なる。
黒馬にまたがり、あの斬艦刀を振るうお爺様。
それはもう――完全に、あの戦闘シーンだった。
口が、勝手に動く。
「……トロンベ……」
その名前を口にした瞬間だった。
黒馬がぴたりとこちらを向く。
そして次の瞬間、ひひん、と高く嘶いた。さらに首を上下に振る。
「おお」
お爺様が楽しそうに声を上げる。
「気に入ったようじゃのう」
「えっ、ほんとに……?」
私は目をぱちぱちさせた。
黒馬はもう一度嘶いて、今度は誇らしげに胸を張るように前脚を鳴らした。
明らかに、今までと反応が違う。
ベヒモスでもバハムートでも見向きもしなかったのに、『トロンベ』にははっきり反応した。
……そんなに気に入ったんだ。
私は黒馬――いや、トロンベを見る。
この名前を得たことで、さらに格好よく見えるから不思議だ。
そしてその瞬間、私の脳裏には、さっきよりもっと鮮明な映像が浮かんだ。
黒馬トロンベにまたがるお爺様。
大剣を構え、風を裂き、敵陣を駆け抜けるその姿。
脳内で勝手に響き始める熱い台詞。
「刃馬一体! 奥義! 斬艦刀! 逸騎刀閃!」
「我らに……断てぬ物なし」
「……っ」
あまりのかっこよさに、ぞくっと身体が震えた。
なにこれ。すごい。こんなの、格好いいに決まってるじゃないか。
お爺様と黒馬と大剣、相性が良すぎる。
私は思わず胸の前で手を握りしめていた。
「ノア、ずいぶん気に入ったようじゃな」
お爺様がくすりと笑う。
「は、はい……すごく……」
自分でも声が少しうわずっているのがわかった。
エルミナさんはそんな私を見て、少し不思議そうにしていたけれど、黒馬――トロンベの堂々とした姿を見ると、小さく感心したように息をついた。
「たしかに……似合っていますね」
「でしょ……!」
私は強くうなずいた。
トロンベは、そんな私たちの反応を満足そうに受け止めているようだった。
夕暮れの風が吹き抜ける。
黒い毛並みがわずかに揺れて、そのたびに彼女の姿は、いっそう誇り高く見えた。
新しい名前を得た黒馬は、もうただの“気の強い大きな馬”じゃない。
お爺様の相棒として、これからきっといろんな景色の中を駆けるのだろう。
そう思うだけで、胸の奥が妙に熱くなった。
――翌朝の空気は、少し冷たかった。
けれど冬のように刺さる冷たさではなくて、夜をきれいに洗い流したあとの澄んだ冷気だった。屋敷の前庭には白い朝の光が静かに落ちていて、石畳も、門柱も、植え込みの葉先も、どこか輪郭がくっきりして見える。
お爺様が首都へ帰る日だった。玄関前ではもう支度が始まっている。
黒馬――トロンベの両脇には、旅の荷が手際よく括りつけられていた。革紐の締まり具合を確かめるたびに、きゅ、と低い音がする。お爺様は馬具の一つひとつに視線を滑らせ、指先で金具を軽く叩き、留め具の位置を確かめていた。
無駄のない動きだった。慣れているのだろう。
見送る側の時間と、旅立つ側の時間は、同じ朝でも流れ方が少し違うらしい。
私は玄関前に立ったまま、その背中を見ていた。
お父様とお母様。アウレリア王妃。エルミナさん。ナギさん。そして私。
みんな揃っているのに、朝の空気は妙に静かだった。誰かが声を潜めているわけではないのに、庭木が揺れる音や、トロンベがときどき鼻を鳴らす音ばかりが、今日は耳に残る。
やがて、お爺様がこちらへ向き直った。
最初に視線が向いたのは、アウレリア王妃だった。
「アウレリア殿」
低く落ち着いた声。
それを受けて、王妃はほんのわずかに背筋を整えた。肩の線が静かに引かれ、指先が衣の上で重なる。
「しばらくは不自由な身となろう。幽閉という形になる以上、思うように外へは出られぬ」
朝の澄んだ空気の中で、その言葉だけが少し重く響いた。
王妃は目を伏せる。
その伏せ方は一瞬だったのに、何かを胸の奥で受け止めるまでの時間が、確かにそこにあった。
「だが、どうか塞ぎ込まぬことじゃ」
王妃はゆっくり顔を上げた。
微笑みは柔らかい。
けれど、それはただ相手を安心させるための笑みではなくて、自分の中で何度も形を整えた末にようやく置いた表情のように見えた。
「……ええ。ありがとうございます、アラン様」
声は穏やかだった。
「不自由ではあっても、心まで閉ざすつもりはございませんわ」
「うむ。それでよい」
お爺様は短く頷く。
「貴女が健やかであることが、周囲の者の支えにもなる」
王妃は胸に手を添え、小さく一礼した。
その横顔は静かだった。
静かなのに、折れてはいない。むしろ静かだからこそ、そこでようやく形になった覚悟が見える気がした。華やかな立場にいる人の強さではなく、削られても残る芯のようなものが、今の王妃にはあった。
「リカルド殿、マリアンヌ」
次に、お爺様はお父様とお母様へ向き直る。
「アウレリア殿のこと、頼むぞ」
お父様は間を置かずに頷いた。その頷きに迷いはなかった。
「お任せください」
「私たちにできる限りのことは致します」
お母様の声は、お父様よりひとつやわらかい。けれど、そのやわらかさの内側には、揺るがない強さがちゃんとある。
「おひとりにはいたしません」
「どうか安心して首都へお戻りくださいませ」
「うむ」
お爺様の返事は短い。
けれど短いからこそ、その一言に込められた信頼がまっすぐに伝わってきた。
言葉を重ねなくてもわかる関係というのは、たぶんこういうものなのだろう。
それから、お爺様の視線がエルミナさんへ移った。
「エルミナ殿」
「は、はい!」
呼ばれた瞬間、エルミナさんの肩が小さく跳ねた。
でも足は引かなかった。
ぎこちなさは残っているのに、逃げようとはしていない。その顔には緊張がはっきり浮かんでいたけれど、視線だけはちゃんと前を向いていた。
「ノアの先生として、改めてよろしく頼む」
その言葉が届いた瞬間、エルミナさんの目がわずかに見開かれる。
驚き。それから、胸の奥で何かを受け取ったときの沈黙。
唇が一度きゅっと結ばれ、そのまま背筋がすっと伸びた。
次の瞬間だった。
エルミナさんは右手を胸元に添え、きびきびとした動作で敬礼をした。
その所作は、昨日までの彼女なら出てこなかったものに見えた。
ルメリア魔法学院の礼ではない。ただの教師としての礼でもない。
もっと鋭く、もっとまっすぐで、そしてどこか痛いほどに祈りに似ていた。
きっとそれは、かつて憧れて、目指して、それでも届かなかった場所へ向けて、ずっと心の中にしまっていた敬礼だ。
ゼラ教聖騎士団。
なれなかったもの。置いてきたはずの夢。でも、消えてはいなかったもの。
「エルミナ・ヴェルローゼ。この身に代えましても、ノア様をお支えいたします」
空気が、ひとしずく張る。
誰も動かなかった。朝の風さえ、その一瞬だけ足を止めたように思えた。
お爺様はその敬礼を見つめた。まっすぐに、静かに。
そして――同じ形で、敬礼を返した。
あまりに自然で、あまりに洗練されていて、一つの動きなのにそこへ至るまでの年月まで見えるようだった。剣に生き、命を預け、誇りを背負ってきた人だけが持つ重みが、その所作にはあった。
ただ返したのではない。受け取ったうえで、返したのだ。
「うむ。頼んだぞ」
「……っ、はい!」
エルミナさんの返事は少し震えていた。でも、その震えは怯えではなかった。
言葉の最後がかすかに揺れるたび、胸の奥で抑えきれないものがあふれそうになっているのがわかる。
聖騎士にはなれなかった。なれなかったけれど。
今、目の前の人は、そんな彼女に敬意をもって応えてくれた。
過去の夢を笑わず、届かなかった願いを軽く扱わず、そのうえで“今ここに立つ彼女”へ返してくれたのだ。
それがどれほど大きいことか、私はうまく言葉にできなかった。エルミナさんの目元は少し熱を帯びて見えた。けれど涙は落ちなかった。泣くより先に、きっと胸の中で満ちるもののほうが大きかったのだ。
お爺様の視線は、次にナギさんへ向く。
「ナギ殿」
「はい」
「ノアの剣術指導、引き続き頼む」
ナギさんはいつもと同じように静かだった。けれど、目だけは少しやわらかい。
「承知しております」
「それと――」
お爺様の口元に、ほんのわずかに笑みが差した。
「首都から戻った折には、再び手合わせを願いたい」
その言葉に、ナギさんのまなざしがすっと細まる。
嬉しい、とは違う。
でも確かに、相手の申し出を真っ正面から受け取ったときの光が、そこにあった。
「はい。喜んで」
短い答え。
なのに、その答えの中だけで刃が触れ合う音が聞こえるようだった。
強い者同士の約束は、どうしてこうも静かなのに熱を帯びるのだろう。
そして最後に、お爺様は私を見た。
「ノア」
呼ばれただけで、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
緊張、とは少し違う。
期待されているときの落ち着かなさに近い。
「はい」
私が返すと、お爺様は数歩こちらへ近づいた。
見上げる位置にあるその顔は、厳しいのに、どこか楽しそうでもある。
「ノアが己を鍛え、わしを剣術で降参させる日を、楽しみにしておる」
私は一瞬、言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。
降参させる。お爺様を。
それはつまり――
「そのときは、魔法学院への入学を推薦しよう」
「……っ」
胸の奥に、何か熱いものが落ちた。
じわっと広がる。
驚きと、うれしさと、目の前へ差し出された大きな目標への戸惑いが、一度に押し寄せてくる。
魔法学院。その言葉の響きだけで、胸が少し高鳴る。
でも同時に、相手がお爺様だという事実が、現実をきっちり重くする。
簡単な話ではない。むしろ、とんでもなく難しい。
あの大剣を振るい、あの黒馬にまたがり、ただ立っているだけで場の空気を変えてしまう人を、剣で降参させる?
