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最弱村人だった俺が、AIと古代遺跡の力で世界の命運を握るらしい  作者: Ranperre
第39章

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エルミナ、契約の一日 ── ハズレと呼ばれた私が、精霊たちに選ばれるまで

 朝の空気は、少しだけ冷たい。


 けれど桜環神社の境内には、もう一日の始まりを告げるような気配が満ちていた。竹箒で掃かれた石畳は朝露にしっとりと濡れ、社の屋根越しに差し込むやわらかな光が、ゆっくりと世界を照らしていく。


 私は木剣を構えながら、正面に立つナギさんを見つめた。


 朝稽古は、もうすっかり日課になっている。


 打ち込み、受け、足運び。単純な動きの繰り返しなのに、少しでも気を抜けばすぐに見抜かれる。ナギさんの指導は厳しいけれど、不思議と嫌ではなかった。


 その鍛錬場の隅で。


 ぜえ、はあ、と今にも倒れそうな息遣いが聞こえてくる。


 視線を向けると、全身あずき色で二本の線が入ったジャージに身を包んだエルミナさんがふらふらになりながら筋力トレーニングをしていた。この神社にジャージなんてあったんだ。


 額には汗。頬は赤く、肩は大きく上下している。今にもその場にへたり込みそうだ。


 私は木剣を下ろして、少し心配になって声をかけた。


「エルミナさん、大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫……じゃ、ないです……」


 エルミナさんはその場で膝に手をつき、肩で息をした。


「早朝に起こされて境内の掃除……それが終わると朝の稽古です……そのあとやっとご飯が食べられるんです……毎日筋肉痛ですよ……」


 げんなりした顔でそう言ってから、恨めしそうにこちらを見る。その様子があまりにも切実で、私は思わず苦笑してしまった。


 そういえば、エルミナさんがお爺様の前で気絶したあの日。


 屋敷に戻るとアウレリア王妃がナギさんに相談していたのを思い出す。


「――エルミナのこと、どう思いますか」


 エルミナさんの事情を話した王妃様の問いに、ナギさんは少しも迷わずこう答えていた。


「彼女はまず療養と体力づくりですね。生活リズムを取り戻すことから始めましょう」


 その言い方が妙に現実的で、まるで社会復帰の手順みたいだと思ったのを覚えている。


 でも、今のエルミナさんを見ると、確かに間違ってはいなかったのかもしれない。


「ナギさん、容赦ないですからね……」


「生活を整えることも修行のうちです」


 私のつぶやきに、少し離れた場所からナギさんの落ち着いた声が返ってきた。


 いつの間にかこちらを見ていたらしい。


「エルミナ様は、これまで頭ばかり使ってきたのでしょう。知識はあっても、身体が追いついていない。ならば、まず土台を作るべきです」


「うう……言い返せません……」


 エルミナさんはしょんぼりしながら答えた。


 けれど、その次の瞬間だった。


 さっきまで今にも倒れそうだった人が、ぱっと顔を上げる。


「でも!」


 目がきらきらしている。


「午後から本殿の研究室で本が読めるんです。あそこすごいですね。知識の宝庫ですよ。学院でもあんなもの見たことありません。宝の山ですよ」


 急に早口になった。


 ついさっきまでの疲労困憊がどこかへ飛んでいったみたいで、私は思わず目を瞬いた。


「そんなにすごいんですか?」


「すごいなんてもんじゃないです!」


 エルミナさんは力強く言い切った。


「古い術式理論の写本、属性変換の比較記録、召喚契約に関する注釈書、それに神代文字の解読途中らしき資料までありました! あんなの、普通は一生かかっても見られませんよ!」


「へえ……」


 私は素直に感心した。


 研究室の本は何冊か見たことがあるけれど、正直、難しすぎて途中でそっと閉じた記憶しかない。文字は読めても、内容がまるで頭に入ってこなかったのだ。


 あれを見て宝の山と言えるのは、やっぱりエルミナさんが根っからの魔法使いだからなんだろう。


「お婆様の研究室ですね」


 何気なくそう言うと、エルミナさんがぴたりと止まった。


「……お婆様?」


 ゆっくりと、まばたきする。


「……もしかして、すごい人なんですか……?」


 その聞き方に、私は少しだけ首を傾げた。


 でも、これまでの流れを思えば、そう思うのも無理はないのかもしれない。


 お爺様の正体を知って倒れて。


 家族の自己紹介や周囲の反応から、うちの家族がどうやら普通ではないらしいと、ようやく学習したのだろう。


 私は木剣を持ち直しながら答えた。


「聞いた話では、ルメリア魔法学院の学院長をしていたそうです」


「!!!」


 エルミナさんの目が見開かれる。


 衝撃で時間が止まったみたいに、その場で固まっていた。


「……はあ、やっぱりそうでしたか……」


 けれど今回は、そのまま気絶しなかった。私はそれを見て、少し感心する。耐性がついたのかもしれない。


「倒れませんでしたね」


「もう驚き疲れました……」


 エルミナさんは遠い目をした。


「最初は、すごいところに来てしまったなと思っていたんです。でも最近は、すごいを通り越して、ここだけ世界の法則が違うんじゃないかって気がしてきました……」


「そこまでは言い過ぎでは?」


「いえ、かなり本気です」


 真顔だった。思わず私は笑ってしまう。


 朝の澄んだ空気の中、その笑い声は思ったよりも軽やかに響いた。


 エルミナさんはまだ息を整えながら、それでも研究室の話になると楽しそうだった。きっと今の彼女にとっては、この厳しい生活の中でも午後の読書時間が何よりの救いなのだろう。


 境内の掃除も、朝の鍛錬も、筋肉痛も。


 全部を乗り越えた先に、その宝の山が待っている。


 そう思えば、少しは頑張れるのかもしれない。


「でも、よかったです」


 私はぽつりと言った。


「え?」


「エルミナさん、ちゃんと元気になってきてるみたいで」


 あの日、お爺様の前でばたりと倒れた姿を思い出す。


 気弱で、おどおどしていて、怒鳴られたらすぐに謝ってしまいそうな人。


 けれど今は、汗だくになりながらもここに立っている。


 へとへとになっても、本の話になると目を輝かせている。


 それだけで、少し前進している気がした。


 エルミナさんは一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。


「……そう、でしょうか」


「そうです」


 私がうなずくと、エルミナさんはどこか照れくさそうに視線を逸らした。


 そのとき。


「休憩は終わりです」


 無情にも、ナギさんの声が響く。


「エルミナ様、次は素振り五十本」


「ご、五十!?」


「無理そうなら三十本に減らしますが」


「本当ですか!?」


「その代わり、午後の読書時間を一時間減らします」


「五十本やります!」


 即答だった。


 私はとうとう吹き出してしまった。


 やっぱり本の力はすごい。


 エルミナさんは半泣きになりながら木剣を手に取り、よろよろと所定の位置へ向かっていく。その背中は頼りないのに、どこか前よりもしっかりして見えた。


 朝日が差し込む鍛錬場で。木剣を振る音と、少し情けない悲鳴が、今日も神社の朝に溶けていく。


 朝稽古が終わるころには、すっかりお腹が空いていた。


 ひと汗かいたあとの空気は心地よくて、鍛錬場を抜けて宿へ戻る道すがら、どこからともなく漂ってくるお味噌汁の香りに、思わず足取りまで軽くなる。


 朝食の時間だ。


 座敷に並べられた膳には、湯気の立つ白ご飯、お味噌汁、焼き魚、だし巻き卵、それに小鉢のお漬物まで添えられていた。見慣れた朝の光景なのに、こうして毎日きちんと温かい食事が並ぶというだけで、なんだかほっとする。


 向かいに座ったエルミナさんも、今日はもう箸の持ち方に迷いがなかった。


 最初のころは、ぎこちなく摘まんでは落とし、魚を前にして困った顔をしていたのに、今ではすっかり慣れたものだ。小鉢を器用に寄せて、白ご飯と一緒にぱくぱく食べている。


「ここだと、おいしいご飯を毎日お腹いっぱい食べられます。それにお風呂も入れるんですよ。はぁ~、幸せ……」


 しみじみと、心の底からそう言って、お味噌汁の椀を両手で包むように持つ。


 その顔があまりにも満ち足りていて、私は思わず笑ってしまった。


「そんなにですか?」


「そんなにです」


 エルミナさんは真剣な顔でうなずいた。


「前は、冒険者の稼ぎだけでやりくりしていましたから……依頼が途切れると、食事を減らしたりしてましたし……」


「あ……」


 私は思わず言葉を失った。


 空き家に住みついていた時はそういう生活だったのか。


 確かに、学院を出たあとゼラ教の聖騎士団に入れず、そのままふらふらと旅をして、この町に流れ着いたと言っていた。気弱で、押しにも弱くて、でも魔法のことになると夢中になる。そういう人が、器用に生きていける世の中ではたぶんない。


 目の前のエルミナさんは、焼き魚をほぐしながら、ほうっと息をついた。


「温かいご飯って、すごいですね……。お風呂も……毎日入れると、世界ってこんなにやさしかったんだって思います……」


「大げさでは?」


「大げさじゃないです」


 また真顔だった。


 その言い方が妙に切実で、冗談にできない重みがある。


 私は箸を持ちながら、少しだけ胸の奥がきゅっとした。


 この人はたぶん、これまでずっと、自分を大事にする余裕がなかったのだろう。食べることも、眠ることも、身体を休めることも。後回しにして、気がつけばそれが当たり前になっていた。


 だから今、こうして温かい食事とお風呂だけで幸せそうにしている姿を見ると、なんだかこちらまで安心してしまう。


「よかったですね、エルミナさん」


「はい……本当に……」


 そう言って笑った顔は、少しだけ幼く見えた。



 朝食のあとは、いつもの訓練だ。


 食器が片づけられたあと、私たちは庭先に出て、魔力制御の練習を始めた。


 深く息を吸って、意識を手のひらに集める。


 すると、掌の上に淡い光がふわりと灯った。


 小さな球体。


 ただ作るだけなら、もう難しくはない。けれど、そこから形を変えて、それを維持するとなると話は別だ。


 私はいつものように光の球を安定させながら、ゆっくりと形を変えていく。


 丸から三角、四角、星形。


 そこから今度は耳をつけて、足をつけて、小さな動物の形を作ろうとする。


「うーん……」


 うさぎのつもりだったのに、耳が片方だけ伸びすぎてしまった。慌てて整えようとすると、今度は胴体が崩れて、光がふるふると不安定に揺れる。


 そのまま、ぱちん、と弾けた。


「あっ……」


「形を急ぎすぎです」


 すぐそばで見ていたナギさんが静かに言う。


「まず芯を保ったまま、外側だけを変える意識を持ってください。全体を一度に動かそうとすると崩れます」


「はい……」


 わかってはいるのだけれど、やってみると難しい。


 図形から立体へ。立体から生き物らしい輪郭へ。ただ光を保つだけとはまるで違う繊細さが必要で、思った以上に集中力を使う。


 ちらりと横を見ると、エルミナさんも同じように掌を見つめていた。


 その手の上には、小さな小さな光の球が浮かんでいる。


 本当に小さい。けれど、ちゃんとそこにあった。


 ふらつきながらも消えず、破裂もせず、じっと留まっている。


「すごいですね、エルミナさん。ちゃんと保ててます」


「そ、そうでしょうか……」


 エルミナさんは緊張した顔のまま答えた。


「最初はまったく光が出なかったですし……出たと思ったらすぐに球が破裂して……何度も手の中で弾けて、ちょっと泣きそうでした……」


「実際、少し泣いていましたよね」


「み、見ないでください……!」


 耳まで赤くして抗議されて、私は少し笑ってしまう。


 でも、本当に前よりずっと良くなっていた。


 最初は魔力を一点に集めることすらできなかったのに、今はこんなに小さくても、ちゃんと形として留められている。ほんの少しずつでも、確実に進んでいるのだ。


 エルミナさん自身も、それをわかっているのだろう。


 不安そうな顔の奥に、かすかな手応えが見える。


 訓練がひと区切りつくころには、太陽はもうだいぶ高くなっていた。


 私は額の汗をぬぐい、エルミナさんはほっとしたように肩の力を抜く。掌の上の光も、ふっと溶けるように消えていった。


 そのときだった。


 ナギさんが、静かにエルミナさんへ視線を向ける。


「エルミナ様は、召喚をお使いになるのですよね」


「は、はい」


「今は契約されている従魔はいらっしゃいますか」


 その問いに。


 エルミナさんの表情が、すっと曇った。


 さっきまで少しだけ明るかった目が伏せられて、唇が小さく結ばれる。答えるまでに、ほんの少し間があった。


「私……いないんです……従魔が……」


 その声は、小さかった。


 恥ずかしいのか、悔しいのか、それともその両方なのか。


 ルメリア魔法学院を出た魔導士で、召喚の素質があると言われながら、従魔がいない。それが彼女にとってどれだけ引け目になっていたのか、その俯いた顔を見るだけでなんとなくわかってしまう。


 私は何も言えず、ただエルミナさんを見た。


 ナギさんは責めることも、驚くこともしなかった。


 ただ、そうですか、と短くうなずいてから、落ち着いた声で言う。


「この領域には祠がいくつかあります」


「祠……?」


「そこには精霊が祀られています」


 エルミナさんが、ゆっくり顔を上げる。


 ナギさんの瞳は静かで、けれどその言葉には確かな導きがあった。


「その精霊たちと契約しましょう」


 空気が、少しだけ変わった気がした。


 風が庭の木々を揺らし、葉擦れの音がかすかに響く。


 私は思わず息をのむ。


 精霊との契約。


 それはきっと、エルミナさんにとってただの訓練ではない。ここへ来てから少しずつ取り戻してきたもの――食事や睡眠や暮らしだけではなく、自分はまだ前に進めるのだという感覚。その先に続いている、新しい一歩なのだと思った。


 エルミナさんはしばらく呆然としていたけれど、やがて信じられないものを見るような顔で、ナギさんを見た。


「……わ、私にも……できるんでしょうか」


「できます」


 ナギさんは迷いなく答えた。


「精霊は、力だけを見て契約するわけではありません。相性も、心も、縁もあります。あなたが真摯に向き合うなら、応えてくれるでしょう」


 その言葉に、エルミナさんの指先がわずかに震えた。


 不安と期待が、ないまぜになっているのが伝わってくる。


「初めての契約、ですね……」


 ぽつりと漏れたその声は、どこか夢を見るみたいにかすれていた。


 私はそんな横顔を見ながら、胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じていた。


 きっと今日から、また何かが変わる。


 桜環神社の朝は、こうして誰かを少しずつ変えていくのかもしれない。



 お昼前。


 私たちは本殿の一室で、なぜか着替えの真っ最中だった。


「……あの、本当にこれを着る必要があるんでしょうか……?」


 戸惑いと羞恥が半分ずつ混ざったような声で、エルミナさんがそう言う。


 けれど、その問いに答える人は誰もいなかった。というより、みんな答える前に見惚れていたのだと思う。


 白い小袖に、緋袴。


 桜環神社の巫女装束に身を包んだエルミナさんは、びっくりするくらい絵になっていた。もともと顔立ちは整っているし、長い黒髪も今日は後ろでゆるく束ねられていて、いつもの少し気弱な雰囲気に、どこか凛とした空気が加わっている。


 魔導士風のローブ姿も似合っていたけれど、この格好はまた別の意味で破壊力があった。


「よくお似合いですよ」


 私が素直にそう言うと、エルミナさんは頬を赤くして視線を泳がせた。


「そ、そうですか……? なんだか落ち着きません……」


「いえ、本当に似合っています」


 似合っている。とても似合っている。


 でも――


 私は思わず、じっとその胸元を見てしまった。


 巫女装束は本来、清楚で慎ましい印象の服のはずなのに、エルミナさんが着ると、なぜだかそこだけ妙に存在感を放っている。むしろ布のラインが変に強調されていて、隠しているはずなのに隠しきれていない感じがした。


 ……大きい。


 すごく大きい。


 くっ。


 私も成長したら、あんなふうに巨乳になるはず。なるはずなのだ。たぶん。きっと。できれば。


 そう心の中で強く念じていると、ナギさんが静かに言った。


「では、参りましょう」


 私たちは気持ちを切り替えて、本殿を出た。


 向かうのは境内の外れ。


 桜環神社の敷地は広く、本殿や鍛錬場のある場所から少し離れた先にも、いくつか小さな祠が点在している。木々に囲まれた細い道を進み、鳥居をくぐり、小さな石段を下りていくと、次第に水の音が大きくなってきた。


