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最弱村人だった俺が、AIと古代遺跡の力で世界の命運を握るらしい  作者: Ranperre
第39章

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帰る場所へ、還る人たちへ──帰郷の宴と三年半越しの祈り

 ――領政評議会の翌日。


 私は朝の稽古のため、いつものように桜環神社を訪れていた。


 冬の朝の空気はぴんと張っていて、頬に当たると少し冷たい。

 でも、身体を動かし始めるとすぐに熱が巡る。


 準備運動と柔軟体操。

 走り込み。

 剣の型稽古。

 打ち合い。

 最後に魔力の操作と制御。


 そしてその全部が終わるころには、今日もちゃんと汗をかいていた。


 木の長椅子に座って息を整える。

 冷たい水を飲むと、喉の奥まで生き返るみたいだった。


「……ふう」


 ようやく一息ついたところで、私は隣に立つナギさんを見上げた。


 今のうちに言っておこう。

 いや、今じゃないとたぶん言いづらくなる。


「あの、ナギさん」


「はい」


 変わらない穏やかな返事。

 それが逆に、ちょっとだけ緊張する。


「前にお願いしていた……お酒のことなんですけど」


 ナギさんはすぐに察したみたいだった。


「樽のお酒ですね」


「はい」


 私はこくりと頷く。


 小さな樽。

 そう、小さい樽だ。そこはちゃんと大事。


 当初の予定では、三つ……の、はずだった。


 でも。


 ミュリルさんのおかげで、なぜか話が広がっていく。

 いや、なぜかじゃない。あの人が広げたのだ。確実に。


 しかしここまで来ると、もう三つだけ配るのもなんだか変な気がしてきた。


 だって、協力してくれた人は他にもいる。


 だったら、いっそのこと――


「どうせなら、協力してくれた人たち全員に配った方がいいかなって思って……」


 私は指を折って数え始めた。


「まず……お父様。ゴルドさん。レヴィンさん。グレインさん」


 四本。


 ここまでは領政庁側。


「ギルドは……ミュリルさん。レイファスさん。グランツさん」


 七本。


 そして最後に。


「エルフ族族長のエルヴィンさん」


 八本。


「……合計で八つ」


 私はそこで、はっとした。


「八つ!?」


 思わず自分で驚いてしまった。


 多い。

 いや、小樽だから物理的にはなんとかなるのかもしれないけれど、気持ち的に多い。


 最初は三つだったのに。

 どうしてこうなったの。

 って私の思いつきのせいだ。「協力してくれた人たち全員に配った方がいいかな」


 私は自分の発言に半分本気で頭を抱えそうになった。


 そんな私を、ナギさんは静かに見ていた。

 呆れるでもなく、笑うでもなく。


 それから、いつもの落ち着いた声で言う。


「わかりました」


 あまりにも自然に返ってきたので、私は瞬きをした。


「小さい樽を八つですね。少々お待ちください」


「えっ、あ、はい……!」


 普通に受け入れられた。


 むしろ私の方がうろたえている。


 ナギさんはそのまま、何でもないことのように神社の奥へ歩いていく。

 背中が落ち着きすぎていて、逆にすごい。


 私は長椅子に座ったまま、その後ろ姿を見送った。


「……八つかあ」


 呟くと、近くで見ていたイリディオンが、くつくつと喉を鳴らした。


「人間とは面白いな」


「何がですか」


「戦で勝っても褒賞、議で勝っても褒賞」


 蒼い目が細くなる。


「しかも、それが酒だ」


「……否定できません」


 私は小さく肩を落とした。


 でも、たぶんこれでいいのだ。


 樽酒ひとつで全部が解決するわけじゃない。

 けれど、頑張ってくれた人に感謝を形にするのは悪くない。


 特に今回は、私一人じゃ何もできなかった。


 お父様も。

 ゴルドさんも。

 レヴィンさんも。

 グレインさんも。

 ミュリルさんも。

 レイファスさんも。

 グランツさんも。

 エルヴィンさんも。


 みんなが動いてくれたから、ミスト村はクレディアの一部になれた。


 だったら、八つくらい。

 ……いや、やっぱり多いけど。


 でも、それだけ助けてもらったということだ。


 しばらくすると、ナギさんが戻ってきた。


 その後ろには、ナギさんと同じ巫女装束を纏った神社の人たちが小さな樽をいくつも抱えている。


 本当に八つ、用意されていた。


 並べられた樽は、宴の時の大樽とは違って両腕で抱えられるくらいの大きさだ。