無理では?と思う気持ちが、まず先に来た。
けれどそのあとから、別の何かがゆっくり頭をもたげる。
無理かもしれない。
でも。だからこそ、届いてみたい。そういう種類の高さだった。
「本気、ですか……?」
自分でも少し情けないと思うくらい、小さな声になった。お爺様は即座に頷く。
「無論じゃ」
迷いのない声だった。
「魔法学院は知識だけでなく、志と胆力も要る場所じゃ。そなたがそこへ行くなら、ただ見送られるのではなく、自分で道を勝ち取ってみせよ」
風が吹いた。庭木の葉が揺れる音が、遠くでさらりと鳴る。
私はその言葉を胸の中で反芻した。
勝ち取る。与えられるのではなく、自分で。それは厳しい。
厳しいけれど、なぜか少しだけうれしい。
お爺様は私を子ども扱いして、やさしく手を引くだけのつもりではないのだ。ちゃんと届く相手として、目標を置いてくれた。
そのことが、じんと胸に残る。
「……わかりました」
声を出すと、自分の中で何かが少し固まった。
「私、強くなります」
言い切ったあと、遅れて少しだけ心臓が鳴る。
できるかどうかはわからない。でも、言葉にしてしまった。もう引っ込めたくないと思った。
お爺様は、そんな私を見て満足そうに目を細めた。
「うむ。それでよい」
その一言で、胸の中の熱が少しだけ形を持つ。
見送る朝のはずなのに、別れより先に、新しい約束が残っていく。
お爺様はトロンベの手綱を取り、軽やかに鞍へ跨った。
黒い馬体が朝の光を受け、ひときわ凛々しく見える。トロンベもまた、今日の旅立ちがただの移動ではないことを知っているみたいに、静かに首をもたげていた。
その姿を見上げながら、私は胸の奥でそっと繰り返す。
いつかこの人を、剣で倒す。
そして、自分の足で学院へ行く。
朝の空気はまだ冷たかったのに、不思議と指先の奥には熱が残っていた。
――朝、お爺様を見送ってからしばらくして。
屋敷の中庭に開かれた楼門。桜環神社で、私はナギさんと向かい合っていた。
今は魔力制御の訓練だ。
朝の空気はもう少しずつやわらいでいて、日差しも高くなっている。けれど集中していると、額のあたりにじんわり熱が溜まるのとは別に、指先だけが妙に冷たく感じることがある。
掌に灯した光を、消さないように、崩さないように。
丸い形を保ったまま少しだけ引き延ばし、今度は薄く広げて、また戻す。
単純なことの繰り返しなのに、気を抜くとすぐに光の縁がふるえてしまう。
隣ではエルミナさんも同じように訓練していた。
精霊契約を経て、どこか空気が変わった気がする。急に上手くなった、というより、魔力に手を伸ばすときのためらいが少し減った感じだ。
ナギさんは私たちを順に見ながら、必要なときだけ短く声を挟む。
「ノア様、形を先に作ろうとしすぎです。芯を保って」
「はい」
「エルミナ様、そのままで。焦らなくて大丈夫です」
「は、はい……」
訓練がひと区切りつくころには、陽射しの白さが少し増していた。
私は吐いた息と一緒に、肩の奥にたまっていた力が少し抜けるのを感じる。エルミナさんもほっとした顔をしていて、でもその頬には疲れより、ちゃんとやり切ったあとの薄い明るさが残っていた。
そのときだった。
石畳の向こうから、女性たちの声が近づいてくる。
顔を上げると、お母様とアウレリア王妃、それにミュリルさんがこちらへ歩いてきていた。
「あら、ちょうど終わったところみたいね」
ミュリルさんが、いつもの調子で片手をひらりと振る。
王妃様はやわらかな笑みを浮かべていたし、お母様の目元もどこか穏やかだった。朝の見送りのあとだから、もう少し重たい空気が残るかと思っていたのに、三人とも不思議なくらい自然な顔をしている。
ナギさんは私たちを見て、小さくうなずいた。
「では、休憩にいたしましょう」
そのまま私たちは宿へ案内され、広間のテーブルについた。
ほどなくして、ナギさんがお茶とお菓子を運んできてくれる。
湯気の立つ茶器。
小皿に盛られた焼き菓子と、甘く煮た果物らしいもの。
窓から入る昼前の光が、卓の上をやわらかく照らしていた。こうして女性ばかりでテーブルを囲むと、空気のほどけ方が違う。剣術の場とも、訓練の場とも違う、言葉が自然に転がっていく感じがある。
最初はお茶の香りとか、朝の空気とか、そんなたわいない話から始まった。
でも、話が少し温まってきたころ。ミュリルさんが思い出したみたいに言った。
「そうそう。王妃様と話して、学院が入る物件が決まったわ」
私はカップを持ったまま顔を上げた。
「ほんとですか?」
「ええ」
アウレリア王妃が静かにうなずく。
「エルミナちゃんが吹っ飛ばした屋敷ね」
ぶふっ、と変な音がした。エルミナさんがお茶にむせていた。
「げほっ、ごほっ……!」
「だ、大丈夫ですか!?」
私が慌てると、エルミナさんは目尻を赤くしながら必死にうなずく。
「だ、大丈夫です……! ちょっと……予想外で……!」
予想外なのはわかる。まさか自分が吹っ飛ばした屋敷が、学院の候補どころか本決まりになるなんて、普通は思わない。
ミュリルさんは悪びれた様子もなく続ける。
「立地も悪くないし、広さも十分。ちょっと修繕はいるけど、それ込みでもいい物件よ」
「ええ」
王妃様もカップを置いて、穏やかな声で言った。
「あそこは建物も敷地も申し分ありません。最初の学院としては妥当と思います」
最初の学院。
その言葉に、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。
まだ形になっていないはずなのに、話し方がもう“いつかの夢”ではなく“始まる予定のもの”になっている。そういう変化は、聞いているだけでわくわくした。
私は王妃様のほうへ身を向けた。
「王妃様、学院ではどのような授業をなさる予定なのですか?」
その問いを待っていたみたいに、王妃様の表情が少しだけ明るくなる。
「そうですね」
視線が少し上を向く。
頭の中にもう教室や時間割があるのだろう。
「まずは語学と算術。地理や歴史でしょうか」
落ち着いた声なのに、言葉のひとつひとつに楽しさが滲んでいた。
「魔法も初歩を教えたいですね。剣術だけでなく、他の武器術や体術もいいかもしれません」
「わあ……」
思わず声が漏れた。
語学に算術、地理に歴史。魔法に剣術。そこへ武器術や体術まで入ると、なんだか急に“本物の学院”という感じがしてくる。
教室があって、黒板みたいなものがあって、みんなで机を並べて。
朝の鐘が鳴って、授業ごとに先生が変わっていく――そんな光景が頭の中に自然に広がった。
しかも楽しそうだ。すごく楽しそうだ。
王妃様の話しぶりからすると、やりたいことはまだまだあるらしい。控えめな口調なのに、その奥に押さえきれないものがあるのがわかった。
「なら、そこにお金のことも入れたいわね」
ミュリルさんが、待ってましたという顔で入ってくる。
「お金のこと?」
「そう。商売の基本とか、買い物の計算とか、騙されないための知識とか」
なるほど、たしかに大事だ。
読み書きや剣術と同じくらい、“どうやって生きるか”に直結している。
「いいですね」
王妃様もすぐに賛成した。
「暮らしに結びつく知識は、早い段階で教えるべきでしょう」
学院の形が、少しずつ立体的になっていく。
その流れを見ていたエルミナさんが、カップを置いて、おずおずと口を開いた。
「で、では私は……錬金術を教えたいです」
その声は小さいけれど、ちゃんと前へ出ていた。
「でも、難しいものじゃなくて……簡単な衛生から」
「衛生?」
私はきょとんとして聞き返す。
「もしかして、エルミナさん医学がわかるんですか?」
「いがくは分かりませんが……身体の構造は学びました」
そこで一瞬、エルミナさんの視線が泳ぐ。
言っていいのか迷ったような間があって、それから覚悟を決めたみたいに続けた。
「錬金術の授業で、死刑囚の死体の解剖に参加しました。怖かったですけど……」
「……」
私は思わず黙った。広間の空気も、ほんの少しだけ静かになる。
驚いた。
でも、それ以上に、そういうものに向き合ってきたエルミナさんの時間を、急に遠く感じた。気弱で、おどおどしていて、でも本になると目の色が変わる人。そんな印象の裏に、ちゃんと学んできたものと、見てきたものがあるのだと、改めて思わされる。
エルミナさん自身は、すぐに付け加えるように言った。
「その……命に関わることですし、まずは手洗いや清潔さの大切さとか、傷の手当てとか、そういうところから教えられたらと……」
「いいと思います」
お母様が、やわらかく言った。その一言で、さっきまで少し張った空気がほぐれる。
「とても大切なことですもの」
それから少し考えるように視線を落として、続けた。
「貴族の子たちが入学するのでしたら、作法やマナーも教えなくてはね」
「たしかに」
王妃様がうなずく。
「立場のある子ほど、礼儀や振る舞いを身につける必要がありますものね」
そこへ私も、頭の中に浮かんだものをそのまま口にした。
「他にも授業できそうなもの、ありそうですね。ものづくりとか、冒険生存術とか」
言った瞬間、ちょっと楽しくなってしまう。
罠の見分け方とか、野営の仕方とか、簡単な道具作りとか、そういうの絶対役に立つ。むしろ私はそっちをやりたい。
でも、すぐにミュリルさんが笑った。
「ノアちゃんはやりたいだろうけど、小さい子どもにはまだ早いわよ」
「えー」
思わず声が漏れる。早いかな。いや、たしかに最初からサバイバルは少し尖りすぎているかもしれないけど。
「そうですね」
王妃様にも笑われてしまった。
「その辺は、学年が上がってからのほうが良いでしょうね」
お母様もくすりと笑っている。
エルミナさんまで、少し肩の力を抜いて笑っていた。
私だけがちょっと不満で、でもその不満すら、この場では軽いものに変わっていく。
笑い声の混じるお茶会の空気。窓の外では、桜環神社の大きな桜が風に揺れている。
まだ何も始まっていない。でも、こうして誰が何を教えたいかを口にしているだけで、もう学院は少しずつ形になっているのだと思った。
ただ建物を決めるだけじゃない。そこでどんな時間を過ごすのか。誰がどんな言葉を教えるのか。どんな子たちが笑って、悩んで、学んでいくのか。
そんなものが、今日のこのテーブルの上に、湯気みたいに少しずつ立ちのぼっている。
私は自分のカップを持ち直しながら、その輪の中にいることがなんだかうれしかった。
――お茶会の空気がひと通りやわらいだころ。
カップの底に残ったお茶を見ながら、私はふと、ここ数日のことを頭の中で並べていた。お爺様のこと、エルミナさんの精霊契約、学院の話。いろいろありすぎて、気づけばひとつの存在をしばらく見ていないことに、そのときようやく思い当たった。
イリディオンだ。
最近、姿を見ていない。
あれだけ存在感のある相手なのに、見かけない日が続くと、逆に不自然なくらいだった。
私は視線を上げて、ナギさんに尋ねる。
「ナギさん。イリディオンを見ませんけど、どこにいるんですか」
ナギさんは少しだけ考えるように目を細めた。
「そうですね」
答え方が、いつもよりほんの少し曖昧だった。
「エルミナ様が精霊と契約する頃までは、気配があったのですが」
その直後だった。
ふっと、広間の中の明るさが変わった。
窓から差し込んでいた光が不自然に陰り、卓の上の茶器の影が、いっせいに濃くなる。
何か大きなものが、上を横切ったのだとわかった。
次いで、ばさり、と。
空気そのものを叩くような翼の羽ばたきが響いた。
「……っ」
誰かが息を呑むより早く。
どすん、と重い着地音が境内に落ちた。
宿の床下まで揺れるような地響きが、足元から遅れて上がってくる。卓上の茶器がかたかたと震え、カップの縁に波紋が立った。
「何事ですの!?」
王妃様が椅子を引く音とほぼ同時に、私たちは立ち上がっていた。
広間を飛び出し、宿の外へ出る。
