学院への憧れと教室への第一歩──黒馬と王妃と新しい先生
それから一週間ほど経った、ある日のことだった。
屋敷の前が、朝から妙に騒がしかった。
窓の外を見ると、見慣れない騎兵たちが列をなしている。
甲冑にマント。盾と剣を備えた騎士が十名ほど。
馬上でじっと並ぶその姿は、どこか前世で見た“十字軍”の絵みたいだった。
重くて、厳かで、そして少しだけ物々しい。
「……なんだろう」
私が小さく呟いた時、馬車の扉が開いた。
そこから現れたのは――お爺様だった。
「お爺様!」
思わず声が弾む。
でも、驚いたのはその後だ。
馬車からもう一人、女性が姿を見せた。
長い裾を整えながら降りてきたその人は、ひと目で“王妃”だと分かる雰囲気を纏っていた。
華やかな衣装ではない。むしろ旅装に近い、抑えた装いだ。
それでも立ち姿に気品があって、表情の奥に静かな強さがある。
今日は、王妃の護送で来たらしい。
騎士たちは荷物を降ろし、短く確認を済ませると、お爺様に一礼してすぐに引き返していった。
本当に“送り届けるためだけ”に来たのだろう。
そこに余計な感情はない。
だからこそ、逆に教団らしいとも思えた。
屋敷の前では、お父様とお母様、それに私が並んで迎えた。
お爺様は私を見ると、顔をほころばせる。
「おお、ノア。会いたかったぞ」
そのまま私は、お爺様に抱きしめられた。
胸板が厚い。相変わらず、抱きしめられるとちょっと苦しい。
でも、嬉しい。
「お爺様、先ほどの騎士団はどちらの方々ですか」
私が顔を上げて尋ねると、お爺様は満足そうに頷いた。
「ふむ。あれは第二聖騎士団じゃ」
「皆からは『聖盾』と呼ばれておる。主に要人護送や防衛をしておるな」
聖盾。
なるほど。
たしかに、あの甲冑と盾の並びはそういう感じだった。
「じゃあ、お爺様の第一聖騎士団は何と呼ばれているんですか」
そう聞くと、お爺様は少しだけ胸を張る。
「ワシらの団か。第一聖騎士団は『神剣』と呼ばれておる」
そこで口元を上げた。
「かっこいいじゃろ」
……お爺様、案外気に入ってるみたい。私は思わず笑ってしまった。
「はい。すごく格好いいです」
すると、お爺様はますます満足そうな顔をした。こういうところ、ちょっと可愛い。
そのまま私たちは、みんなでリビングへ移った。
お父様とお母様、私。
それからお爺様と、王妃様。
全員がソファーに落ち着いたところで、王妃様が立ち上がる。
そして、深々と頭を下げた。
「皆さま、お初にお目にかかります」
声は穏やかで、とても綺麗だった。
「私はアルマシア王国王妃――アウレリア・アルカディア・ファン・デル・アルマシアと申します」
……アウレリア。
凛としていて、でもどこか優しい響きの名前だと思った。
「今日から、こちらでお世話になります」
王妃様――アウレリア様は、礼を崩さないままそう言った。
私は慌てて立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
お父様とお母様も、それぞれに挨拶を返す。
全員が改めて座り直したところで、お爺様が話を始めた。
「以前手紙で伝えた通りじゃ。王妃の保護には成功した」
そこまでは私も知っている。
でも、お爺様の顔は少しだけ陰っていた。
「だが王太后のユノ殿は、ラステルが既に別の場所へ移していたようでな。ワシがもっと早く気づいていれば、二人とも助けられたんだが」
その言葉に、リビングの空気が静かに沈んだ。
お爺様がそんなふうに悔やむのは珍しい。
それだけ重いことなのだろう。
しかも、お爺様はそこでアウレリア様へ頭を下げた。
「申し訳ない」
私は息を呑んだ。
でもアウレリア様は、すぐに首を振る。
「頭をお上げください」
その声は、むしろこちらを気遣うようだった。
「お母様は……ラステル主教とお会いした時には既に、何を要求されるか分かっていたようです。直ちに処刑ということはないでしょう」
その『ないでしょう』に、希望と諦めが半分ずつ混ざっているように聞こえた。
お父様が、お爺様へ向き直る。
「アラン殿。幽閉ということですが……具体的に我々はどうしたらよいですか」
現実的な問いだった。
お爺様は頷く。
「そうだな。ラステルからは幽閉先を変更する代わりに、王妃の行動にはいくつか制限が付けられた」
私は自然と身を乗り出していた。
「まず、クレディア領内からの移動が禁じられておる。そして、ギルドなどの組織に所属することも禁じられておる。さらに、月に一度、クレディアの教会への訪問が課されておる」
そこで、お爺様は少しだけ眉をひそめる。
「所在と生存の確認じゃろうな」
……かなり緩い。
でも、自由があるように見えて、実際はほぼ軟禁状態だ。
領外に出られない。
どこにも属せない。
定期的に“生きていること”を見せに行かされる。
柔らかい檻。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
お爺様は続ける。
「リベル家にお願いすることは、王妃の生活と身の安全くらいじゃろうな。もちろん、こちらから王妃の生活費は支給する」
……まるでホームステイみたい。
いや、ホームステイにしては物騒すぎるけれど。
でも、私はそこで引っかかった。
生活。
移動。
教会への訪問。
生存確認。
……位置。
「王妃様」
私は思わず口を開いていた。
「教団から、何か貰いましたか」
アウレリア様は少し不思議そうにしながら、自分の首元へ手をやった。
「そうですね……これでしょうか」
そこにあったのは、高価そうなアクセサリーのチョーカーだった。
細くて上品な細工。
中央には小さな宝石。
そして、その宝石が――
小さく、明滅していた。
私はそれを見た瞬間、前世の記憶の中のある単語が浮かぶ。
ビーコン。
GPS。
位置情報。
この世界にそんな機能があるのかは分からない。
でも、チャットフォームや古代遺跡がある世界だ。
あっても不思議じゃない。
「どうした、ノア」
お爺様が怪訝そうに聞く。
私は自分の懸念を、そのまま言葉にした。
「そのチョーカー……もしかしたら、王妃様の位置情報を掴むものかもしれません」
「位置情報?」
お父様が眉を寄せる。
私は頷いた。
「はい。ラステル主教は、王妃様がいる場所を教会にいながら把握している可能性があります」
自分で言いながら、背中が冷たくなる。
「それに……領の境に何かしらの“線”があって、その線を超えるとチョーカーが反応するのかもしれません」
アウレリア様の顔色が、わずかに変わった。
お母様も、静かにチョーカーを見つめている。
私は続ける。
「無理やり外すこともしないほうがいいですね。何が起こるか分かりません」
部屋がしんと静まり返る。
お爺様が、ゆっくりとチョーカーを見た。
その目に、さっきまでとは違う緊張が宿る。
「……なるほどのう」
低い声だった。
「そういう細工があっても不思議ではない」
お父様も頷く。
「むしろ、ないと考える方が不自然かもしれません」
アウレリア様が、自分の首元にそっと触れる。
その表情には、怖さと、それから――納得が混じっていた。
「……やはり、そういうものなのですね」
小さな声だった。
お爺様が低く問う。
「何か心当たりがあるのか」
アウレリア様は頷く。
「このチョーカーは、幽閉の証として渡されたものです」
「絶対に外さぬように、と」
やっぱり。
私は背筋にぞくりとしたものを感じた。
首輪だ。
見た目は上等な装飾品でも、本質はそれと変わらない。
ラステル。
人を人として扱わないやり方ばかり、よくもここまで思いつくものだ。
でも――今は怒っているだけじゃだめだ。
どう扱うか。どうやって安全を確保するか。そこを考えなきゃいけない。
私はアウレリア様を見た。
王妃様は、不安を押し隠すように静かに座っている。
でも、指先だけが小さく震えていた。
その震えを見て、私は心の中で決める。
この人は、ここでちゃんと守らなきゃいけない。
たとえチョーカーの向こうで、誰かが見ていたとしても。
王妃様を守るには、まずこれをどうにかしないといけない。
でも、雑に触れば危険。
なら――
たぶん、ナギさんに相談するしかない。
私はすぐに桜環神社へ向かった。
王妃アウレリア様の首にあった、あのチョーカー。
宝石の小さな明滅が、どうしても頭から離れなかった。
ただの飾りじゃない。
そう思った直感が、ずっと胸の奥でざわついている。
ナギさんに王妃のことを話すと、彼女は少しも慌てずに言った。
「そのチョーカーを見せてください」
やっぱり。ナギさんも、ただの装飾品だとは思わなかったのだ。
私は頷いて、ナギさんを連れて屋敷へ戻った。
リビングには、お父様、お母様、お爺様、それに王妃アウレリア様がお話をしていた。
私はアウレリア様にナギさんを紹介する。
「王妃様、こちらは桜環神社のナギさんです」
アウレリア様は静かに礼を返した。
ナギさんも、いつものように穏やかに一礼する。
けれど次の瞬間には、もう仕事の顔になっていた。
「王妃様、失礼いたします」
そう言って、アウレリア様の首元へそっと手を伸ばす。
白い指先が、チョーカーに触れる。
宝石がほんのわずかに明滅を強めた気がした。
私は思わず息を詰める。
しばらくの沈黙。
ナギさんは目を閉じ、触れたまま“読んで”いた。
魔力の流れを。刻まれた術式を。その中に仕込まれた意図を。
やがて、ナギさんが静かに目を開く。
「これは……よくできていますね」
その言い方に、ぞっとした。
褒めているわけじゃない。
でも、“雑なものではない”と認めている声だ。
「まず、位置情報ですが」
ナギさんが淡々と分析を始める。
「ノア様が懸念されるほどの正確なものではありません」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「……じゃあ、細かい場所までは分からないんですか」
「はい。範囲は……町単位、といったところです」
町単位。
それでも十分に嫌だ。
でも、部屋の中でどこにいるかまで筒抜けというわけではないらしい。
「次に、境界線で反応する仕掛けがあります」
その一言で、また背筋が冷える。
「領外に近づくと、段階的にチョーカーが締まるようです」
「締まる……?」
お母様が息を呑む。
アウレリア様も、首元に手を当てた。
その仕草が痛々しい。
「はい。警告段階から始まり、一定以上で拘束具として機能するものかと」
……ひどい。
本当に、人を人として扱っていない。私は拳を握りしめた。
ナギさんはさらに、チョーカーの内側へ意識を向ける。
「それと……これは」
少しだけ眉が寄る。
「生体認証があります。王妃様、これを付ける時に何か要求されましたか」
アウレリア様は少し考えるように目を伏せて、それから答えた。
「そういえば……付ける前に血を一滴だけ」
「なるほど」
ナギさんの声が低くなる。
「そうなると、外すことは難しいですね」
部屋の空気が重くなる。
血で認証している。
つまり、このチョーカーはアウレリア様本人と結びついている。
無理に外せば、何が起きるか分からない。
私とナギさんが考え込んでいると、アウレリア様が静かに口を開いた。
「今すぐ外さないほうがいいでしょうね」
その声は落ち着いていた。
「外せば、クレディアの皆さんが危険になる」
私は顔を上げる。