 木肌が綺麗で、縄の飾りまでついている。


「うわ……」


 思わず声が漏れる。


 ちゃんとしてる。

 思った以上にちゃんとしてる。


 ナギさんは、そんな私を見て少しだけ微笑んだ。


「お力添えいただいた方々への贈り物ですからね。見栄えも大事ですよ」


 ……ほんとうに、なんでも分かっている人だ。


 私は立ち上がって、一つひとつの樽を眺めた。


 八つ。


 最初は多いと思ったけれど、こうして並ぶと不思議と壮観だ。

 なんだか“ここまで来た”証みたいにも見える。


 私はそっと樽のひとつに手を置いた。


「ありがとうございます、ナギさん」


「いいえ」


 ナギさんはやわらかく首を振る。


「ノア様が頑張った結果です」


 その言い方に、少しだけ胸が熱くなる。


 私は並んだ樽を見ながら思った。


 今日はこれを、届けに行く日になるんだろう。


 感謝を伝えるために。

 そしてたぶん――


 ミュリルさんには、樽が増えた件をきっちり問い詰めるためにも。


 小さな樽酒を八つ。


 並べて見た時は「多いなあ」と思ったけれど、いざ配りに行くとなると不思議と気持ちは前向きだった。

 これはお礼だ。

 ミスト村のために動いてくれた人たちへ、ちゃんと「ありがとう」を届けるためのもの。


 私はティナが操る馬車に乗って、最初の目的地――領政庁へ向かった。


 冬の朝の町を馬車が進む。

 石畳を車輪が叩く音は軽やかで、どこか胸の鼓動に似ていた。


「ノア様、少し緊張しておられますか?」


 手綱を握るティナが、前を向いたまま聞いてくる。


「……ちょっとだけ」


「ふふ。でも今日はよい緊張ですね」


 そうかもしれない。


 怖いとか、不安とかじゃない。

 むしろ、ちゃんと渡せるかなとか、喜んでくれるかなとか、そういうそわそわだ。


 馬車が領政庁の前で止まる。


「では、いってらっしゃいませ」


「うん、いってきます」


 私は小さな樽酒の入ったカードを確認してから、建物の中へ入った。


 まずは、お父様のところ。


 見慣れた執務室の扉の前に立つと、なんだか少しだけくすぐったい気持ちになる。

 私は一度呼吸を整えてから、こんこん、と扉を叩いた。


「入りなさい」


 いつものお父様の声。


 扉を開けると、お父様は机の向こうから顔を上げ――

 次の瞬間には、はっきりと嬉しそうな顔になった。


「ノア」


 その声だけで、歓迎されているのが分かる。


「お仕事中にすみません」


「いや、ちょうど区切りの良いところだ。どうしたんだい?」


 私は執務机の前まで歩み寄る。


 そして、ストレージユニットのカードを取り出した。


「評議会のお礼に参りました」


 そう言いながら、小さな樽酒を出して差し出す。


 木の小樽。

 神社で用意してもらった、きれいな縄飾り付きのもの。


 お父様は一瞬だけ目を見開いた。

 それから、ゆっくりと受け取る。


「……これは」


「村の件で、いっぱい動いてくださったので」


 言ってから、少しだけ照れくさくなって視線を逸らした。


 お父様は樽を見て、それから私を見て、ふっと笑った。


「ノアからの初めての贈り物だ」


 その言い方が優しくて、胸の奥があたたかくなる。


「大事に飲ませてもらうよ。ありがとう」


 ……あ。


 初めて、なのか。私はそこで気づいた。


 お父様に何かを贈るのって、これが初めてなんだ。


 その初めてが、お酒。


(うーん……)


 悪くはない。悪くはないけど。

 もう少しこう、娘らしい何かでも良かった気がする。


 私は心の中でそっと決めた。


(お父様のお誕生日には、別のものを贈ろう)


 お酒じゃない何か。

 もう少し記念っぽい何かを。


 お父様はそんな私の内心なんて知らずに、満足そうに樽を机の上へ置いた。


「それで、次は誰のところへ行くんだい?」


「ゴルドさんのところです」


「ああ、なら財務局だな」


 そう言って場所を教えてくれた。


 私は礼をして執務室を出る。


 扉の向こうへ出た時、まだ少しだけ胸があたたかかった。


 初めての贈り物。


 そう言われると、なんだかこちらまで特別な気持ちになる。


 次は、会計官――ゴルドさん。


 お父様に教えられた場所へ向かうと、そこには役所のオフィスみたいな空間が広がっていた。


 ……いや、役所なのは間違っていないんだけど。


 でも前世の感覚で言うなら、本当に“オフィス”だ。


 机が並び、書類が積まれ、何人もの職員が行き来している。

 壁際の本棚には帳簿や資料がぎっしり詰まっていて、紙とインクの匂いがする。


(うわあ……)