境内の空気は、さっきまでとすっかり変わっていた。
真上から落ちてきた影の主が、そこにいた。
「ドラゴン!?」
お母様の声が鋭く響く。
「え! 何でここにドラゴンが?」
エルミナさんの声は半ば裏返っていた。
目の前にいるのは、巨大な竜。
白銀を帯びた鱗をまとい、ただそこにいるだけで風と圧が生まれるような存在。翼を軽くたたんだだけなのに、その輪郭が境内の一角を埋めてしまう。
イリディオンだった。
王妃様の周囲に冷気が走る。
次の瞬間には、彼女の指先から淡い氷の魔法陣が展開していた。静かなのに、すぐに撃てる緊張がはっきり見える。
一方でエルミナさんは、反射的に精霊契約へ意識を滑らせたらしい。
赤い炎がぱっと散り、小さな炎の精霊――サラマンダーが呼び出される。
お母様も私の前へ半歩出た。
空気がぴんと張る。
でも私は、その光景を見て一拍だけ遅れて、ただ普通に思った。
あ、帰ってきたんだ。
「おかえり。イリディオン」
そのまま私は、何の構えもなく一歩踏み出す。
「おお、久しいなノア」
イリディオンは低く響く声で応じた。
その返答があまりに自然だったから、私はついそのまま近づいてしまう。
「ノア、危ない!」
お母様の声が飛んだ。次の瞬間、後ろから強く抱き寄せられる。
身体がふわっと引かれ、お母様の腕の中にすっぽり収まった。
「だ、大丈夫ですお母様」
私が顔を上げると、お母様の呼吸は少し早かった。瞳の奥にある緊張がまだ解けていなくて、私を抱く腕にも無意識の強さが残っている。
「イリディオンは、この神社の居候なんです」
そう言ったものの。
王妃様も、お母様も、エルミナさんも、そろって何を言われたのかわからない顔をしていた。
それはそうだと思う。いきなり現れたドラゴンが、神社の居候。私だって言葉だけ聞いたら信じない。
「皆様、落ち着いてください」
ナギさんが静かに前へ出る。
ミュリルさんも手を上げて、三人を制した。
「大丈夫よ。この子、ほんとにノアちゃんの言う通りだから」
「いや、そう言われましても……!」
エルミナさんが半泣きみたいな声になる。
でも、その声にはさっきまでの本気の警戒とは別の戸惑いが混じっていた。攻撃すべき相手なのか、そうじゃないのか、その判断が一番困るのだろう。
ナギさんとミュリルさんが手短に事情を説明する。
湖での一件。イリディオンが桜環神社の領域にいること。敵対していないこと。
話を聞き終えるころには、王妃様の氷の魔法陣は薄れ、お母様の腕の力も少しだけ緩んでいた。エルミナさんが呼んだサラマンダーは拍子抜けして帰っていった。
それでも、三人とも完全には表情を戻せていなかった。
落ち着いたというより、ようやく現実味が追いついてきた顔だった。
「イリディオン、どこに行ってたの?」
私はお母様の腕からそっと離れながら尋ねる。
イリディオンは蒼の瞳を細めた。
「うむ。ちょっとこの領域の果てを知りたくてな」
その言い方が妙にあっさりしていて、私は一瞬きょとんとする。
「二日ほど前、我の住処から飛んだ。西に進んだつもりだったが、どうやらぐるっと回ってきたようだな」
「……ぐるっと?」
その言葉が頭の中でうまく噛み合わない。西に進んで、ぐるっと回って戻る。
それって。私は反射的にナギさんを見る。
ナギさんは、すでに私が何を考えたか察している顔だった。
「まったく、よくそんなことを思いつきますね」
呆れたような、でも少し感心したような声色。
「ええ。この領域は、星一つ分の領域です」
「星……」
言葉が、少し遅れて落ちてくる。
星。つまり惑星。
神社の境内がどうこうという話ではなく、この“領域”そのものが、ひとつの星。
私の頭の中で地図みたいなものが急に裏返る。
神社はその一部。
温泉がある宿も、富士山みたいな火山も、精霊の祠も、全部その中にある。
「ですがこの星すべてが、私の管理下というわけではありません」
ナギさんは淡々と続ける。
「少なくともこの領域は、それだけの広がりを持っています」
私はしばらく声が出なかった。
広いとは思っていた。普通じゃないとも思っていた。でも“星ひとつ分”は、さすがに想像の外だ。
「ノア!」
お母様の声で、はっと現実へ引き戻される。
振り向いた瞬間、その表情を見て私は先に察してしまった。
あ、これ怒られるやつだ。
「いったいあなたは何をしてるの!」
お母様の声は大きくはなかった。でも、そのぶん余計に逃げ場がない。
村の湖で私が倒れた原因がドラゴンを倒したことだったと、ここでついに繋がってしまったのだ。
しかもそのドラゴンを、今は神社に飼っているみたいな状況になっている。
言い訳のしようがない。
「ご、ごめんなさい……」
私はもう謝るしかなかった。
お母様の顔には怒りだけではなくて、遅れて押し寄せた怖さが滲んでいた。知らなかった時間のぶんだけ、今ここでまとめて心臓に来ているのだろう。
エルミナさんはそんな私を見ていた。その目が、なんというか、すごく複雑だった。尊敬とも困惑ともつかない。『規格外なものを見る目』って、たぶんこういう感じなんだろうなと思う。
王妃様は、そのやりとりを見て、口元にごく淡い笑みを浮かべていた。微笑ましい、というと少し違うかもしれない。でも、昨日まであれほど異質に見えていた私が、こうして普通の子どもみたいに母親に叱られていることに、少しだけ安堵したようにも見えた。
「ナギ殿。すまないが水をくれないか」
私が叱られている横で、イリディオンがのんびりとそう言った。
その図太さに、私は一瞬だけそちらを見てしまう。
ナギさんは頷き、今度はエルミナさんへ視線を向けた。
「エルミナ様。ウンディーネでイリディオンに水を飲ませてください」
「は、はい。わかりました」
エルミナさんは一拍おいてから、きちんと応じる。
緊張はまだ残っていたけれど、昨日の契約があるからだろう、呼び出しそのものには迷いが少なかった。
「来て、ウンディーネ」
水色の光がふわりと現れる。
小さな人魚の姿をしたウンディーネが、イリディオンの巨体を見上げて、少しだけ胸を張った。
「あらあら、ずいぶん大きなお客様ね」
そう言って、両手を広げる。すると、水が生まれた。
弧を描くように宙を走り、きらきらと光を散らしながら、イリディオンの口元へ流れ込む。竜の喉元がごくり、ごくりと上下するたび、その水音だけが妙に静かに聞こえた。
しばらくして。
「うん、うまい」
イリディオンが満足そうに口を閉じる。
私はその様子を見て、なんだか妙に既視感があった。
ドラゴンの水飲みなんて初めて見るのに。でも、あの大きな口と飲み方、どこかで見た感じがある。
ああ、そうか。動物園のカバだ。
スケールは全然違うのに、妙なところで既視感が重なってしまって、少しだけ笑いそうになる。
「ノア! 聞いてるの!」
お母様の声が飛んできて、私はびくっとする。
「は、はい! 聞いてます!」
気を抜いたのがバレた。
でも、その直後。
「まあまあ、マリアンヌさん」
王妃様がやわらかく口を挟んだ。
「いまはそのあたりで」
その声には、制するというより、張り詰めた糸を切らない程度に緩める響きがあった。
お母様はまだ言いたそうだった。
でも私の顔と、イリディオンと、周囲のみんなを見て、ひとつ息を吐く。
怒りだけで押し切るには、今日の出来事は大きすぎたのかもしれない。
境内には、竜がいて、精霊がいて、お母様に叱られる私がいて。
全部が少しずつ現実なのに、並ぶと急に現実味が薄くなる。
けれど、それでも。
風が吹き、木々が揺れて、光が差しているこの場所の空気は、たしかに今日も桜環神社のものだった。
イリディオンはたっぷりと水を飲み終えると、ようやく満足したらしく、大きな頭をゆっくり持ち上げた。
喉の奥で低く鳴る音が、さっきまでより少し穏やかに聞こえる。
その蒼色の瞳が、順に私たちを見た。
王妃様、お母様、エルミナさん。
その視線は鋭いのに、不思議ともう先ほどみたいな緊張はなかった。飲み水を得たことで機嫌が直ったのか、それとも最初にこちらの混乱ごと受け止めたうえで、改めて場を整えようとしているのか。
「どうやら驚かせてしまったようだな」
低く響く声が、境内の空気を揺らす。
「すまなかった」
その一言に、私は少しだけ目を丸くした。
イリディオンは誇り高い。間違いなくそういう存在だ。だからこそ、自分の存在そのもので誰かを怯えさせたことに対して、こうしてはっきり詫びるのは意外だった。
でも、意外だと思った直後に、それがこの竜らしいとも感じた。
高慢ではあっても、狭量ではない。
誇りがあるからこそ、必要な言葉はきちんと口にする。
「ふむ。初めて見る人間もいるな。まずは名乗るとしよう」
イリディオンは胸を張るように首を起こした。
鱗のあいだを流れる光が、昼の境内でもどこか月明かりのように見える。
「我が名はイリディオン」
その名が発せられた瞬間、空気の温度が少しだけ変わった気がした。
「かつて、月虹の珠竜と呼ばれた誇り高きドラゴンだ」
月虹の珠竜。
ただの二つ名のはずなのに、その響きだけで遠い時代の風景まで背後に立ち上がるようだった。人の言葉で語れる以前から、空と大地のあいだにそういう存在があったのだと、そう思わせる名乗りだった。
王妃様も、お母様も、エルミナさんも、言葉を挟まなかった。
竜の名乗りに圧倒されている、というだけではない。
たぶん、それを遮ってはいけないと自然に感じる種類の時間だったのだ。
イリディオンは続ける。
「そこのノアに、湖で倒された」
その一言で、私はなんとも言えない気持ちになった。
倒した側の私が言うのも変だけど、こうして改めて本人の口から言われると、やっぱり事の大きさが急に現実味を帯びてくる。
しかもそのあとに続いた言葉で、お母様の視線がさらに鋭くなるのがわかった。
「だが我は殺されずに生かされた。本来なら真っ二つにされていただろうな」
「……」
やめてほしい。
そういう言い方は、お母様の前では本当にやめてほしい。
私は思わず目を逸らしかけたけれど、お母様のほうを見る勇気が出なかった。
たぶん今、すごく複雑な顔をしている。
怒るべきなのか、今さら青ざめるべきなのか、自分でも整理がついていないような顔を。
「そして、ナギ殿とミュリルの説明の通り、我はこの神社に居候しておる」
イリディオンは淡々と告げる。
「安心せよ。外に出る気はない。なんせ、ノアが面白いのでな」
最後だけ、少し声の色が変わった。
その言い回しが、妙にどこかで聞いた感じに似ていて、私はつい心の中でつっこんでしまう。
……最後、お爺様みたいなこと言ってる。
“面白いから”って理由で大物たちに目をつけられるの、どうなんだろう。
ありがたいのか困るのか、まだよくわからない。
すると、そのときだった。
アウレリア王妃が一歩前に出た。空気が変わる。
つい先ほどまでの驚きや警戒が、すっと衣の内側へ収められていくのがわかった。
王妃様は竜の前で立ち止まり、静かに礼をとる。その所作には、一分の乱れもなかった。
「はじめまして、珠竜イリディオン」
声は落ち着いていて、よく通る。
「私はアルマシア王家に連なる、アウレリアと申します」
名を名乗る、そのたった数秒のあいだに、さっきまで驚いていた人と同じ人には見えなくなっていた。
驚きが消えたわけではないのだと思う。
それでも、必要な場で必要な姿になる。
それが王妃としての身のこなしなのだと、目の前で見せられた気がした。
「このような場でお目にかかれるとは、光栄です」
その礼は美しかった。
ただ丁寧というだけじゃなく、相手が竜であることを真正面から認めたうえで、それでも自分が何者であるかを崩さずに立っている礼だった。
イリディオンは、その姿をじっと見つめる。
「ふむ。ミュリルから話は聞いておる。隣国の王妃か」
私は思わずミュリルさんのほうを見た。
ミュリルさんは、なぜか少し誇らしげだった。
……ミュリルさん、イリディオンに何を教えてるの?