アウレリア様は、もう不安そうには見えなかった。
覚悟を決めた人の顔だった。
「ですが、私は娘やお母様に会えないまま、ここで一生を終えようとは思っておりません」
その言葉が、まっすぐに響く。
「家族を、アルマシアを取り戻したいのです」
……強い。
王を失って。国を失いかけて。自分は監視の首輪を付けられているのに。
それでも“取り戻したい”と言える。
私は胸の奥で、小さく息を吸った。
この人はただ守られるだけの王妃じゃないのだ。
お爺様が腕を組み、低く唸る。
「ワシもそれには賛成したいが……しかし、どうしたものか」
正面から動けば、ラステルに気づかれる。
でも何もしなければ、王妃はただの監視下の人質のままだ。
そこで私は、ふとミュリルさんの言葉を思い出した。
アルマシア。暫定統治。商業ギルド。王政復帰の布石。
私はみんなを見渡した。
「……実は」
全員の視線が私へ集まる。
「ミュリルさんが言っていた計画があります」
お父様が少しだけ眉を上げる。
「計画?」
「はい。商業ギルドによる、王政復帰の布石です」
私は馬車の中で聞いた話を、一つずつ説明した。
戦後のアルマシアは、国家はあるけれど中枢がないこと。
地方貴族の連合による暫定統治になるだろうこと。
混乱期だからこそ、物流と市場を握る者が政治の主導権を取れること。
そして――
「ミュリルさんは、交易再開を“市場支配”だけじゃなく、王政復帰の準備にも使うつもりなんです。王太后が生きていて、王女もたぶん生きている。つまり、正統な王家はまだ残っているから」
リビングが静まり返る。
お爺様が最初に反応した。
「……ほう」
低い声。
でも、その中に確かな興味がある。
お父様は顎に手を当てて考え込んでいた。
お母様は、静かにアウレリア様を見ている。
そしてアウレリア様は――
目を閉じた。
その横顔が、ほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。
「ミュリル殿は……そこまで考えているのですか」
「たぶん」
私は正直に答えた。
「本人は“儲かる”って言ってましたけど」
お母様が笑いそうになって、でもすぐに口元を押さえる。
たしかにミュリルさんらしい。
でも、その“儲け”の先に国の再建まで見ているのが、あの人の怖いところだ。
お爺様がふっと鼻を鳴らした。
「商人らしいが、悪くない考えだ」
お父様も頷く。
「ええ、表向きは経済支援。裏では王家の復帰基盤を整える。ラステルも、そこまではすぐに咎めにくいでしょう」
アウレリア様はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、さっきまでよりはっきりとした光が宿っている。
「……希望、ですね」
小さな声。
でもその一言は、部屋の空気を確かに変えた。
ただ監視されるだけじゃない。ただ匿われるだけでもない。その先に、再びアルマシアに返り咲く道があるかもしれない。
私はその変化を感じながら思った。
ラステルの作った檻は、たしかにある。
でも、檻の中でじっとしているしかないわけじゃない。
外から壊せなくても、内側から抜ける道は作れるのかもしれない。
ナギさんが、静かにチョーカーから手を離した。
「ひとまず、今はこのままにしておきましょう」
「ですが、反応の仕組みは分かりました。対策は考えられます」
「本当ですか?」
私が思わず聞くと、ナギさんは小さく頷いた。
「はい。時間は必要ですが」
その言葉だけで、少しだけ未来が見えた気がした。
お爺様は深く息を吐いて、アウレリア様へ向き直る。
「王妃殿」
「はい」
「どうやら、ただ匿うだけでは済まなくなりそうじゃ」
お爺様のその言葉に、アウレリア様はまっすぐ頷いた。
「はい。望むところです」
その強さに、私は少しだけ胸が熱くなった。
きっと、ここから先の話はもっと大きくなる。
ミスト村だけじゃない。
アルマシア。ルメリア。ラステル。大聖堂。
いろんなものが、繋がり始めている。
でも今はまだ、ここが出発点だ。
王妃アウレリア様の首にある小さな光を見ながら、私は静かに思った。
――これ、絶対に外してやる。
そこから、話題は自然とアウレリア王妃のことへ移っていった。
アウレリア・アルカディア・ファン・デル・アルマシア。
その名前を聞くだけで、どこか光を帯びたような気がする。
気品があって、凛としていて、でもどこかやさしい響きのある名前だと思った。
王妃様は、静かに語り始める。
「私は、アルマシア王国の魔導貴族――アルカディア家の生まれです」
なるほど、と私は小さく頷いた。
雰囲気があると思ったのだ。王妃というだけじゃない。元々“魔導貴族のお嬢様”だった空気がある。
「ルメリアが信仰国になる前ですが」
その言い方に、昔と今の断絶が滲む。
「我がアルカディア家は代々、王立ルメリア魔法学院に在籍して新しい魔法や錬金術を学び、アルマシア王国に広めていました」
「錬金術も……」
思わず声が漏れた。
お婆様が学院長を務めた魔法学院。その卒業生ってことはかなり優秀なのだろう。
そして、アウレリア様は少しだけ目をやわらげた。
「そこで私は――マグノリア・ヴァルトヘルム教授に教わりました」
私はぱちぱちと瞬きをした。
「え」
お婆様に?
アウレリア様は続ける。
「ヴァルトヘルム教授は、とても聡明で面白い方でした」
その言い方に、私は思わずお爺様を見た。
お爺様は腕を組んだまま、でもなんだかちょっと嬉しそうな顔をしている。
アウレリア様は懐かしむように目を細める。
「私が小さいころ家で習ったのは、詠唱、魔法陣、刻印など――そういった正統派の術式でした」
「ですが教授は、それらではなく」
「空間に文字を書いて、魔法を使う方だったのです」
……やっぱり。
私の胸が少しだけ高鳴る。
「その文字は、我々の知らない言語でした」
アウレリア様は、そこでふっと微笑んだ。
「しかも、強くて繊細で。そして何より、とても美しかった」
言葉の選び方に、ちょっと憧れが残っているのが分かった。
でも、その後に続いた一言で私はちょっと笑いそうになる。
「でも、魔法や物の名づけのセンスは変でしたけどね」
お爺様が、くすぐったそうに鼻を鳴らした。
「褒められてるみたいで、くすぐったいのう」
「大半は褒めておりますよ」
アウレリア様はさらっと返す。大半なんだ。
私は思わず口元を押さえる。
「お婆様が先生だったんですか」
私がそう聞くと、アウレリア様が少し首を傾げる。
「お婆様?」
そこで、お爺様が当然のように答えた。
「マグノリアはノアの祖母じゃ」
一拍。
「そしてワシの妻でもある」
アウレリア様が、ほんの少しだけ目を見開いた。
「まあまあ、そうだったのですね」
それから、ゆっくりと私の方を見る。
「では、ノアさんには魔法の才がおありなのですか」
その問いに、お爺様が即答した。
「もちろんじゃ」
なぜか胸を張っている。
自分のことみたいに誇らしげだ。
「なんせノアは、全属性が使えるからのう」
その瞬間。
アウレリア様が固まった。
「……全……属性……?」
言葉の途中で止まる。
その顔は、さっきまでの王妃の落ち着きが少しだけ崩れていて、なんだか新鮮だった。
「え……まさか……本当なのですか」
「そのまさかじゃ」
お爺様が楽しそうに頷く。
私はちょっとだけ肩をすくめた。
そんなに驚かれると、こちらも妙に落ち着かない。
するとアウレリア様が、身を少し乗り出してきた。
「ノアさん。今はどのような魔法を習っているのですか」
その問いに、私は素直に答える。
「えっと……書魔法で、水の玉で岩を撃ち抜く魔法です」
言った瞬間だった。
リビングの大人たちが、一斉に私を見た。
ナギさんを除いた全員、同じ顔。
――何を言っているのか理解できない。そんな顔だった。
「岩を?」
お母様が小さく復唱する。
「撃ち抜く?」
お父様が続く。
「水で?」
お爺様まで聞き返してきた。
なんで三段活用みたいになってるの。でも、アウレリア様だけは違った。
「今、『書魔法』と言いましたか」
その声は驚きに満ちていた。
「まさか本当に、教授の魔法を継承されているとは……」
そこへ、ナギさんが静かに口を挟む。
「ノア様には、全属性だけでなく、書魔法の才能もございました」
「今は剣術も学んでいますよ」
その説明で、リビングの空気がさらに妙な方向へ固まった。
アウレリア様は、ちょっと感動したみたいな顔をしているし、
お母様は私を見ながら誇らしそうな顔だし、
お父様は何か計算を始めたみたいに難しい顔をしている。
そして、ナギさんは追撃するように続けた。
「それに加えて、政治家や発明家のような頭脳もお持ちのようです。ノア様は将来が末恐ろしいですね」
「えっ」
私が一番びっくりした。お父様まで、そこで小さく頷いてしまう。
「たしかに」
「お父様まで!?」
私は思わず声を上げた。
リビングの空気が、少しだけ和らぐ。
お母様が口元を隠して笑っていた。
でも最後に、全部を台無し……いや、全部を“お爺様らしく”締めたのはその人だった。
「はっはっはっ!」
豪快に笑って、私の肩をばしばし叩く。
「ノア! やはりお前は将来、魔王になれるな!」
「なりません!」
私は即答した。
即答したのに、リビングの空気は一気に笑いに変わってしまう。
アウレリア様まで、上品に笑っていた。
ナギさんも少しだけ目元をやわらげている。
私は頬を膨らませながら思った。
……なんで“全属性+書魔法+剣術”の結論が魔王になるんだろう。
でもまあ。
みんなが笑ってくれるなら、今はそれでもいいかもしれない。
リビングの空気が少しやわらいだ、その隙を見計らったみたいに、お爺様が私へ顔を向けた。
「ノア」
「はい」
「魔法学院に興味はあるか」
その一言で、胸の奥がぱっと明るくなる。
魔法学院。
この世界の知識を学べる場所。
魔法を体系的に学べる場所。
アウレリア様の話に出てきた、王立ルメリア魔法学院。
行ってみたいに決まっている。
私は迷わず頷いた。
「はい。あります」
そして、そのまま口にする。
「魔法学院に行きたいです」
言った瞬間、自分でも声が少し弾んでいるのが分かった。
だって、絶対に面白い。
魔法を学べて、この世界のことも知れて、しかもお婆様が教えていた場所でもある。
そんなの、行きたいに決まってる。
お爺様は、やっぱりという顔で笑った。
「王妃の話を聞いて、ノアがそう言うと思ったわい」
う、読まれてる。
でも、お爺様はそこで冗談っぽく流さなかった。
そのまま、アウレリア様へ向き直る。
「王妃殿」
「はい」
「ここにいる間――ノアの家庭教師をお願いしたい」
「えっ、私がですか」
アウレリア様が目を見開く。
私も、ちょっとだけ目を丸くした。
王妃様が家庭教師。
響きがすごい。
お爺様はうんうんと頷く。
「うむ」
「ノアは才能や頭脳には恵まれておる」
そこで少しだけ間を置いて、私をちらりと見る。
「しかし、なんというか……」
嫌な予感がする。
「この国、というか世界の“常識”が理解できていないようなのだ」
「たしかに……」
お父様が頷いた。
「そういえば……」
お母様まで何かを思い出したような顔になる。
しかも部屋の隅に控えているメイドさんや執事さんまで、そろって静かに頷いていた。
……え。
え、私、何かそんなに変なことしてたっけ?