 やがて視界が開ける。


 そこには白い飛沫を上げる滝があった。


 陽の光を受けた水しぶきがきらきらと舞っていて、空気は少しひんやりとしている。滝つぼの隣、苔むした岩のそばに、小さな祠が静かに佇んでいた。


「ここは、水の精霊の祠です」


 ナギさんがそう告げる。


 その声はいつも通り穏やかだったけれど、どこか神事に臨むような厳かさがあった。


「エルミナ様。祠の前で手を合わせて名前を告げてください。そして、力をお貸しくださいとお願いしてください」


「は、はい……」


 エルミナさんは少し緊張した面持ちでうなずくと、祠の前へ進み出た。


 滝の音が、周囲の世界をやさしく包んでいる。


 水しぶきの細かな粒が光を弾いて、まるでこの一帯だけが別の場所みたいに見えた。


 エルミナさんは祠の前に立ち、そっと手を合わせた。


 目を閉じ、呼吸を整える。


 その横顔は、いつものおどおどした感じよりもずっと真剣で、ほんの少しだけ神聖に見えた。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか私に……力をお貸しください」


 その願いが、水音の向こうへ溶けていった――その瞬間だった。


 滝つぼの奥から、ふわりと淡い光が浮かび上がる。


「……っ」


 思わず私は息をのんだ。


 青白い光は水面の上を滑るように移動し、ゆっくりと祠の前へと近づいてくる。そして、エルミナさんの目の前でぱん、と小さく弾けた。


 飛沫みたいに光が散って。


 その中心から現れたのは――


「えっ」


 思わず、変な声が出た。


 そこにいたのは、水色の小さな人魚だった。


 デフォルメされたような丸っこい体つきで、頭身は低く、目はくりっと大きい。けれど手にはしっかりと三又の槍を持っていて、ひれのような髪がふわふわと水の中みたいに揺れている。


 かわいい。


 ものすごくかわいい。


 でも、ただかわいいだけではなくて、どこか精霊らしい神秘的な気配もちゃんとあった。


 小さな人魚は空中にふわりと浮かんだまま、エルミナさんを見つめる。


「私を呼んだのは、あなたかしら。エルミナさん」


「は、はひっ!」


 緊張しすぎて、エルミナさんの返事が変になった。


 水の精霊は、くすっと楽しそうに笑う。


「私は水の精霊ウンディーネ。私と契約したいのね」


「は、はい! よろしくお願いします!」


 慌てて言い直すエルミナさんに、ウンディーネは満足そうにうなずいた。


「それじゃ、あなたの心を少し見せてね」


「こ、心……?」


 聞き返す間もなく、ウンディーネはふわりと近づいた。


 小さな指先が、そっとエルミナさんの額に触れる。


 その瞬間、空気が少しだけ震えた気がした。


「こわがらないで」


 水音に溶けるような、やさしい声だった。


 エルミナさんの肩がぴくりと揺れる。けれど逃げることはせず、ぎゅっと目を閉じたまま、その場に立ち尽くしていた。


「……あなた、ちゃんと祈れる子なのね」


 ウンディーネはそう呟いて、少しだけ微笑む。


 試すような響きではなく、どこか安心したような声だった。


 滝の音が遠のいて、世界が静まり返ったように感じる。エルミナさんは目を閉じたまま、じっとしていた。怖がっている様子はない。ただ、信じるしかないとでもいうように、その身を委ねている。


 しばらくして。


 ウンディーネは指を離し、にこりと笑った。


「……あなたなら大丈夫ね」


 その声は、水のようにやさしかった。


「いいわ、契約しましょう。これからよろしくね」


「……っ、はい!」


 エルミナさんの顔が、ぱっと明るくなる。


 次の瞬間、ウンディーネの身体が淡い光へと変わった。


 水色の粒子がふわりと舞い上がり、そのままエルミナさんの胸元へ吸い込まれるように消えていく。


 光は一瞬だけ彼女の身体を包んで、それから何事もなかったかのように静まった。


「……終わったんですか?」


 エルミナさんが、自分の手を見下ろしながら呟く。


「契約成功ですね。おめでとうございます」


 ナギさんが静かに祝福した。


 エルミナさんは目をぱちぱちさせてから、ようやく実感が追いついたのか、胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。


「こ、こんなあっさり契約できるんですか? もっと大変なものかと思っていました」


「精霊は心を読んで判断します」


 ナギさんは滝つぼの方を一瞥しながら答えた。


「そもそも悪人は契約できません」


「へえ……」


 私は感心しながら、まだ少し呆然としているエルミナさんを見た。


 それから、素直に言う。


「つまり、エルミナさんはいい人ということですね」


「えっ」


 エルミナさんがこちらを向く。


「い、いえ、そんな、私は別に……!」


「でも、ウンディーネがそう判断したんですよね?」


「そ、それはそうかもしれませんけど……!」


 顔がみるみる赤くなっていく。


 どうやら真正面から褒められるのは苦手らしい。


 私は少しおかしくなって笑ってしまった。


 エルミナさんは困ったようにおろおろしていたけれど、その目には、ちゃんと喜びが浮かんでいた。初めての契約。自分にもできたという事実。ずっとどこかに引っかかっていたものが、ひとつ解けたような顔だった。


 滝のしぶきが頬に触れる。冷たくて、気持ちよかった。


 水の精霊ウンディーネ。


 最初の契約は、思っていたよりもずっとやさしくて、きれいで、そしてあたたかなものだった。


 私はその様子を見ながら、なんとなく思う。


 きっとこれは始まりだ。


 初めての契約。それも、ひとつだけじゃない。


 ナギさんが言っていた通りなら、この神社にはまだいくつもの祠がある。


 水の次は、どんな精霊が現れるのだろう。


 少し緊張して、でもそれ以上に胸が高鳴った。



 水の祠を後にして、私たちはそのまま境内のさらに奥へと足を向けた。


 滝の流れる一帯を少し離れると、水気を含んだ冷たい空気は次第に薄れていき、代わりに土と草の匂いが濃くなっていく。足元には木の根が張り、ところどころに大きな岩が顔を出していた。


 少し進んだ先。


 崖になった場所の手前に、小さな祠がひっそりと祀られていた。


 水の祠よりもずっと素朴で、けれど不思議とどっしりとした存在感がある。苔むした石と土の色が周囲の風景に溶け込んでいて、まるで最初からこの山の一部だったみたいだった。


「こちらは土の精霊の祠です」


 ナギさんが静かに言う。


 エルミナさんは、さっきウンディーネと契約したばかりだというのに、まだ少し夢見心地のような顔をしていた。けれど次の祠を前にすると、すぐに気持ちを切り替えたように表情を引き締める。


「同じようにすればいいんですね」


「はい。名を告げ、力をお貸しくださいと」


「わ、わかりました」


 そう言って、エルミナさんは祠の前へ進んだ。


 白と緋の巫女装束の裾が、土の上をやわらかく揺れる。


 手を合わせるその姿は、さっきよりもほんの少し落ち着いて見えた。最初の契約を終えたことで、心のどこかに自信が芽生えているのかもしれない。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか私に……力をお貸しください」


 その願いが、静かな山の空気に溶けていく。


 次の瞬間だった。


 祠のすぐ近くにあった大きな岩が――


 ばきんっ、と乾いた音を立てて、真っ二つに割れた。


「ひゃっ!?」


 エルミナさんが飛び上がる。


 私もびっくりして思わず身構えた。さっきのウンディーネは水の中から光が浮かんで現れたから、今回もそういう神秘的な感じかと思っていたのに、まさか岩が割れるなんて思わない。


 割れた岩の間から、もくもくと土埃が立ち上る。


 その中から、ずん、と偉そうな声が響いた。


「おう、おめえがエルミナか」


 現れたのは、小さなドワーフだった。


 しかも、これまたずいぶんとデフォルメされた姿をしている。頭身は低く、身体はころんとしていて、けれど顔には立派すぎるほど立派な長い口ひげ。頭には三角帽子をかぶり、手には自分の身体と同じくらいありそうなハンマーを持っている。


 そしてなぜか、その小さな身体がふわふわと宙に浮いていた。


 ドワーフって浮くんだ。


 いや、精霊だからなのかもしれないけど、見た目と動きのちぐはぐさがすごい。


「わ、わあ……」


 エルミナさんも目を丸くしていた。


 小さなドワーフは腕を組み、偉そうに鼻を鳴らす。


「ワシと契約したいんだな。ちょっと待ってろ」


「え、あ、はい!」


 ずいっと近づいてきたその勢いに、エルミナさんが反射的に背筋を伸ばす。


 ドワーフの精霊は、ウンディーネのときと同じように、短い指をエルミナさんの額へと当てた。


 その仕草は少し乱暴そうに見えたけれど、不思議と嫌な感じはしない。土のぬくもりみたいな、力強くて落ち着いた気配がふわりと広がる。


「既に水と契約してるな。なるほど、悪い奴じゃなさそうだ」


 ふむ、と唸る。


 そしてさらにじっと、エルミナさんの内側を覗き込むように目を細めた。


「ふむ、地に足はついておらんが……悪くない」


「うっ……」


 その評価に、エルミナさんがなんとも言えない顔になる。


 たぶん本人にも思い当たる節があるのだろう。気弱で流されやすくて、研究に夢中になると周りが見えなくなる。そういう意味では、たしかに“地に足がついている”とは言いがたい。


 でも。


 ドワーフの精霊は次の瞬間、にかっと大きく笑った。


「よし! おめえと契約してやる。よろしく頼むぜ、相棒!」


「……っ、は、はい! よろしくお願いします!」


 エルミナさんの顔がぱっと明るくなる。


 その返事がよほど気に入ったのか、ドワーフは満足そうにうなずいた。


「素直でよろしい!」


 そう言うと、小さな身体が茶色い光へと変わり始める。


 土色に近い、けれどどこか金色も混じったようなあたたかな輝きだった。光の粒はふわりと舞って、まるで大地の息吹そのものみたいにエルミナさんの胸元へ吸い込まれていく。


 ひときわ強く光ってから、その輝きも静かにおさまった。


 山の空気が、また元の静けさを取り戻す。


「これで……契約、できたんでしょうか」


 エルミナさんが、自分の胸元を押さえながら不安そうに呟く。


「はい。成功です」


 ナギさんがうなずく。


「土の精霊ノームは、堅実さや忍耐を見る傾向があります。今の言葉からすると、まだ未熟なところはあっても、見込みありと判断されたのでしょう」


「み、見込みあり……」


 その言葉を、エルミナさんは大事そうに繰り返した。


 たぶんそれが、嬉しかったのだと思う。


 完璧ではなくてもいい。足りないところがあっても、それでも契約してもらえた。これから一緒に歩いていけると言ってもらえた。


 それがきっと、今のエルミナさんには何より心強い。


「よかったですね、エルミナさん。今度は“相棒”だそうですよ」


「そ、そうですね……」


 私がそう言うと、エルミナさんは照れたように笑った。


「なんだか、少しだけ……自信がつく気がします」


 その声は、さっきよりもずっとしっかりしていた。


 ウンディーネのやさしさと、ノームの力強さ。


 ひとつずつ、精霊たちに認められていくたびに、エルミナさんの中にも少しずつ何かが根づいていくのがわかる気がした。


 崖のそばを吹き抜ける風が、巫女装束の袖を揺らす。


 私はその横顔を見ながら、次はどんな精霊が出てくるのだろうと、また胸を躍らせていた。



 次に向かったのは、風の精霊の祠だった。


 水辺や崖のあたりとは空気が少し違う。そこは背の高い竹が何本も何本も立ち並ぶ竹林で、頭上では細い葉がさわさわと擦れ合い、風が吹くたびに涼やかな音を立てていた。


 光はあるのに、竹の影が道にまだらに落ちていて、奥へ進むほど少しずつ景色が似てくる。


 なんだか、不思議な場所だ。


 その入口で、ナギさんがふと立ち止まった。


 そして近くの竹に、指先で細い線を一本、すっと引く。


「……?」


 私はその様子を見て首をかしげた。


 何だろう。


 目印……みたいなものだろうか。


 けれどナギさんは特に説明することもなく、そのまま「行きましょう」とだけ言って歩き出す。私たちもあとに続いて竹林の道へ入っていった。


 風が吹く。竹が揺れる。足元で乾いた葉がかさ、と鳴る。


 まっすぐ進んでいたはずなのに、なぜかだんだん方向感覚が曖昧になっていく。右も左も似たような竹ばかりで、どこを見ても同じ景色に見えた。


 それでもしばらく進んだ、そのとき。


「あれ……?」


 私は思わず足を止めた。


 目の前の竹に、一本の細い線が引かれている。


 さっき、ナギさんがつけた線だ。


「もしかして……同じ場所に戻ってる?」


 そう呟くと、ナギさんは落ち着いた顔のままうなずいた。


「気が付きましたか。これは風の精霊シルフのいたずらですね」


「やっぱりですか……!」


 私は思わずあたりを見回した。完全に遊ばれている。


 その瞬間だった。


 ふわりと吹いた風に乗って、どこからともなく子どもの笑い声が聞こえてきた。


 ころころ、くすくす。


 楽しそうで、悪戯っぽくて、でもどこか無邪気な声。


「……絶対、見てますよね」


「見ていますね」


 ナギさんは即答した。


 竹林の上の方で葉が揺れる。


 けれど姿は見えない。ただ、私たちが迷っているのを面白がっていることだけは、ものすごくよくわかった。


 エルミナさんも不安そうにきょろきょろしている。


「ど、どうしましょう……。これじゃ、祠まで辿り着けないんじゃ……」


 そこでナギさんが、静かに言った。


「エルミナ様。あなたの力で祠まで案内してください」


「えっ、私がですか?」


 エルミナさんが目を丸くする。


「で、でも私、どうしたら……」


「エルミナ様は、水と土の精霊と契約しています」


 ナギさんの声は穏やかで、けれどそこには確かな信頼があった。


「彼らを呼び出してください」


「わ、わかりました。やってみます」


 エルミナさんはそう答えたものの、すぐに動くことはしなかった。


 その場で立ち止まり、竹林を見渡しながら考え込む。


「……竹の林……風の祠……同じ道を回る……風……」


 ぶつぶつと、言葉を並べている。


 私はその横顔を見つめた。


 気弱で、慌てやすくて、少し押されるとすぐしどろもどろになるエルミナさん。でも、こうして何かを考えているときだけは違う。目の奥が静かに研ぎ澄まされて、魔導士らしい集中が宿る。


 きっと今、頭の中で答えを探しているのだ。どうすれば、この悪戯を破れるのか。どうすれば、見えない風を捉えられるのか。


 やがてエルミナさんは、ぎゅっと両手を胸の前で組んだ。


 そっと目を閉じる。


「力を貸して。ウンディーネ、ノーム」


 その呼びかけに応えるように、空気が揺れた。


 まず、ふわりと水色の光が舞う。


 次いで、土色の光が足元から立ち上る。


 そしてエルミナさんの正面に、契約したばかりのふたりが姿を現した。


「早速出番ね」


 小さな水の人魚――ウンディーネが、くるりと尾を揺らして微笑む。


「おう、仕事か?」


 ノームはハンマーを肩に担ぎ、いかにも頼もしそうに胸を張った。


 呼び出せた。


 それだけでも十分すごいのに、エルミナさんは緊張しながらも、ちゃんと次の言葉を続ける。


「ウンディーネ、風を見たいから霧を出して」


「ノーム、地面に石印や土の目印を作って」


 一瞬、竹林の音だけが響いた。


 でも次の瞬間、ウンディーネがにっこり笑う。


「霧ね。分かったわ」


 ノームも豪快にうなずいた。


「目印か。任せろ」


 その返事がなんだか頼もしくて、私は思わず息をつく。


 なるほど。


 風そのものは見えない。だから、水の力で霧を生み出して流れを見えるようにする。そして、土の力で道に印を残せば、同じ場所を回っていてもすぐにわかる。


 単純だけど、ちゃんと理にかなっている。


「すごい……」


 思わず呟くと、エルミナさんが少しだけこちらを見た。


 まだ自信なさげではあるけれど、その表情には、考えて動けたという小さな手応えが見えた。


 ウンディーネが両手を広げる。


 すると、ひんやりとした水気が周囲に広がり、竹林の足元を這うように薄い霧が流れ始めた。真っ白ではなく、淡く透けるような霧だ。その向こうで竹の影が揺れていて、どこか幻想的ですらある。


 一方でノームは、杖代わりみたいにハンマーの柄で地面をこつんと叩いた。


 すると、足元の土がもこりと小さく盛り上がり、道の端に石の杭のような印が現れる。さらに少し進んだ先にも、ぽこ、ぽこ、と小さな土の目印が並んでいった。


「これなら……」


 エルミナさんが霧の流れを見つめる。


 竹の間を抜ける風が、白い靄をわずかに押していた。場所によって流れが違う。さっきまでただの竹林だった道に、目に見える“偏り”が生まれていく。


 そして。


 前方のある一点だけ、霧がくるりと巻き込まれるように流れていた。


「……あっ」


 私は思わず声を上げた。


「風の流れが、あそこだけ違う」


「はい……!」


 エルミナさんも気づいたらしい。


 さっきまで不安そうだった声に、今ははっきりとした芯があった。


「たぶん、あっちです」


 そのとき、また風に乗って笑い声が聞こえた。


 でも今度のそれは、ただ人をからかって喜ぶだけの響きではなかった。


 どこか楽しそうで。


 どこか、試した相手がちゃんと答えを見つけたことを面白がっているようでもあった。


 シルフはきっと、ずっと見ている。


 そして今も、竹のどこかでくすくす笑っているのだろう。


 私は胸の奥が少し高鳴るのを感じた。


 霧の流れが乱れている場所を見つけてからは、道が少しだけはっきり見えるようになった。


 ウンディーネが生み出した淡い霧は、竹林の中を静かに這うように流れている。けれど、その先――ある一角だけは、まるで見えない手で払われたみたいに、すうっと霧が消えていた。