いや、必要なことなんだろうけど。
でも“隣国の王妃”まで説明済みなのはちょっと情報共有が濃い。
そのあと、お母様も前へ出た。王妃様のような澄んだ気配とは少し違う。
お母様の足取りにはまだほんのわずかなためらいがあって、でもそのためらいごと前へ運んでくる強さがあった。
「クレディア領主の妻、マリアンヌ・リベルです」
そこで一瞬、声が深くなる。
「ノアの母です」
その“母”という言葉が、私の胸にまっすぐ届いた。名乗りというより、宣言だった。領主の妻である前に、ノアの母。何があっても、その立場だけは譲らないという、静かで強い意思が、その短い一言にすべて乗っていた。子どもだけは死んでも守る。そんな言葉にすれば大げさになるかもしれない。でも今のお母様には、それくらいの重さが確かにあった。
イリディオンの蒼の瞳が、ほんの少しやわらいだ気がした。
「ノアの母君か」
その呼び方にも、どこか敬意があった。
「我のような存在が目の前にいるのだ。そなたの不安はもっともだ」
お母様は答えず、ただまっすぐ竜を見ている。恐れていないわけではないのだと思う。でも視線を逸らさない。
そのまなざしの奥にあるものを、イリディオンも読み取っているのだろう。
「だが我は、ノアとその家族は害さぬ」
境内の風が一度、静かに抜ける。
「それは誓おう」
誓う。竜が口にするその言葉は、軽くなかった。約束というより、もっと古くて、もっと重いものに聞こえた。破れば自分自身の誇りまで砕けるような、そういう種類の言葉。
お母様はすぐには返事をしなかった。ほんの短い沈黙。でもそのあいだに、顔のこわばりがわずかにほどけていくのがわかった。
「……ありがとうございます」
ようやく出た声は、まだ完全には緩んでいなかった。不安が消えたわけではない。
それでも、竜の誓いを受け取って、そこに少しだけ寄りかかることを許した声だった。お母様の肩から、目には見えない硬さがほんの少しだけ抜ける。
イリディオンの視線が、ゆっくりとエルミナさんへ向いた。
蒼の瞳に見つめられた瞬間、エルミナさんの背中がぴし、と見えない糸で引かれたみたいに固まる。
「そこにいる小娘が、新しい先生とやらか」
「ヒッ」
小さく、でもはっきり聞こえた。
エルミナさんは自分でもその声に驚いたみたいに目を瞬かせ、それから慌てて姿勢を整える。
「は、はい。エルミナ・ヴェルローゼです。よ、よろしくお願いしましゅっ」
噛んだ。しかも最後の最後で、きれいに。その瞬間、境内の空気がわずかに止まる。
エルミナさんは口元を押さえたまま、たぶん今すぐ消えてしまいたいと思っている顔をしていた。耳まで赤い。
イリディオンは少しの間、何も言わなかった。それが逆に怖い。
「……人間どもの子らに知恵を授けるにしては、いささか不安だな」
「うぐっ」
短い呻きが漏れる。エルミナさんの肩が目に見えて沈んだ。でもそれだけでは終わらなかった。
イリディオンはなおも彼女を見つめ、その視線の奥で何かを量るように目を細める。
「ふむ。精霊と契約した召喚士か」
その声が少し低くなる。
「しかも、ここの精霊すべてと契約しているな」
「え……」
エルミナさんだけでなく、私も思わず声を漏らした。そんなところまで見えるの?イリディオンは当然のように続ける。
「なるほど。力だけはそれなりにあるようだな」
そこで一度、言葉が切れる。褒められた、と思ったのは一瞬だった。
「だが、まだ使いこなせてはいないと見える」
「……っ」
エルミナさんの指先が、服の裾をそっとつまむ。否定できない、と顔に書いてあった。悔しいのだと思う。でも図星でもあるから、言い返せない。
私はそんな横顔を見ながら、竜の目ってすごいな、と妙に感心してしまった。魔力の流れとか、契約の痕跡とか、そういうものが見えているのだろうか。
イリディオンはそれ以上追及せず、ふっと視線を外した。
「ところで、今日は大勢集まって何かの話し合いか」
その問いに、待ってましたと言わんばかりにミュリルさんが一歩前へ出る。
この人、こういうとき本当に話に入るのがうまい。
「そうなのよ。実はね――」
ミュリルさんはいつもの調子で、学院の話を手短に、でも要点はきっちり押さえて説明した。
子どもたちのための学び舎を作ること。
語学や算術、歴史や地理、魔法や武術、作法やお金のことも教えたいこと。
そして、そのための物件まで決まったこと。
イリディオンは途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
やがて、低く喉を鳴らす。
「人間どもの子らの学び舎か」
その言葉が境内に落ちる。
「面白いことを考えるではないか」
私はその響きの中に、ちゃんと好意的な色を感じた。少なくとも、つまらぬと切り捨てる声音ではない。
「それで」
イリディオンの視線が、私たちの顔を順に撫でる。
「その学び舎の名は、何と言うのだ」
「……あ」
誰かが小さく声を漏らした。
そういえば名前、決めていなかった。
学院を作る話、教える内容、場所、体制――そういう話はたくさんしていたのに、肝心の“なんという場所なのか”はまだ空白のままだった。
私たちは顔を見合わせる。
「学院……」
王妃様がぽつりと呟く。
「学園という響きも、やわらかくて良いかもしれませんね」
「でも武術も魔法も学ぶのよね?」
ミュリルさんが首を傾げる。
「だったら“学院”のほうが重みがあるかしら」
お母様も思案するように言う。
「貴族の子も、将来は平民の子も通うのでしたら、“学校”という呼び方もわかりやすいですが……」
エルミナさんは、さっき噛んだのを少し引きずっているらしく、まだほんのり顔が赤いまま小さく口を開く。
「ま、魔法と剣と、学問と……その、その他も学べる場所、ですよね……」
私はみんなの声を聞きながら、なんとなく頭の中で言葉を並べていた。
学院。学園。学校。
前世で言うなら、小中一貫校のようなイメージが近いのかもしれない。基礎から始まって、少しずつ専門へ進んでいく場所。読み書きから、武術も、魔法も、生活の知恵も。
――色んなことを学ぶ場所。
私はふと、イリディオンを見上げた。
白銀の鱗。月虹の珠竜。月虹。虹。七色。
その瞬間、頭の中で何かがぱちんと繋がった。
「……そうだ」
私は思わず一歩前へ出る。
「イリディオン!」
呼ばれた竜が、ゆるやかに首を傾けた。
「あなた、学院になってください!」
「……すまん、ノア。何のことだ」
それはそうだ。私も言ってから、だいぶ変なことを口走った自覚があった。でも、もう少しちゃんと言えば伝わる気がした。
「その……学院の象徴になってほしいんです」
私は自分の中に浮かんだものを、ひとつずつ言葉にしていく。
「学院は、子どもたちが学ぶ場所です」
「魔法とか武術とか、読み書きとか、経済とか、作法とか……そういう色んなことを学ぶ場所で」
口にしながら、さっきまでみんなで話していた内容が頭の中に広がる。
教室。机。黒板。笑い声。失敗。成長。
そして、その真ん中に立つ“目指すもの”。
「その中心に、“何を目指すか”を示す象徴があったほうがいいと思うんです」
私はイリディオンを見上げた。
「強くて、気高くて、知恵があって、ちゃんと守る力もあって……」
言いながら、自分でも驚く。
今の言葉は、考えてひねり出したというより、見たままをそのまま並べただけだった。
「そういうのを見たとき、私の中ではイリディオンが浮かびました」
イリディオンは、私の中で“ただの力”の象徴じゃない。大きいからすごいのでも、強いから怖いのでもない。神秘があって、威厳があって、美しさがあって。そのうえで、守るものを持てる大きな存在。学院が目指したい姿に、すごく近い。子どもたちが学びながら見上げる先に、こういう“何か”がいたら、絶対に忘れないと思う。
イリディオンは、少しだけ顎を上げた。
「ほう」
短い声だった。
でも、その一音にちゃんと興味が混じっている。
「人間どもの学び舎。その象徴が、我というわけだな」
「はい!」
私は強くうなずく。
「学院章に月虹の珠竜を入れたら絶対綺麗ですし、名前にイリディオンを入れても格好いいし、それに……」
そこまで言ってから、少しだけ言葉が詰まった。
急に、自分がだいぶ本気で口説いているみたいな気がしてきて、ちょっとだけ照れくさい。
でも、ここまで言ったなら最後まで言うしかない。
「イリディオンも、嬉しいかなって」
言い終わるころには、ほんの少し頬が熱かった。
境内の風はさっきと同じように吹いているのに、耳だけ妙に熱い。
一拍の間。
イリディオンは何も言わなかった。
その沈黙のあいだ、私は自分の言葉が変だっただろうかと少しだけ不安になった。王妃様たちも、お母様も、ミュリルさんも、誰も口を挟まない。
でもその沈黙を破ったのは、低く響く満足そうな声だった。
「……いいな。実にいい」
私はぱっと顔を上げた。
「本当ですか?」
「うむ」
イリディオンの瞳が、誇らしげに細められる。
「人間どもの子らが、学び、技を磨き、知を重ねる場」
その言葉は、まるでゆっくりと噛みしめるようだった。
「その印として我が掲げられるのであれば、悪くない」
悪くない、という言い方だったけれどその声音には、はっきりとした満足があった。
私は胸の奥で、何かが勢いよく弾けるのを感じた。
やった。本当に、やった。
あのイリディオンが、学院の象徴になることを認めてくれた。
それだけで、まだ名前も決まっていないはずの学び舎が、急に輪郭を持ちはじめた気がした。
「イリディオン、ありがとうございます。本人公認ですね」
私がそう言うと、イリディオンの蒼の瞳がゆるやかに細まった。
その隣で、王妃様の視線が静かにドラゴンへ向かう。
「……それは、まことですか」
声音は落ち着いていたけれど、そこに含まれている慎重さははっきり伝わってきた。驚きの余韻を引きずっているわけではない。ただ、軽々しく受け取ってはいけない話だと、きちんとわかっている声だった。
イリディオンは胸を張るように首を上げる。
「うむ」
ひとつ頷いたあと、誇りを帯びた低い声が続いた。
「人間どもの子らが学ぶ場に、我が名と姿を与える」
「悪くない提案であった。ゆえに許した」
その言い方が、いかにもイリディオンらしい。
認めてやる、ではなく、許した。
上から目線のようでいて、不思議と嫌味には聞こえないのは、相手が本当にそういう高みにいる存在だからだろう。
そこでようやく、ミュリルさんが口を開いた。
「ちょ、ちょっと待って!」
珍しく声が裏返っていた。
「本当に本人公認なの!?」
「はい」
「はい、じゃないのよノアちゃん!」
ミュリルさんが片手を額に当てる。
笑いたいのか、呆れたいのか、たぶん自分でも整理が追いついていないのだと思う。私も少しだけ肩をすくめた。
「でも、ちゃんと話して、ちゃんと許可もらいましたよ」
「そういう問題かしらこれ……」
たぶん問題だと思う。でも、それでもそうとしか言いようがない。
王妃様はそのやりとりを見て、口元にそっと手を添えた。きちんと整えられた表情の端から、ほんの少しだけ笑みがこぼれる。たぶん“本人公認”という言い方が、あまりにもそのまますぎて可笑しかったのだろう。
でもその笑みは一瞬で整えられた。王妃様は改めてイリディオンへ向き直る。
「そのような名誉ある許しをいただけるのであれば、学院にとってこれ以上ない光栄です」