私は思わずきょろきょろしてしまう。
でも、誰も冗談だとは思っていない顔だ。
むしろ「ようやくその話をするんですね」みたいな空気すらある。
(そんなに……?)
ショックというより、じわじわ不安になってくる。
お爺様はそんな私をよそに、話を続けた。
「ゆくゆくはルメリア魔法学院に入学させようと思うとる」
「本当ですか!」
思わず前のめりになる。
でも、そこで現実的な疑問が浮かんだ。
「お爺様。今すぐはダメなのですか」
聞いた瞬間、リビングの空気がちょっとだけ妙な感じになった。
でも私は本気だ。
今すぐ通えるなら、その方がいいに決まってる。
すると、お爺様は少し困ったように笑った。
「ふむ。たしか入学年齢は十五歳からだったはずじゃ」
十五歳。遠い。ものすごく遠い。
「まあギルドや有力組織からの推薦があれば、もう少し若くても入れるじゃろうが……」
そこまで聞いて、私はじっとお爺様を見つめた。
お爺様は第一聖騎士団団長。ゼラ教の中でもかなり偉い。
しかもお婆様は元学院長。
お父様はクレディア領の領主。
そしてアウレリア様は学院の卒業生。
ギルドはミュリルさんからの推薦がもらえるはずだ。
……いけるのでは?
私の視線だけで何を考えているか悟ったのか、お爺様がため息をついて先に言った。
「ノア……」
妙に優しい声音だった。
「ワシらの力でも、五歳で入学は無理じゃ」
「そんなぁ……」
思わず肩を落とす。さすがに五歳は無理か。いや、分かってはいたけど。
でも、そこでお爺様がふっと目を光らせた。
「あ」
この“あ”は、何か思いついた時の“あ”だ。嫌な予感と期待が、同時にくるやつ。
「そうじゃ、ノアよ」
「はい?」
「ワシを倒せたら、その時点で入学を許可しよう」
……はい?
私は数秒、意味を理解できなかった。
「本当ですか!?」
でも、理解した瞬間にはそう叫んでいた。
お爺様は、してやったりという顔で頷く。
「ただし」
あ、条件がある顔だ。
「倒すと言っても一本取るとかではないぞ。ワシが降参したら、という意味じゃ」
……重い。思ったより重い条件だった。
一本じゃだめ。
一本なら、もしかしたら偶然があるかもしれない。
でも“降参させる”って、ほぼ完勝では?
私は真顔になった。
「それ、私に勝ち目ないですよね」
「そうかもしれんな」
お爺様はあっさり言う。
私が真剣に考え込んでいると、ナギさんがさらっと恐ろしいことを言った。
「でしたら、先ほど言っていた魔法を撃てば完結ですね」
一瞬で空気が凍った。私は全力で首を振る。
「いやいや。あれを撃ったら確実に死人が出ますよ!」
お爺様も「なるほど」と頷いた。
「そうか。ノアにはそういう魔法もあるのだったな」
ちょっと嬉しそうに言わないでほしい。
お爺様は顎に手を当てて考え、それから言った。
「ふむ。なら――“剣”でワシを倒す、にしようかの。これならどうじゃ」
「それ、私に勝ち目無いですよね」
さっきと同じことを言ってしまった。
でも本音だ。
魔法抜きで、お爺様相手に剣だけで勝つとか無理でしょ。
お爺様は豪快に笑う。
「はっはっはっ! 今はそうじゃろうな。じゃが、背が伸びて力が付いたノアなら可能性はあるぞ。それに、攻撃だけが魔法とは限らんからな」
その言葉に、アウレリア様が静かに頷いた。
「ええ」
王妃様の声は穏やかで、でも教師らしい響きを帯びていた。
「この世界には、魔法の属性や分類の中に“補助”があります」
「補助……」
私はその単語を頭の中で繰り返す。
「これを特化させたものに、強化魔法や弱体魔法があります」
――バフとデバフだ。
頭の中でその言葉がぴかっと光った。
おお。
おおお。
それはいい。
ものすごく、いい。
ファンタジー要素が一気に増した感じがする。
いや、今までも十分ファンタジーだったけれど、そういう“支援系”の概念が加わると途端に戦い方の幅が広がる。
自分を強化して。
相手を弱体化して。
そこに剣と書魔法を組み合わせたら――
(無双できそう)
私の中の何かが、すごくわくわくし始める。
お爺様はそんな私の顔を見て、口元を緩めた。
「いい顔をしおる」
「やる気が出てきました」
「それはよいことじゃ」
アウレリア様も、少しだけ笑った。
「でしたら、まずは基礎からですね」
「補助魔法は、派手ではありませんが奥が深いですよ」
派手じゃない。でも奥が深い。
……それ、好きだ。私は思わず拳を握った。
「お願いします!」
今すぐ学院には行けない。
でも、その準備は始められる。
剣も。書魔法も。補助魔法も。
全部積み重ねていけば、いつか――
本当にお爺様を降参させて、学院へ行けるかもしれない。
その想像だけで、胸の奥が熱くなる。
そして私は思う。
どうせ目指すなら、ただ“入学する”じゃ足りない。
この世界の常識も学んで。魔法も学んで。剣も強くなって。
その上で――
“私だけの戦い方”を作れたら、きっとすごく面白い。
午後。屋敷の中庭。
冬の光はやわらかいのに、空気だけはぴんと張っていた。
私は木剣を握って、お爺様と向かい合っている。
足元の土はよく踏み固められていて、踏み込んでも滑らない。風は弱い。剣の稽古にはちょうどいい日だ。
周りには、お父様とお母様。それからアウレリア王妃様とナギさん。
みんなが見ている。
……うう、ちょっと緊張する。
お爺様に「剣の稽古の成果を見たい」と言われたからだ。
つまり、今から私は“見られる側”になる。
お爺様は木剣を肩に担ぐでもなく、ただ自然体で立っていた。
なのに、それだけで隙がない。
「ノアよ。今回、ワシは攻撃せん」
低く、落ち着いた声。
「じゃから、全力で打ってきなさい」
「はい!」
私は返事をして、呼吸を整えた。
鼻から吸って。
口から吐く。
ナギさんとの朝稽古で何度もやったように、肩の力を抜く。
足の位置。握り。重心。
大丈夫。型なら、身体に入っている。
私は木剣を構えた。そして――踏み込む。
「やあっ!」
最初の一太刀。
上段からの振り下ろし。
お爺様は避けない。
ただ木剣を上げて受ける。
乾いた音。
次の一手へ移る。
「はっ!」
返し。
横薙ぎ。
足を入れ替えて、流れのままにもう一撃。
ヴァルクレイ流の型を、一つずつ打ち込んでいく。
一歩。
二歩。
踏み込み。
引き。
払い。
返し。
叩き込む。
お爺様は避けなかった。全部、剣で受ける。
まるで私の太刀筋をひとつずつ見ているみたいに。
強さでねじ伏せるためじゃない。
どこまで身体に入っているかを、確かめている。
私は一つずつ、型を最後までやりきった。
息が上がる。
額に汗が滲む。
でも止まらない。
今の私ができる、全部を出す。
最後の型を打ち込み、私は踏み込みの勢いのまま少し前へ流れた。
そこでようやく足を止める。
お爺様が木剣を下げた。
私は荒い息を整えながら、まっすぐ立つ。
「……少々荒いが」
お爺様の声が、静かに響く。
「半年でここまで上達するとはな」
私は思わず顔を上げた。
お爺様は、にやりと笑っていた。
「ノアの努力の賜物だな」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「それに――」
お爺様の視線が、ナギさんへ移る。
「ナギ殿の教えのおかげでもあるな」
ナギさんが、静かに礼をした。
「ありがとうございます、アラン様」
私は木剣を握ったまま、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
褒められるのは嬉しい。
お爺様に褒められるのは、なおさら嬉しい。
すると、お爺様がふっと目を細めた。
「ならば」
その声に、空気が少し変わる。
「ノアに、ワシの技を教えるかのう」
「技?」
私は首を傾げた。
お爺様の“技”。
それって、もしかしなくてもすごいやつなのでは?
「ノア、そこで構えなさい」
「はい」
私は慌てて木剣を持ち直して姿勢を正した。
お爺様は木剣を持ち直す。
でも、次の動きが予想外だった。
木剣を――腰に収めた。
「……え」
そのまま腰を落としてこちらに側面を向けるように半身で構える。
その姿勢を見た瞬間、私は息を止めた。
(え、待って)
(この構えって、まさか)
抜刀術。
いや、それもただの抜刀術じゃない。
お爺様の身体から、さっきまでの“圧”が消える。
止まっている。
なのに、今にも全部が動き出しそうな静けさ。
空気が、止まった。
本当に、一瞬だけ世界が息を止めたみたいだった。
そして。
次の瞬間、お爺様が木剣を抜いた。
見えなかった。本当に、見えなかった。
剣が抜かれたのかどうかすら分からない。
ただ、空気が裂けた感覚だけがあった。
その一閃が――
私の木剣を”斬った”。
ぱきん、じゃない。ぼきっ、でもない。
もっと、すぱっとした音。
私の手の中の木剣が、半ばから真っ二つになっていた。
「……え」
私は固まった。
切られた? 木剣で? 木剣を?
頭が追いつかない。
私は自分の手の中の残った半分と、地面に落ちた先端を交互に見る。
え、木剣で木剣を斬ったの? どうやって?