「……ここだけ消えてる」


 私がそう呟くと、エルミナさんも緊張した顔でうなずいた。


「たぶん、この先です」


 風が吹く。


 けれどそれは、さっきまでみたいに私たちを迷わせる風ではなかった。


 見つけられてしまったことを認めたみたいに、少しだけ素直な風だった。


 私たちはその霧の切れ目をくぐるようにして、竹の道を進んでいく。


 すると、不意に視界が開けた。


 竹林が途切れた先に、小さな広場があった。


 頭上には丸く空が見えていて、そこだけ光がやさしく降りそそいでいる。風に揺れる竹の音も、ここではどこか遠くて、空気が少しだけ軽い。まるでこの場所だけが、ふわりと浮いているみたいだった。


 その中心に、ひっそりと祠が祀られていた。


「……着いた」


 思わず私はそう漏らした。たどり着いたんだ。


 さっきまで同じ道をぐるぐる回らされて、完全に遊ばれていたのに。ちゃんと考えて、ちゃんと見つけて、ここまで来られた。


 それだけで、なんだか私まで嬉しくなる。


 エルミナさんも、少し信じられないものを見るような顔で祠を見つめていた。けれどすぐに気を引き締めると、そっとその前へ進み出る。


 巫女装束の袖が風に揺れた。


 エルミナさんは両手を合わせ、静かに目を閉じる。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか力をお貸しください」


 その祈りが終わった瞬間だった。


「あーあ、見つかっちゃった」


 子どものような声が、どこからともなく降ってきた。


 次の瞬間、祠の前につむじ風が舞い上がる。


 くるくる、くるくると風が渦を巻き、落ち葉と光を巻き込みながら、空中で小さく弾けた。


 その中心から現れたのは――


「……かわいい」


 思わず、また声が漏れた。


 現れたのは、小さな妖精だった。


 これまでの精霊たちと同じく、やっぱりデフォルメされた愛らしい姿をしている。けれどウンディーネのやわらかさとも、ノームのどっしりした感じとも違う。


 細く華奢な身体に、透きとおるような四枚の蝶の羽根。


 ふわふわと空中に浮かびながら、いたずらっぽく足をぶらつかせている。髪は風そのものみたいに軽やかで、表情はころころ変わりそうなくらい生き生きとしていた。


 この子が、シルフ。


 さっきまで私たちを竹林でさんざん振り回していた張本人だ。


 妖精――シルフは、くるりと宙返りするように身を翻し、エルミナさんの前に降りてきた。


「へえ、泣きそうな顔してたのに、ちゃんとここまで来たんだ」


「うっ……」


 エルミナさんが小さく詰まる。


 たしかに途中、かなり不安そうだった。というか泣きそうだった。本人も否定できないらしく、なんとも言えない顔になっている。


 けれどシルフは、からかうような口調のわりに、目はどこか楽しそうだった。


「合格。風に逆らうんじゃなくて、風の癖を見たのね」


 シルフはそう言って、竹林の奥から吹いてくる風を指先でくるりと弄ぶ。


 その仕草だけで、まわりの空気まで軽く踊るみたいだった。


「そういう子、嫌いじゃないわ」


 その言葉に、エルミナさんがぱっと顔を上げる。


「私と契約してくれるんですか」


「ええ、でもその前に」


 シルフはにっこり笑って、ふわりとエルミナさんの目の前まで近づいた。


 そして小さな手を、そっと額に置く。


 風が揺れた。


 竹の葉がさわさわと鳴る。


 その音はどこか耳元で囁かれているみたいで、私は思わず息をひそめた。


 シルフはしばらく黙っていた。


 けれど、その沈黙は重たくない。むしろ、風が人の心の中をのぞき込んで、そこに何があるのか面白がって見ているような、不思議な静けさだった。


 やがて。


 シルフの目が、少しだけ驚いたように丸くなる。


「あなた、すごいわね」


「えっ……?」


 エルミナさんが戸惑った声を出す。


「知識で溢れてる。賢い子は好きよ」


 その言葉は、からかいでも、お世辞でもなかった。


 本当に感心しているみたいな声音だった。


 エルミナさんはきょとんとしていたけれど、すぐに頬を染めて視線をさまよわせる。褒められるのに慣れていないのか、どう受け止めていいのかわからないらしい。


 でも、私はその言葉が少し嬉しかった。


 エルミナさんは、たしかに気弱だし、体力もないし、ちょっと頼りないところもある。けれど本を読むときの集中や、魔法について考えるときの目の色は、本物だ。


 その“中身”を、ちゃんと精霊たちが見てくれている。


 それがなんだか、自分のことみたいに嬉しかった。


 シルフはそのままにっこりと笑う。


「私はシルフ。これからよろしくね、エルミナちゃん」


「……はい!」


 エルミナさんが、今度はちゃんとまっすぐにうなずいた。


 その返事を聞いたシルフの身体が、ふわりと淡い緑色の光に変わっていく。風の粒みたいな輝きが舞い上がり、きらきらと弧を描きながら、エルミナさんの胸元へ吸い込まれていった。


 ふっと風がひときわ強く吹く。


 けれどそれはもう、悪戯の風ではなかった。


 まるで契約の祝福みたいに、やさしく私たちの頬を撫でていく。


「……できた」


 エルミナさんが、胸の前で手を握る。


 水、土、風。これで三つ。


 短い時間のあいだに、三体もの精霊と契約できたことになる。


「おめでとうございます」


 ナギさんが、静かに言った。


「シルフは気まぐれですが、気に入った相手にはよく懐きます。今の様子なら問題ないでしょう」


「き、気に入ってもらえたんでしょうか……」


「ええ、かなり」


 ナギさんが即答した。


 私は思わず笑ってしまう。


「よかったですね、エルミナさん。賢い子、だそうですよ」


「や、やめてください……!」


 照れたように慌てるエルミナさんの声が、広場に響く。


 でもその顔は、ちゃんと嬉しそうだった。


 風の祠にたどり着くまで、ただ守られるだけではなく、自分で考えて、自分の力でここまで来た。だからこそ、この契約はきっと意味がある。


 私は空を見上げた。


 竹の隙間からのぞく青は高くて、吹き抜ける風はどこまでも軽い。


 精霊との契約は、ただ力を手に入れるだけじゃない。


 その人の中にあるものを認めてもらうことなのかもしれない。


 そんなことを思いながら、私は隣に立つエルミナさんを見た。


 少し前まで泣きそうな顔をしていた人は、今、胸の前でそっと手を握りしめて、うれしそうに風を感じていた。



 竹林を抜けると、視界が一気に開けた。


 さっきまで四方を竹に囲まれていたせいか、余計に広く感じる。土の祠があった崖の山をぐるりと回るように進んだ先には、のどかな平野が広がっていた。


 畑がある。


 田んぼがある。


 きらきらと陽を反射する川が流れ、そのそばには静かな池まであった。


 昼の光の中で、それらが全部やさしく息づいているみたいに見える。


「わあ……」


 思わず声が漏れた。


 神社の敷地が広いのは知っていたけれど、まさかこんな場所まであるなんて思っていなかった。どこか人の手がしっかり入っていて、それでいて自然ともちゃんと馴染んでいて、不思議と眺めているだけで落ち着く景色だった。


「私たちが食べているお米や野菜は、主にここで作られています」


 ナギさんがそう教えてくれる。


「そうなんですね……」


 私は田んぼを見つめながら、小さく息をついた。


 毎日、当たり前みたいに食べているご飯。


 でも、その当たり前はこういう場所で育てられて、誰かの手で作られて、ようやく私たちの食卓に届いているのだ。


 ありがたいな、と思った。朝ご飯の白いご飯を思い出す。


 ふっくらしていて、つやつやで、お味噌汁とも焼き魚ともよく合って、とてもおいしかった。あれがここから来ているのだと思うと、なんだか急に親しみが湧いてくる。


「あとで田んぼにもお礼を言ったほうがいいかもしれませんね」


 私がそう言うと、エルミナさんがくすっと笑った。


「ノア様らしいですね」


 その笑い方が少しやわらかくて、ついさっきまで風の祠で緊張していた人とは思えない。精霊との契約を重ねるたびに、エルミナさんの表情も少しずつほぐれてきている気がした。


 そんなことを思いながら歩いていると、畑のさらに先――森の中心に、ひときわ大きな木がそびえ立っているのが見えた。


 大木、という言葉では足りないくらい大きい。


 太い幹は何人で手をつないでも回りきれないんじゃないかと思うほどで、枝葉は空へ大きく広がっている。まるであの木一本だけで、そこに小さな世界を作っているみたいだった。


「……なんだか、どこかでこんな木を見たような気がします」


 ぽつりとそう呟くと、ナギさんが少しだけ首をかしげる。


「そうなのですか?」


「はい。すごく“象徴”っぽい木だなって……」


 うまく言えないけれど、ただ大きいだけじゃない。人の心に“特別な木だ”と思わせるような雰囲気があるのだ。


 そして、その大樹の根元には小さな祠が静かに祀られていた。


「ここは木の精霊、ドライアドが祀られています」


 ナギさんの声に、私は少し姿勢を正した。


 水、土、風と来て、今度は木。


 自然の中にある祠を巡ってきたけれど、ここはまた雰囲気が違う。静かで、穏やかで、それでいてどこか包み込むような気配がある。


 エルミナさんも、そんな空気を感じ取ったのか、少しだけ神妙な顔で祠の前へ進み出た。


 そして手を合わせる。


「エルミナ・ヴェルローゼです。力をお貸しください」


 静寂。


 風が枝を揺らす音だけが、さやさやと響く。


 ……でも、それだけだった。


「……あれ?」


 私は思わず目を瞬く。何も起きない。


 水のときみたいに光が現れるわけでもなく、土のときみたいに岩が割れるわけでもなく、風のときみたいに笑い声が聞こえるわけでもない。


 エルミナさんも、少し困ったようにナギさんを見たあと、もう一度祠に向き直った。


 今度はさっきよりも少し丁寧に、気持ちを込めるように手を合わせる。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか力を……お貸しください」


 すると。


「……今日はもう閉店だよぉ~……」


 どこからともなく、ものすごく気の抜けた声が聞こえた。


「……へ?」


 あまりに想像と違いすぎて、変な声が出た。


 閉店? 精霊って閉店とかするの?


 しかも声の感じからして、やる気がまるでない。


 エルミナさんも完全に面食らった顔をしている。きっと今までの三体がそれぞれ個性的だったとはいえ、ここまでのんびりした反応は予想していなかったのだろう。


 するとナギさんがため息をついて、すっと大樹の前へ歩み出た。


 そして右手を軽く開いたまま前に出し、その先端――指先を、木の幹にぴたりと当てる。


「……?」


 私はその姿を見て首をかしげた。


 何をするんだろう。


 ナギさんは一度、静かに息を整えた。


「ふうぅ」


 その呼吸のあと。次の瞬間だった。


 ドンッ!!!


 木全体が揺れるほどの振動と轟音が、辺りに響き渡った。


「きゃっ!?」


 あまりの衝撃に、私は思わず肩を跳ねさせる。


 すごい音だった。雷が落ちたのかと思うくらいだ。しかもナギさん、見た感じほとんど大きく振りかぶっていない。ほんの短い動きだったのに、大樹そのものがビリビリと震えた。


 その直後。


 ざざざっと枝葉が大きく揺れて――上のほうから、何かが落ちてきた。


「ぶえっ」


 間の抜けた声とともに、どさっと地面に転がる。


 それは一瞬、葉っぱのかたまりにしか見えなかった。


 緑の葉に埋もれた、もこもこした何か。


 でもよく見ると、小さな手足がある。ふわっとした髪のようなものにも葉っぱが混ざっていて、全体的に“木の上で昼寝してました”感がすごかった。


「いい加減起きなさい。ドライアド」


 ナギさんが淡々と言う。


「ドライアド?」


 私は目を丸くしたまま、落ちてきたそれとナギさんを交互に見た。


「ナギさん、今何したんですか」


「この子が起きないので叩き起こしました」


 叩き起こした。


 言葉としてはその通りなのだろうけど、さっきのはだいぶ物理的だった気がする。


 ナギさんはさらりと続けた。


「今のは寸勁ですね。短い距離で打つ打撃です」


「す、寸勁……」


 前世のどこかで聞いたことがあるような気がする。


 たしか、ほとんど間合いのない位置から衝撃を打ち込むみたいな技だったはず。けれど、まさかそれを大樹相手にやるとは思わないし、その結果、木の上で寝ていた精霊を落とすとも思わない。


 葉っぱのかたまり――いや、ドライアドは、地面に転がったまま頭を押さえていた。


「いたたたぁ……ちょっとぉ、少しは手加減してよぉ。木が折れちゃうでしょぉ」


 声までふにゃふにゃしている。やる気がない。ものすごくない。


 でも、その抗議に対するナギさんの返しは冷静だった。


「直ぐに出てこないあなたが悪いんです」


「ひどぉい……」


 ドライアドは半泣きみたいな声を出しながら、ようやくもぞもぞと起き上がった。


 そしてその姿が見えて、私は思わず目を瞬いた。


 やっぱりデフォルメされている。


 小さな身体に、木の葉のドレスみたいな服。髪は若葉みたいな淡い緑で、頭の上には小枝や花まで絡まっていた。眠たげにとろんとした目をしていて、全体的に“春のお昼寝”みたいな雰囲気の精霊だ。


 ……かわいいけど、すごくだらけている。


 エルミナさんも呆然としていたけれど、やがて遠慮がちに口を開いた。


「あ、あの……この方が、木の精霊さんですか……?」


「そうですよぉ……たぶん……」


「たぶんってなんですか」


 思わずつっこんでしまった。


 ドライアドは私のほうを見て、眠そうにぱちぱちと瞬きをする。


「だってぇ、起きたばっかだしぃ……」


 そう言ってふらふらと立ち上がる姿は、本当に今さっきまで熟睡していた人そのものだった。


 なんというか。


 水はやさしく、土は豪快で、風はいたずら好きで――木は、ものすごくマイペースらしい。


 私は思わず、エルミナさんの顔を見た。


 エルミナさんもこちらを見返してきて、そして困ったように小さく笑う。


 たぶん、同じことを思っていた。


「落ちたから目が覚めちゃったじゃん、もうぉ」


 ドライアドはむくれたように唇を尖らせながら、ぐいーっと大きく伸びをした。


 葉っぱのついた髪がふわふわ揺れて、小枝みたいな飾りまで一緒にぶるんと震える。


 そのまま地面からふわりと浮き上がった。


 ……そうか。


 見た目は完全に“木の上で昼寝していた葉っぱのかたまり”みたいだったけど、ちゃんと精霊なんだよね。


 浮くんだ。


 いや、今までの子たちも浮いていたけれど、この子はなんというか、浮き方までだらっとしている。気だるげに宙へ漂うその姿は、まるで「立つのも面倒だからこのままでいっか」とでも言いたげだった。


「えーっと、エルミナだっけ?」


 ドライアドは眠たげな目を細めて、エルミナさんを見た。


「なに、あーしと契約したいの」


 ……あーし?