言葉のひとつひとつが、よく磨かれたガラスみたいに澄んでいる。
「ただ、もしその名をお借りするならば、こちらも軽い気持ちでは扱えません」
その一言で、場の空気がすっと引き締まった。
私は思わず背筋を伸ばす。
さっきまで私の中では、たしかにかなり勢いのある思いつきだった。かっこいいから。学院章に入ったら絶対きれいだから。イリディオンも嬉しいかなって。
もちろん本気ではあったけれど、本気の種類が少し違っていたのだと思う。
でも王妃様は、その提案を“場の象徴を借り受けること”として受け取り直した。
それだけで、話の重みが変わる。
「学院の理念も、育てる人材も、その名に恥じぬものでなければならないでしょう」
言い終えた王妃様の声は穏やかだった。それなのに、そこへ至るまでの覚悟の線がまっすぐ見える気がした。
イリディオンが、満足そうに鼻を鳴らす。その低い音が、境内の石畳を転がるように響いた。
「そなたは分かっているようだ。名だけを飾るのでなく、その名に見合う場を作る。それでこそ意味がある」
私はそのやり取りを聞きながら、胸の奥がじわじわ熱くなるのを感じていた。
なんというか――
すごく、“ちゃんとした話”になっている。
さっきまで私の中では、かなり直感的なひらめきだったのに。
でも王妃様が礼を尽くし、イリディオンがそれに応じたことで、思いつきだったはずのものが急に骨を持ちはじめた。
学院の名前。学院章。そこに込める意味。そういうものが、いま目の前で形を得ていく。
王妃様はさらに一歩、話を進めるように言った。
「では、もし差し支えなければ」
少し間を置いて、きちんと確認するように続ける。
「学院章の意匠として、月虹の珠竜の姿を用いること。そして学院名に“イリディオン”を含めること。この二点について、正式にご了承をいただけると考えてよろしいでしょうか」
空気がまた静かになる。イリディオンはすぐには答えなかった。
しばし黙し、空を背に翼をゆっくりとたたむ。その仕草ひとつで、周囲の景色が少しだけ澄んで見えた。大きなものが静かに身じろぐだけで、場そのものの輪郭が変わる。
やがて、竜の声が落ちてくる。
「よかろう」
その言葉に、私は思わずほっと息をつきかけた。でも次に続いた言葉で、息は半ばで止まる。
「ただし、条件がある」
私は反射的にイリディオンを見た。王妃様もまた、表情を崩さず静かにうなずく。
「お聞かせください」
イリディオンの瞳が、深く静かな光を宿す。
「半端な学び舎とするな」
その言葉は重かった。
怒鳴っているわけではないのに、胸の奥へ沈む。
「力だけを教えるな。知だけを誇るな」
私は無意識に息を詰める。
それは学院への条件であると同時に、学ぶということそのものへの問いのようにも聞こえた。
強ければいいのか。
賢ければいいのか。
そうではないだろう、と。
「学びし者が、己を磨き、他を守り、誇りを持って立てる場とせよ」
その声は、重いのに澄んでいた。大きな竜の喉から発せられているのに、不思議と空の高いところから落ちてくる言葉みたいだった。
私はそれを聞きながら、自然と表情が引き締まるのを感じた。
ただ勉強を教える場所ではない。ただ剣や魔法を覚える場所でもない。そこを出た子どもたちが、何者として立つのか。そのための場所でなくてはならない。
王妃様もまた、その言葉をまっすぐ受け止めていた。目を逸らさず、飾らず、ひとつ残らず受け止めたうえで、静かに答える。
「……承りました」
その声には、王妃としての気品だけではなく、学院を立ち上げる者としての決意が宿っていた。
「そのような学院にすることを、お約束いたします」
約束。軽い言葉ではない。
でも今の王妃様が口にすると、それは願望ではなく、もう始まりかけている誓いのように聞こえた。
イリディオンは、しばらくその顔を見つめる。それからゆっくりと頷いた。
「ならばよい」
たったそれだけ。なのに、その一言で何かが正式に定まった気がした。
私は胸の奥で、小さく脈打つものを感じる。
学院はまだ、建物も整っていない。生徒もいない。名前だって、これからみんなで詰めていくのだろう。
でも、その“中心”だけは、今ここで確かに置かれたのだと思った。
月虹の珠竜イリディオン。
その名を掲げるに足る学び舎。
そこへ向かう約束が、境内の光の中で、静かに交わされた。
イリディオンから公認をもらった、その余韻は思ったよりずっと大きかった。
胸の奥に落ちた火種みたいなものが、消えるどころか、むしろ次々と新しい形を取り始める。学院の名前。学院章。校舎の雰囲気。教室。制服まで、気を抜くとどんどん先へ進んでしまいそうだった。
「そうと決まれば、次は学院章ですね」
私が勢いのまま言うと、ミュリルさんが呆れたように笑った。
「ノアちゃんの中では、もう学院で決定なのね」
「はい」
そこは迷わなかった。
学園でも学校でもなく、今の気分は“学院”だった。なんというか、学問も魔法も武術も、全部ひっくるめて前へ進んでいく感じが、その響きにはある。
私はすぐにナギさんを振り向いた。
「ナギさん、紙と色の筆ってありますか」
ナギさんは、ほんの一瞬だけ私の顔を見た。
それだけでたぶん察したのだと思う。
「こちらへ」
短くそう言って、宿のテーブルへ案内してくれる。
用意されたのは、画用紙とクレヨンだった。
筆じゃなかったけれど、むしろ今の私にはちょうどよかった。頭の中に浮かんでいるものを、そのままの勢いで置いていくには、こういう道具のほうがいい。
私は椅子に座る。
白い画用紙を前にすると、胸の中が少しだけ静かになる。
さっきまで言葉だったものが、今度は形になろうとしているのがわかった。
まず、大きな盾を描いた。
学院章だから、土台はしっかりしていたほうがいい。守るもの、掲げるもの、その両方の意味を持たせたいと思った。
その内側には夜空。
深い紺色を何度も重ねて、ところどころに星を散らす。
上には月。
ただの丸い月じゃなくて、少し装飾の入った神秘的な月がいい。静かで、でもただやさしいだけじゃない、夜を照らす象徴。
その下に虹を描く。七色の橋。
月虹の珠竜であるイリディオンにふさわしい色彩。
そして中心には、翼を広げたイリディオン。
白銀の竜が、誇り高く真ん中に立つ。威圧ではなく、見上げたくなるような強さ。守る力と、知を見守るような静けさ。その両方を絵の中に入れたかった。
さらに、その下へ。
本をひらく。学ぶことの象徴。その左右に杖と剣。
魔法と武術。どちらか一方ではなく、どちらも学べる場所だと一目でわかるように。
最後に、左右を包むように月桂樹の葉を描き込む。
勝利とか栄誉とか、そういう意味だけじゃなくて、努力を重ねた先に得るものの形として、なんとなくこれがしっくりきた。
描いているあいだ、まわりの声はほとんど耳に入らなかった。
クレヨンの先が紙を擦る感触と、色を重ねるたびに少しずつ輪郭が立ち上がっていく感覚だけが、やけにはっきりしていた。
こういうとき、私はたぶん考えているというより、“見えているものを追いかけている”のだと思う。
頭の中に先に完成形があるわけじゃない。
でも線を置くごとに、こっちだ、とわかる。
月を少し上へ。
虹はもっと鮮やかに。
イリディオンの翼は、左右に大きく。
本は中央で、剣と杖は少し斜めに交差気味に。
そうやって整えていくうちに、白い紙の上に“学院の顔”が生まれていった。
「……できた」
最後に少しだけ離れて見て、私はそう呟いた。
胸の中にあったものが、ちゃんと外に出ている。それがわかると、急に息が軽くなる。
私は画用紙を持って、外へ出た。
まだ境内にいるみんなの前へ行き、少しだけ高く掲げる。
「できました」
最初に反応したのはミュリルさんだった。
「ノアちゃん、絵、上手ね」
その声に、私は少しだけ肩の力が抜ける。
次いで王妃様が近づき、お母様も、その横から静かに覗き込む。エルミナさんは目を丸くしたまま、画用紙と私の顔を何度か見比べていた。
「これは……」
王妃様の声が、途中で少し途切れる。
驚いたのか、考え込んだのか、その両方かもしれない。
「このまま使えそうですね」
ナギさんが静かに言った。
「え」
私は思わず聞き返してしまう。
「採用ですか。修正とかは」
自分で言っておいてなんだけど、もっとこう、“ここを直したほうが”とか、“もう少し簡略化を”とか言われると思っていた。学院章なんて、もっと厳密に詰めるものだと思っていたから。
でもミュリルさんは首を横に振る。
「要らないわよ」
その言い方が、あっさりしているのに、妙にあたたかかった。
「ノアちゃんがやりたいことが、この中に詰まってる」
私はもう一度、自分の描いた学院章を見る。
夜空。
月。
虹。
翼を広げるイリディオン。
本と杖と剣。
月桂樹。
たしかに、全部入っていた。
学院で学んでほしいこと。
目指してほしい姿。
強さと知恵と誇りと、美しさまで。
思いつきの勢いで描き始めたはずなのに、見返すと、ちゃんと“今の私たちが作ろうとしているもの”になっている気がした。
王妃様が、その絵を見たまま静かに言う。
「学院の理念を、形にしたようですね」
その言葉に、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
褒められた、というより、きちんと受け取ってもらえた感じがした。
エルミナさんは、まだ少し信じられないような目をしていたけれど、やがてふっと笑った。
「……すごいです」
その“すごい”は、絵そのものへというより、私の中からこういうものが出てくることに向けられている気がした。
イリディオンもまた、その学院章をじっと見ていた。
蒼の瞳に、月と虹と、自分自身の姿が映り込んでいる。
ただ、その絵を前にしているあいだだけ、境内の風まで少し静かだった。
学院はまだ始まってもいない。建物も整っていないし、生徒もいない。
それでも、こうして章が描かれて、みんながそれを囲んで見ていると、もうどこかに“始まり”があるように思えた。
白い画用紙の上にあるのは、ただの絵じゃない。
これからそこへ向かっていくための、ひとつの旗印なのだと。
学院章が決まった、その瞬間から私の中ではもう次のものが動き始めていた。
盾の中の夜空、月と虹、イリディオンの翼。その絵が形になったことで、ばらばらだった考えが一気につながった気がしたのだ。名前があり、印があり、そこに通う子たちの姿まで、もう頭の中で勝手に歩き始めている。
「次は制服を描いてきますね」
言いながら、私はもう半分そちらへ気持ちが向いていた。
宿へ戻る足が自分でも少し速い。
後ろでミュリルさんが笑う声が聞こえた。
「ノアちゃん、楽しそうね」
「もうあの子ったら。すみません、王妃様」
お母様の声には少しだけ呆れが混じっていたけれど、完全に止める調子ではなかった。
王妃様はやわらかく首を振る。
「いえいえ。ノアさんの思い付きで助かっているところもありますから」
「ノアは実に面白いな」
イリディオンの低い声まで重なって、私は振り返りもせずに小さく手を振った。
だって、止まれない。
学院章が決まったなら、次は制服だ。
子どもたちがそこへ通う姿を、ちゃんと形にしたい。