お爺様は何でもないことみたいに、木剣を下ろした。
「これがワシの技の一つ、『抜き』じゃ。その基礎じゃな」
私はぽかんと口を開けたまま、お爺様を見る。
「……どうやって?」
ようやく出た言葉が、それだった。
お父様も、お母様も、アウレリア様も、無言でその切断面を見ている。
ナギさんだけは少しだけ目を細めていた。たぶん見えているのだろう。原理を分かってる顔だ。
私はもう一度、斬られた木剣を見る。
切断面が、きれいすぎる。
折れたんじゃない。
完全に“斬れて”いる。
それが余計に怖かった。そして、同時に。
ものすごく、格好よかった。
翌日。
朝から屋敷の前が少しだけ騒がしかった。
何事かと思って窓から覗くと、ミュリルさんがギルド職員の人たちを連れてやって来た。
馬車を降りた姿は書類箱や革のファイルを抱えている。今日はどうやら“商談”らしい。
しかも、お爺様に呼ばれて来たらしい。
リビングに顔を出した私に、お爺様は実に軽い調子で言った。
「ギルドの馬車で帰ってもいいんじゃが、新しい馬が欲しくてのう」
……その言い方。
まるで「そろそろ新しい車が欲しいんじゃよ」みたいな響きだった。
お爺様くらいになると、馬もそういう感覚になるのだろうか。
いや、たぶん違う。たぶん単にお爺様がそういう人なのだ。
ミュリルさんは、もう完全に慣れた顔でテーブルの上に分厚いカタログを広げていた。
「はいはい、分かってますよ。ですので本日は“乗用に向いた馬”を中心にお持ちしました」
ページをめくるたび、立派な馬の絵や資料が現れる。
白馬。葦毛。黒毛。栗毛。
どれも毛並みがつやつやしていて、脚が長くて、いかにも速そうだ。
前世で見たサラブレッドみたいな印象がある。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
きれい。
すごくきれい。
走っているところを想像するだけで格好いい。
でも、お爺様はふむ、と唸るだけでなかなか首を縦に振らない。
「どれも悪くはないんじゃがのう……」
「アラン様、条件は “足が速い” “見栄えがする” “気性が安定している” でしたよね?」
「うむ」
「十分満たしてると思うのですが」
すると、お爺様はあっさり言った。
「ワシが乗ってる馬も、同じような種類なんじゃが」
「どうもワシが乗ると、すぐバテるんじゃよ」
……あ。
私はそこで、お爺様の体格を見た。
同年代の人と比べても、お爺様は明らかに大きい。
肩幅も広いし、胸板も厚いし、腕も太い。
……もしかして、重すぎて……?
そう思ったところで、ミュリルさんも同じ結論に達していたらしい。
一度だけ私と目が合って、向こうも「そうよね」という顔をした。
ミュリルさんは無言で最初のカタログを閉じる。
「やっぱり、こちらですかね」
そう言って、別のファイルを取り出した。
今度のファイルは、表紙からして少し無骨だ。
華やかな乗用馬というより、もっと“実用”寄りの匂いがする。
「こちらの馬は、主に農耕や運搬に使われる種類ですが。アラン様のご希望には、むしろこちらのほうが沿うでしょう」
ページを開く。
そこにいたのは――
でかい。
さっきまでの馬より、明らかに一回り、いや二回りは大きい。
肩の厚みも首の太さも違う。
見たことがある。
前世の記憶のどこかに引っかかる。
地方の競馬……。
そう、たしか“ばんえい競馬”とか、そういう類の大きな馬だ。
「うわ……大きい」
私が思わず呟くと、ミュリルさんが頷く。
「力は先ほどの馬の倍以上はあります。持久力も問題ないかと」
なるほど。
速さだけじゃなく、重さに耐えることが前提なのだ。
お爺様がファイルを覗き込み、急に目を輝かせた。
「ほう、いいのう」
その声がちょっと弾んでいる。
「なかなか強そうだ」
……お爺様の馬選びの基準が分からない。
速いとか、丈夫そうとかじゃなく、“強そう”で選んでいる気がする。
でも、たしかに強そうだった。
馬というより、もう半分くらい戦車だ。
その中で、一頭の馬にお爺様の視線が止まった。
体格が大きく、全身が黒い馬。
つやのある黒毛。太い首。どっしりとした胸。目の光まで鋭く見える。
たしかに格好いい。
ものすごく格好いい。
お爺様がそのページを指差した。
「これがいいな」
迷いがない。
「この馬はどんな馬だ」
ミュリルさんは、その黒馬のページを見た瞬間、ぴたりと止まった。
そして、珍しく即答した。
「アラン様、それはやめた方がいいですよ」
え。
お爺様も片眉を上げる。
「ほう? なぜじゃ」
ミュリルさんは、真顔だった。
さっきまでの営業用の笑顔が、きれいに消えている。
「その馬――人を殺しています」
リビングが静まり返った。私は思わず瞬きをした。
……馬が、人を殺している?
事故?暴走?
蹴った?踏んだ?
でもミュリルさんの言い方は、もっとはっきりした“前科”として言っている。
お爺様は、逆に面白そうな顔をした。
「ほう」
いや、“ほう”じゃない。私は思わず身を乗り出す。
「ど、どういうことですか?」
ミュリルさんはファイルを閉じもせず、黒馬のページを指で押さえたまま説明した。
「元は、ある地方貴族が戦場用に買い上げた馬です。ですが、気性が荒くてですね。初代の主を落馬させ、そのまま踏み殺しました」
「えっ」
私の声が裏返る。
さらっととんでもないことを言った。ミュリルさんは続ける。
「その後、調教係も一人。厩番も一人。計三人、重傷か死亡。いまは“扱える者がいない厄介馬”として、半ば持て余している状態です」
……馬、怖い。
いや、全部の馬が怖いわけじゃない。でもこの馬は怖い。
お爺様はファイルを見つめたまま、なぜか少し楽しそうだった。
「なるほどのう」
その反応、なんでちょっと嬉しそうなんですか。
「主を選ぶ馬、というわけか」
「いやいや、そういう綺麗な話じゃないですって」
ミュリルさんがぴしゃりと返す。
「普通に危険個体ですよ」
「ワシならいけるかもしれん」
「その“かもしれん”で選ばないでください!」
私は思わず心の中でミュリルさんを応援した。
珍しく、ものすごく応援した。
だって絶対だめでしょ、これ。
新しい馬を買う話だったのに、なんで突然“猛獣を飼うかどうか”みたいな空気になってるの。
でも、お爺様は完全に興味を持ってしまっていた。
うわあ。嫌な予感しかしない。
お爺様はミュリルさんたちと一緒にその馬がいる厩舎に行くという。
どうかお爺様が無事に帰ってきますように。
午後の屋敷は、午前中とは違う静けさをまとっていた。
陽射しはやわらかくて、風も冷たすぎない。
庭の奥にある東屋には、白いクロスのかかった丸卓が用意されていて、湯気の立つ紅茶と小さなお菓子が並んでいた。
お母様と、アウレリア王妃様。
そして私。
今日ここにいる理由は、もちろん――魔法を学ぶためだ。
でも、机に向かってかりかり勉強するような空気ではなくて、なんだか“上品なお茶会”みたいな雰囲気だった。
私は少し緊張しながら、カップの取っ手にそっと指をかけた。
アウレリア王妃様は、そんな私を見て、まずは穏やかに微笑んだ。
「では、ノアさん」
その呼び方がやさしい。
王妃様なのに、変に威圧感がないのが不思議だった。
「まず、学力について少し伺ってもよろしいですか」
「はい」
私は姿勢を正す。
「文字の読み書きはできますか」
「はい。五歳の誕生日に、お父様とお母様に家庭教師を付けていただいて学びました」
そう答えると、王妃様は静かに頷いた。
「でしたら、計算もできますね」
「はい。四則演算もできます。図形や表も分かります」
そこまで言ったところで、王妃様が少しだけ驚いた顔をした。
その反応に、私は逆にちょっとびっくりしてしまう。
「では……ルメリアの歴史や、周辺国についても?」
「はい。歴史はお父様から、ルメリアや周辺国については家庭教師の先生から教わりました」
王妃様は一瞬だけ言葉を失ったみたいに、瞬きをした。
紅茶の湯気が、ふわりとその横顔をかすめる。
「そうなりますと……」
少しだけ逡巡したあと、王妃様は苦笑するように言った。
「私が教えることは、魔法だけになってしまいますね」
「そんなことありません」
私はすぐに身を乗り出した。
「王妃様。学院では錬金術も学ばれたのですよね」
「ええ、基礎程度ですが」
「わたし、それを学びたいです」
言った瞬間、お母様がくすっと笑った。
王妃様も、少しだけ目を細める。
「ノアさんは、同年代の子に比べて学習意欲がありますね」
……なんだろう。
褒められているのに、ちょっとだけくすぐったい。
前世の言葉で言うなら“意識高い”って言われているみたいで、少し恥ずかしい。
でも、知りたいものは知りたいのだ。
魔法も、錬金術も、この世界のいろんなことも。
そう思っていたら、そこでお母様が口を開いた。
「ノアは勉強はできるのですが……」
その“ですが”に、私はなんとなく嫌な予感がした。
「作法がいまいちでして」
「お母様……」
「挨拶や食事も、最近になってようやく身に着いたんです」
王妃様が少し目を丸くする。
「そうなのですか」
私はカップを持ったまま、ちょっとだけ視線を逸らした。
いや、だって。
挨拶もテーブルマナーも、前世の記憶で“なんとなく”知っていたからどうにかなっただけなのだ。
でも、次の問いが痛かった。
「では、パーティーのダンスなどは?」
「ダンスは……」
お母様が少しだけ困ったように笑う。
「何度か教えているのですが、動きがぎこちなくなってしまって……」
あああ。
それは言わないでほしかった。
私は内心で頭を抱える。
だって無理だ。ダンスなんて。しかもパーティーのやつでしょ?
男性と向き合って、至近距離で、目を合わせて、手を取って踊るんでしょ?