 私は思わず瞬きをした。


 もしかしてこのドライアド、ギャル系なのか。


 いや、見た目だけならふわふわしていて森の妖精みたいなのに、喋り方の方向性が急に違う。


 精霊って本当にそれぞれ個性が強いな……。


「は、はい。よろしくお願いします」


 エルミナさんは相変わらず少し緊張した様子で、ぺこりと頭を下げた。


 ドライアドはそんな彼女をじーっと見つめてから、ふうん、と鼻を鳴らす。


「じゃあさ、手を見せてよ」


「手、ですか?」


「そ。てのひら」


「あ、はい。ど、どうぞ……」


 言われるままに、エルミナさんが両手を差し出す。


 巫女装束の袖口から伸びた白い指先が、少しだけこわばっていた。たぶん本人も、今度は何を見られるのかわかっていないのだろう。


 ドライアドはふわりと近づくと、エルミナさんの手をそっと取った。


 その仕草は、思っていたよりずっとやさしかった。


 もっと軽いノリでぺたぺた触るのかと思ったけれど、案外ていねいに掌を見ている。指を開かせたり、角度を変えたりして、まるで本当に手相占いでもしているみたいだ。


「ふーん……」


 ドライアドが、じっとエルミナさんの手のひらを見つめる。


「結構きれいじゃん」


「えっ」


 エルミナさんがきょとんとした顔をする。


「悪いことしてないっぽいね。それに血もついてない」


「ち、血……?」


 その言葉に、私は少しだけ息をのんだ。


 軽い調子で言っているけれど、たぶんこれは見た目の話じゃない。


 この手が何をしてきたか。


 何を奪ってきたのか、あるいは何も奪わずにきたのか。


 そういうものを見ているのだ。


 ドライアドは眠たそうな目のまま、でもしっかりとエルミナさんの掌を見つめていた。


「……いいわ」


 ぽつりと、そう言う。


「契約してあげる」


「本当ですか」


 エルミナさんの顔がぱっと明るくなる。


 その変化があまりにもわかりやすくて、ドライアドは少しおかしそうに口元を緩めた。


「もち」


 軽い返事。


 でも、その次の言葉は思ったよりずっとやわらかかった。


「あんた、誰かを育てる手をしてる」


「育てる、手……」


 エルミナさんが、自分の掌を見下ろす。


 その顔は、少しだけ信じられないものを見るようだった。


「そ。あんた、動物に好かれたりしたでしょ」


「あ、はい。野良猫とかがよく寄ってきます。誰かのペットの犬とかにも懐かれます」


「それに植物の育ちも良かったんじゃない?」


「はい。錬金術に使う植物を世話してました。他の生徒たちより育ちが良かったです」


「この手はそういう手よ。安心を与えて守れる手」


 ドライアドは、うんうんと満足そうにうなずいた。


「育てるためにはやっぱ愛と平和が一番よね」


 ドライアドは一人で納得したようにうなずいている。


 ……ラブアンドピースのことを言ってるのかな。


 この世界にギャルって概念、あるんだろうか。いや、ない気がする。


 でも今目の前にいるこの子は、どう考えてもその系統に片足を突っ込んでいる。


 私は心の中でそんなことを考えながら、エルミナさんを見た。


 彼女はまだ少し戸惑っていた。


 でも、その戸惑いの奥に、かすかなよろこびがあるのがわかる。


 誰かを育てる手。


 それはきっと、ただ優しいというだけじゃない。


 命を傷つけるためではなく、何かを守って、育てて、支えるための手だと、そう言ってもらえたのだ。


 気弱で、自信がなくて、これまで何度も自分を過小評価してきたエルミナさんにとって、その言葉はきっと、とても大きい。


「わ、私が……そんなふうに見えるんでしょうか」


 おそるおそる尋ねるエルミナさんに、ドライアドはけろっと答えた。


「見えるよぉ」


 そして、つんとエルミナさんの指先をつつく。


「少なくとも、壊す手じゃない」


 その一言は、ふわふわした口調のくせに、不思議なくらいまっすぐ胸に落ちてきた。


 エルミナさんの肩が、わずかに震える。


 たぶん、うれしいんだ。


 照れくさいのと、信じられないのと、でもちゃんと受け取りたいのと――いろんな感情が一度に押し寄せている、そんな顔だった。


「だから、いいよ。あんたと契約してあげる」


 ドライアドはにっこり笑った。


 眠そうで、気だるげで、でもその笑顔だけはちゃんとあたたかい。


「あーし、木の精霊ドライアド。これからよろしくね、エルミナ」


「……はい。よろしくお願いします、ドライアドさん」


 エルミナさんが、今度は少しだけしっかりした声で答える。


 するとドライアドの身体が、葉擦れみたいな緑の光に包まれた。


 若葉色の粒子がふわりと舞い、花びらのように揺れながらエルミナさんの胸元へと吸い込まれていく。


 その瞬間、大樹の枝葉がざあっと鳴った。


 風ではない。


 木そのものが祝福するような、深くやさしい音だった。


「……成功ですね」


 ナギさんが静かに言う。


 エルミナさんは胸の前で手を組んだまま、しばらく呆然としていた。


 水、土、風、そして木。


 次々と精霊たちと契約していく中で、そのたびに違う形で自分を見てもらっている。


 祈れる子。


 悪くない相棒。


 賢い子。


 そして、誰かを育てる手。


 どれもきっと、今までのエルミナさんが自分では信じきれなかったものだ。


 私はそんな彼女を見ながら、なんだか胸の奥があたたかくなった。


「よかったですね、エルミナさん」


 そう言うと、エルミナさんははっとしたように顔を上げる。


「……はい」


 その返事は、少し震えていた。


「なんだか、精霊さんたちに会うたびに……自分が知らなかった自分を教えてもらってるみたいです」


「そうかもしれませんね」


 私はうなずいた。


 契約って、ただ力を得ることじゃない。


 相手に自分を見てもらって、認めてもらうことでもあるのかもしれない。


 それはきっと、少し怖くて、でもとても嬉しいことだ。


 大樹の下に吹く風は、竹林のそれよりもずっとやわらかかった。


 畑の匂いも、水のきらめきも、遠くの田んぼの景色も、全部がゆったりとこの場所につながっているように思える。


 木の精霊ドライアド。


 眠そうで、だらけていて、ちょっとギャルっぽくて。


 でもきっと、この大地に根を張る命たちを、ずっと静かに見守ってきた精霊なのだろう。


 そう思うと、さっきの“愛と平和が一番”という言葉も、案外ただの軽口じゃないのかもしれない――そんな気がした。



 木の祠を後にした私たちは、さらに神社の敷地を巡るように歩き、今度は土の祠があった山の反対側までやって来ていた。


 そこは昼間だというのに、どこか空気がひんやりとしている場所だった。


 山肌にぽっかりと口を開けた洞窟。


 周囲には草木が生えているのに、その入口だけはぽっかりと影が落ちていて、まるでそこだけ別の世界へ通じているみたいに見える。


「この洞窟には、闇の精霊が祀られています」


 ナギさんが静かにそう告げた。


「闇、ですか……」


 エルミナさんが、わずかに身をこわばらせる。


 その声には、はっきりとした警戒が滲んでいた。


 たぶん彼女は思ったのだろう。


 闇と聞けば、どうしても自分の中の暗い部分を連想してしまう。見られたくないもの。触れられたくないもの。誰にだって、心の奥にはそういう場所がある。


 まして精霊との契約だ。


 これまでの精霊たちも、それぞれ違う形でエルミナさんのことを見ていた。祈れる心、悪事の有無、知識、育てる手。だったら闇の精霊は、もっと直接的に“内側”を覗いてくるのかもしれない。


 そう思えば、怖くないはずがない。


 私は洞窟の入口を見つめながら、無意識に息をひとつ飲み込んだ。


「行きましょう」


 ナギさんに促され、私たちは洞窟の中へ足を踏み入れた。


 中は、思った以上に暗かった。


 入口から少し入っただけで外の光はすぐに届かなくなり、岩肌の凹凸さえよく見えなくなる。ひやりとした空気が肌に触れて、足音だけがこつ、こつと小さく響いた。


 私は足を止め、指先で空中に文字を描く。


「――光」


 淡い輝きが、ふわりと私たちの前に灯った。


 小さな光の球が宙に浮かび、周囲をやさしく照らし出す。岩壁のざらつき、湿った地面、奥へ続く一本道。こうして明かりがあるだけで、ずいぶん心強い。


「助かります」


 エルミナさんがほっとしたように呟いた。


 私たちはその灯りを頼りに、洞窟の奥へ進んでいく。


 道は意外にも分かれ道のない一本道だった。けれどその単純さが逆に不気味でもある。逃げ道がないみたいで、ただひたすら奥へ、奥へと導かれていく感覚があった。


 やがて視界が開ける。


 洞窟の奥に、小さな空間が広がっていた。


 広間、と呼ぶほど大きくはないけれど、一本道の終わりにぽつんと切り取られたような場所。その中心に、静かに祠が祀られていた。


 石造りの祠は他のものと大きく変わらないはずなのに、ここだけは空気の重さが違う気がした。音が吸い込まれるような静けさがあって、光さえも少し控えめになる。


 エルミナさんが、そっと前へ進み出る。


 そのときだった。


「ノア様、灯りを消してください」


 ナギさんが、静かな声でそう言った。


「えっ」


 思わず聞き返しそうになったけれど、ナギさんの表情は真剣だった。


 私は小さくうなずいて、浮かんでいた光を消す。


 ふっと、世界が闇に沈んだ。


 何も見えない。


 目を開けているのか閉じているのか、それさえ曖昧になるような暗さだった。さっきまで確かにあった祠も、エルミナさんの姿も、ナギさんの横顔も、何ひとつ見えない。


 聞こえるのは呼吸と、かすかな衣擦れの音だけ。


 暗闇は、ただ暗いだけなのに、妙に心の奥へ入り込んでくる。


 そんな中で、エルミナさんが祠の前で手を合わせたのが気配でわかった。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか力をお貸しください」


 その祈りの声は、いつもより少しだけ硬かった。


 緊張しているのだろう。


 すると。


 暗闇の奥に、ふいに“輪郭”が浮かび上がった。


「……っ」


 私は思わず息を止めた。それは目だった。いや、正確には“目のようなもの”だ。


 闇の中に、ひとつの目を象るような輪郭がぼんやりと現れる。光っているわけではない。むしろ周囲の闇よりわずかに濃く、形だけがそこにあるような、不思議な存在感だった。


 そして、その目がゆっくりと開いた。


「我が眠りを妨げるものは誰だ……」


 低く、響く声。目が、喋った。


 闇そのものに声が宿ったみたいで、ぞくりと背筋が震える。


「わ、私です。エルミナ・ヴェルローゼと申します」


 エルミナさんの声が、暗闇の中でかすかに震える。


「貴様か」


 目は、じっとエルミナさんを見つめた。


「我が名はシェイド。我を呼んだということは、我と契約したいのだな」


「は、はい。よろしくお願いします!」


 少し上ずった声だったけれど、それでも逃げずに言い切った。


 シェイドはしばらく沈黙し、それからゆっくりと言う。


「……では、我を見よ」


 その一言だけで、空気が変わった気がした。


「今から貴様の心を覗く。……逃げるなよ」


 次の瞬間。


 シェイドの目が、ぐっと深く開かれた気がした。


 姿は見えない。ただ、見られているという感覚だけが、鋭く胸に突き刺さってくる。


 エルミナさんが、はっと息をのむ。


 そして――固まった。


 言葉を失ったように、そこからぴくりとも動かない。


「エルミナさん……?」


 思わず声をかけそうになった、そのとき。


「うう……いや……やめ……て……」


 苦しそうな、うめき声が聞こえた。


 私は胸がひやりとした。


 暗闇の中で、エルミナさんの身体が小刻みに震えているのが気配でわかる。足元が揺らいで、今にもその場に崩れ落ちそうだった。


「シェイドは心の闇を見ます」


 ナギさんが、静かに説明する。


 その声だけが、この場で唯一変わらず落ち着いていた。


「その闇から立ち直れるかを見ているのです」


「立ち直る……」


 私は小さく呟いた。


 でも、今のエルミナさんの様子は、そんな簡単な言葉で片づけられるものには見えない。


 見えているのだろう。


 彼女自身も触れたくなかったものを。


 失敗した記憶。否定された言葉。届かなかった願い。怖かったこと。情けなかった自分。誰にも言えない後悔。そういうものが、闇となって心の底に沈んでいるのかもしれない。


 エルミナさんの震えが、少し強くなる。


「いや……ごめんなさい……私、私……」


 その声は、まるで夢の中で追いつめられている人みたいだった。


 謝っている。誰に対してなのかわからないまま、ただ苦しそうに。


 私は拳をぎゅっと握った。助けたいと思う。


 でも、ここで口を挟んではいけない気がした。これはきっと、エルミナさん自身が越えなければならないものだ。誰かが代わりに覗かれることも、誰かが代わりに答えることもできない。


 闇は、その人自身のものだから。


 それでも、見ているだけなのはつらかった。


「エルミナ様」


 ナギさんが、低く、けれど確かな声で呼びかける。


「目を逸らしてはいけません」


 暗闇の中、その言葉だけが真っ直ぐに響く。


「それもあなたです。拒むのではなく、見つめなさい」


 エルミナさんの息が乱れる。震えは止まらない。


 でも、逃げ出す足音は聞こえなかった。


 彼女はまだ、そこに立っている。怖くて、苦しくて、泣きそうで、それでも動かないでいる。


 私は見えない暗闇の中で、ただその気配を感じていた。


 闇の精霊シェイドが見ているのは、たぶん“悪”なんかじゃない。


 人の心の中にある、傷だ。弱さだ。見ないふりをしてきたものだ。


 それを見せられたとき、逃げるのか、立ち向かうのか。


 今、エルミナさんはその境目に立っているのだと思った。


 暗闇の中で。


 エルミナさんの荒い呼吸だけが、かすかに響いていた。


 震えている。


 たぶん今も、シェイドの目には彼女の心の奥底が映っているのだろう。見たくない記憶も、消したい後悔も、誰にも知られたくなかった痛みも、何ひとつ隠せないまま。


 その沈黙が、ひどく長く感じられた。


 やがて。


 闇の奥から、低く重い声がゆっくりと響く。


「貴様の心は、失敗と否定と後悔が渦巻いている」


 その言葉に、エルミナさんの肩がびくりと揺れた。


 鋭い。


 あまりにもまっすぐで、逃げ道がない。


 まるで見ないふりをしてきた傷そのものに、名前を与えられてしまったみたいだった。


 失敗。否定。後悔。


 そのどれもが、エルミナさんのこれまでに深く刻まれてきたものなのだろう。うまくいかなかったこと。認めてもらえなかったこと。選ばれなかったこと。あのとき別の言葉を選べばよかったと、何度も思い返した夜。


 そういうものが、彼女の心にはずっと渦巻いていたのかもしれない。


 暗闇の中で、エルミナさんが小さく息をのむ音がした。


 否定できないのだと思う。きっと、全部思い当たるから。


 シェイドの声は続く。


「だが、貴様はこの社に来て多くの精霊と契約を果たした」


 低く重い声のまま。


 けれど、その響きの奥にわずかな変化があった。


「成功し、認められ、それが己の自信となっている」


 その言葉に、私ははっとした。


 暗闇の中で見えないはずなのに、不思議とエルミナさんの表情が浮かぶ気がした。


 水の祠で祈れる子だと言われたこと。


 土の祠で悪くない相棒だと認められたこと。


 風の祠で賢い子だと笑われたこと。


 木の祠で、誰かを育てる手をしていると言ってもらえたこと。


 ひとつひとつは小さな言葉かもしれない。


 でもその全部が、少しずつエルミナさんの中に積み重なっていたのだ。


 失敗ばかりだと思っていた心に。自分なんて、と俯いていた場所に。


 ちゃんと“できた”という感触が灯り始めていた。


 シェイドは、それすらも見ている。


 過去の傷だけじゃない。それを越えようとしている、今のエルミナさんのことも。


 暗闇の中で、エルミナさんの呼吸が少しだけ落ち着いていくのがわかった。


 まだ震えてはいる。


 でも、さっきまでの苦しさ一色ではない。シェイドの言葉を、ちゃんと聞いている。


「貴様は挫折を知るものだ」


 その一言は、妙に静かに胸へ落ちた。


 挫折を知っている。


 それは弱さでも、恥でもないのだと、そう言われているように聞こえた。


「そして、弱きに寄り添える者となるだろう」


 その瞬間、エルミナさんが小さく息を呑んだのがわかった。


 私は思わず胸の前で手を握る。


 たぶんそれは、今まで誰にも言われたことのない言葉だったんじゃないだろうか。


 失敗した人。頼りない人。自信のない人。


 そういうふうに自分を見ていた人に向かって、シェイドは違う未来を告げた。


 挫折を知るからこそ。痛みを知るからこそ。


 同じように苦しむ誰かに、寄り添える者になるのだと。


 それはたぶん、ただ優しいというよりも、もっと深い意味を持つ言葉だった。


 傷を持つ人にしかできない優しさがある。


 転んだことのある人にしかわからない痛みがある。


 シェイドは、その可能性を見たのだ。


 暗闇はまだ深いままなのに。その言葉だけが、ひとすじの灯りみたいに感じられた。


 しばらくして。


 シェイドが、最後に低く告げる。


「ならば我も、貴様と契約してやる」


 その声は、最初のような威圧感だけではなかった。


 どこか、認めるような。静かな許しのような響きがあった。


「存分に我を使うといい」


 そして、ほんのわずかに間を置いて。


「……この先、後悔がないようにな」


 その一言が、暗闇に溶けていく。


 私は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


 後悔がないように。それは慰めではなく、励ましだった。


 過去の後悔を消してやるとは言わない。傷をなかったことにしてやるとも言わない。


 それでも、この先はそうならないように進めと、そう言ってくれているのだ。


 エルミナさんが、かすかに震える声で答える。


「……はい」


 その声は泣きそうだった。


 でも、ちゃんと前を向こうとしている声だった。


「よろしく……お願いします……シェイドさん」


 次の瞬間。


 暗闇の中の“目”が、静かに細められたような気がした。


 輪郭が揺らぎ、黒よりもさらに深い闇の粒子になってほどけていく。夜そのものを小さく砕いたみたいな光なき光が、ゆっくりとエルミナさんのもとへ流れ、胸元へ吸い込まれていった。