宿のテーブルに戻ると、さっきの画用紙とクレヨンがまだそのまま残っていた。椅子に座ると、胸の奥が少し熱くなる。今度は、もっと具体的だ。誰かが着るもの。歩くもの。笑うもの。
私は新しい紙を前にして、少しだけ考える。
まずは――私が入学したときに着たい制服。
かっこよくて、かわいいやつ。
それが大前提だった。
ただ派手なだけでは違う。ただ真面目すぎても、つまらない。
学院章と並んでも負けなくて、でも子どもが着たときにちゃんと“憧れ”になる服。そんなものがいい。
私は紺色のクレヨンを取った。
最初に決めたのは、全体の色だった。
深い紺。夜空を思わせる色。
学院章の背景ともつながるし、落ち着きがあって、きちんと見える。でも黒ほど重くなくて、子どもが着ても沈みすぎない。そこへ金の縁取りを入れる。細く、でもしっかり目立つくらいに。月の光みたいな金なら、紺の中でよく映えるはずだ。
上着は詰めすぎない形のジャケットにした。
肩や襟はきちんとしているけれど、軍服みたいに硬くはしない。前には金のボタンを並べて、袖口にも金のラインを入れる。ポケットの縁まで同じ色で揃えると、それだけで全体が締まって見えた。
胸元には学院章。
大きすぎず、でもちゃんと“この学院の子”だとわかる位置に、盾型の紋章をつける。月と虹と珠竜の意匠が入ったその印は、制服の上だといっそう映えた。
それから、ここが少し悩んだ。マントみたいなものをつけたい。
でも本格的な長マントだと重たいし、動きにくい。だから肩にかかる短いケープみたいな形にした。肩を包むように広がって、後ろへ流れる短い外套。制服そのものに重ねることで、ちょっとだけ特別感が出る。しかもその縁にも金の装飾を入れて、片側に月の意匠を添える。
これだ。
普通の服より少しだけ“学院らしい威厳”があって、でも子どもが着ても絵になる。
男子のほうは、ジャケットに半ズボン。
すっきりしていて動きやすい。膝下までの紺の靴下と黒い革靴を合わせれば、きちんとして見える。胸元はネクタイにして、金と紺の細い縞を入れると、少し大人っぽくなる。
女子のほうは、同じジャケットを基調にしつつ、下はプリーツの入ったスカートにした。
裾には金の細いラインを二本。歩いたときにそこが少し揺れるだけで、夜空に走る星の線みたいに見える。首元はリボンにして、男子のネクタイと同じ紺と金を使う。大きすぎないほうが上品だ。でも髪につけるリボンは少し大きくてもかわいい。
そう考えて、女子の髪飾りには濃い紺の大きめのリボンを添えた。
靴はどちらも黒。
つやのある、きちんとした形。貴族の子も平民の子も同じ制服を着るのなら、ここは統一感が大事だと思った。
私は紙の中に、男の子と女の子、両方の姿を並べて描いていく。
並べたときに、ちゃんと“同じ学院の制服”に見えること。でも、それぞれの可愛さとか格好よさもあること。
男子は少し凛々しく、女子はやわらかく。
でもどちらも、胸を張って立ったらちゃんと絵になる。
描き進めるうちに、服の細部がどんどん見えてくる。
ケープを留める金具は月と小さな花を合わせたような形がいいかもしれない。
襟元の線は少し細めのほうが上品だ。
女子のスカートには、よく見ると小さな星みたいな散り模様が入っていてもいい。
男子の半ズボンはあまり幼く見えないよう、丈を少し整えて、金のラインを裾にひとつだけ。
私は夢中で手を動かした。
紙の上に色が重なっていくたび、まだいない生徒たちが、その制服を着て校舎の中を歩く姿が頭の中で増えていく。友達同士で笑っている子。緊張しながら教室へ入る子。剣術の授業へ向かう子。図書室で本を抱える子。
制服って、ただの服じゃない。
その場所へ属していることを、自分でも感じられるものだ。だから、ちゃんと大事にしたかった。
「……こんな感じかな」
最後に少し離れて見て、私はそう呟いた。
うん。いいと思う。かっこいいし、かわいい。学院章との相性も悪くない。
夜空の紺と月の金、その中に珠竜の気配がちゃんとある。
私は紙を持って、また外へ出た。みんなはまだ境内にいて、さっきの学院章の余韻が残る空気のまま、次のものを待ってくれていたらしい。私が近づくと、ミュリルさんがすぐに気づく。
「もう描けたの?」
「はい」
私は紙を見せる。
「こんな感じかなって」
最初に声を上げたのは、お母様だった。
「あら、かわいいわね」
その言い方に、胸の中の緊張が少しやわらぐ。王妃様も近づいて、じっと絵を見る。
「紺色ですか」
指先で触れはしないまま、目で細部を追っていく。
「落ち着いたいい色ですね」
「学院章と合わせたくて」
私がそう言うと、王妃様は小さくうなずいた。
「夜空と月虹の意匠ともよく合っています」
エルミナさんは、男の子と女の子の服を見比べていた。
「この短いケープ、素敵ですね……普通の制服より特別な感じがします」
「ですよね」
そこはけっこう気に入っていたので、わかってもらえてうれしい。
「あと、胸の章もいいです。上着の形がきちんとしてるのに、堅すぎなくて……」
ミュリルさんも身を乗り出して見る。
「これ、すぐ仕立てに回せそうじゃない?」
その言葉に、私は目をぱちぱちさせた。
学院章のときもそうだったけれど、みんなの“もうこれでいける”の判断が早い。
でもそれだけ、ちゃんと受け取ってもらえているのだと思うと、胸の奥がふわっと明るくなる。
私はもう一度、紙の中の制服を見た。
まだ布にもなっていない、絵の中の制服。
でも、それを着て笑う自分の姿だけは、もう少しだけはっきり見える気がした。
制服の話がまとまりかけたところで、私はもうひとつ思いついたことを口にした。
「成長したら、男子はズボンになります」
紙の中の制服を指で示しながら続ける。
「それと、学年でネクタイやリボンの色を変えたいです」
「学年で?」
王妃様が少し身を乗り出す。
「はい。その年に入学すると、その学年に色が与えられるんです」
言葉にしていくうちに、頭の中の景色がどんどん鮮明になる。
「次の年に入学した子たちには別の色を。そうして学年が色で判別できて、進級して卒業すると、卒業した学年の色が次の新入生の色になるんです」
春ごとに新しい色が加わって、去った色がまた巡ってくる。
校庭に並ぶ生徒たちの胸元や首元に、それぞれの学年の色が揺れる。
それを想像するだけで、なんだか胸が少し弾んだ。
「いい考えですね」
王妃様が、迷いなくうなずいてくれた。
その目は少し遠くを見ているようでもあった。たぶんもう、色違いのネクタイやリボンをつけた子どもたちが、校舎の前に並んでいる光景を思い浮かべているのだろう。
ミュリルさんも、制服の絵を覗き込みながら言う。
「見分けやすいし、愛着も湧きそうね」
自分の学年の色。それはきっと、子どもたちにとってただの飾りじゃなくなる。あの色を身に着けた学院生活とか、あの色の先輩に憧れたとか、そういう記憶になるはずだ。
私はその流れのまま、ぽつりと呟いた。
「……イリディオン総合学院……」
「それ、いいですね」
王妃様がすぐに反応する。
でもミュリルさんは少しだけ眉を上げた。
「最初から規模が大きすぎない?」
「たしかに」
私は少しだけ笑う。
でも“総合”という言葉は、やっぱりしっくり来た。魔法だけでも、剣だけでもなく、学問も、生活の知恵も、作法も、いろんなことをまとめて受け止める場所なのだから。
そのときだった。ミュリルさんが顎に手を当てて思案する。
「このままだとルメリア魔法学院と似たような形になるわね。いいとは思うけど新しく作るなら何かこの学院の特別なものがほしいわね」
たしかに。私もこの学院に、何か特別なものが欲しいと思った。
制服でもない。
学院章でもない。
前世の学校にはなかった、この世界ならではの、はっきり特別だと言えるもの。
考えながら、無意識にポケットへ手を入れる。指先に、薄い板状の感触が触れた。
「あ」
それを取り出した瞬間、私の中で何かが繋がる。
「入学する生徒に、これを支給しましょう」
私が見せたのは、お婆様のストレージユニットのカードだった。
「ノアちゃんのアイテムボックス?」
ミュリルさんが目を丸くする。
「はい」
私はカードを指先で持ち上げたまま言った。
「学院に通う子どもたちは、荷物が多くなると思うんです。本や筆記用具とか、道具とか、とにかく物が多くなります」
前世の通学鞄の重さを思い出す。
教科書、ノート、筆箱、体操着、たまに変な工作道具まで。あれを毎日持って歩くのは、正直かなり大変だった。
「それを毎日持っていくのは大変です。でも、このカードがあれば持ち運びは簡単だし、教室に収納場所を確保する必要もありません」
私はカードを裏返して見せる。
「表は学生証。裏はストレージユニットの付与術や刻印術、という形にしたらどうかなって」
一瞬、場が静かになった。悪くない、と直感で思った。むしろかなりいいと思う。
学院章と同じで、これも“この世界の学校らしさ”になる。普通の紙の学生証じゃなくて、持ち物を整理して、学ぶことそのものを支える魔導具としての学生証。
でも、最初に難色を示したのはミュリルさんだった。
「アイテムボックスか……」
腕を組み、少し考える顔になる。
「確かに便利ね。私もルブランさんの雑貨店で見つけたけど、あれ中に入る容量がバラバラだったのよね」
「容量が?」
「そう。見た目は同じでも、中の広さが違ったり、数に制限があったり」
なるほど。
前世の工業製品みたいに、全部が同じ規格で出てくるわけじゃないのか。
王妃様もその話を受けて、静かに考え込む。
「魔導具を生徒に持たせるのであれば、機能や容量は統一したいですね」
「ですよね……」
私は小さくうなずいた。
同じ学生証のはずなのに、ある子はたくさん入って、ある子は少ししか入らない、では不公平だし、管理も難しい。
するとエルミナさんが、おずおずと口を開いた。
「私、魔法学院で魔道具の製作で付与術や刻印術を学びましたけど……」
言いながら、視線が私のカードに落ちる。
「ノア様が言うような機能ですと、かなり高価な素材が必要ですよ」
その言葉は、やっぱりという感じでもあった。
便利なものほど、簡単ではない。特に魔導具は、夢みたいな機能ほど素材が現実を突きつけてくる。
「やっぱり、そうなりますよね……」
私はカードを見つめたまま呟いた。
安くて、安定して手に入って、しかも高品質な魔導素材。
そんな都合のいいものが、この世界にあるだろうか。
私は考えながら、なんとなく周りを見渡す。
王妃様、お母様、ミュリルさん、エルミナさん、ナギさん――そして、少し離れてこちらを見ていたイリディオンと、ぱちりと目が合った。
その瞬間だった。目の前で白銀の鱗が光る。
月虹の珠竜。ドラゴン。強大な魔力を帯びた存在。
そして、その身体を覆う、いかにも高級そうな素材。
「……今度は何だ、ノア」
イリディオンが、少し警戒した声を出す。
私は勢いよく顔を上げた。
「イリディオン!」
そのまま、思いついたことをほとんどその速度のまま口にしてしまう。
「その鱗下さい!」
「貴様!」
イリディオンの声が境内に響く。
「我の名と姿だけでは飽き足らず、鱗まで剥ぐ気か!」
「ち、違います違います!」
私は慌てて両手をぶんぶん振った。ものすごくごもっともな怒り方だった。
私もさすがに「言い方が悪かった」と一瞬で分かった。
「剝ぐっていうか、えっと、自然に落ちたやつとか! 欠片とか! ほんのちょっとでいいんです!」