無理無理無理。恥ずかしすぎる。
剣の打ち込みの方がまだましだ。
ドラゴンと戦うほうが気が楽すらする。
私は紅茶の中に逃げ込みたくなったけれど、残念ながらそんな魔法は使えない。
お母様と王妃様の会話が、じわじわと私を追い詰めていく。
気まずい。
すごく気まずい。
そして、アウレリア王妃様が決定打を放った。
「魔法学院の生徒は、主に貴族や豪商など、名家の出身者が多く在籍します」
うん。まあ、そうだろうなとは思っていた。
「もちろん、定期的にパーティーもあります」
……ですよね。
つまり。
踊れないと、魔法学院でやっていけない。
ぐぬぬ。
私は紅茶を一口飲んで、なんとか平静を装った。
でも心の中では全然平静じゃない。
魔法は学びたい。学院にも行きたい。でもダンスは嫌だ。
この矛盾をどうしたらいいんだろう、と本気で考え込んでいたその時――
ふと、ひらめいた。
アウレリア王妃様は、優秀な先生だ。
魔法学院の卒業生で、お婆様の教え子で、魔法も錬金術も知っている。
そんな先生を、私一人で独占するのって、なんだか惜しい気がする。
それに。
もし他の子も一緒なら、ダンスの練習もそんなに恥ずかしくないかもしれない。
……いや、恥ずかしいものは恥ずかしいけど、一対一よりはずっとましだ。
何より、楽しそうだと思った。
私は顔を上げて、王妃様を見た。
「王妃様」
「はい」
「私だけでなく、私のお友達にも教えるというのはどうでしょうか」
東屋に、少しだけ静けさが落ちる。
王妃様は私を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「それは……ここに教室を作る、ということでしょうか」
「はい」
私は頷く。
「お友達と学べたら、楽しいと思うんです」
たぶん私は、ちょっと前のめりになっていたと思う。
だって、いい考えだと思ったのだ。
魔法も学べる。
錬金術も学べる。
作法とかダンスも、みんなと一緒なら少しは頑張れそう。
それに、王妃様だって教える相手が複数いた方が、先生らしい気分になるかもしれない。
お母様が、そんな私を見てやわらかく微笑んだ。
「ノアは優しい子ね」
「え?」
私は少しだけきょとんとする。
優しい、のかな。
私としては半分くらい“もったいない精神”だったのだけれど。
でも、お母様は続けた。
「自分だけが学ぶよりみんなで一緒にと思えるのは、素敵なことよ」
そう言われると、少しだけ胸の中があたたかくなる。
アウレリア王妃様は、しばらく考えるように紅茶の表面を見つめていた。
それから、ふっと顔を上げる。
「……面白いかもしれませんね」
その一言に、私の胸が跳ねた。
「本当ですか?」
「ええ」
王妃様の声は、少しだけ弾んでいた。
「私一人で、王族の妻として閉じていた頃には思いつかなかった発想です」
「ですが、学びを分け合う場がここにできるのなら……それはきっと、意味のあることだと思います」
私は思わず笑ってしまった。
やった。
なんだか、すごくいい方向に転がり始めた気がする。
もちろん問題はあるだろう。
誰を呼ぶのか。
親の許可はどうするのか。
場所や時間はどうするのか。
でも、そういうのを考えるのは嫌いじゃない。
だって、うまくいけば。
ここに小さな“教室”ができる。
王妃様が先生で。
私は生徒で。
もしかしたら友達もいて。
魔法も、錬金術も、作法も、ダンスも。
……ダンスはちょっと嫌だけど。
でも、ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけなら、前より頑張れる気がした。
東屋の外では、冬の庭にやわらかな光が落ちていた。
紅茶は少し冷め始めていたけれど、胸の中は妙にあたたかかった。
何かが始まりそうな予感がする。そんな午後だった。
夕方。
屋敷の外が少し騒がしくなったのに気づいて、私は窓の方へ顔を向けた。
帰ってきたのだろうか、となんとなく思った次の瞬間――その予感は当たっていた。
お爺様が、帰ってきた。
……帰ってきた、のだけれど。
「え」
私は思わず、声を漏らした。
お爺様はたしかにお爺様だった。
でも、その姿が、明らかにおかしい。
全身が汚れている。
服には土埃。
上着の裾にも泥。
髪にも草が混じっている。
しかも、よく見ると。
ところどころに――蹄の跡があった。
「……」
私は瞬きをした。もう一回見た。やっぱり、蹄の跡だ。
口を開きかけて、言葉が詰まる。
(ってことはあの馬に蹴られたの?)
いやいやいや。
普通、馬に蹴られたらもっと大変なことになるよね?
なのにお爺様、普通に歩いて帰ってきてる。
ちょっと服がぼろっとしてるくらいで。
……それで生きて帰ってこられるって、お爺様強すぎる。
リビングに入ってきたお爺様は、そんな私の視線に気づいたのか、のんきに笑った。
「いやあ、なかなかのじゃじゃ馬じゃった」
じゃじゃ馬。
私はその単語を頭の中で繰り返した。
じゃじゃ馬って、もっとこう……気性が荒いとか、走り回るとか、そういうレベルの話じゃないの?
目の前のお爺様には、明らかに“蹴られました”みたいな跡が残っている。
(それ、もう魔物だよね?)
私は心の中でそっとつっこんだ。
でも、お爺様はまったく堪えた様子もなく、どっかりと椅子に腰を下ろした。
その動きひとつ取っても、痛そうな気配がないのが逆に怖い。
お母様がすぐに眉を寄せる。
「お父様。その姿は何ですか」
お父様も苦い顔をしている。
「……まさか本当に乗ろうとされたのですか」
「うむ」
お爺様は実にあっさり頷いた。
「まずは顔を見せて、気配を覚えさせるところからと思っての」
「思っての?」
私は思わず復唱してしまった。
「近づいたら、いきなり後ろ脚で来おった」
「そりゃ来ますよ!」
反射で言ってしまった。
お爺様は少しだけ目を丸くしたあと、はっはっはと笑う。
「いやあ、見事なもんじゃった」
「褒めてる場合じゃないです!」
お母様と私の声が、ほとんど同時に重なった。
でも、お爺様はどこ吹く風だ。
「だが、気に入ったぞ」
……何が?
何をどうしたら、蹴られて帰ってきてその感想になるの。
私は半分あきれながら、でも半分は本気で感心して、お爺様を見つめた。
本当にこの人、前世で言うところの“頑丈さ”の限界値がおかしい。
ナギさんが静かにお爺様のそばへ来て、服の汚れた辺りを軽く見た。
「骨は大丈夫ですね」
「じゃろう?」
「じゃろう、ではありません」
ナギさんの声は穏やかなのに、少しだけ冷えていた。
「普通の方なら、肋骨の数本は折れています」
「普通ではないからのう」
お爺様が胸を張る。
そこ、威張るところじゃないと思う。
私は椅子の背にもたれながら、ため息をついた。
「……で、その馬は諦めるんですか」
聞いてみると、お爺様はにやりと笑った。
その顔を見た瞬間、私は嫌な予感しかしなかった。
「いや」
やっぱり。
「あの馬を手なずけるために、しばらく通うとするか」
その一言で、私はなんとなく悟った。
――これは長期戦だ。
お爺様の目は、本気だった。
面白い獲物を見つけた時の顔をしている。
いや、獲物扱いしないでほしい。馬なんだけど。
お父様は額に手を当てる。
「本気ですか」
「もちろんじゃ」
「やめた方がよろしいのでは……」
お母様まで珍しく本気で止めに入っている。
でも、お爺様はまるで聞いていない。
「向こうも、ただの暴れ馬ではない」
「力があり、意地があり、そして何より、目がいい」
「そういう馬ほど、主を選ぶものじゃ」
……いや、主を選ぶ以前に三人くらい危ない目に遭わせてるんですけど。
でも、お爺様の声には妙な確信があった。
ただの意地じゃない。“乗れる”と本気で思っている声だ。
それが余計に怖い。
私はそっと、お爺様の服についた蹄の跡を見た。
今日だけでこれ。しばらく通う。
つまり、こういうのが続く。
「……大丈夫なんですか」
思わず本音が漏れる。
お爺様は私を見て、少しだけ目を細めた。
「大丈夫じゃよ」
その言い方が、不思議なくらい軽い。
「ノア」
「はい」
「強い相手には、そう簡単に諦めんものじゃ」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
馬の話のはずなのに。
なんだか、それだけじゃない気がした。
強い相手。
すぐにはどうにもならないもの。
でも、諦めずに向き合うこと。
お爺様の中では、それが全部同じ線の上にあるのかもしれない。
私は椅子の上で小さく息を吐いた。
「……でも、次はせめて蹴られないで帰ってきてくださいね」
そう言うと、お爺様は楽しそうに笑った。
「善処しよう」
絶対しないやつだ、それ。
私はもう一度ため息をついた。
でも、ちょっとだけ笑ってしまう。
夕方の光は少しずつ薄れて、屋敷の中に夜の気配が入り始めていた。
その中で、お爺様だけが妙に元気だった。
汚れていても、蹴られていても、なんだか楽しそうで。
私は思う。あの黒馬と、お爺様。
どっちが先に折れるんだろう。……たぶん、どっちも折れない気がする。
翌日。
私たちは馬車で商業ギルドへ向かっていた。
お父様とお母様。
お爺様に、アウレリア王妃様。
そして私。
こうして並んで座っていると、なんだかすごい顔ぶれだなと思う。
領主夫妻に、第一聖騎士団団長に、隣国の王妃。そこへ五歳の私が混ざっているのだから、絵面だけ見ると少しおかしい。
でも、馬車の中の空気は意外と穏やかだった。
王妃様――アウレリア様は、窓の外を静かに眺めている。
その横顔にはまだ影があるけれど、最初に会った時よりは少しだけ柔らかく見えた。
お爺様はというと、落ち着かない。
いや、本当に落ち着かない。
馬車が商業ギルドに近づくにつれて、どことなくそわそわしているのが分かる。
理由は、もちろん――あの馬だ。
ギルドに着くなり、お爺様は馬車を降りて、ほとんど迷いなく厩舎の方を向いた。
「では行ってくる」
本当に、ちょっと散歩に行くみたいな口調だった。
「気を付けてくださいね」
私はそう言うしかなかった。
たぶん帰るころには、また泥だらけになっているのだろう。
なんとなく、もうその未来が見えている。
お爺様が去っていく背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
「……がんばってください」
何をどう頑張るのか、自分でもよく分からないけれど。
私たちはそのまま商業ギルドの受付へ向かった。
私は受付の人に、ミュリルさんへ相談があると伝える。
するとすぐに、支部長室へ案内してくれた。
何度か来た部屋なのに、今日は少しだけ違って見えた。
たぶん、隣に王妃様がいるからだろう。
扉を開けると、ミュリルさんが書類をめくっていた。
でも、私たちの姿を見た瞬間、その琥珀色の目がわずかに見開かれる。
「ノアちゃん。いらっしゃ――」
そこまで言って、視線がアウレリア様へ移る。
そして、一瞬で“支部長”の顔になった。
「お初にお目にかかります、王妃様。クレディア商業ギルド支部長、ミュリル・ネイア・キャリスと申します」
椅子から立ち上がり、玉座の間でするような礼をする。
「ようこそクレディアへ。歓迎いたします」
……そうだよね。
王妃様なんだよね。
私の中では、もう“先生になってくれそうな人”くらいの距離感になっていたけれど、こうして改めて礼を尽くされると、ちゃんと王妃様なんだと実感する。
アウレリア様も、静かに礼を返した。