 ここだけ空気が違う。


 静かなのに、ものすごく忙しい空気。

 数字と書類が支配している場所って感じだ。


 私はきょろきょろしながらゴルドさんを探した。


 すると、奥の机で部下の人と話しているゴルドさんを見つける。

 今日もきっちりした雰囲気で、いかにも「お金を管理してます」という顔をしていた。


 私は近づいて、ぺこりと頭を下げた。


「ゴルドさん、こんにちは」


「おや、ノア様。こんにちは」


 ゴルドさんがすぐにこちらへ気づき、表情をやわらげる。


「今日はどうされました?」


 私は例によってカードを取り出した。


「ミスト村の件でお世話になったお礼に参りました」


 そう言って、小さな樽酒を出して差し出す。


 すると――


 周囲の部下の人たちが、じわっと寄ってきた。


「えっ、何ですか今の」


「樽……?」


「こんな小さな子から贈り物をもらうなんて。局長、一体何をしたんですか」


「もしかして袖の下ってやつですか」


「違いますよ!」


 思わず私が先に否定してしまった。


 ゴルドさんも苦笑している。


 でも、私はそこで別の単語に反応していた。


「……局長?」


 部下の人たちが、あ、という顔をする。


 ゴルドさんが穏やかに説明した。


「ノア様。ここは領政庁の財務局です」


「そして私は、財務局長です」


 ……すごく偉い人でした。


 私は反射的に背筋を伸ばして頭を下げる。


「気安くゴルドさんって呼んですいませんでした」


 するとゴルドさんは、むしろ少し笑って首を振る。


「いえいえ、構いませんよ」


「ノア様からそう呼ばれるのは、むしろ光栄です」


 う、うう。

 こういう大人の返し、ずるい。


 私はちょっとだけ恥ずかしくなりながら、樽を差し出し直した。


「これはお酒ですか」


「はい。村でお世話になったお礼です」


 ゴルドさんは丁寧に受け取った。


「ありがたく頂戴します」


 そう言うと、ゴルドさんは懐から一枚のカードを取り出した。


 金属光沢のある、小さなカード。


「あれ?」


 見覚えがある。


 ゴルドさんがそのカードを小樽にかざすと――

 樽は淡い光とともに、するりとカードへ吸い込まれた。


 私は思わず目を丸くする。


「ゴルドさん、それって……」


「ノア様から教えていただいたルブラン雑貨店で購入しました」


 ゴルドさんはいつもの落ち着いた笑みで答えた。


「このアイテムは実に便利ですね」


 私はちょっとだけ感動した。


 私が便利だと思ったものを、ちゃんと大人も便利だと思って使っている。

 しかも財務局長が。


 なんだか妙に嬉しい。


 周りの部下の人たちもざわついていた。


「局長、それ高かったでしょう」


「経費で落としたんですか?」


「自費ですよ」


「うわ、本気だ……」


「仕事が早くなるなら安いものです」


 そう言い切るゴルドさんが、ちょっと格好良かった。


 やっぱりこの人、数字だけじゃなくて道具の価値もちゃんと分かる人なんだろう。


 私はそんなやり取りを見ながら、なんとなく思う。


 領政庁って、ちょっと堅い場所だと思っていた。

 でもこうしてみると、ちゃんと人がいて、会話があって、冗談も飛ぶ。


 ただ難しい顔をしているだけの場所じゃない。


 ミスト村のことだって、こういう人たちがいたから通ったのだ。


 私は改めて頭を下げた。


「ありがとうございました、ゴルドさん」


「こちらこそ、ありがとうございます。ノア様」


 その返事が本当に柔らかくて、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 さて。


 まだ今日は始まったばかりだ。


 小樽は、あと六つ。


 ……そう考えると、ちょっとだけ気が遠くなった。


 ゴルドさんに教えてもらった場所を目指して、私は領政庁の中を歩いた。


 次の目的地は、農業局。


 財務局が“数字の匂い”のする場所だとしたら、農業局はきっと“土の匂い”がする場所なんだろうな――と、なんとなく想像していたのだけれど。


 実際に着いてみると、想像は半分当たりで、半分外れていた。


 扉の向こうに広がっていたのは、たしかにオフィスのような空間だった。

 机が並び、書類があり、人が働いている。


 でも、どちらかというと研究室に近い。


 壁際には種や苗が整然と並べられ、棚には乾燥させた作物の標本が瓶に入っている。

 見たことのない葉っぱや、穂の形が違う麦。

 土の入った箱や、何かを調べた記録らしい紙束も見える。


 そして、なぜか。


 魔物のはく製まであった。


「……なんで?」


 思わず小さく呟く。


 イノシシみたいな魔物の頭部。

 鳥型の魔物の翼。

 牙のついた獣の前脚。


 農業局って、どこまで担当してるんだろう。


 しかも窓の向こうを見れば、すぐ外には小さな畑まで広がっている。

 ただ机で計算するだけじゃなく、実際に育てて確かめる場所でもあるらしい。


(すごいなあ……)