ミュリルさんが横で吹き出す。
「ノアちゃん、それ最初に言わないとだめでしょ!」
「だって思いついちゃったんですよ!」
イリディオンは明らかに不機嫌そうに尾を打った。
でも完全に怒っているというより、“また妙なことを言い出した”という呆れのほうが強そうだ。
「我を何だと思っている」
「いや、すごく高性能な神秘素材の供給源……じゃなくて!」
口が滑った。
しまったと思ったころには、ミュリルさんが大笑いしていた。
「だめ、もうだめ……ノアちゃん、それ本人の前で言っちゃうの!?」
王妃様も口元を押さえて肩を震わせている。
お母様はさすがに少し困ったような顔をしていたけれど、笑いをこらえきれていない。
私は慌てて咳払いした。
「と、とにかくです」
「イリディオンの鱗って、すごく魔力が安定してそうじゃないですか」
「学院章にもイリディオンを使うなら、学生証兼ストレージユニットの核にイリディオン由来の素材を入れたら、学院らしい特別な支給品になります」
「それに、同じ鱗から取れた素材なら、規格もある程度揃えやすいかなって」
言いながら、だんだん自分でも“これかなり良い案では?”という気がしてくる。
ただの思いつきではなく、ちゃんと理屈がある。
ミュリルさんも笑いを収めながら、今度は真面目な顔になってきた。
「……たしかに」
「学院の象徴と実用品が繋がるのは強いわね」
王妃様も静かに頷く。
「ええ。しかも、カードそのものが学院の格式と理念を帯びることになる。単なる便利品ではなく、“イリディオン総合学院の生徒である証”にもなるでしょう」
ナギさんが補足する。
「自然に落ちた鱗片、あるいは削り出した微細な欠片を核材にするなら、量産は可能かもしれません。一枚を丸ごと使う必要はないでしょう」
エルミナさんも、少し目を輝かせていた。
「魔力伝導性も高そうですし、刻印保持にも優れていそうです。もし薄片を粉末化して核材へ混ぜる形なら、かなりの枚数が作れるかもしれません」
イリディオンは、みんなが急に真面目に検討し始めたのを見て、少しだけ呆れたように鼻を鳴らした。
「……人間どもは、気に入ると本当に遠慮がないな」
私は少しだけ身を縮める。
「すみません。でも、すごくいい案だと思って。子どもたちが持つ学生証で、教科書も教材も全部入って。年に一回の測定で顔写真も更新されて。卒業したら機能制限が解除されて、ずっと使える。しかもその核がイリディオンの鱗由来だったら、絶対に誇らしいです」
最後の言葉に、イリディオンの瞳が少しだけ細くなる。
その変化はわずかだったけれど、たぶん悪い意味ではなかった。
「……誇らしい、か」
「はい。ただ便利だからじゃなくて、学院の象徴として持てるんです。みんなが“イリディオン総合学院の生徒です”って胸を張れるようなものになると思います」
しばしの沈黙。境内を昼の風が抜けていく。
その中で、イリディオンはゆっくりと首をもたげた。
「自然に剥離した鱗なら構わぬ」
「えっ」
私は思わず顔を上げた。本当に?本当にいいの?
イリディオンは相変わらず大仰なくらい威厳たっぷりに続ける。
「わざわざ剝がさせるのは論外だ。だが時に落ちる薄片程度なら、我にとって痛くも痒くもない。それを用いて子らの学びの道具を作るというなら、悪くない」
「本当ですか!」
「ただし」
イリディオンの声が一段低くなる。
「粗悪なものを作るな。我が名も鱗も、安物の目くらましに使うことは許さぬ」
「はい!」
私はびしっと背筋を伸ばした。
「そこは絶対です」
ミュリルさんもにやりと笑う。
「ええ、分かってるわ。やるなら本物にする。学院の支給品で、持ってるだけでちょっと誇らしいくらいのものにしないとね」
王妃様が静かにまとめるように言った。
「では、こうしましょう」
「イリディオン様由来の鱗片を認証核とした、生徒用ストレージカードを学院支給品として設計する。表面は学生証、裏面は収納刻印。年一回の測定で情報更新。卒業時に一部制限解除。そして学院の象徴として扱う」
その整理があまりに綺麗で、私は思わず何度も頷いた。
「完璧です」
エルミナさんも感心する。
「すごい……本当に学院の特別なものになりそう」
お母様もやわらかく微笑む。
「生徒たちにとって、入学の記念にもなりますね。最初にもらって、毎年更新されて、卒業後も使い続ける。成長を共にする品になるのでしょう」
その言葉が、すごく好きだった。成長を共にする品。ただの便利道具じゃない。
入学した日の顔も、努力した年月も、卒業したときの誇りも、全部そのカードに刻まれていく。
そしてその中心に、イリディオンの鱗がある。
……うん。
やっぱりすごくいい。
私は改めてイリディオンを見上げた。
「ありがとうございます。あなた、学院になってくれるだけじゃなくて、ついに備品にもなってくれるんですね」
イリディオンの眉間に、ぴくりと小さな皺が寄る。
「言い方を考えろ、ノア」
「あ、すみません」
でも、ほんの少しだけだ。
本当にほんの少しだけ、イリディオンが満更でもなさそうに見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
ミュリルさんがくすくす笑う。
「名も貸して、章にもなって、鱗も貸して……イリディオン、学院にだいぶ深く関わってきたわねえ」
「うむ」
イリディオンは堂々と顎を上げた。
「ならば、それにふさわしい学び舎となるよう尽くすがよい」
「我が名を冠する以上、半端は許さぬ」
「はい」
私はしっかり頷いた。学院の名前。学院章。制服。支給カード。
ばらばらだったものが、少しずつ一つの学院として結びついていく。
その中心に、月虹の珠竜イリディオンがいる。この学院、やっぱり本当に特別なものになる。
そう思えた。
「ノアさん。先ほど年一回の測定とおっしゃいましたが、これは身体の成長のことですか」
王妃様がそう尋ねたとき、私はまだ頭の中で、学院の一年をどう区切るかを並べているところだった。
春に入学式があって。
学年色が決まって。
夏と冬に休みがあって。
そして年に一度、子どもたちの“今”を見つめ直す機会がある。
そう考えていたから、王妃様の問いにはすぐに首を振った。
「いいえ、王妃様。身体だけでなく、能力の成長の測定です」
「能力の?」
その言葉に、場の空気が少しだけ変わる。
制服や学院章の話とは違う種類の静けさだった。華やかな形の話ではなく、その中身――もっと深いところへ入るときの空気。
「はい」
私は自分でも、少し前のめりになっているのがわかった。
「スキルや適性の判定って、洗礼のときの一回だけじゃないですか」
みんなの顔を見回す。
「しかも、分かるのはひとつだけ」
その“ひとつだけ”に、ずっと私は引っかかっていた。
この世界では、それが当たり前だ。
洗礼で示されたものが、その人の力のすべてみたいに扱われる。
でも、どうしてもそうは思えなかった。
「でも私、思うんです」
言葉を探りながら、でも止めずに続ける。
「人間には、他にもスキルや適性があるんじゃないかって」
王妃様の目が静かにこちらへ向く。
エルミナさんも、ミュリルさんも、口を挟まずに聞いていた。
「スキルが一つだけじゃなくて、他のスキルや適性も少なからずあるはずです」
そうでなければ、あまりにも決めつけが早すぎる。
たまたま最初に見えたものだけで、その人の全部を決めてしまうみたいで。
「もし、その能力も伸ばせたら……将来の可能性が広がります」
言い切ったあと、胸の奥でひとつ息が鳴る。
たぶん私はこの話を、ずっとどこかで言いたかったのだと思う。
洗礼のときに見えたものだけで、向いている、向いていないを決めてしまうやり方に、ずっと少しだけ息苦しさを感じていた。
そのとき、エルミナさんが何かを思い出したように顔を上げた。
「たしか……」
声が慎重に落ちる。
「魔法学院の入学試験で、能力の測定をしました」
「えっ」
私は思わずそちらを見る。
そんなものがあるんだ。
「その時は、能力の強弱だけじゃなく……複数表示された子なんかもいました」
そこまで言ってから、エルミナさんの視線が私の顔で止まる。
だんだん、言葉の先を察したような表情になっていく。
「……まさかノア様」
小さく間が空いた。
「あれを、総合学院でやるおつもりですか」
「そうです。それです」
答えた瞬間、自分の中で何かがかちりと噛み合った気がした。
やっぱりあるのだ。
能力を複数見る仕組みが。
なら、できる。
少なくとも“夢物語”ではなくなる。
「しかも」
私はそのまま言葉を継いだ。
「先生たちには詳細が分かるようにしたいです」
「詳細?」
「はい。全てのスキルや能力、得意分野や役割が、ランクまで分かる仕様にしたいです」
言いながら、頭の中に画面みたいなものが浮かぶ。
生徒の名前があって、いくつかの項目が並んでいて、それぞれに強みや傾向が記されている。
教える側には、もっと細かく見える。
でも――
「生徒には、全部じゃなくていいと思います」
そこは少し慎重に言った。
「ランクはぼかして、丸とか二重丸とか。強みや傾向、可能性や補足を示すくらいで」
全部をそのまま見せるのは、違う気がした。
数字やランクがむき出しのままだと、子どもはそこに縛られてしまうかもしれない。
でも、何が得意そうか、どこに伸びしろがあるかが見えれば、それだけで十分に未来の手がかりになる。
能力のことになると、口が止まらない。
自分でも少し早口になっているのがわかった。
でも止めたくなかった。
これは生徒の将来に関わることだ。
ここだけは妥協したくない。
言葉を重ねるたびに、自分の中で輪郭がはっきりしていく。
ただ勉強を教える学院ではなく、その子が何を持っていて、どこへ伸びていけるのかを一緒に見つける学院。
そういう場所にしたい。
しばらくして、王妃様が静かに息をついた。
「同一の真実を、異なる形で提示する……」
その言葉が、白い糸みたいに場に置かれる。
「そのようなものがあれば、教える側としても助かります」
私ははっとした。
そうだ。
これは生徒のためだけじゃない。
先生たちにとっても、ものすごく大きい。
どの子に何を伸ばしてあげればいいのか。
どこでつまずきやすいのか。
何を任せると輝くのか。
それが見えるだけで、教えることの質そのものが変わる。
「ノアちゃん」
ミュリルさんが、いつもより少しだけ真面目な声を出した。
「それ、かなりすごいものよ」
「でも」
私は反射みたいに言い返していた。
「イリディオンがエルミナさんを見た時に、同じようなことをやってましたよね」
あのとき、イリディオンはエルミナさんの中の契約も、力量も、扱いきれていないことまで見抜いた。
なら、完全に不可能なことじゃないはずだ。
「あれをやりたいんです」
すると、少し離れて聞いていたイリディオンが、低く鼻を鳴らした。
「……ノアよ。さすがに眼は渡せぬ」
その返答が、なんだか妙に真顔で、私は一瞬だけ言葉を失う。
いや、欲しいのは眼そのものじゃないんだけど。
でも気持ちは少しわかる。
竜の眼なんて、それ自体が神秘の塊みたいなものだろうし。
「でしたら」
そこで口を開いたのは、ナギさんだった。
しかも、静かすぎるくらい静かな声で。
「ノア様がお造りしたらよろしいですね」
私はそちらを見た。
「……はい?」
今、なんて言った?