「ご丁寧にありがとうございます」
その応酬だけで、部屋の空気が少し引き締まる。
でも、すぐにお父様が話を戻した。
全員が応接のソファーに座る。
紅茶が運ばれ、軽く湯気を立てる。
その中で、ミュリルさんが本題を促した。
「今日はご相談とのことですが、どういった内容でしょうか」
アウレリア様が、私に一瞬だけ目を向けてから答える。
「こちらのノアさんの提案で、クレディアに教室を作ろうという話になりまして。本日はその相談に参りました」
その言葉に、ミュリルさんが私を見る。
……また変なこと言ったんでしょ。
そんな目だった。
私は思わず姿勢を正した。
「えっと……そんなに変じゃないと思うんですけど」
「ふうん?」
その“ふうん”が信用していない。
アウレリア様が、やわらかく説明を続けてくれる。
「アラン様から、ノアさんの家庭教師を頼まれたのですが」
「ノアさんは、一人で教わるより、お友達みんなと学びたいと仰ったんです」
「ならば、教室を作るのがよいかと思いまして」
ミュリルさんが、今度は本当に考える顔になった。
「なるほど」
顎に手を当てる。
目線が少しだけ宙を泳ぐ。
その顔を見ると、頭の中で一気に物件だの人員だの収支だのが組み上がっているのが分かる気がした。
お父様もそこで話に入る。
「ミュリル。どこかいい場所はあるか」
「王妃様が先生……」
ミュリルさんが、小さく呟く。
「教える生徒は、貴族の子ども……」
指先で肘掛けを軽く叩く。
「品のある建物……」
そこまで言って、ぱっと顔を上げた。
「ご希望に沿う物件がございます」
早い。
やっぱり早い。
私は目を丸くしてしまう。
でも、ミュリルさんはそれだけでは終わらなかった。
「ですが、王妃様おひとりで教室を開くのは大変でしょう。こちらで、教師を数名探しておきます。それに職員も何人か」
私は思わず前のめりになった。
「ミュリルさん、そこまで分かるんですか」
するとミュリルさんは、にやりと笑った。
「新しい事業の話は大好きよ」
その目がきらきらしている。
完全に“面白そうな商売を見つけた時の目”だ。
「ノアちゃんが作ろうとしているのは――子供向けの小さな魔法学院なんですもの。面白くなりそうだわ」
その言い方に、私の胸がどきっとした。
小さな、魔法学院。
……いい。
すごく、いい響きだ。
教室、というより。
もっと特別で、もっとわくわくする感じがする。
私は思わずアウレリア様を見た。
王妃様も、少し驚いたように目を瞬かせていた。
でも、その後すぐに口元をやわらげる。
「小さな魔法学院、ですか」
「ええ」
ミュリルさんは自信たっぷりに頷く。
「名家の子どもたちが集まって、魔法や錬金術、武術に作法まで学べる場所。そうすれば個別に家庭教師を雇わずに済む。それに子供が学院に通っている間は自分たちの仕事に専念できる」
「しかも先生は王立ルメリア魔法学院の卒業生で、アルマシア王妃」
「話題にならないわけがないでしょう?」
……たしかに。
なんだか急に、すごい話になってきた。
私はただ“みんなで学べたら楽しそう”と思っただけなのに。
でも、それがこうして形になり始めると、不思議と現実味が出てくる。
お母様が、少しだけ心配そうに言う。
「でも、貴族の子どもたちを集めるとなると、親御さんたちの承諾も必要になりますよね」
「もちろん」
ミュリルさんはあっさり答える。
「でも、むしろ喜ぶ家の方が多いと思うわ。王妃様が教える教室なんて、それだけで箔がつくもの」
お父様も小さく頷いた。
「たしかに、推薦状のような意味も持つだろうな」
ああ、そうか。
ただ勉強するだけじゃない。
“誰に教わったか”も、この世界では大きいのだ。
私は自分の膝の上で手を組みながら、じわじわと実感していく。
本当に、始まるのかもしれない。
教室が。
小さな魔法学院が。
この町に。
私の胸の奥で、期待がふわっと膨らんでいく。
怖さも少しある。
でも、それ以上に楽しみだった。
新しい場所。
新しい学び。
新しい友達が来るかもしれない場所。
ミュリルさんはすでに次の段階へ進んでいた。
「場所の候補は三つほどあります」
「規模、日当たり、送迎のしやすさ、全部考慮済み」
「あと、教師候補も何人か当たってみるわ。元家庭教師や、地方の学舎で教えていた人なら見つかるはず。引退した高ランク冒険者にも問い合わせてみましょう」
……本当に早い。
私は感心を通り越して、少し呆れてしまった。
「ミュリルさん、こういう時だけ仕事が速すぎませんか」
「こういう時“だから”速いのよ」
猫みたいな目で、得意げに笑う。
その顔を見て、私はなんだかおかしくなってしまった。
この人、本当に頼りになる。
そして、こういう“新しいこと”が心底好きなんだろう。
小さな思いつきが、誰かの手にかかると一気に形になっていく。
その感覚が、たまらなく面白い。
早速、ミュリルさんが言っていた三つの物件を見に行くことになった。
ギルドの前で馬車に乗り込もうとした、その時だった。
ヒヒィン――!
甲高い馬のいななきと、続いて男の人の叫び声みたいなものが遠くから聞こえた気がした。
私は思わずそちらの方を見る。
……お爺様、がんばってるのかな。
いや、がんばってるのは間違いないんだろうけど。無理してなきゃいいんだけど。
いやでも、お爺様の場合“無理してる”の基準が常人と違うんだよね……。
そんなことを考えながら馬車に乗ると、ミュリルさんがすぐに本題へ入った。
「今から回る物件は、貴族が売りに出した邸宅や別邸よ」
向かいに座った私たちに、資料を広げながら説明する。
「規模は、ノアちゃんの屋敷よりは少し小さい程度ね」
少し小さい程度。
それって、十分大きいのでは?
「でも学院として使う分には、十分な広さだと思うわ」
馬車の窓の外には、冬のクレディアの町並みが流れていく。
石畳。煙突の煙。行き交う人。店の看板。
私は資料を覗き込みながら、なんだか胸がそわそわしていた。
家を見て回るって、なんでこんなにわくわくするんだろう。
まだ決まっていない。
本当に教室ができるかも分からない。
でも、“未来の場所”を探しに行くって、それだけで特別な感じがする。
楽しみだな、と思った。
一件目に到着したのは、クレディアの西の外れだった。
馬車を降りた瞬間、私は「おお……」と声を漏らしていた。
貴族風の屋敷。
確かに、私の屋敷よりは少し小さい。
でも、だからといって“こぢんまり”なんて言葉はまったく似合わない。
馬車が通れる二車線分くらいの通路。
玄関前にはちゃんとロータリーがあって、かつてはきっと綺麗に整えられていたのだろう花壇の名残もある。
枯れてはいるけれど、そこに咲いていた季節の花を想像するのは難しくなかった。
屋敷の中へ入る。
広い玄関ホール。
食堂。
調理場。
リビング。
家主の寝室。
広めの個室。
個室にしては広い部屋がいくつもあって、ここは生徒が増えたら教室にできそうだな、とすぐに思った。
お風呂場もある。
トイレも複数ある。
そして、夜会用のホールまであった。
「ここは……」
私はその広さを見上げながら、自然と想像していた。
机が並んで。
黒板が置かれて。
アウレリア王妃様が前に立って。
ここは教室になるのかな。
それとも、ダンスや礼法の練習場?
レッスン場みたいな感じかもしれない。
家の中を回るたびに、“未来の学校”の景色が頭の中で少しずつ形になっていく。
でも、ひとつだけ気になることがあった。
外で剣術や運動をできるだけのスペースが、あまりない。
庭はある。
でも広くはない。
走り込みや打ち合いをするには、少し窮屈かもしれない。
私がそんなことを考えていると、ミュリルさんが少し得意げな顔をした。
「この屋敷の前の持ち主は、少し変わっていましてね」
その言い方に、ちょっと嫌な予感がする。
「錬金術が趣味だったようです」
そう言って、ミュリルさんが地下への扉を開けた。
……かすかに、腐臭がした。
私は反射的に顔をしかめる。
「ノアちゃん」
「はい」
「灯りをお願い」
私は頷いて、空中へ『光』と書いた。
淡い光がふわりと浮かび、地下室を照らす。
そして――見えた。
机と黒板。
棚にはガラスの器や器具がぎっしり。
本棚には研究資料や成果をまとめた束が並んでいる。
まるで科学実験室だ。
……いや、“まるで”じゃない。
もう完全に研究室だった。
しかも、奥には小さな培養槽まである。
その中を見た瞬間、私は思わず一歩下がった。
「うわ……」
いろんな生き物が継ぎ接ぎになったような、魔物。
たぶんキメラ、ってやつだ。
でも、もう電源みたいなものは動いていない。
中のそれは腐っていて、崩れかけていて、原型を保っているのが不思議なくらいだった。
「やばい研究室だったんですね……」
私が呟くと、お母様がそっと鼻と口をハンカチで押さえる。
お父様は眉をひそめているし、アウレリア王妃様も表情を曇らせた。
でも、正直に言えば。
設備だけ見れば、錬金術の研究はものすごくはかどりそうだった。
器具も揃っている。
作業机もある。
保管棚もある。
資料まである。
……この培養槽をどうするか、という問題を除けば。
私はアウレリア王妃様を見る。
でも、王妃様は即決しなかった。
「この屋敷は魅力的ですが……」
静かに周囲を見渡してから言う。
「他の物件も見てみたいですね」
ミュリルさんも、分かっていたらしい。
「ええ、もちろん。では次の物件へ参りましょう」
二件目は、工房地区の奥だった。
一件目とは空気がまるで違う。
石と煙と鉄の匂い。
町の他の場所より、少し荒っぽくて、でも活気がある。
そして、その屋敷は――
裏庭がものすごく広かった。
本当に、野球ができそうなくらい広い。
「わあ……」
思わず私は庭へ出てしまう。
今は冬で、芝だったらしい草が枯れて茶色くなっている。
でも、その広さだけで十分に魅力的だった。
ここなら走れる。
剣の稽古もできる。
運動もできる。
しかも、屋敷の一角には妙な器具が置いてあった。
鉄の棒。
重り。
持ち手つきの何か。
「これ、何ですか」
私が首を傾げると、ミュリルさんが肩をすくめる。
「前の住人は身体を鍛えることが好きだったようね」
「冒険者上がりだったと思うわ」
なるほど。
冒険者から貴族へ成り上がった成功者の屋敷。
そう思うと、この広い庭も、鍛錬器具も、なんだか妙にしっくりくる。
でも。
屋敷の入口正面にあったものを見た瞬間、私はすべての感想を失った。
大きな自画像。
しかも、家主と思しき男の人が、筋肉をこれでもかと見せつけるようなポーズを決めている。
なんか……すごい。
すごいんだけど、何て言えばいいんだろう。
自信と筋肉と自己愛が一枚の絵に全部詰まっている感じ。
「……ここはナシですかね」
気づいたら、口から本音が漏れていた。
ミュリルさんが吹き出しそうになって、王妃様が一瞬だけ口元を押さえ、お母様が「こら、ノア」と小さくたしなめる。
でも、お父様も少しだけ笑っていたので、たぶんみんな同じことを思ったんだと思う。
そして三件目。
エルフの居住区の奥。
そこへ着いた瞬間、私は少しだけ胸が高鳴った。
外観は申し分ない。
落ち着いた色の壁。
上品な窓枠。
庭も派手すぎず、それでいて整っている。
屋敷の中も、いい感じだった。
華美ではない。
でも、質がいいと分かる。
「この屋敷の前の住人は、魔法の研究をしていたようです」
ミュリルさんがそう言った時だった。
――ドンッ!!ガンッ!!パリーンッ!!