 私はきょろきょろしながら奥へ進んだ。


 すると、机の上にいくつも資料を広げているレヴィンさんを見つける。

 今日も落ち着いた顔で、いかにも仕事中という空気を纏っていた。


「レヴィンさん、こんにちは」


 私が声をかけると、レヴィンさんは顔を上げ、すぐに表情を和らげた。


「おや、ノア様。こんにちは、ようこそ農業局へ」


 立ち上がってくれる。


「どうされました?」


 私は少しだけ背筋を伸ばして、カードを取り出した。


「ミスト村の件でお世話になったお礼に参りました」


 そう言って、小さな樽酒を取り出して差し出す。


 レヴィンさんは一瞬だけ目を丸くしたあと、穏やかに受け取った。


「おお、これはお酒ですか。ノア様、ありがとうございます」


 その声は、前と同じように落ち着いていて、でも少しだけ嬉しそうだった。


 ……が。


 やっぱり、ここでも部下の人たちが寄ってくる。


「局長今、お酒って言いましたか」


「えっ、ほんとに?」


「やった! 今日は宴会だ!」


 一人が言うと、途端に周りがざわっと明るくなる。


 財務局とはまた違う騒がしさだ。

 あっちは“仕事の合間の冗談”って感じだったけれど、こっちはもっと素直で元気がいい。


 レヴィンさんは、やれやれという顔で小さく息をついた。


 でも本気で怒っているわけじゃない。

 むしろ慣れてるんだろうな、こういう部下たちに。


「領主様のご息女のノア様からのお礼です」


 そう言って、樽を軽く持ち上げる。


「みなさん、味わって飲んでください」


 その言い方が、なんだか先生みたいだった。


 すると部下の人たちが一斉に私の方を向いた。


「「「ノア様、ありがとうございます!」」」


 ぺこり、と揃って頭を下げられる。


「わ、わっ」


 私は思わず一歩引きかけた。


 なんだか恥ずかしい。


 私が渡したのはレヴィンさんへのお礼なのに、それで局全体からお礼を言われると、急に大げさなことをしたみたいな気分になる。


「い、いえ……あの……」


 返事に困ってしまって、ちょっと視線が泳ぐ。


 するとレヴィンさんが小さく笑った。


「農業局は現場仕事も多いので、こういう差し入れには素直なんですよ」


「そうなんですね……」


「ええ。特に酒は」


 やっぱりそこなんだ。


 私は少しだけ肩の力を抜いて、改めて周囲を見た。


 机の上の資料。

 窓の外の畑。

 棚に並んだ種と標本。

 部下の人たちの明るい顔。


 ……ここ、好きかもしれない。


 数字のきっちりした財務局もすごかったけれど、農業局はもっと“育てる”空気がある。

 土と研究と現場が全部混ざっている感じ。


 たぶん、ミスト村のことを一番“未来に繋がる形”で考えてくれていたのも、こういう人たちなんだろう。


 私はもう一度、レヴィンさんへ頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


「こちらこそ」


 レヴィンさんは穏やかに頷く。


「ミスト村は、きっと良い土地になります」


 その言葉が、すとんと胸に落ちた。


 良い土地になる。


 そう言い切ってもらえるのが、なんだかすごく嬉しい。


 私は笑って答えた。


「はい。みんなで、そうしていきたいです」


 部下の人たちも、うんうんと頷いてくれていた。


 その様子を見ながら私は思う。


 小樽を配って回るのって、最初はちょっと気恥ずかしかったけれど――

 ちゃんと「ありがとう」を形にすると、こんなふうに返ってくるんだ。


 それは、思っていたよりずっと、あたたかいことだった。


 次に向かったのは、領政庁の騎士団局だった。


 財務局や農業局とはまた違う、少し張りつめた空気のある場所。

 石造りの廊下を歩くだけで、足音まで少し硬くなる気がする。


 私は受付へ向かって、ぺこりと頭を下げた。


「グレインさんにお会いしたいのですが」


 受付の人はすぐに私の顔を見て姿勢を正した。

 でも返ってきた言葉は、少しだけ残念なものだった。


「グレイン団長はただいま不在です」


「そうですか……」


 私は小さく肩を落とした。


 小樽を渡したかったのもあるけれど、それ以上に、ちゃんとお礼を言いたかった。

 あの人がいなければ、村の話はここまで進まなかったから。


 すると受付の人が、思い出したように一枚の紙を差し出してきた。


「ですが、ノア様宛に伝言を預かっております」


「え?」


 私は紙を受け取る。


 短い文だった。


「ヴァルネス領の荒廃地で亡くなった三名の遺体を回収する」


 それだけ。


 本当に、それだけだった。


 でも。


 私はその短い一文を見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。


「……」


 嬉しかった。


 すごく、嬉しかった。


 評議会で、ミスト村はクレディア領に受け入れられた。

 もう“どこにも属さない村”じゃない。

 ちゃんと名前のある、守られるべき村になった。


 なら――


 ヴァルネス領の荒廃地で亡くなったあの三人も。


 ただの“行き倒れ”や“記録の中の犠牲者”じゃない。


 村人だ。


 ミスト村の人たちだ。


 だったら、村人の手で弔われるべきだ。


 家族や仲間の待つ場所へ戻って。

 名前を呼ばれて。

 泣かれて。

 祈られて。


 そうやって、ちゃんと送られるべきだ。


 三年半越しの葬儀。


 長すぎる。

 遅すぎる。


 でも、それでも。


 今からでも、できる。


 グレインさんはたぶん、それを分かっていて動いてくれているのだ。


 いかにもあの人らしい。

 言葉は少なくて、でも必要なことはちゃんとやる。


 私は紙を胸の前でそっと握った。


「……ありがとうございます」


 小さく呟くと、受付の人が不思議そうな顔をした。

 でも私は、そのまま少しだけ笑った。


 小樽は渡せなかった。

 直接、お礼も言えなかった。


 でも、今はそれでよかった気がする。


 この伝言の方が、ずっと嬉しい。


 私はもう一度、紙の文字を見た。


 三名の遺体を回収する。


 その事実だけで、村の未来が少し変わった気がした。

 生きている人の居場所だけじゃない。

 亡くなった人の帰る場所も、取り戻せるのだと分かったから。


 私は丁寧に紙を畳んで、大事にしまった。


 あとで、村の人たちにも伝えよう。

 きっと泣く。

 でも、それは悲しみだけの涙じゃない。


 長く止まっていた時間が、やっと動き出す涙だ。


 私は静かに一礼して、騎士団局を後にした。


 グレインさんへの樽は、また今度。

 その時はちゃんと、直接渡そう。


 ――ありがとうございます、と。今度は、ちゃんと声にして。



 次に向かったのは、冒険者ギルドだった。


 石造りの建物に入ると、昼前のギルドらしい賑わいが広がっている。

 依頼票の前で立ち止まる冒険者たち。

 受付で報告をしている人。

 武器の音。笑い声。少し荒っぽい話し方。


 でも、その奥にある執務室の前まで来ると、空気は少しだけ静かになる。


 私は扉をノックしてから中へ入った。


 そして――思わず、中央の人物よりも先に部屋全体を見てしまう。


 やっぱり、書類の山だった。


 でも。


 前回訪れた時より、だいぶ少ない。


 山は山なのだけれど、あの時みたいな“もうすぐ雪崩れそうな圧”がない。

 机の上にもちゃんと隙間があって、何より――


 レイファスさんの机には、紅茶が置かれていた。


 しかもまだ湯気が立っている。


(……飲めるだけの余裕がある)