「案があるのでしたら、既に形も見えているのではないですか?」
その言い方が、妙に逃げ道をふさいでくる。
私が?
作るの?
え、どうやって?
そう思ったのに、否定しきれなかった。
ナギさんにそう言われると、自分の中のどこかが“考えれば出てくるかもしれない”という気になってしまう。
私は黙ったまま、頭の中を探る。
能力を見る道具。自分の今を見る。姿を映す。映すもの。鏡。
――そうだ。映真鏡。
あれなら、ただ外見を映すだけじゃない。もっと深い何かを見せるための器として、あまりにもぴったりだった。
私はすぐにナギさんへ向き直る。
「ナギさん、映真鏡を貸してもらえませんか」
でも返ってきた答えは、やわらかいのにきっぱりしていた。
「あれは本殿に祀られているご神体でもあります」
そこで少しだけ間を置いて。
「残念ですが、お貸しすることはできません」
「ですよね……」
口ではそう言いながらも、少しだけ肩の奥が落ちる。
わかっていた。
わかっていたけど、もしかしたらと思ってしまった。
そうなると、やることはひとつしかない。
魔導具を、自分で作る。
そのためには。
私は視線を巡らせ、止まる先を見つけた。
エルミナさん。
先日まで“新しい先生”と呼ばれて、まだどこか落ち着かない顔をしていた人。
でも錬金術を学び、付与術や刻印術も学院で学んだ人。
私よりずっと、この世界の魔導具の作り方に近い場所にいる人。
私は姿勢を正した。
「エルミナさん――いえ、先生」
その呼び方に、エルミナさんの目がぱち、と開く。
まだ慣れていないのだろう。
でもその違和感ごと、ちゃんと今の呼び名として受け取ってもらいたかった。
「私に、魔導具の作り方を教えてください」
言い切ったあと、場が静かになる。
風の音が、少しだけ遠く聞こえた。
エルミナさんはすぐには答えなかった。
「え、ええぇぇぇええ。わ、私がですか」
少し遅れて、エルミナさんの声が裏返った。
さっきまで“先生”と呼ばれたことの余韻に追いつく前に、今度は“教えてください”が飛んできたのだから無理もない。目は丸くなっているし、肩は固まっているし、手は行き場を失ったみたいに宙で止まっていた。
私はそんなエルミナさんを見て、小さくうなずく。
「エルミナ先生、さっき言ってましたよね。付与術と刻印術を学んだって」
「た、たしかに言いましたけど……」
エルミナさんの視線が泳ぐ。
けれど逃げきれないと悟ったのか、少しずつこちらへ戻ってくる。
「で、でも……簡単な物を作っただけで、教えるほどの知識は……」
その言い方は、いつものエルミナさんらしかった。
できることがないわけじゃない。
でも、“それを自分が人に教える”となった瞬間に、急に足元が頼りなくなる。自分の中にあるものを、自分が思っているより小さく見積もってしまう癖が、すぐ顔を出す。
私は少しだけ首を振った。
「でも、完成まではできてるんですよね」
「そ、それは……はい」
「でしたら、まず手順を知ってるっということです」
私が知りたいのは、そこだった。
魔導具の理論を最初から完璧に理解したいわけじゃない。
どうやって素材を選んで、どう刻んで、どう流して、どう完成へ持っていくのか。その“最初の道”を知りたいのだ。
「私、そこを教わりたいんです」
言葉にしたあと、自分でも声が少しだけ強くなっていたことに気づく。
でも抑えなかった。これはただの思いつきじゃない。
学院の仕組みを作るうえで、私はどうしてもここを避けたくなかった。
エルミナさんは、そんな私を見つめていた。まだ戸惑っている。
でも、その戸惑いの奥に、少しだけ違うものが混じり始めているのがわかった。逃げたいだけじゃない。呼ばれたこと自体を、どこかで受け止めようとしている顔だ。
王妃様が、私とエルミナさんを順に見る。その眼差しは穏やかだったけれど、どこかあたたかく確信を持っていた。
「エルミナ先生の初めての授業ですね」
「初めての、授業……」
エルミナさんが、その言葉を小さく繰り返す。
反芻するみたいに、ゆっくりと。
その言葉が胸の中へ落ちていくのが、見ているこちらにもわかる気がした。
初めての授業。
まだ学院はできていない。生徒もいない。
でも今、ここで私に何かを教えるなら、それはたしかに“最初の授業”になる。
エルミナさんのまつげが、ほんの少し震えた。
先日、精霊たちに認められて。今日、お爺様に先生として頼まれて。
そして今、王妃様がそれを“授業”と呼んだ。
ばらばらだったものが少しずつ一本の線に繋がっていくみたいに、彼女の中で何かが形になっていくのがわかる。
「でしたら」
静かな声で続けたのは、ナギさんだった。
「学生証の作成も、その時に試作してみましょう」
その言葉で、私の胸がぱっと明るくなる。
「本当ですか」
「ええ。ただし」
ナギさんの視線が、ゆっくりとイリディオンへ向く。その先で、白銀の珠竜がわずかに目を細めた。
「……無理やり剥ぐでないぞ」
低く、念を押すような声。私は思わず笑いそうになった。
さっきの“鱗下さい!”がまだ尾を引いているらしい。
「ええ、分かってます」
ナギさんはいつも通りの落ち着いた声で答えた。でも、そのやりとりを見ていると、ほんの少しだけ不安になる。
ナギさんなら、やろうと思えば本当に“必要なぶんだけなら”とか言って実行しそうな気配があるからだ。
イリディオンもそれを感じているのか、翼の付け根あたりが少しだけ警戒しているように見えた。
その横で、ミュリルさんはすでに別のほうへ気持ちが向いていた。
私が描いた画用紙を楽しそうに見つめながら、尻尾をゆらゆら揺らしている。
「面白くなってきたわね」
口元が上がる。あの顔は、何かを動かす人の顔だ。
「なら、私たちは学院章と制服と屋敷の改装と、その他もろもろの準備を進めましょう」
“その他もろもろ”の中に、たぶんものすごく大量の仕事が入っているのだろう。
それでもミュリルさんは楽しそうだった。大変なことほど、むしろ燃える人なのかもしれない。
王妃様も、その言葉に静かに頷く。
「はい」
短い返事のあと、少しだけ空を見上げるように視線が上がった。
「学院の姿が見えた今なら、学院が開かれる日も近いですね」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥で何かが小さく跳ねるのを感じた。
開かれる日。
まだ先の話のはずなのに、その響きはもうずいぶん現実に近かった。
今までは“こうなったらいいな”の積み重ねだった。
でも今は違う。
学院章があって、制服があって、場所も決まって、象徴までいる。
そして、最初の授業まで始まろうとしている。
点だったものが、ひとつひとつ線で結ばれていく。
その流れの中に自分が立っていることが、なんだか少し不思議だった。
私は無意識に、さっき描いた制服の画用紙を見下ろす。
紺と金の線。
夜空の色。
胸の章。
まだ紙の上にしかないそれが、やがて本当の布になって、誰かの肩に乗る日が来るのかもしれない。
そのとき、エルミナさんが小さく息を吸った。みんなの視線が、自然とそちらへ向く。
「……わ、私」
まだ少し緊張した声だった。でも、逃げる前の声じゃない。
「ちゃんと、教えられるように……準備します」
言い終えたあと、自分でもその言葉の重みを確かめるみたいに、エルミナさんは一度だけ唇を閉じた。
それから、ほんの少しだけ目元がやわらぐ。
“できるかどうか”ではなく、“やる”と決めた人の顔だった。
私はその横顔を見て、うれしくなった。
精霊と契約した時とも、お爺様に敬礼を返された今朝とも、また少し違う変化だ。
エルミナさんは、ちゃんと前へ出始めている。
「よろしくお願いします、先生」
私がそう言うと、エルミナさんは目をぱちぱちさせて、それから少し困ったように笑った。
「……は、はい」
返事はまだ少し頼りない。
でもその頼りなさが、今はむしろ本物に思えた。
何もかも完璧だから先生になるんじゃない。
教えることを引き受けたときから、少しずつ先生になっていくのだとしたら――
たぶん今、この場所で、その最初の一歩が静かに踏み出されたのだ。