 風もない。音もない。


 なのに、その契約の瞬間だけ、洞窟全体の空気が少しだけやわらいだ気がした。


 すべてが静まったあと。


「ノア様、灯りを」


 ナギさんの声に、私ははっと我に返る。


「――光」


 ふわりと淡い灯りが戻る。


 途端に、見えていなかったものが全部視界に戻ってきた。


 祠。岩壁。ナギさんの静かな横顔。そして――エルミナさん。


 彼女はその場に立ったまま、胸の前で両手を握りしめていた。目元は少し赤く、涙を流した跡があるが、不思議と表情は崩れていない。


 泣き顔というより、何かを受け止めたあとの顔だった。


「エルミナさん……」


 私がそっと呼ぶと、エルミナさんは少し遅れてこちらを見た。


 それから、ぎこちなく、でも確かに笑う。


「……大丈夫、です」


 その言葉はかすれていたけれど、ちゃんと“自分で”言ったものだった。


 私はその顔を見て、胸の奥があたたかくなる。


 苦しかったはずだ。怖かったはずだ。それでも逃げなかった。


 自分の闇を見せられて、それでも立っていた。


 だからこそ、シェイドも契約を認めたのだろう。


「おめでとうございます」


 ナギさんが静かに告げる。


「闇の精霊は、最も厳しく心を見ます。乗り越えたのなら、それはあなたの強さです」


 エルミナさんは、少しだけ目を見開いたあと、ゆっくりとうなずいた。


「……強さ、なんて……まだよくわかりません。でも」


 小さく息を吸って。


「少しだけ、自分を信じてもいいのかもしれないって……思えました」


 その言葉を聞いて、私はなんだかうれしくなった。


 水、土、風、木、そして闇。


 精霊たちと出会うたびに、エルミナさんは少しずつ、自分のことを知っていく。


 できないことだけじゃない。弱さだけでもない。その奥にあるものを、ちゃんと見つけ始めている。


 洞窟の中はまだ薄暗く、ひんやりとしていたけれど。さっきまで感じていた怖さは、もうなかった。


 そこにあったのは、静かな余韻だけだった。闇は恐ろしいだけのものじゃない。


 見つめれば、その奥にある本当の自分へ辿り着くための入り口にもなるのかもしれない。


 私はそんなことを思いながら、そっとエルミナさんの隣に並んだ。



 長い道のりだった。


 水の祠から始まって、土、風、木、闇――境内の外れをぐるりと大きく巡って、私たちはようやく桜環神社へ戻ってきていた。


 見慣れた石畳。


 見慣れた社殿。


 昼に出たはずなのに、こうして帰ってくると少しだけ別の場所みたいに感じる。たぶんそれは、今日一日で見たものが多すぎたからだ。


 エルミナさんは五体もの精霊と契約した。


 しかもただ契約しただけじゃない。そのたびに、自分の中にあるものを見つめて、認められて、少しずつ何かを受け取ってきた。


 その横顔は、朝よりもずっと静かで、でも確かに変わって見えた。


「次は光の精霊と契約しましょう」


 ナギさんがそう言って、本殿のほうへ歩き出す。


「光の精霊……」


 私はその言葉を繰り返しながら、きょろりと辺りを見回した。


 ここに祠なんてあったっけ。


 水や土や風みたいに、境内の外にそれらしい場所があるのはわかる。でも本殿の近くに、そんな祠があった記憶はない。


 ナギさんはそのまま本殿の前を進み、やがてある場所で足を止めた。


 そこにあったのは――映真鏡だった。


 神社の中でも特に大切にされている、大きな鏡。


 私も何度か目にしているけれど、祀られているという意識で見たことはなかった。鏡面は今日も静かに光を受けていて、こちらの姿を淡く映している。


「こちらは光の精霊が祀られているんです」


 ナギさんが静かに告げる。


「名を、ウィル・オ・ウィスプといいます」


 私は思わず鏡を見つめた。


 これが祠。なるほど、と思う。


 光は何かを映し出すものだ。隠すより、照らすもの。そう考えると、鏡が光の精霊の依代だというのは、不思議としっくりきた。


 エルミナさんも、ほんの少し緊張した顔で鏡の前へ進み出る。


 五つの契約を経てきた今でも、やっぱり最後のひとつには身が引き締まるのだろう。


 そっと手を合わせる。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか力をお貸しください」


 その祈りの直後だった。


 映真鏡が、すうっと光を帯びた。


「……!」


 鏡面の奥から柔らかな輝きが広がっていく。眩しいほどではないのに、目を離せない光だった。透明で、あたたかくて、でも確かな意思を持っているような光。


 やがてその中心から、ぽん、と小さな光の球が現れた。


 ふわふわと漂う、純白の球体。


 その周囲には聖なる光の粒子がやさしく舞っていて、見ているだけで心が静まっていくような、不思議な清らかさがあった。球体の中心には、理知的な意志を感じさせる淡い核が揺らめいていて、まるでその小さな光の中に一つの精神が宿っているみたいだった。


 その存在が現れた瞬間、本殿の周囲の空気が少し変わった気がした。


 影が薄れて、静けさの質が変わる。


 絶望を照らす希望の灯火、という言葉が頭をよぎる。


 ……でも。見た目だけで言うと。


 光のオーラをまとって天使の翼がついたスライムみたいだった。


 すごく神々しいのに、すごくかわいい。


 神秘とデフォルメが両立しているあたり、今日出会った精霊たちらしい。


 その光の球体は、エルミナさんの前でふわりと止まる。


「こんにちは、エルミナさん」


 声はやわらかく、けれどとても澄んでいた。


「私を呼んだということは、私と契約したいのね」


「はい、よろしくお願いします」


 エルミナさんが頭を下げる。


 ウィル・オ・ウィスプはふわりと上下に揺れて、それをうなずきの代わりにしたみたいだった。


「分かったわ。ちょっと失礼」


「えっ?」


 次の瞬間、ウィル・オ・ウィスプはすいっと浮かび上がり、そのままエルミナさんの頭の上に、ちょこんと乗った。


「わっ」


 エルミナさんがびくっと肩を揺らす。


 でもウィスプ自身は気にした様子もなく、そのまま落ち着いた声で言った。


「うんうん……なるほど……」


 まるで頭のてっぺんから中を覗き込んでいるみたいだ。


「……いいわね」


 その言葉に、エルミナさんが恐る恐る聞き返す。


「い、いいんですか?」


「ええ」


 ウィル・オ・ウィスプは、相変わらず頭の上に乗ったまま、静かに言葉を続けた。


「あなた、今までかなりお人よしだったみたいね」


「うっ……」


 いきなり核心を突かれたのか、エルミナさんの顔が少しだけ引きつる。


 けれど、否定はしなかった。できなかった、のかもしれない。


「他人を傷つけないように生きてきた」


 その言葉は責めるでもなく、褒めるでもなく、ただ事実をなぞるようにやさしかった。


 私はその横で、少しだけ胸がちくりとした。


 人を傷つけないように生きる。


 それは立派なことのように聞こえる。実際、優しさでもあるのだろう。でもきっとそれだけじゃない。


 傷つけるのが怖かったのかもしれない。


 嫌われるのが怖かったのかもしれない。


 自分が悪者になるくらいなら、少し無理をしてでも黙っていたほうがいいと、そうやって生きてきたのかもしれない。


 ウィル・オ・ウィスプは続ける。


「優しい人ではあるけれど、自分を大事にしてこなかったのね」


 その瞬間、エルミナさんの表情が、ほんの少しだけ揺れた。


 図星だったのだと思う。


 言い返せなくて、でもきっとどこかでは自分でもわかっていたこと。


 誰かに譲ること。我慢すること。自分より相手を優先すること。


 それを優しさだと思って続けてきたけれど、そのせいで自分の心や身体がすり減っていたのだとしたら――それはたぶん、優しさだけでは済まない。


 私は朝食のときのことを思い出した。


 温かいご飯が食べられること。お風呂に入れること。それだけで心の底から幸せそうにしていたエルミナさん。


 きっとこの人は、本当にずっと自分を後回しにしてきたのだ。


 食べることも。休むことも。守られることも。全部。


 ウィル・オ・ウィスプの光は、そんな彼女の上でやわらかく揺れている。


 責めるような光ではない。


 むしろ、やっとそこに気づけたね、とでも言いたげな、あたたかな灯りだった。


 エルミナさんは少しうつむいて、それから小さく呟く。


「……そう、かもしれません」


 その声は、静かだった。


 苦しそうというより、ようやく自分で認めたような響きだった。


 頭の上で、ウィル・オ・ウィスプのやわらかな光が揺れている。


 そのぬくもりは、熱いというより安心するあたたかさだった。冬の日向みたいに、ただそこにあるだけで心のこわばりをほどいていくような光。


 エルミナさんは少しうつむいたまま、その言葉を受け止めていた。


 優しい人ではあるけれど、自分を大事にしなかった。


 たぶん、それは誰かに言われて初めて気づくようなことじゃない。ずっと心のどこかではわかっていたのだと思う。ただ認めてしまうと、今までの生き方そのものを見つめ直さなければならなくなるから、見ないふりをしていただけで。


 そんな静かな沈黙のあと。


 ウィル・オ・ウィスプが、ふわりと明るさを増した。


「でも安心して。この先、あなたの未来は明るいわ」


 その一言は、朝日のようにまっすぐだった。


 責めるでもなく、慰めるでもなく。


 ただ“これから”を照らす言葉。


「将来は子どもたちに囲まれて幸せそうよ」


「……!」


 エルミナさんが、ぱっと顔を上げた。


 さっきまで少ししょんぼりしていたのに、今度は驚きに目を丸くしている。その反応があまりにもわかりやすくて、私は思わずくすっとしたくなった。


「未来が分かるんですか!?」


 エルミナさんが、半ば勢い込むように聞き返す。


 ウィル・オ・ウィスプは頭の上でころんと揺れた。


「断片的にね」


 その言い方は軽いのに、不思議と冗談には聞こえなかった。


 光の精霊だからだろうか。


 ただ“今”を照らすだけじゃなく、少し先の景色まで見通してしまうような、そんな透明な眼差しを感じる。


 エルミナさんは、自分の未来を想像したのか、少しだけぽかんとした顔になっていた。


 子どもたちに囲まれて幸せそう。


 その光景が頭に浮かんだのだろうか。


 たしかに、なんとなくわかる気がした。今日一日だけでも、エルミナさんがただ気弱なだけの人じゃないことはよくわかった。誰かを育てる手をしているとドライアドも言っていたし、知識もあって、弱さを知っていて、だからこそ寄り添えるやさしさがある。


 子どもたちに囲まれている未来は、案外とても似合う。


 ……でも。


 次に続いた言葉で、その空気が少しだけ変わった。


「最後はたくさんの家族に看取られて老衰よ」


「死に際のことまで言わないでください!」


 エルミナさんが即座につっこんだ。私は思わず吹き出してしまう。


 いや、たしかにそうだ。未来が明るいと言われて感動しかけたところに、急に人生の終着点まで提示されたら反応に困る。しかも“老衰”って、妙に具体的だ。


 でも、それはそれで悪い未来じゃない。むしろとても穏やかで、あたたかな結末だ。


 家族に囲まれて、最後までちゃんと生きて。ひとりきりじゃなくて、見送られる場所がある。


 それはたぶん、今のエルミナさんにとっては想像もしにくいくらい、やさしい未来なのだろう。


 ウィル・オ・ウィスプはくすくすと楽しそうに揺れた。


「ふふっ、ごめんなさい」


 ぜんぜん悪びれていない声音だった。


 でも、そのあとに続く声はひどくやわらかかった。


「でも選択を間違えなければ、これからの人生、明るくなるわね」


 その言葉に、エルミナさんの表情がふっとほどける。


 照れくさそうで、困ったようで、それでもちゃんとうれしそうだった。


 未来。それはまだ来ていないものだ。だからこそ不安にもなるし、怖くもなる。


 でも今、光の精霊がそれを“明るい”と言ってくれた。


 それだけで、どれだけ救われるだろう。


「あなたと契約するわ」


 ウィル・オ・ウィスプが、静かに告げる。


「これからよろしくね。……頑張ってね」


 最後の一言は、まるで祈りみたいだった。


 励ましというより、そっと背中を押してくれる声。


 エルミナさんは目を瞬かせて、それから深く頭を下げた。


「……はい。よろしくお願いします」


 その返事は、今日一日の中でもいちばん澄んで聞こえた。


 迷いも、不安も、まだきっとある。でもその奥に、ちゃんと希望がある声だった。


 次の瞬間、ウィル・オ・ウィスプの身体が、さらに強い純白の光に包まれた。


 聖なる光の粒子がきらきらと降り注ぎ、本殿の前にやさしい輝きが満ちていく。光は熱を持たないのに、見ているだけで胸の奥があたたかくなる。


 それはまるで、夜明けそのものだった。


 小さな光の球はゆっくりとほどけていき、そのまま細かな輝きとなってエルミナさんの胸元へ吸い込まれていく。


 その瞬間、映真鏡の鏡面が一度だけすうっと明るくなった。


 まるで契約を祝福するように。あるいは、“ちゃんと見届けた”と告げるように。


 そして光は静かにおさまった。


「……終わった、んですね」


 エルミナさんが、自分の胸元に手を当てながらぽつりと呟く。


「はい」


 ナギさんが、いつも通りの静かな声でうなずいた。


「おめでとうございます」


 その祝福は簡潔なのに、だからこそ重みがあった。


 水、土、風、木、闇、光。


 たった一日で、六つの精霊との契約。


 しかもそれぞれが、違うやり方でエルミナさんの中身を見て、認めて、力を貸してくれたのだ。


 私はなんだか、自分のことみたいにうれしくなってしまう。


「すごいですね、エルミナさん」


 そう言うと、エルミナさんは困ったように笑った。


「……まだ、実感がないです」


「でも、ちゃんと変わりましたよ」


「そうでしょうか」


「そうです」


 私ははっきりとうなずく。


 朝、鍛錬場の隅でへろへろになっていた人が、今は自信を持った顔で立っている。疲れてはいるし、戸惑ってもいるけれど、どこか芯が通ったような顔だ。


 それだけでも十分、大きな変化だった。


 ナギさんはそんな私たちを見てから、次の言葉を告げた。


「こことは別の場所に、火と月の精霊の祠があります」


 私は目を丸くする。


「まだいるんですか」


「います」


 ナギさんは淡々としていた。


 でもその内容は全然淡々としていない。今日だけでも盛りだくさんなのに、まだ先があるらしい。


「夜はそちらへ向かいましょう」


 その言葉に、エルミナさんが少しだけ息をのんだ。


 でも今度は、最初のような不安一色の顔ではなかった。


 緊張はしている。たぶん、かなりしている。


 けれど同時に、ちゃんと前を向いている。


「……はい」


 小さく、でもしっかりとした返事だった。


 私はその横顔を見つめながら、胸の奥で静かに思う。


 今日の一日だけでも、エルミナさんはたくさんのものを受け取った。


 精霊たちの力。認められた言葉。


 そして、自分の中にもちゃんと未来へ進んでいけるものがあるのだという感触。


 それはきっと、簡単には消えない。


 映真鏡には、夕方に近づきつつある空の色が淡く映っていた。


 境内には風が吹き、木々が揺れ、どこか遠くで鳥が鳴く。


 静かな神社の午後。


 その真ん中で、エルミナさんはそっと自分の胸元に手を当てたまま、少しだけ照れたように笑っていた。


 夜もまた、新しい出会いが待っている。


 火と月。


 次はどんな精霊が、どんな言葉をくれるのだろう。


 そう思うと、私まで少しだけ楽しみになっていた。



 その日は、少し早めの夕食だった。


 しっかり食べて、少しだけ休んで。


 それから私たちは、雪風が引く馬車に乗って桜環神社を出た。火と月の精霊が祀られている祠へ向かうためだ。


 馬車の中は、相変わらず快適だった。


 ほとんど揺れない。座面のやわらかいソファに身体を預けていると、これが本当に山道を進んでいる乗り物なのか疑いたくなるくらいだ。窓の外では夕方の景色がゆっくり流れているのに、中だけは静かで落ち着いていて、まるで小さな部屋ごと運ばれているみたいだった。