爆発音。
「!?」
私はびくっと肩を揺らした。
誰もいないはずの屋敷で、今、明らかに爆発した。
全員が一斉に音のした方を見る。
「……なに?」
ミュリルさんの声が低くなる。
案内する予定だった部屋へ向かうと、扉が吹っ飛んでいた。
窓も割れている。
白い煙が、もくもくと外へ流れ出している。
「オホッ、ゲホッ……!」
誰かいる。
よろよろと部屋の中から出てきたのは、若い女の人だった。
眼鏡。
長い黒髪。
フード付きのローブ。
服装からして、どう見ても魔術師っぽい。
でも、その姿はすすだらけで、いかにも“やらかしました”って顔をしている。
「あなた、そこで何をしているの!」
ミュリルさんがナイフに手をかけて鋭く叫ぶ。
そうだ。これ、不法侵入だ。つまり、あの人は泥棒……?
お父様たちも追いつく。
女の人は煙を避けながらこちらへ来て、私たちと目が合った瞬間――
怯えて、その場にしゃがみこんだ。
「ひっ……!」
声まで震えている。
「その、勝手に使って、ご、ごめんなさい! でも、空いてるって聞いて……!」
……あれ?
なんか、泥棒っぽくない。
ミュリルさんも同じことを思ったらしい。ナイフから手を離し、少しだけ目を細めた。
「泥棒かと思ったけど、違うみたいね。あなたは誰。ここで何をしているの」
女の人は、しどろもどろになりながら答えた。
「あ、す、すみません。勝手に入ったことは謝ります」
「私は、エルミナ・ヴェルローゼ です」
その姿をよく見る。
丸眼鏡に制服みたいな服装にフード付きローブ。
長い黒髪。
年齢は十八歳くらいだろうか。
そして――
……でっかい。
思わず目を奪われるくらい胸が大きい。
なんというか、前世で言うならグラビアアイドルとかにいそうな、セクシーでダイナマイトな体つきだ。
……負けた気がするのはなんでだろう。いや、何に対してかは分からないけど。
私はちょっとだけ悔しい気持ちになりながら、でもそれどころじゃないと頭を振った。
話を聞くと、事情はこうだった。
エルミナさんは、春にルメリア魔法学院を卒業した卒業生。
ゼラ教の聖騎士団の入団試験を受験したけれど、全部落ちた。
気弱な性格のせいで、どこにも就職できなかった。
実家に戻れば結婚を迫られるから、それを避けてクレディアへ流れ着いた。
冒険者になって、お金を稼ぎながら。この空き家に、住み着いた。
「冒険者ランクはDです。でも……」
エルミナさんは申し訳なさそうに目を伏せる。
「性格が、こうなので……ずっとソロで」
その“こう”がすごく分かりやすかった。
たしかに、怒鳴られたらすぐ謝ってしまいそうな人だ。
「冒険者のみなさんは、私のこと誰も知らないと思います」
それ、ちょっと切ない。
そこで、アウレリア王妃様が一歩前へ出た。
「エルミナさん」
「は、はいっ」
「学院で学んだ科目は何ですか」
エルミナさんは背筋を伸ばす。
質問の内容が“責め”じゃなく“学び”だと分かった瞬間、少しだけ声が落ち着いた。
「主に、補助と召喚と錬金術です」
「私、洗礼の時の適性が補助と召喚の二つだったんです」
そして、ちょっとだけ苦く笑う。
「周りからは……『ハズレを二つ持つ子』って言われました」
私はその言葉に、思わず眉を寄せた。
補助と召喚がハズレ?
「ハズレって、どういうことですか」
私が疑問を口にすると、アウレリア王妃様が静かに答えてくれた。
「魔法の属性の中で、補助、空間、召喚は扱いが難しく、魔導書の数も少ないのです」
なるほど。
レアだけど、だからこそ“教えにくい”。
「故に、人々からはハズレと言われるのです」
王妃様は続ける。
「補助魔法は、戦闘では強化魔法や弱体魔法になりますが、大半は魔術師ならだれでも使える簡単な生活魔法で、数も膨大です。魔導書を作るのも大変ですし、広く知られ過ぎて残す価値がないと思われている節もあります」
うわ、もったいない。私はすぐにそう思った。
生活に使える魔法がいっぱいあるって、むしろすごく大事なのでは?
「空間魔法は、他の属性魔法の副産物的な扱いですね。空間属性のみを扱う魔導書は、数えるほどしかありません」
ミュリルさんも説明に加わる。
「召喚魔法は、そもそも使用者が少ないのよ。魔導書も、初歩の使い魔召喚のカタログのようなものだし。使い手がいたとしても秘匿しがちで、表に出ない」
つまり、使える人が少なくて、教える本も少なくて、だから評価も低い。
ひどい話だと思った。
でも、エルミナさんは少しだけ顔を上げた。
「でも、学院には“複数適性者”ということで入学できたんです」
「補助魔法と召喚魔法も入学してから頑張って勉強しました」
その声に、好きなものを語る時の熱が少しだけ戻る。
「学院で学ぶうちに、錬金術が好きになって……適性以上に勉強しました」
「今はポーション以外にも、魔導具の作成なんかもできます」
私はそこで、はっとする。
錬金術が好き。
補助魔法も使える。
召喚も知っている。
学院卒業生。
しかも今、行き場がない。
「先ほどの爆発は、召喚魔法ですか」
王妃様が問うと、エルミナさんは恥ずかしそうに頷いた。
「はい……冒険に使えそうな従魔を召喚しようとしたら、失敗しまして」
……で、扉が吹っ飛んだわけか。
私は割れた窓と吹き飛んだ扉を見た。
うん。被害はでかい。でも、なんというか――
この人、もしかして。
教えられる側じゃなくて、教える側にもなれるのでは?
私はそっとアウレリア王妃様を見た。
すると、王妃様も同じことを考えていたらしい。
私と目が合うと、静かに頷いた。
やっぱり。
そして王妃様は、エルミナさんへ穏やかに問いかける。
「エルミナさん」
「は、はい」
「私と一緒に学校の先生をしませんか」
「ふぇ?」
その返事が、妙に間が抜けていて。私は思わず、笑いそうになった。
「せんせい……?」
エルミナさんは、目をぱちぱちと瞬かせた。
煙で少し煤けた顔のまま、眼鏡の奥の目だけが取り残されたみたいに揺れている。
その反応は、驚きというより“現実を理解するのを拒否している顔”だった。
「……私が、生徒に……教えるんですか」
声が震えている。
しかも語尾がだんだん小さくなっていく。
それから、次の瞬間にはぶんぶんと首を振っていた。
「無理無理、絶対無理です!」
やっぱりそう来るよね。
私はちょっとだけ肩をすくめた。
でも、王妃様は驚いた様子もなく、静かにエルミナさんを見ている。
エルミナさんはそのまま、だめな理由を次々と並べ始めた。
「私、人前でうまく話せませんし……! 声も小さいですし……! すぐ緊張しますし……! そ、それに、補助と召喚ですよ!? 剣も火球もどーんってできませんし! あと、その、見た目もあんまり先生っぽくないですし……!」
最後のやつは、むしろ逆では?と思ったけれど、そこは口に出さなかった。
でも、その言い訳の洪水を、途中でミュリルさんがぴしゃりと切った。
「でもあなた」
声音は穏やか。
なのに、空気が少しだけ冷える。
「このままだと『空き家を不法に占拠した』ってことで、騎士団に突き出さないといけなくなるけど」
一拍。
「それでもいいかしら」
……容赦がない。
私は思わずミュリルさんを見た。
笑っている。
ちゃんと笑っているのに、目だけは仕事の時のそれだった。
エルミナさんは、見る見るうちに涙目になった。
「うっ……」
唇がふるふるしている。
「は、犯罪者にはなりたくないですぅ……」
その言い方が切実すぎて、ちょっとだけ可哀想になってくる。
でも、たしかに不法占拠は不法占拠だ。
アウレリア王妃様は、そんなやり取りを静かに見ていた。
それから、改めてエルミナさんに問いかける。
「では」
声はやわらかい。
でも、逃げ道は作らない声音だ。
「先生になる、ということでよろしいですか」
エルミナさんは数秒、固まっていた。
それから――
「はいっ!」
ものすごくいい返事だった。
「エルミナ・ヴェルローゼ、謹んでお受けいたします!」
次の瞬間、彼女はアウレリア王妃様の前に勢いよくひれ伏していた。
……土下座だ。
しかも妙に綺麗だった。
ぴしっと背が伸びていて、手の位置まで整っている。
まるで“服従の見本”みたいな姿勢だ。
私は思わずぽかんとしてしまう。
お父様も少しだけ目を丸くしていたし、お母様は口元を押さえている。
ミュリルさんは露骨に楽しそうだ。
そして、アウレリア王妃様も――
ほんの少しだけ、面白がっているように見えた。
口元が、かすかにやわらいでいる。
「……そこまでしなくても大丈夫ですよ」
王妃様がそう言うと、エルミナさんは慌てて顔を上げた。
「す、すみません!」
「いえ」
アウレリア王妃様は静かに首を振る。
「引き受けてくださって、ありがとうございます」
その一言で、エルミナさんの肩から力が抜けたのが分かった。
たぶんこの人、怒られるのには慣れていても、真っ直ぐ感謝されるのには慣れていない。
私はその様子を見ながら思った。
……なんだか、いいかもしれない。
王妃様だけじゃない。
エルミナさんも加わるなら、教室はもっと面白くなる。
補助魔法。
召喚魔法。
錬金術。
“ハズレ”なんて言われていたものが、ここではちゃんと価値を持つ。
そういう場所になるのなら、すごく素敵だと思った。
ミュリルさんが腕を組み、満足そうに頷く。
「これで教師は二人目ね」
「職員も探さないとだし、物件も決めないとだし……忙しくなるわよ」
でも、その声は楽しそうだった。
私は、土下座からようやく起き上がったエルミナさんを見て、小さく笑う。
「よろしくお願いします、エルミナ先生」
その瞬間、エルミナさんの顔が真っ赤になった。
「せ、先生……!」
眼鏡の奥の目がうるうるしている。
「な、なんか、急に責任が重くなった気がします……!」
「今さらね」
ミュリルさんが即答した。
すると、お母様がくすっと笑った。
お父様も少しだけ肩の力を抜く。
アウレリア王妃様は、そんなみんなを見渡してから静かに言った。
「では――本当に、学院が始まるのですね」
その言葉に、私は胸の奥がふわっとあたたかくなるのを感じた。
思いつきみたいだった話が、もう思いつきではなくなっている。
場所が決まって。
先生がいて。
人が集まる。
それはきっと、もう“始まり”なのだ。
私は割れた窓と吹き飛んだ扉の向こうに見える冬の空を見上げた。
少し冷たくて、でも高くて、やけに澄んでいた。
馬車で商業ギルドへ戻る途中。
車内の空気は、さっきまでの爆発騒ぎの名残をまだ少しだけ引きずっていた。
いや、正確には――引きずっていたのは、エルミナさんだけかもしれない。
私たちは向かい合うように座っていた。
揺れる馬車の中で、エルミナさんは背筋をぴんと伸ばしたまま、ずっと固まっている。
眼鏡の奥の目だけが、落ち着きなくきょろきょろしていた。
無理もないと思う。
ついさっきまで、不法占拠気味に空き家へ住み着いて、召喚魔法を失敗して扉を吹っ飛ばしていた人が。
次の瞬間には、「先生になってください」と言われて。
しかも一緒に馬車へ乗っている相手が、なんだか妙に豪華なのだから。
まずはちゃんと紹介しよう、という流れになったのは自然なことだった。
「では、改めて」
ミュリルさんが、どこか面白がるような調子で口を開く。
「私はクレディア商業ギルド支部長、ミュリル・ネイア・キャリス」
エルミナさんが、ぴくっと肩を揺らした。
「し、支部長……」
声が小さい。
次にお父様が穏やかに名乗る。
「クレディア領主、リカルド・リベルです」
「領主様……!?」
エルミナさんの顔色が目に見えて変わる。
お母様も柔らかく微笑む。
「マリアンヌ・リベルです」
「り、領主夫人様……」
そこへアウレリア様が静かに続いた。
「アウレリア・アルカディア・ファン・デル・アルマシアです」
エルミナさんの瞬きが止まる。
「……え?」
数秒遅れて、意味が頭に届いたらしい。
「アルマシア王国のお、王妃様……?」
そして最後に、私。
「ノア・リベルです」
「ご息女様……」
そこまで聞いたところで、エルミナさんは完全に石像になった。
馬車の揺れの中で、ぴしっと固まっている。
その様子があまりにも分かりやすくて、私はちょっとだけ申し訳なくなった。
紹介が全部終わった、その次の瞬間だった。
エルミナさんは、馬車の床に勢いよく両手をついた。
「数々の無礼、どうかお許しください!」
そのまま、また土下座。
しかも今度は馬車の中だから少し窮屈そうだ。
それでも姿勢は妙に綺麗で、やっぱり変なところだけ完成度が高い。
「命だけはご容赦を……!」
私は思わず目を丸くした。
「い、命!?」
そこまで!?