 それだけで、ちょっと安心してしまった。


「ようこそ、ノア様」


 レイファスさんが顔を上げる。


 長い耳にかかる淡い髪。

 相変わらず整った顔立ちだけれど、前より少しだけ柔らかく見えた。

 たぶん、寝不足がましになったからだ。


「こんにちは、レイファスさん。今日もお忙しそうですね」


 私が言うと、レイファスさんは小さく笑った。


「そうでもないですよ」


 その返事が前より自然だった。


「実は、あの後ギルド職員たちに私の作業を少し分担させましてね」


「えっ」


 ちょっと驚く。


 本当にやったんだ。


「おかげで今は、定時で帰れるようになりました」


 ……定時で帰れる。


 それ、ものすごく大事な言葉では?


 私は思わず机の前まで歩み寄った。


「それ、職員の方たちは大丈夫なんですか」


 レイファスさんが瞬く。


「と、言いますと?」


「彼らが残業したら意味ないですよ?」


 私が真顔で言うと、レイファスさんは一瞬だけきょとんとして、それから喉の奥で小さく笑った。


「私もそう思ったんですが」


 紅茶に手を伸ばしながら続ける。


「彼らは空き時間の方が多かったらしく、私の仕事を分担させても問題なかったんですよ」


「……あ」


 つまり。


「レイファスさんが抱え込みすぎていた」


「そういうことですね」


 レイファスさんは、あっさり認めた。


「長く勤めている弊害ですかね」


 その言い方が、少しだけ自嘲気味だった。


 でも、分かる気がした。


 エルフだから長年勤めていて、仕事の全部が分かる。

 分かるから、自分でやった方が早い。

 そして気づけば、全部抱え込んでいる。


 たぶん、上司やベテランが陥りやすい典型だ。


 前世でも、たぶんこういう人いた気がする。

 ベテランで、優秀で、責任感が強くて、でもそのせいで人に振れない人。


「でも、よかったです」


 私は素直に言った。


「前より、ちゃんと休めてる感じがします」


 レイファスさんは紅茶のカップを置いて、静かに頷く。


「ありがとうございます。正直、あの時ミュリルとノア様に言われなければ、そのままだったかもしれません」


 そんなふうに言われると、なんだか妙に照れくさかった。


 私は視線を少し逸らしながら咳払いをする。


「それで、ノア様」


 レイファスさんが、少しだけ首を傾げた。


「今日はどうされましたか」


「あ、そうでした」


 危ない。

 普通に仕事改善相談みたいになってしまっていた。


 私はカードを取り出す。


「評議会の件で、お礼に伺ったんです」


「ああ」


 レイファスさんの口元が少し緩む。


「ミュリルが言っていた」


「はい、それです」


 やっぱり共有されてる。


 私はカードから小さな樽酒を取り出して、両手で差し出した。


「こちらがお礼の樽になります」


 木の小樽。

 神社で用意してもらった、整った形の樽。

 こうして渡すたびに、見た目がちゃんとしていてよかったと思う。


「お米のお酒です」


 その一言に、レイファスさんの目が少しだけ見開かれた。


「おお……お米ですか」


 意外そうで、でも興味もある顔。


「私は初めて飲みます」


 そう言って、両手で丁寧に受け取ってくれる。


「ノア様、ありがとうございます」


 その声は静かだけれど、ちゃんと喜んでくれているのが分かった。


 私は少しだけ胸を撫で下ろした。


 よかった。

 エルフ族に米酒ってどうなんだろうと思っていたけれど、問題なかったみたいだ。


 レイファスさんは樽を机の横へそっと置いた。


「これでまた、一つ楽しみが増えました」


「お忙しい時に渡してすみません」


「いえいえ」


 彼は首を振る。


「忙しいからこそ、こういう贈り物は沁みるんですよ」