 向かいに座るエルミナさんも、さすがに今日は少し疲れているらしい。


 朝から神社の外を大きく巡って、水、土、風、木、闇、光と六体もの精霊と契約してきたのだ。疲れないほうがおかしい。


 それでも顔つきは、朝よりずっと穏やかだった。


 緊張はまだあるだろうに、どこか“やり切った”人の静けさがある。


 そんな私たちに、ナギさんが落ち着いた声で教えてくれた。


「火と月の祠は、宿から見える山にあります」


「あの山ですか」


 私は窓の外、遠くに見える山を見る。


 露天風呂から見えた、あの大きな山。どこか富士山みたいな印象のある、きれいな形の山だ。


「到着までしばらく時間がありますから、お休みください」


「はい……」


 私は素直にうなずいた。


 たしかに、今日は情報量が多すぎる。


 身体もだけど、頭のほうがちょっと追いついていない気がする。精霊それぞれの言葉を思い返すだけでも、胸の中が忙しい。


 エルミナさんも、小さく「そうさせてもらいます……」と答えて、ソファに深く腰を沈めた。


 私もそのまま背もたれに身体を預ける。


 馬車の中はあたたかくて、静かで、外の揺れもほとんど伝わってこない。


 うとうとするには、十分すぎる環境だった。


 気づけば、まぶたが重くなっていた。


 ◇


「みなさん、着きましたよ」


 ナギさんの声で、私ははっと目を覚ました。


「……ん」


 一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。


 でも柔らかいソファの感触と、馬車の中の落ち着いた空気で、すぐに思い出した。


 そうだ、火と月の祠へ向かっていたんだった。


 隣を見ると、エルミナさんも同じタイミングで目を覚ましたらしく、まだ少し眠そうな顔でぱちぱちと瞬きをしていた。


「つ、着いたんですね……」


「はい」


 ナギさんが扉を開ける。


 外に出ると、ひやりとした空気が頬を撫でた。夕方の山の空気は少し冷たくて、眠気が一気に引いていく。


 見上げると、私たちは山の中腹あたりまで来ていた。


 あの富士山みたいな山。その斜面の途中、視界の開けた場所に馬車は止まっている。


 そして目の前には、大きな洞窟の入口が口を開けていた。


「この先に火の精霊の祠があります」


 ナギさんが洞窟の奥へ視線を向ける。


「参りましょう」


 私たちはうなずき、洞窟の中へ足を踏み入れた。


 入った瞬間、空気が変わる。


「……暑い」


 思わず声が漏れた。


 洞窟の中には熱気がこもっていた。外は少し涼しかったのに、ここはまるで別世界だ。むわっとした熱が肌にまとわりついて、息を吸うだけで身体がじんわり温まっていく。


 いや、温まるというより、普通に暑い。


 これ、だいぶ暑い。


 エルミナさんも額に手を当てていた。


「ほ、本当に火の祠なんですね……空気が違います……」


「ここで長居はしたくないですね……」


 私は正直な感想をこぼす。


 火の精霊が祀られていると聞いた時点である程度は想像していたけれど、予想以上だった。岩肌の奥からじわじわと熱が伝わってくるような感覚がある。


 それでも道は一本道らしく、私たちはそのまま奥へ進んでいった。


 しばらく歩くうちに、前方に赤い灯りのようなものが見え始める。


「……あれ」


 自然の炎だろうか。


 そう思って進むと、やがて視界が開けた。


「わ……」


 思わず足を止める。


 そこに広がっていたのは、まるで前世のゲームで見た“溶岩ダンジョン”みたいな光景だった。


 大きく開けた空間の下方に、赤く煮え立つ溶岩の川が流れている。


 どろどろと動くその赤は、見ているだけで熱が伝わってくるようだった。岩壁は赤い明かりを反射して不気味なくらい鮮やかに照らされ、洞窟の天井には湯気のような熱気がゆらめいている。


 本当にこんな空間があるんだ。素直に感動した。


 感動したけど――


「暑い……」


 それはそれ、これはこれだった。


 すごい。でも暑い。とにかく暑い。感動と不快が同時に存在している。


 私はちょっとだけ顔をしかめながら、さっさと契約を済ませて外に出たいな、と思ってしまった。火の精霊には申し訳ないけれど、ここは長く楽しむ環境ではない。


 そう思いながら進んでいくと、やがて石の橋が見えてきた。


 溶岩の川の上に架けられた、細い石橋。


 その先に、小さな祠が見える。


 たぶん、あれが火の精霊の祠だ。


「着きましたね……!」


 エルミナさんが少し嬉しそうに声を上げる。


 けれどその直後、橋の手前に何か立っているのが見えた。


 木の看板だ。


 そこには、はっきりとこう書かれていた。


『このはし渡るべからず』


「……」


 私は立ち止まった。


 ……まさか……いやいや……まさかそんな……。


 前世の有名なあれを思い出してしまう。あまりにもそのまますぎる文言だ。こんな異世界の神社周辺にまで、そういう言葉遊びみたいなものがあるんだろうか。


 横を見ると、エルミナさんが悩んでいた。


「どうしましょう。祠はすぐそこなのに、渡るなと書かれています。うーん……」


 腕を組んで考え込んでいる。


 真面目だ。ものすごく真面目に悩んでいる。


 たしかに、ここまで精霊たちにはそれぞれ試されてきた。だから今回も、単純に注意書きだから従えばいい、では終わらないのだろうと考えるのは自然だ。


 でも、だからこそ逆に答えは見えやすかった。


 私はエルミナさんとナギさんを交互に見る。


 ナギさんは、静かに微笑んでいた。


「ノア様は分かったようですね」


「えっ、本当ですか!?」


 エルミナさんが勢いよくこちらを見る。


 私は少しだけ苦笑しながら、看板を指さした。


「たぶん、これって……“端を渡るな”って意味です」


「……え?」


「橋を渡るな、じゃなくて。この“はし”は、橋じゃなくて“端”」


 エルミナさんがぽかんと口を開ける。


 私はそのまま石橋の前に立って、深呼吸してから言った。


「つまり、こうするんです」


 そして私は、石橋の中央を堂々と歩いた。


 端っこではなく、真ん中。


 左右の縁には寄らず、まっすぐ中央だけを踏んで進んでいく。


 熱気が下から立ちのぼる中、赤い溶岩の川を見下ろしながら歩くのは少し緊張したけれど、橋そのものはしっかりしていた。ぐらつきもしないし、崩れる様子もない。


 そのまま私は橋を渡り切り、向こう側へ到着する。


「ほら」


 振り返ると、エルミナさんが目を丸くしていた。


「そ、そういうことですか!?」


「たぶん」


 私は肩をすくめる。


 ナギさんはやはり否定せず、静かにうなずいた。


「正解です」


「うわぁ……」


 エルミナさんが感心したような、悔しいような、複雑な声を漏らす。


「まったく気づきませんでした……」


 こういう言葉遊びは、考え込むほど逆に見えなくなる。しかも溶岩の上の橋なんていう物騒な場所でやられると、余計に真面目に構えてしまう。


 でも。


 そういう理屈っぽい試し方をするあたり、火の精霊は意外とひねくれているのかもしれない。


 それとも、単に性格が悪いのか。


 私は橋の向こうにある祠を見つめながら、小さく息をついた。


 さて。次はどんな精霊が出てくるのだろう。


 私のあとに続いて、エルミナさんも石橋を渡り切った。


 今度は少し慎重だったけれど、それでも端には寄らず、ちゃんと真ん中をまっすぐ歩いてくる。渡り終えたときには、ほっとしたように小さく息をついていた。


「よ、よかった……落ちなくて……」


「落ちる前提で考えないでください」


「だって下、溶岩ですよ!?」


 たしかにその通りだった。


 橋の下では赤い溶岩がどろどろと流れていて、見ているだけで熱が立ちのぼってくる。うっかり足を滑らせたら、洒落にならない。


 でも、とりあえずこれで祠の前までは来られた。


 あとは火の精霊と契約するだけだ。


 ……だけ、と言うには、ここまでずいぶん色々あった気がするけれど。


 エルミナさんはひとつ呼吸を整えると、祠の前に立った。


 熱気で頬が赤くなっている。


 巫女装束には少し厳しい環境だけれど、それでも彼女はしっかりと手を合わせた。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか力をお貸しください」


 その祈りが響いた、次の瞬間だった。


「はっはっはっ! よく来たな! 歓迎するぜ!」


 豪快な声が、洞窟の空間にどんと響き渡る。


「っ!?」


 私は思わず肩を跳ねさせた。


 祠が、いきなり炎の竜巻に包まれたのだ。


 赤く燃え上がる火柱が、轟音を立てながらぐるぐると渦を巻く。周囲の熱気が一気に増して、髪がばさっと揺れた。炎の勢いは凄まじいのに、不思議と祠そのものは焼けていない。


 やがて竜巻がふっと収まる。


 その中心から現れたのは――


「……またデフォルメ」


 思わず呟いた。


 そこにいたのは、炎のドラゴン――いや、トカゲと呼んだほうがよさそうな精霊だった。


 全身は燃え盛る紅蓮の炎をまとい、トカゲを思わせる鋭いシルエットを持ちながら、その身体そのものが火炎でできているみたいに揺らめいている。吐く息は熱波となって空気を歪ませ、双眸は炉の中で爆ぜる火花のようにぎらぎらと輝いていた。


 破壊と再生を司る猛々しい熱量。


 そんな言葉がそのまま形になったみたいな存在感だ。


 なのに、頭身はやっぱり低めで、ちょっとかわいい。


 しかも手には、身体に対してやたら立派な両手持ちの戦斧まで握られていた。


 なんで斧なんだろう。


 火ってそういう武器持つものなのかな。


「俺は火の精霊サラマンダー」


 炎のドラゴンは胸を張って名乗った。


「エルミナって言ったか。あの橋を渡れたってことは、頭が固いバカじゃないってことだな」


「……」


 私は少しだけ目を細めた。


 なんだろう。この暑苦しい感じと、絶妙にデリカシーがない感じ。


 前世でこんな先生いたような気がする。声が大きくて、熱血で、悪気なく失礼なこと言うタイプの人。


 エルミナさんも一瞬きょとんとして、それから少し困ったように口を開きかけた。たぶん反応に困っている。


 するとサラマンダーは、すぐに鼻先をかいて言った。


「ああ、気に障ったんなら謝る。すまねえな」


 お、ちゃんと謝れるんだ。そのことに少しだけ感心してしまう。


「それで、俺と契約したいって話だったな」


「は、はい。よろしくお願いします」


 エルミナさんがぺこりと頭を下げる。


 サラマンダーはうなずいた。


「だがその前に、おまえの情熱を俺に見せてくれ」


「情熱ですか?」


 エルミナさんが目を瞬かせる。


「そうだな……欲とか望みとか野望とか、そういうお前の内側にある魂の思いだ」


 魂とか言い出したこのトカゲ。


 いや火の精霊だから、そういう熱量重視なのはわかるけれど、言葉の圧が強い。


 エルミナさんも案の定、戸惑っていた。


「で、でも、どうすれば……」


 サラマンダーは自身の胸を小さな拳で叩く。


「口で語るなんて野暮なことじゃねえ。拳で俺にぶつけてこい!」


「拳!?」


 エルミナさんの声が裏返った。私も思わずつっこみたくなる。


 いや、さっきまで“情熱”とか“魂”とか言っていたのに、急に物理へ振り切るのやめてほしい。もっとこう、心の叫びとか、願いの言葉とか、そういう流れじゃないの?


 けれどサラマンダーは、そんなこちらの戸惑いなどまったく気にしていなかった。


「言葉だけじゃ燃えねえだろ!」


 そう言ったかと思うと、その身体が一気に炎へと変わる。


 紅蓮の火柱が弾け、熱風が吹き抜けた。


「うわっ……!」


 思わず目を細める。


 そして炎が収まったとき、そこにいたのは、さっきまでのデフォルメ精霊ではなかった。


 赤い鱗を持つ地竜。


 四肢で地を踏みしめる、どっしりとした大きな身体。頭部は鋭く、背には炎のたてがみのような揺らめきが走っている。吐息ひとつで熱気が押し寄せ、足元の岩さえじりじりと焼けそうな迫力だった。


 デフォルメじゃない。


 普通に強そうだ。


「さあ!どんとこい!」


 地竜の姿になったサラマンダーが、胸を張るように吠える。


 エルミナさんは完全に硬直していた。


「え、ええっ!?」


 無理もない。


 情熱を見せろと言われたと思ったら、いきなり拳でぶつけろと言われて、その相手が巨大な地竜になったのだ。どう考えても反応に困る。


 私はエルミナさんとサラマンダーを見比べた。


 サラマンダーは本気だ。


 本気で“拳で情熱を見せろ”と思っている顔をしている。


 いや、顔というか竜だけど。


「ナギさん……これ、どういう意味ですか」


 小声で尋ねると、ナギさんはいつもの静かな顔で答えた。


「そのままの意味でしょうね」


「そのままなんですか」


「火の精霊は、言葉よりも衝動と熱量を重んじます。理屈ではなく、どれほど本気で願っているかを見たいのでしょう」


 なるほど。たしかに火らしい。


 理屈ではなく熱。整った言葉ではなく、むき出しの意思。


 でもそれを“拳で”やらせるのは、やっぱり脳筋寄りでは?