ミュリルさんが、とうとう吹き出した。
「ふふっ……あははは!」
お父様は額を押さえている。
たぶん笑いたいのと困っているのが半々だ。
お母様とアウレリア様は、口元に手を当てて上品に笑っていた。
笑い方が綺麗すぎて、余計にエルミナさんとの温度差がすごい。
「大丈夫です、エルミナさん」
私は慌てて声をかけた。
「そんなことで命は取られません」
「ほ、本当ですか……?」
「たぶん」
「“たぶん”!?」
ミュリルさんがまた笑う。
馬車の中の空気が、一気にやわらかくなった。
エルミナさんは顔を上げたまま、まだ半泣きだったけれど。
その半泣きの顔が、なんだかもう“こちら側”に来てしまった人の顔に見えて、私は少しだけ可笑しくなった。
商業ギルドに着くと、私たちはそのまま、あの黒馬がいる厩舎へ向かった。
お爺様がいるはずだ、と誰もが思っていた。
でも、実際に見えた光景は想像と少し違っていた。
「……え」
私は思わず足を止める。
お爺様が、大の字で倒れていた。
厩舎の近く、少し乾いた土の上に、見事なくらい大の字。
腕も脚も開いて、ぴくりとも動かない。
一瞬、心臓が止まりそうになった。
「お爺様!」
私は駆け寄った。
まさか。
さすがに、今回は本当に何かあったのでは。
そんな嫌な想像がよぎる。
でも、近づいてみると――
すう、すう。
寝息。
「……寝てる」
私は呆然とした。
お母様が、さすがに深いため息をつく。
「お父様、起きてください」
そう言って、ぺしぺしと頬を叩く。
その叩き方に慣れを感じるのがすごい。
お爺様は、むくりと上体を起こした。
「おお、マリアンヌ」
寝起きの声だ。
「そっちは終わったのか」
「ええ、屋敷を見てきました」
お母様が少し呆れた顔のまま答える。
「新しい先生も見つけましたよ」
「ほう」
お爺様はそこで、ようやく私たちの後ろにいるエルミナさんへ視線を向けた。
エルミナさんはまた小さくなっている。
「お父様はどうでしたか」
その問いに、お爺様は実に満足そうに頷いた。
「うむ。やつめ、なかなかに強くてな」
……やっぱり楽しそうだ。
「今日も蹴られたわい」
“今日も”って言った。もう前提が怖い。
「ちょっと休むつもりが、眠ってしまったようじゃな」
休むつもりで、地面に大の字。豪快すぎる。
私は半分呆れながら、放牧場の方を見た。
柵で囲われた向こうに、あの黒馬が立っている。
大きい。
つやのある黒毛。
太い首。
鋭い目。
そして――
お爺様が起き上がったのを見て、じっとこちらを見ている。
今にも突進してきそうな空気がある。
でも、妙な緊張感だけではなくて、“相手を見ている”感じもあった。
お爺様がゆっくり立ち上がる。
服にはまた土がついていて、片袖なんか少し破れていた。
それでも平然としているのが、この人らしい。
「今日はここまでじゃな」
お爺様が黒馬に向かって、手を振った。
その仕草が、やけに自然だった。
すると。
黒馬が、ふんと鼻を鳴らし――
くるりと向きを変えて、自分の厩舎へ帰っていった。
「……あれ?」
私は目を瞬かせた。
今の、どういうこと?
暴れもせず。蹴りもせず。普通に帰った。
私は黒馬とお爺様を交互に見る。
「あれ? もう仲良くなってる?」
思わず口から出た本音に、お爺様はにやりと笑った。
「少しはのう」
少しで済むのかな、それ。
でもたしかに、昨日までの“完全に敵”という感じではなかった。
まだ手なずけたとは言えないだろう。
それでも、黒馬はお爺様を“見る相手”として認識し始めている気がした。
お父様が、半ば呆れたように言う。
「本当に続けるおつもりなのですね」
「当然じゃ」
「危険ですよ」
「そうじゃな」
否定しないんだ……。
でも、お爺様はそこでふっと目を細めた。
「じゃが、ただ危ないだけの相手ではない」
「向こうも、こちらを見とる」
その言い方が、少しだけ剣の話に似ていた。
強い相手を前にした時の顔。昨日も見た顔だ。
私は黒馬の厩舎の方を見つめながら、なんとなく思う。
この勝負、まだまだ終わらない。
でも、たぶん少しずつ距離は縮まっている。
蹴られながら距離を縮めるって、どうなんだろうとは思うけれど。
お爺様と黒馬の間には、昨日までなかった何かが、たしかに生まれ始めている気がした。
みんなで帰ろうとした、その時だった。
お爺様が、ふとエルミナさんと対面した。
「……新しい先生というのは、そなたか」
その一言で、エルミナさんの肩がびくっと跳ねる。
「は、はい!」
背筋をぴんと伸ばし、あわあわしながら一歩前に出る。
「エルミナ・ヴェルローゼと申します! よ、よろしくお願いします!」
そして、勢いそのままに深々と頭を下げた。
丁寧すぎるくらい丁寧だ。緊張で全身がこわばっているのが、見ていて分かる。
お爺様はそんなエルミナさんを見て、ふむ、と頷いた。
「ノアのこと、よろしく頼む。そうじゃ、自己紹介がまだじゃったな」
そう言って、いつものように胸を張る。
「ワシはアラン・ヴァルトヘルム。ノアの祖父じゃ」
「は、はい……!?」
エルミナさんは顔を上げた。
でもその表情はまだ少し戸惑っている。
たぶん、“ノアのおじいちゃん”という情報だけでは、この人の危険さ……いや、存在感の正体がまだ分かっていないのだろう。
エルミナさんは、ためらいがちに口を開いた。
「あ、あの……」
「ん?」
「失礼ですが……お仕事は、何を……」
その問いに、お爺様は一瞬きょとんとしたあと、ああ、と小さく頷いた。
「そうじゃったな」
そして、何でもないことみたいに答える。
「ワシは、ゼラ教第一聖騎士団『神剣』の団長をしておる」
「!!!」
その瞬間。
エルミナさんの動きが止まった。
ぴしっ、と音がしそうなくらい止まった。
眼鏡の奥の目が見開かれたまま、口がわずかに開く。
呼吸すら忘れているみたいだった。
「だ、第一……聖騎士団……?」
かすれた声。
「神剣……?」
その言葉をなぞるように呟いた次の瞬間、エルミナさんの身体がふらりと揺れた。
「あっ」
私が声を上げるより早く。
そのまま、ぱたん、と倒れた。
「エルミナさん!?」
私は慌てて駆け寄る。
でも、お爺様は目を瞬かせるだけだった。
「おお、気絶した」
「そんなのんびり言ってる場合じゃないです!」
お母様が額に手を当て、お父様は深いため息をつく。
ミュリルさんは腹を抱えて笑っていた。
「ごめんなさい……でも、これはちょっと無理もないわね……」
アウレリア様まで、少し困ったように苦笑している。
私はしゃがみこんで、エルミナさんの顔を覗き込んだ。
ちゃんと息はしている。
ただ、完全に意識を手放していた。
……なんか、かわいそう。
でも、ルメリア魔法学院を出た人からしたら、第一聖騎士団『神剣』の団長なんて、たぶん雲の上どころじゃない存在なんだろう。
しかもその本人が、目の前で普通に『ノアの祖父じゃ』って名乗ってきたのだ。
そりゃ、気絶もするかもしれない。
私は小さくため息をつきながら、そっと言った。
「エルミナさん……がんばって……」
たぶんこの先、まだまだ慣れるまで大変だと思う。