 その言い方が、なんだか大人だなと思った。


 部屋の中には、まだ書類がある。

 紅茶もある。

 でも、前みたいな“追い詰められた感じ”はもうない。


 少し整った机の横に、小さな樽酒。


 その並びがなんだか妙にしっくりきて、私は心の中で小さく笑った。


 今日はまだ、配る相手が残っている。


 でも、こうして一人ずつ届けていくのは思っていたより悪くない。

 ちゃんと感謝が形になって、ちゃんと受け取ってもらえる。


 それだけで、十分に嬉しかった。


 次に向かったのは、技術ギルド長――グランツさんの武器工房だった。


 鍛冶場の近くまで来ると、もう空気が違う。

 鉄と炭の匂い。

 火の熱。

 金属を打つ乾いた音。


 “ものづくりの場所”って、どうしてこう胸が高鳴るんだろう。

 剣とか鎧とか、そういうのに限らず、工房ってだけでちょっとわくわくしてしまう。


 扉を開けると、いつもの熱気が顔に当たった。


 そして、その奥から。


「おお、嬢ちゃん!」


 グランツさんが豪快な声で迎えてくれる。


「グランツさん、こんにちは」


「おう、いらっしゃい」


 大きな手を腰に当てて、にかっと笑う。

 やっぱりこの人は、技術ギルド長というより“親方”という呼び方の方がしっくりくる。


 そして、私の顔を見てすぐに察したらしい。


「今日は……そうか。評議会のお礼で来たんだな」


「はい。その通りです」


 もう隠す必要もない。

 私はカードを取り出して、小さな樽酒を出した。


 木肌のきれいな小樽が、工房の光を受けてつやっと光る。


 グランツさんが、それを見て目を細めた。


「ほう。立派な樽だな」


 そのまま、どっしりした手で受け取りながら聞いてくる。


「中身は何だ?」


「お米のお酒です」


 その瞬間、グランツさんの顔がぱっと明るくなった。


「おお、米か!」


 やっぱり反応がいい。


「そいつは飲むのが楽しみだ」


 その“楽しみ”の圧が強い。

 飲む前からもう嬉しそうだ。


 するとグランツさんは、そのまま樽を抱えて工房の奥へずんずん歩き出した。


「おい!お前らー!」


 声が、工房じゅうに響く。


「ご息女のノア様から酒を頂戴したぞ!」


 次の一言は、もはや宣言だった。


「今日はこれで宴会だ!」


(早い!)


 こちらにも聞こえるどころか、たぶん工房の外まで聞こえたと思う。


 すると、金槌を持っていた作業員さんたちが一斉に反応した。

 打つ手を止め、顔を上げ、次々とこちらへ集まってくる。


「ノア様、ありがとうございます!」


「すげえ! こんな立派な樽、初めて見る!」


「親方、これ何の酒ですか!」


 工房の空気が一気に明るくなる。

 いや、明るいを通り越して、もう祭りの前だ。


 グランツさんは得意げに樽を持ち上げる。


「おう、米の酒だ」


 そして、いかにも親方らしく言い放つ。


「お前ら、今日は運がいいな。味わって飲めよ」


「夜まで待てませんよ!」


 一人が叫ぶ。


「もう店を閉めて飲みましょう!」


(え、お店は?)


(仕事は?)


 私が心の中でつっこんでいる間にも、話はどんどん進む。


 グランツさんが腕を組み、うむと頷いた。


「よし」


 えっ。


「今日はもう店じまいだ」


 ええっ。


「いつもの酒場に行くぞ」


「「「おー!!」」」


 わあっと歓声が上がる。


 みんな本気だ。

 本気で今から飲みに行く気だ。


 私はぽかんとその光景を見つめてしまった。


 技術ギルドって、もっとこう、職人魂と探究心と厳格さみたいなもので動いてるのかと思っていたけれど。

 実際はそこに“酒”が入ると、一気にドワーフらしさが前面に出るらしい。


 ……いや、ドワーフってお酒でできてるのでは?