 そんなことを考えていると、サラマンダーが大きな瞳をぎらりと光らせた。


「どうした、来ねえのか!」


 熱風と一緒に声が飛んでくる。


「おまえの願いはその程度か!? 叶えたいもんがあるなら、怖がってても前に出ろ!」


 その言葉に、エルミナさんの肩がびくりと揺れた。


 怖いのだと思う。


 目の前には巨大な炎の竜。


 しかも拳で来いと言われている。


 でも、その迫力の奥にあるものも、なんとなくわかった。


 この精霊は、怯える相手をいじめたいわけじゃない。


 逃げたい気持ちごと踏み越えて、それでも前に出ようとする“本気”を見たいのだ。


 エルミナさんは唇をきゅっと結んだ。


 細い指先が、巫女装束の袖の中で小さく握られる。


「……情熱」


 ぽつりと呟く。


 その声はかすかだったけれど、確かに自分へ言い聞かせるような響きがあった。


「私の、願い……」


 水の精霊に祈れる子だと言われた。


 土の精霊に悪くない相棒だと言われた。


 風の精霊に賢い子だと認められた。


 木の精霊に育てる手だと言われた。


 闇の精霊に、弱きに寄り添える者になるだろうと言われた。


 光の精霊に、未来は明るいと言われた。


 今日一日で積み重ねてきたものが、今ここで問われているのかもしれない。


 あなたは、本当は何を望んでいるのか。


 その願いの熱は、本物か。


 エルミナさんはゆっくりと顔を上げた。


 その瞳の奥には、さっきまでの怯えだけではないものが灯り始めている。


 私は息をひそめて、その横顔を見つめた。


 熱気の満ちた洞窟の中で。


 赤い鱗の地竜――サラマンダーが、どっしりと構えたままエルミナさんを見下ろしている。


「さあ!どんとこい!」


 その声は相変わらず大きくて、暑苦しくて、でも不思議と真正面からぶつかってくる熱があった。


 エルミナさんは、すぐには動かなかった。


 けれど逃げもしない。


 巫女装束の袖の中で手を握りしめ、小さく息を吸ってから、ゆっくりと前へ出る。


 一歩。


 また一歩。


 溶岩の赤い光が彼女の横顔を照らしていた。熱で頬は上気しているのに、顔色が悪いのか赤いのか、もうよくわからない。でも、その足取りは途中で止まらなかった。


 私は思わず見つめる。


 拳を打ち込める距離まで近づいたところで、ようやくエルミナさんは立ち止まった。


 目の前には、巨大な炎の地竜。


 普通ならその圧だけで後ずさりしてしまいそうなのに、彼女はちゃんとそこに立っている。


「私は……」


 エルミナさんの声は、最初、かすれるように小さかった。


「先生になりたい……です」


 その言葉と同時に。


 こつん、と。


 エルミナさんの拳が、サラマンダーの胸を打った。


 ……軽い。


 本当に、びっくりするくらい軽かった。


 殴ったというより、触れた、に近いかもしれない。サラマンダーの巨大な体はびくりともしないし、熱風の揺らぎさえ変わらない。


 でも。


 その一撃には、ちゃんと言葉が乗っていた。


「……軽いな」


 サラマンダーは鼻息をひとつ吐いて、そう言った。


「先生になって、お前は何をしたいんだ」


 その問いは、ただの言い返しじゃなかった。


 もっと奥を見ろ、と言っている。


 夢の名前だけじゃなく、その中身を見せろと。


 エルミナさんは、拳を胸の前に戻したまま、息を整える。


 少しだけ迷うように目を伏せて、それからもう一度顔を上げた。


「自分が弱いと思っている子、悩んでる子に寄り添える……そんなやさしい先生になりたい」


 今度の言葉は、さっきよりずっとはっきりしていた。


 そして、その言葉と一緒に。


 とん、と。


 もう一度、サラマンダーの胸を打つ。


 今度は少しだけ力が入っていた。


 ほんの少し。


 でもさっきの“こつん”とは違う。


 怖いままでも、恥ずかしいままでも、それでも少し踏み込んだ拳だった。


 サラマンダーの炎の瞳が、じっとエルミナさんを見つめる。


「まだだな」


 熱を孕んだ低い声が響いた。


「その先で、お前自身はどうなりたい」


「……っ」


 エルミナさんの肩が揺れる。


 きっとそこなのだ。


 誰かのために、は言える。


 寄り添いたい、助けたい、やさしくしたい――そういう願いは、彼女らしいし、本物だと思う。


 でも。


 その奥にある“自分の望み”となると、途端に口に出しづらくなる。


 誰かのため、なら立派に聞こえる。でも自分のこととなると、急にわがままみたいに思えてしまう。


 たぶんエルミナさんは、ずっとそうやって自分を後回しにしてきたのだ。


 光の精霊にも言われていた。


 他人を傷つけないように生きていた。


 優しい人ではあるけれど、自分を大事にしなかった。


 だから今ここで問われているのは、たぶん一番難しいことだった。


 お前は何を望むんだ。お前自身はどうなりたいんだ。


 溶岩の赤い光が揺れる。


 熱い空気が、重たい沈黙を押し流すみたいに流れていく。


 やがて。


 エルミナさんは、ぎゅっと拳を握った。


「私……」


 声が震えている。


 でも、逃げてはいない。


「幸せになりたい」


 その言葉が出た瞬間、私は思わず息をのんだ。


 あまりにもまっすぐで。


 あまりにも、飾りがなかったから。


「毎日、笑顔で生きていきたい」


 それは大きな野望ではないのかもしれない。


 世界を変えたいとか、誰よりも強くなりたいとか、そういう派手な願いではない。


 でも、だからこそ痛いほど本音だった。


 毎日笑って生きたい。


 それだけのことが、今までのエルミナさんにはどれだけ遠かったのだろう。


 安心して食べること。


 あたたかい場所で眠ること。


 お風呂に入って、ほっとすること。


 誰かに認められて、自分を少し好きになれること。


 そういう当たり前を、当たり前として受け取れなかった人の願いなのだ。


 サラマンダーは、その言葉を聞いてもすぐには頷かなかった。


 むしろ、さらに一歩踏み込むように声を投げる。


「……なりたいと望むだけか」


 その言葉が、熱く鋭く突き刺さる。


「望むだけなら誰にでもできるぞ」


 その瞬間。


 エルミナさんの拳が、きゅっと強く握られたのが見えた。


 悔しかったのだと思う。


 否定されたからじゃない。図星だったからだ。


 たしかに“なりたい”だけなら、願うだけなら、誰にだってできる。けれどその先へ進むには、自分でそうなると決めなければいけない。


 望みを、意志に変えなければいけない。


 エルミナさんが顔を上げる。


 瞳の奥に、何かが燃え始めていた。


「だったら……」


 その声は震えていたけれど、もう弱くはなかった。


「なってやる……」


 一歩、踏み込む。


「私は!」


 もう一歩。


「絶対!」


 肩が開く。


 細い腕に、全身の力が集まっていく。


「幸せに!」


 声が熱を帯びる。


「なるんだあああ!!!」


 その叫びと一緒に。


 渾身の拳が、サラマンダーの胸を打った。


 ドンッ!


 今度ははっきり音がした。


 小柄なエルミナさんからは想像もつかないような、まっすぐで、迷いのない一撃だった。力そのものは決して強くない。けれどそこに乗っていた熱量は、今までのどの言葉よりも大きかった。


 情熱。願い。いや、決意。


 それが確かに、拳を通してサラマンダーへ叩き込まれたのだ。


「ぐうう……」


 サラマンダーが、わざとらしくも本気っぽくうめく。


 そして次の瞬間、炎の瞳を細めて笑った。


「いいパンチだ」


 その声には、はっきりとした満足があった。


「効いたぜ、お前の拳……炎よりも熱い情熱だな」


 エルミナさんは肩で息をしていた。


 打った拳をそのままに、しばらく動けないでいる。たぶん、自分でも今の一撃に全部を込めたのだろう。頬は赤く、目にはうっすら涙まで浮かんでいた。


 でもその顔は、さっきまでの戸惑いとはまるで違う。


 恥ずかしくても。怖くても。


 それでも自分の本音を叫んで、前に出た人の顔だった。


 私はその横顔を見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 火の精霊が見たかったのは、たぶんこういうことなのだ。


 きれいに整えた夢じゃない。人に聞こえのいい願いだけでもない。


 自分の内側で燃えている、本当の“生きたい”という熱。


 それをようやく、エルミナさんは自分の言葉と拳で外へ出したのだ。


 溶岩の赤い光が、そんな彼女を照らしていた。


 熱気の揺れる洞窟の中で、しばしの静寂が落ちた。


 エルミナさんは肩で息をしながら、自分の拳を見つめている。たった今、自分の中にあった願いを、迷いも恥ずかしさも全部ひっくるめて叩きつけたのだ。


 幸せになりたい。


 毎日、笑顔で生きていきたい。


 その叫びは、きっと誰かに聞かせるためじゃなく、自分自身に向けて放った言葉でもあったのだろう。


 サラマンダーはそんな彼女を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


 やがて、赤い鱗に包まれた大きな地竜の姿が、ふっと炎にほどけていく。


 燃え盛る火の輪郭が縮み、渦を巻き、そして元のデフォルメされた小さな姿へと戻った。


 やっぱりちょっとかわいい。


 でも今は、さっきまでよりずっと頼もしく見える。


 サラマンダーは両手斧を肩に担ぎながら、にかっと笑った。


「お前の魂、見せてもらったぜ」


 その声には、さっきまでの試すような熱だけじゃなく、ちゃんと認めた相手に向ける熱があった。


「熱くて、眩しくて、暖かい願いだった」


「……っ」


 エルミナさんの目がわずかに見開かれる。


 その言葉が、嬉しかったのだと思う。


 情熱なんて言われても、自分ではよくわからなかったはずだ。先生になりたいという夢も、誰かに寄り添いたいという願いも、幸せになりたいという本音も、ぜんぶ口にするまでは曖昧だったかもしれない。


 でも今、火の精霊はそれを“熱くて、眩しくて、暖かい願い”だと言った。


 ただ燃え上がるだけの炎じゃない。


 誰かを傷つけるための熱じゃない。


 人を照らして、自分も生かすための火だと、そう認めてもらえたのだ。


 サラマンダーはそのまま、手にしていた戦斧をぐっと掲げた。


「そんなお前に、俺からのプレゼントだ」


 次の瞬間。


 炎の光が斧の先端からあふれ、その前に一枚の石板が現れた。


「……これは」


 思わず私は目を見張る。


 石板は正方形で、その表面にはきっちりと区切られた81個のマスが記されていた。9x9の升目。中央を囲むように線が走っていて、何かを書き込むための枠だとすぐにわかる。


 見覚えがあった。


 というか、前世で見たことがある気がする。


 サラマンダーは得意げに胸を張る。


「これは『夢の地図』って言われてる」


 炎の尻尾みたいな揺らめきが、どこか誇らしそうに揺れた。


「中心のマスに、さっき言った願いを書く。そんで周りのマスに必要な要素を書き込む。すると外側のマスに、その要素に合う行動が記される石板だ」


「……!」


 やっぱり。これ、知ってる。


 前世で有名な日本人メジャーリーガーが、学生のころに書いていたマインドマップみたいなやつだ。目標から逆算して必要な要素を並べて、それをさらに行動に落としていく方法。


 夢を夢のままで終わらせないための地図。そういう考え方だったはずだ。


 私は少し懐かしくなった。


 前世で、私も真似して書いたことがある。


 たしか、やる気になってノートに書き出して、最初はすごく“できる自分”になった気分だった。でも、一か月も持たなかったっけ。


 継続って難しいんだよな……。


 そんな苦い記憶がよみがえって、少しだけ遠い目になる。


 でもこの石板は、たぶんただの便利道具じゃない。


 火の精霊が渡すのだ。


 願いを言葉にして終わりではなく、それを行動へ変えていくための“熱の燃やし方”そのものなのだろう。


 エルミナさんは、そっと石板を両手で受け取った。


 熱そうに見えたけれど、不思議と平気らしい。


「夢の……地図……」


 その言葉を、大事そうに繰り返す。


 きっと今の彼女には、ただ願うだけじゃなく、その願いをどうやって形にしていけばいいのかを示してくれるものが必要だったのだと思う。


 先生になりたい。


 幸せになりたい。


 でも、どうやって?


 その問いに、具体的な道筋を与えてくれるもの。


 それがこの石板なのだ。


 けれど、サラマンダーはそこで表情を少しだけ引き締めた。


「だが、気を付けな」


 洞窟の熱気が、少しだけ重くなる。


「お前自身が願った思いを放棄して、自棄になったとき――俺たち精霊は、お前から離れる」


 その声には、さっきまでの豪快さとは違う、火の芯みたいな厳しさがあった。


 エルミナさんも、石板を抱えたまま小さく身を強ばらせる。


「場合によっては、お前を喰らうかもしれない」


「……っ」


 私は思わず息をのんだ。


 冗談には聞こえなかった。


 精霊は力を貸してくれる存在だ。


 でも、それは無条件の優しさではない。願いに応え、その人の可能性を認めるからこそ契約するのだとしたら、その願いを自分で踏みにじることは、精霊との契約そのものを裏切ることになるのだろう。


 火は、暖かい。


 けれど、使い方を誤ればすべてを焼き尽くす。


 それは火の精霊らしい忠告だった。


 エルミナさんは、しばらく黙っていた。


 けれどやがて、石板を胸に抱いたまま、しっかりとうなずく。


「……はい」


 その返事は、小さいけれどちゃんと前を向いていた。


「放棄、しません」


 その言葉を聞いて、サラマンダーは満足そうに笑った。


「よし!」


 そして、ぱっと表情を明るくして。


「じゃあ契約だな! よろしくな、相棒!」


 そう言って、ずいっと拳を突き出した。


 熱を帯びた、小さな拳。


 でもそこには、さっきまでの試練を越えた者にだけ向けられる信頼があった。


 エルミナさんは一瞬きょとんとしたあと、すぐに表情をやわらげる。


 そして石板を抱え直し、空いた手で自分の拳を作った。


 そっと、前へ出す。


 サラマンダーの拳に――こつん、と触れた。


 その瞬間、赤い火花のような光がぱっと散る。


 眩しいけれど、熱くはない。


 むしろ胸の奥に、小さな火が灯るようなあたたかさだった。


「よろしく、お願いします……サラマンダーさん」


「おう!」


 サラマンダーが笑う。


 その身体が紅蓮の光に包まれ、炎の粒子となってエルミナさんの胸元へ吸い込まれていく。火の粉のような輝きがふわりと舞い、洞窟の赤い熱の中へ溶けていった。


 契約成功だ。


 私はその様子を見ながら、自然と息をついた。


 先生になりたい。


 幸せになりたい。


 その願いを、ただ夢で終わらせないための“地図”まで手に入れて。


 エルミナさんは今、また一歩先へ進んだのだと思う。


「おめでとうございます」


 ナギさんが静かに言う。


 その祝福に、エルミナさんは胸元に手を当てたまま、少しだけ照れたように笑った。


「……ありがとうございます」


 その笑顔は、さっき“絶対に幸せになる”と叫んだ人の顔だった。


 まだ頼りなさはある。


 でも、その奥に確かな火が宿っている。


 私はその横顔を見て、なんだかうれしくなった。


 外へ出たら、きっと少し涼しい風が気持ちいいだろう。


 でも今は、この暑い洞窟の中で灯った火を、少しだけ大事に見つめていたかった。



 火の祠の洞窟を出た瞬間、夜の冷たい風が頬を撫でた。


「……はぁ」


 思わず、大きく息を吐く。


 ついさっきまであんなに暑かったせいで、この冷たさがたまらなく気持ちいい。肌に触れる空気が、熱を持った身体からじわじわと火照りを奪っていく。


 さっきまでなら寒いと感じたかもしれない。


 でも今は違う。


 むしろ、このくらいがちょうどいい。


「生き返りますね……」


 私がそう言うと、隣でエルミナさんも深くうなずいた。


「はい……本当に……。火の精霊さん、すごかったです……いろんな意味で……」


 それには私も同意だった。


 暑苦しくて、熱血で、勢いがあって、でもちゃんと筋が通っていた。ああいう相手に真正面からぶつかって、自分の願いを叫び切ったのだから、エルミナさんも相当頑張ったと思う。


 私たちはそのまま馬車へ戻り、次の場所へ向かう。


 最後の契約。月の精霊がいる祠へ。


 馬車の中に入ると、すぐに冷えた水が用意されていた。


 私はありがたく受け取って、一気に喉へ流し込む。


「っああぁぁぁ! うまい!」


 思わず声が漏れた。


 火の洞窟を出た直後だからなおさらだ。冷たい水が喉を通って身体の奥へ落ちていく感覚が、こんなにも幸せだなんて。


 すると向かいのエルミナさんが、くすっと笑った。


「ノア様、まるでおじさんみたいですね」


「そ、そんなことありません」


「いえ、今のはだいぶそれっぽかったです」


 ちょっと楽しそうだ。


 でも、こうして自然に笑えるようになっていることが、なんだかうれしかった。


 朝のエルミナさんなら、こんなふうに軽口を言う余裕もなかったかもしれない。


 馬車は静かに山道を進んでいく。


 やがて、車輪の感覚が少し緩やかになって、ナギさんが「着きました」と告げた。


 外へ出ると、そこは山の頂上だった。


「わ……」


 私は思わず空を見上げる。


 夜の空は驚くほど澄んでいて、星がいくつも瞬いていた。まるで黒い天蓋に細かな銀を散らしたみたいだ。その中に、丸く大きな月が浮かんでいる。


 今日は満月らしい。


 白く冴えた光が、山頂を静かに照らしていた。


 その光の下で、祠がひっそりと建っている。


 さらにその先――山頂の中心あたりは、まるで火山の火口のように地面が大きく窪んでいて、そこからは白い湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。


「……この山、活火山なんですね」


 私はぽつりと呟く。


 溶岩そのものは見えないけれど、火の祠が中腹にあって、山頂にこんな火口があるのなら納得だ。昼間の神社の穏やかさとはまた違う、この山そのものの強さみたいなものを感じる。


 冷たい夜風。


 湯気を吐く大地。


 その上にある満月。


 火と月。


 なるほど、最後の祠にふさわしい景色だった。


 エルミナさんが、静かに祠の前へ進む。


 これが今日最後の契約だ。


 たくさんの精霊と出会ってきた一日の締めくくり。


 緊張しているだろうに、その背中はもう朝のころよりずっと頼もしく見えた。


 月光の中で、エルミナさんは手を合わせる。


「エルミナ・ヴェルローゼです。どうか力をお貸しください」


 その祈りのあと。


 ふわりと、空気が変わった。


 夜風の冷たさが少しだけ甘くなる。


 月光が揺れるようににじみ、祠の前にひとつの影が浮かび上がった。


「……またデフォルメ」


 私は思わず小さく呟く。


 現れたのは、幻惑的な月の光をまとった、不思議な精霊だった。


 雫を逆さにしたような独特のフォルム。


 その左右には四枚の翼が広がり、後ろには天使の輪のような光が浮かんでいる。中心には小さな人物のような核があり、両手で水晶球を抱えていた。


 彼女が瞬くたびに、どこか甘い夢の香りみたいなものが、ふわりと夜気に溶ける。


 実体は朧月みたいに曖昧で、輪郭はあるのに定まらない。見つめていると吸い込まれそうな魔力に満ちていて、その瞳には狂気と平穏が同時に宿っているようだった。


 神秘的だ。


 なのに、やっぱりどこかかわいい。


 外観だけなら、昔どこかでこんなデザインのマークを見たような気がする。妊産婦のマークだったかな。いや、たぶん違うかもしれない。まあいっか。


 その月の精霊は、ふわりと笑った。


「ようこそ月の祠へ。歓迎するわ、エルミナちゃん」


 声はやわらかい。


 でもその奥に、夜の深さそのものみたいな響きがあった。


「私は月の精霊ルナ。私と契約したいのね」


「はい。よろしくお願いします」


 エルミナさんが丁寧に頭を下げる。


 ルナは水晶球を抱いたまま、少し考えるように首を傾げた。


「そうね……エルミナちゃん、あなたお酒はいける口かしら」


「え」


 急な質問だった。


 エルミナさんもきょとんとする。


「あ、はい。少しなら……」


「そうなの」


 ルナは満足そうに微笑んだ。


「じゃあ、お店を開けるわね」


「……お店?」


 私が聞き返すより早く、ルナがぱん、と小さく手を叩いた。


 その瞬間。


 あたりが一瞬、白い閃光に包まれる。


「っ」


 思わず目を細める。


 月光とは違う、もっと夢の中みたいに曖昧な光。


 それが消えて、そっと目を開けると――


「……え?」


 そこは、さっきまでの山頂ではなかった。


 いや、正確には山頂にあるのかもしれない。


 でも目の前の景色は、まるで小さなバーのような空間に変わっていた。


 やわらかな灯りが照らす木のカウンター。


 月光を閉じ込めたような色の瓶が並ぶ棚。


 静かな音楽でも流れてきそうな、落ち着いた夜の雰囲気。


 椅子もある。ちゃんとバーだ。どう見てもバーだ。


 そしてカウンターの向こうには、さっきの月の精霊ルナがいた。


 いつの間にか、すっかり“店の人”みたいな佇まいになっている。


 ルナはふわりと微笑んで、水晶球を軽く撫でた。


「いらっしゃい」


 その声は、夜に溶ける酒みたいに甘く静かだった。


「クラブ朧月へようこそ」


 私はしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。


 最後の契約に来たはずなのに。どうして急にクラブが開店したんだろう。


 でも、そんな混乱すら、どこか夢見心地の月光がやさしく包み込んでいく。


 月の精霊。


 ……これはまた、ずいぶんと癖の強い相手に当たったらしい。


 私たちが促されるままカウンター席に座ると、目の前にすっとグラスが置かれた。


 細い脚のついたカクテルグラス。


 中には月明かりを溶かしたみたいにきれいなお酒が揺れている。青とも銀ともつかない淡い色で、表面には小さな光の粒がふわりと浮かんでいた。こんなおしゃれなお酒、前世でもそうそう見た覚えがない。


 そして、私の前には別のグラスが置かれる。


「あなたにはこっちね」


 ルナさんが微笑んだ。


 私の前の飲み物は白くて、ぱっと見はソフトドリンクみたいだった。やさしい乳白色で、ほんのり甘い香りがする。


「それじゃ、エルミナちゃんの精霊契約を祝して――かんぱーい」


 ルナさんの軽やかな音頭に合わせて、私たちはグラスを持ち上げた。


「か、乾杯……」


「乾杯です」


 ちん、と。


 ガラスの触れ合う澄んだ音が、小さなバーの中に心地よく響く。


 エルミナさんはおそるおそるグラスを口元へ運び、一口だけ含んだ。


 その直後、目を少し見開く。


「……おいしい」


 あまりにも素直な感想で、私は思わず笑いそうになった。


 でもその気持ちはわかる。


 見るからにきれいなお酒だったし、月の精霊が出してくるくらいだから、もっと癖の強い不思議な味かと思ったのだ。けれど、エルミナさんの反応を見る限り、ちゃんと“おいしい”らしい。


 私も自分のグラスを傾ける。


 口に含むと、やわらかな甘さがふわっと広がった。


「……あ」


 これ、知ってる。甘い。

 でもただの甘い飲み物じゃない。ほんの少しだけ発酵の香りがあって、舌の上に丸い余韻が残る。これ甘酒だ。


 前世で冬場によく見かけたあれに近い。お酒と言っても強いものではなくて、身体の中がじんわり温まるようなやさしい味だ。


 火の洞窟のあとで飲むには、妙にほっとする。


 ルナさんはカウンターの向こうで、ゆるやかにグラスを傾けながら、エルミナさんへ視線を向けた。


「エルミナちゃん。精霊の契約、大変だったでしょう」


 月光みたいにやわらかな声だった。


「クセが強い子ばかりで疲れてない?」


 それを聞いて、私は心の中でうなずく。


 たしかに強かった。


 水はやさしいけれど心を読むし、土は豪快だし、風はいたずら好きだし、木は昼寝してるし、闇は心の傷をえぐるし、光は死に際まで言うし、火は拳で語れだった。


 改めて振り返ると、本当に濃い一日だ。


 エルミナさんはグラスを両手で持ったまま、小さく微笑んだ。


「いえ、私……初めての契約だったんです」


 その声には、まだ少し信じられないような響きが混じっていた。


「でも、一日でこんなにたくさんの、それも精霊と契約できたなんて……信じられません」


 その言葉を聞いて、ルナさんはふっと目を細める。


「もともと素質はあったのよ」


 さらりと言う。


「でも、相性と縁が合わなかったのね」


 その言い方は、とても自然だった。努力不足でも、才能不足でもなく。ただ、噛み合っていなかっただけ。


 そう言ってもらえるだけで、どれだけ救われるだろう。


「ママはその辺もわかってたんでしょうね。ね、ママ」


 そう言ってルナさんは、カウンターの向こうからナギさんを見る。


 ママ。やっぱりそういう立ち位置なんだ。


 似合うような、でもやっぱり少し不思議な呼び方に、私は心の中でこっそり反応した。


 ナギさんは特に否定もせず、静かにうなずいた。


「ええ」


 その声は落ち着いていて、いつも通りだった。


「エルミナ様は、自分の力以上の従魔を呼んでいたのではないですか?」


「っ……」


 エルミナさんの肩がぴくりと揺れる。図星らしい。


「失敗したのは、それが原因です」


 静かな断定だった。責めるような響きはない。ただ、まっすぐ事実を言っている。


 私はその言葉を聞きながら、なんとなく納得した。


 強い従魔を呼べれば、すぐに活躍できるかもしれない。周りにも認められるかもしれない。焦っている人ほど、そういう“わかりやすい強さ”に手を伸ばしたくなる。


 でも、自分の器に合わないものは、きっと長くは持たない。


 むしろそれが失敗を呼ぶ。


 エルミナさんはグラスの中を見つめながら、小さく息を吐いた。


「私……焦っていたのかもしれません」


 その言葉は、自分に言い聞かせるみたいだった。


「家族からはハズレと言われて……」


 私は思わず、眉をひそめる。


 ハズレ。


 なんて言い方だろう。


 そんな言葉を家族から向けられたら、それだけで心が削れてしまう。


「でも、学院に入れば変われるかもって期待して」


 エルミナさんの声は穏やかだったけれど、そのぶん余計に胸にしみた。


「学院に入ってからはたくさん勉強をしました。でも、魔法は知識が増えるけど、うまくいかなくて」


 そうなのだろう。


 勉強すればするほど、わかることは増える。理屈も、理論も、術式も、頭には入っていく。けれど、知っていることとできることは違う。


 その差が埋まらない苦しさは、きっと簡単には言葉にできない。


「そのとき、錬金術に出会って……その研究が楽しかったんです」


 少しだけ、声がやわらかくなる。好きなことを口にするときの声だ。


「気づいたら、卒業間近でした」


 最後はちょっと苦笑するように言った。


 好きなことに夢中になって、時間が過ぎていく。


 それ自体は悪いことじゃない。むしろ、とても彼女らしい。


 けれどそのぶん、“本来うまくいくはずだった何か”からは遠ざかってしまった、そんな感覚もあったのかもしれない。


 ルナさんは、そんなエルミナさんの話を急かさず、静かに聞いていた。


 そして、やわらかな声で言う。


「いっぱい悩んで、考えて、ここまで来たのね」


 その一言に、エルミナさんの目が少しだけ揺れた。


 たぶん彼女は、これまでの自分を“遠回りした”とか“失敗した”とか、そういうふうに見ていたのだと思う。


 でもルナさんは違った。


 悩みながら、考えながら、それでもここまで来たのだと。


 ちゃんと“歩いてきた道”として受け取ってくれた。


「月は、迷う者を嫌わないわ」


 ルナさんの声は、夜そのものみたいに静かだった。その言葉が、クラブ朧月の空気にすっと溶けていく。


「でも、いいのよ。悩むことは悪いことじゃない」


 私はグラスを持つ手に、少し力が入るのを感じた。


 悩むこと。迷うこと。立ち止まること。


 それはよくないもののように言われがちだ。でも本当は、そうじゃないのかもしれない。


 悩んでいるからこそ、簡単に投げ出さない。


 迷っているからこそ、本気で選ぼうとしている。


 ルナさんは、そんなふうに言っている気がした。


「悩んでるときは、あと一歩踏み出せる準備ができているってこと」


 エルミナさんが、はっとしたように顔を上げる。


 月の精霊の瞳は、朧月のようにやわらかく揺れていた。


「もう、あなたは次の一歩を踏み出せるわ」


 静かに。でも、確信をこめて。


「夢を叶える一歩を」


 その言葉のあと、少しの間、誰も喋らなかった。


 クラブ朧月の中には、やわらかな静けさだけが流れていた。


 私は自分のグラスを見つめる。


 白い甘酒の表面に、灯りがやさしく揺れていた。


 エルミナさんもまた、何かを噛みしめるみたいにグラスを見ている。


 きっと今までの悩みが、急になくなるわけじゃない。不安も、後悔も、まだ残っているだろう。


 でもそれでも。


 もう次の一歩を踏み出していいのだと、そう言ってもらえた。


 それはたぶん、すごく大きなことだ。


 エルミナさんはやがて、小さく、でもはっきりとうなずいた。


「……はい」


 その返事は、今日一日の中でもとても静かで、でもとても強く聞こえた。


 クラブ朧月のやわらかな灯りの中で、ルナさんはふとカウンターの奥にある時計へ目をやった。


 その仕草はとても自然で、まるで本当に長年この店を切り盛りしてきた店主みたいだった。


「そろそろ閉店の時間ね」


 月の精霊はそう言って、ふわりと微笑む。


「それじゃ契約しましょう。エルミナちゃん、手を出して」


「は、はい」


 エルミナさんが素直に両手を差し出すと、ルナさんはその上にちいさな鍵をひとつ乗せた。


 銀色とも白金ともつかない、不思議な光を帯びた鍵だった。月光を細く削って形にしたみたいにきれいで、見ているだけで胸の奥が静かになる。


「このお店の鍵よ」


「え……」


 エルミナさんが目を丸くする。


 ルナさんは、やさしい夜の声で続けた。


「悩みや愚痴があったら、いつでもいらっしゃい。お話聞いてあげる」


 その言い方があまりにも自然で、私は思わず胸があたたかくなった。


 契約というより、帰ってこられる場所をひとつ渡してくれるみたいだった。


 つらいことがあったとき。誰にも言えないことを抱えたとき。ひとりで考えすぎて苦しくなったとき。


 そんなときに、来てもいい場所がある。それだけで、人は少し救われる。


「でも、飲み過ぎはダメだからね」


 ルナさんがくすっと笑う。


 その言葉に、エルミナさんもようやく表情をやわらげた。


「はい。ありがとうございます」


 鍵を大事そうに胸の前で包み込むように持つ。


 その返事は、さっきまでよりもっと素直で、まっすぐだった。


 次の瞬間。


 ルナさんの身体が、やさしい月の光に包まれた。


 朧月のような輪郭がほどけて、淡い光の粒がふわりと舞い上がる。光はクラブ朧月の空間全体をやわらかく照らし、そのままエルミナさんの胸元へ静かに吸い込まれていった。


 最後に残ったのは、ほんのりと甘い夢の香りだけ。


 そして、その光が消えるのと同時に――


 ぱちん、と、夢が解けるみたいに。


 クラブ朧月の空間は、元の山頂の祠の場所へ戻っていた。


 夜風。満月。星空。火口から立ちのぼる湯気。


 さっきまでのバーが夢だったみたいに、そこにはいつもの山頂の静かな景色が広がっている。


 けれどエルミナさんの手の中には、ちゃんと月の鍵が残っていた。


 夢じゃない。


 ちゃんと契約したのだ。


「これですべての精霊との契約が完了しました」


 ナギさんが静かに告げる。


「お疲れさまでした、エルミナ様」


 その言葉のあと。


 エルミナさんの身体から、ふわり、ふわりと光がこぼれた。


「わっ……」


 思わず声が漏れる。


 次の瞬間、契約した精霊たちが次々と姿を現したのだ。


 水色のウンディーネ。


 小さなドワーフのノーム。


 蝶の羽根を持つシルフ。


 葉っぱまみれのドライアド。


 闇の目、シェイド。


 純白のウィル・オ・ウィスプ。


 炎のサラマンダー。


 そして月のルナ。


 今日一日で出会った精霊たちが、こうして全員そろうと、なんだか壮観だった。


「私たち全員と契約できた子なんて、初めてよ」


 ウンディーネが、やさしく微笑みながら祝福する。


「おう。こいつは将来、大物になれるな。今から楽しみだ」


 ノームも腕を組んで、うれしそうにうなずいていた。


 エルミナさんは、そんな精霊たちを見回して、まだ少し信じられないような顔をしている。


 でもその目は、ちゃんと輝いていた。


「なんならこのまま世界征服とかしちゃう?」


 シルフが、くすくす笑いながらとんでもないことを言い出す。


「えぇ~、なにそれ面倒くさい。のんびりいこうよぅ」


 ドライアドは相変わらずだるそうに浮かびながら、やる気のない声で返した。


「つまりエルミナが魔王になるのだな。面白そうだ」


 シェイドが、なぜか妙に乗り気だった。


 え。シェイドってそういうの好きなの?闇の精霊ってもっとこう、重々しく孤高な感じかと思っていたのに、案外ノリがいい。


「だめよ。エルミナちゃんは幸せになりたいんだから。そういうのはナシね」


 ウィル・オ・ウィスプが、きっぱりとシルフとシェイドをたしなめる。


 その言い方が妙に保護者っぽくて、少しおかしかった。


「そうだぞ。エルミナは先生になりたいんだ。それも強くてかっこいい先生だ。くぅ、燃えるぜ!」


 サラマンダーが拳をぎゅっと握る。


 ……暑苦しい。


 いや、今は山頂の夜風が冷たいからちょうどいいのかもしれないけど、それにしても熱量が高い。


「はいはい、みんな」


 ルナが、ふわりと全員を見回す。


「エルミナちゃんたちを神社まで送るわよ。力を合わせて」


 その声に、精霊たちが一斉に光を放った。


 水の青。


 土の茶。


 風の緑。


 木の若葉色。


 闇の深い紫。


 光の白。


 火の紅。


 月の銀。


 それぞれの色が空へ向かって伸びていき――


 山頂から、桜環神社のほうへ。


 一本の虹の橋が、夜空の中に架かった。


「……すごい」


 思わず、息をのむ。


 それはただの橋ではなかった。夜の闇に浮かぶ、透きとおった光の道。


 月光を受けて七色が淡く揺れ、まるで空そのものに橋が描かれたみたいだった。こんなきれいな橋、たぶん前世のどんなイルミネーションでも見たことがない。


「馬車でこの橋を渡れば、神社まで直ぐよ」


 ルナがそう言って微笑む。


 私たちは急いで雪風の馬車へ乗り込んだ。ほどなくして、馬車が虹の橋を走り出す。蹄の音は軽やかで、揺れはほとんどない。


 窓の外には、夜の空。足元には虹の橋。左右には星の海。


 まるで夜空を飛んでいるみたいだった。


「……すごいですね」


 エルミナさんが小さく呟く。


 その横顔は、月明かりに照らされてやわらかく見えた。


「はい。幻想的です」


 私も同じ気持ちだった。


 今日という一日の締めくくりに、こんな景色を見ることになるなんて思っていなかった。


 そして、その幻想的な馬車の中で。


 私はふと、前から気になっていた疑問をナギさんにぶつけた。


「ナギさん」


「はい」


「私がエルミナさんと同じように祠にお願いをしたら、精霊と契約できるんですか?」


 召喚魔法なんて、ロマンの塊だ。


 前世のゲームでも漫画でも、それっぽいものはいくつも見てきた。精霊、従魔、契約召喚。そういう響きだけでわくわくする。


 だから、ちょっと聞いてみたくなったのだ。


 でもナギさんの答えは、私の予想よりずっと重かった。


「ノア様が、もし契約しようとした場合」


 ナギさんは少しだけ言葉を選ぶようにしてから、静かに告げた。


「精霊は、出てこないでしょう」


「出ない?」


 私は目を瞬く。


「じゃあ、何が出てくるんですか」


 ナギさんはほんのわずか考え、それから言った。


「……幻獣……あるいは神獣でしょうか」


「え」


「もしかしたらこの世界に存在しない、ノア様が創造したものが出てくるかもしれません」


 私は一瞬、言葉を失った。この世界に存在しないもの。私が創造したもの。


 それって、まさか。最終幻想のあれとか。女神で仮面のあれとか。それか神話の英霊とか。


 そういうのが出るかもしれないってこと?


 前世知識の中にある、あのとんでもない存在たちが?


 馬車の中なのに、変な汗が出そうになる。


 でもナギさんは冗談みたいなことを、冗談の顔で言ってはいなかった。


「もしそれらが出現した場合」


 静かな声が続く。


「世界の法則が乱れる恐れがあります」


「……」


 私は、開いた口が塞がらなかった。


 世界が乱れる? 私の想像で? いやいや、そんな大げさな。


 たしかにChat Formは普通じゃない。いろいろできるし、前世の知識とも妙に結びつく。でも、だからといって、想像した幻獣や神獣が実体化して、それで世界の法則まで乱れるなんて――


 冗談、だよね? そう言いたかった。


 でもナギさんの横顔は、月明かりの中でも真剣そのものだった。


 私は思わず窓の外を見る。


 虹の橋の向こうに、桜環神社の灯りが少しずつ近づいてくる。


 幻想的で、きれいで、穏やかな夜。


 なのに今の話だけ、妙に現実味のない怖さを持っていた。


 私の想像で、世界が乱れる。


 もしそれが本当なら――召喚魔法って、ロマンだけじゃ済まないのかもしれない。


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