 そう思ってしまうくらい、全員の目がきらきらしていた。


「ノア様も来ますか!」


 作業員さんの一人が勢いで聞いてくる。


「え、ええと……私はまだ次があるので……」


「そうかー! 残念だ!」


「じゃあノア様の分も飲んできます!」


 それはちょっと違う気がする。


 でも、みんな嬉しそうで、なんだかもう止める気になれなかった。


 グランツさんが樽を抱えたまま、私の前に戻ってくる。


「嬢ちゃん、ありがとな」


 その声はさっきまでより少し落ち着いていて、本当に嬉しそうだった。


「評議会の件もそうだが、こうして形で礼を持ってきてくれるのは嬉しいもんだ」


「……喜んでもらえてよかったです」


「おう。大喜びだ」


 即答だった。


 その横で、作業員さんたちが本当に帰り支度を始めている。

 片付けが早い。切り替えが早い。


「火、落としとけよ!」


「戸締まりは俺がやります!」


「酒場の席、取っときます!」


 もう完全に流れができていた。


 私はその勢いに飲まれながらも、なんだか笑ってしまう。


 こんなに分かりやすく喜ばれると、こっちまで嬉しくなる。


 ……でも。


「本当に、今日はもう閉めるんですね」


 思わず言うと、グランツさんは当然のように頷いた。


「いい酒が来た日に、仕事を続けるのは野暮ってもんだ」


 そういうものなのか。


 たぶん、そういうものなのだろう。

 この工房では。


 私は小さく頭を下げた。


「それでは、また」


「おう! またな、嬢ちゃん!」


 その背後で、作業員さんたちも口々に手を振ってくれる。


 私は工房を出て、外の空気を吸い込んだ。


 冬の冷たさが、火の熱で赤くなった頬に気持ちいい。


 ……次は誰のところだっけ。


 そう思いながらも、頭の片隅ではまだ工房の歓声が残っていた。


 技術ギルド長へのお礼は、たぶん一番“宴会”になった気がする。



 次に向かったのは、エルフ族の族長――エルヴィン・シルヴァリスさんのお宅だった。


 クレディアの中にあるエルフの居住区は、やっぱり不思議だ。

 町の中にあるのに、ここだけ空気が少し違う。


 草花が多いからだろうか。

 石畳の隙間にまで緑があって、窓辺には鉢植え、家々の周りには低い花壇。

 風が吹くたびに葉が擦れる音がして、それだけで少し心が静かになる。


 まるで、ここだけ町の外みたいだった。


 私は小樽の入ったカードを握りしめながら、ミュリルさんが以前案内してくれた家の前まで来た。

 控えめだけれど手入れの行き届いた石造りの家。

 時間の積み重ねが、そのまま家の形になっているような佇まい。


 こんこん、と扉を叩く。


 ほどなくして、あのご婦人が迎えてくれた。


「こんにちは、ノア様」


 柔らかな声。

 長い耳にかかる銀の髪が、今日もきれいに整えられている。


「こんにちは。突然すみません」


「いいえ。どうぞ、お入りください」


 そう言って、静かに中へ通してくれた。


 家の中には、今日もハーブの香りが満ちていた。

 落ち着く。

 でも、背筋も自然と伸びる。

 この家の空気には、そういう力がある気がする。


 リビングへ案内されると、エルヴィンさんがいつもの席に座っていた。

 窓辺の光を受けて、その横顔は森の古木みたいに静かだ。


「これは、ノア様」


「こんにちは、エルヴィンさん」


 私はぺこりと頭を下げた。


「評議会では、ありがとうございました」


 その言葉に、エルヴィンさんはゆっくりと頷く。


「こちらこそ。よくぞ、あの村のために動かれました」


 声は穏やかで、でもちゃんと重みがある。

 その言葉だけで、少し胸があたたかくなった。


 私はカードを取り出す。


「今日は、そのお礼をお渡ししたくて参りました」


 そう言って、小さな樽酒を取り出して差し出した。


 木肌のきれいな小樽。

 神社で用意してもらったものだ。


 エルヴィンさんは樽を見て、目を細めた。


「……これは、立派ですね」


 その言い方が、いかにも“良いものを分かる人”のそれだった。


 私は少し嬉しくなって、続けて言う。


「中身は、お米のお酒です」


 その瞬間。


 エルヴィンさんの表情が、ほんの少しだけ変わった。

 前よりも、はっきりと嬉しそうになる。


「ほう……米の酒ですか」


「はい」


「それは珍しい。ありがたく頂戴いたします」


 やっぱり、お米のお酒は強い。

 私は心の中で、ナギさんにそっと感謝した。


 ご婦人も横でやわらかく笑っている。

 きっと後で二人でゆっくり飲むのだろう。

 そう思うと、なんだかこの小樽が急にちゃんとした贈り物に見えてくる。


 そして、その時だった。


 樽を眺めていたエルヴィンさんが、ふと視線を上げた。


「ノア様。魔物討伐の際、村の湖の底に遺跡があったとのことですが……ノア様は、遺跡に興味をお持ちですか」


「え?」


 少し意外な問いだった。


 でも、私はすぐに頷いた。


「あります」


 だって、気になる。

 この世界のあちこちにあって、時々とんでもないことを起こして、しかもお爺様やお婆様、そして私の過去にも繋がっていそうなものだ。


 興味がないわけがない。


 エルヴィンさんは静かに言葉を選ぶように、ゆっくり話し始めた。


「この国だけではありません。世界には――あの湖だけでなく、至るところに遺跡があります」


 私は思わず身を乗り出した。


 エルヴィンさんの声はいつも通り穏やかなのに、語られる内容はまるでおとぎ話みたいだった。


 入口があるもの。

 入口そのものが見つからないもの。

 もう地中深く埋まってしまったもの。


「はたまた――空にあるものも」


「空に!?」


 思わず声が大きくなる。


 ご婦人が少しだけ笑った。

 でも、エルヴィンさんは真面目な顔のまま頷く。


「ええ。古いエルフの伝承には、雲の上に浮かぶ遺構の話も残っています」


 ……すごい。


 本当におとぎ話みたいだ。


 でも、この人が言うと“本当にあるのかもしれない”と思えてしまう。

 湖の遺跡だって、結局ほんとうにあったのだから。


 エルヴィンさんは続ける。


「そして――今も動いている場所がある」


 その一言で、私の背筋がすっと冷えた。


「動いている……?」


「はい」


 エルヴィンさんの目が、少しだけ細くなる。


「首都にある、ゼラ教の聖環大聖堂です」


 私は息を呑んだ。


 聖環大聖堂。

 ゼラ教の中心。

 お爺様がいて、アルマシアから保護された王太后と王妃がいて、拉致された六人の村人たちもそこにいる場所。


「……理由を、お聞きしてもいいですか」


 私がそう言うと、エルヴィンさんは頷いた。


「首都の周りには王国時代の王都になる前から遺跡の伝承が多くありました。伝承を元に遺跡を見つけたという話がいくつもあります」


「ですが遺跡を見つけても口伝の伝承では動かし方までは分からなかったのです」


「時が流れ、ゼラ教が小さな教団として国民に知られる頃にそれは起こりました」


「あそこは、人間には感じ取れない波が常に出ているのです」


「波……?」


「ええ。エルフにはそれが音として聞こえます。他の種族がどう感じているかはわかりませんが」


 その声が、少しだけ低くなる。


「とても甲高い音であったり。あるいは、とても低い音であったり。規則的なようで、不規則な……耳ではなく、身体の奥に触れてくるような。そんな音です」


 私はぞくりとした。


 それは音、なのだろうか。

 機械音みたいなもの?

 それとも、もっと別の何か?


 エルヴィンさんは窓の外へ目を向けた。


「元々、あの周辺にはエルフも住んでいました。ですが、その波が原因で方々に移住したと聞いています」


 ご婦人も、静かに頷く。


「眠れなくなる者もいたそうです。頭痛や、吐き気を訴える者も」


 私は言葉を失った。


 それ、完全に“何か”が動いているじゃないか。


 遺跡。

 古代の装置。

 人間には分からない何か。


 そして、それが今も聖環大聖堂の下か、中か、どこかで動いている。


 私は気づけば、自分の手をぎゅっと握っていた。


 お爺様。


 いま首都にいる、お爺様。


 それから――アルマシアから保護された王太后と王妃。

 拉致されていた六人の村人。


 彼女たちは、その“波”の近くにいるのだ。


 何か影響を受けていないだろうか。


 身体に。

 精神に。

 あるいは、もっと別の形で。


「エルヴィンさん……」


 私の声は少しだけ掠れていた。


「その波は、人間には本当にまったく分からないんですか」


「完全に、とは言い切れません」


 エルヴィンさんは慎重に答える。


「感じやすい者もいるでしょう。頭痛や、不眠、理由のない不安。そうした形で現れる可能性はあります」


 それを聞いて、胸の中の不安がはっきりした輪郭を持った。


 ただの気のせいじゃない。

 心配しすぎでもない。


 聖環大聖堂には、まだ“何か”がある。


 そして、その何かはたぶん――

 この先に深く関わってくる。


 私は膝の上で手を握り直した。


 お婆様の仲間だったユノ・フレミアスさん。

 アルマシア王家。

 ラステル。

 聖環大聖堂。

 そして遺跡。


 ばらばらだった点が、また一つ、嫌な形で繋がった気がした。


 エルヴィンさんは、そんな私を見て穏やかに言う。


「ノア様」


「はい」


「知るということは、不安を増やすことでもあります」


「ですが――知らぬままに飲まれるよりは、ずっと良い」


 その言葉は、優しいのに少し冷たかった。

 でも、たしかにその通りだと思った。


 私は小さく頷く。


「……ありがとうございます」


 この話を聞けてよかった。

 怖いけれど、知らないよりはずっといい。


 首都は、ただ遠いだけの場所じゃない。

 いま、いろんなものが集まっている危うい場所なのだ。


 私は小樽を渡しに来ただけのはずだったのに、帰る頃には胸の中に新しい不安を抱えていた。


 でもたぶん――

 それもまた、必要なことなのだ。


 最後に向かったのは、商業ギルド。


 ……つまり、ミュリルさんのところだ。


 ここまででだいぶ気疲れしていたけれど、最後が一番油断できない気がする。

 なんというか、相手が相手だ。


 私は受付でミュリルさんの所在を確認した。


 するとすぐに職員さんが頷く。


「支部長室にいらっしゃいます。ご案内しますね」


 案内された廊下を歩きながら、私はカードを握り直した。

 小さな樽酒。

 そう、小さい樽酒だ。


 ここ、大事。


 支部長室の前で軽くノックし、扉を開ける。


 中では、ミュリルさんが職員と打ち合わせの真っ最中だった。


 机の上には地図、書類、取引先一覧みたいな紙束。

 いつも豪華な執務室ではあるけれど、今日はそこに“戦場”の空気が混じっている。


「あら、ノアちゃん。いらっしゃい」


 ミュリルさんは、私を見つけるとすぐに笑った。

 でも、その笑みの奥に疲れが少しだけ見える。


「こんにちは、ミュリルさん」


 私は部屋の中へ入って、首を傾げた。


「どうしたんですか。今日は忙しそうですね」


「忙しいわよ」


 即答だった。


 ミュリルさんは椅子にもたれながら、わざとらしくため息をつく。


「アラン様のせいよ」


「お爺様の?」


「そう。戦争の噂でアルマシアとの交易が縮小していたでしょう?」


 私は頷く。


「でも、あの人が“終わらせて”きたから、今度はそれを元に戻さなきゃいけないの。街道の商人、荷の流れ、保険、再契約、全部やり直し」


 うわあ。

 それは確かに大変そうだ。


「おかげで私のバカンスの予定が潰れたわ」


 ……最後の一言に、全部持っていかれた。


「……なんかすみません」


 思わず謝ってしまう。


 でもミュリルさんは、すぐに肩をすくめた。


「ノアちゃんが謝ることじゃないわ。心配しないで」


 その言い方は軽いけれど、ちゃんと私を安心させる声音だった。

 こういうところ、ずるい。


 ミュリルさんは私の手元をちらりと見た。

 カードを持っているのが目に入ったのだろう。


 その瞬間、口元がにやっとする。


「ところで……今日ここに来たってことは……あれね」


「はい」


 私はこくりと頷いた。


「対価をお持ちしました」


「待ってました!」


 さっきまでの仕事の顔はどこへやら。

 一気に猫みたいに目が輝く。


 私はカードから、小さな樽酒を取り出した。


 木目のきれいな小樽。

 縄飾り付き。

 見た目はちゃんとしている。うん、ちゃんとしている。


 ミュリルさんは樽を見て、一度まばたきした。


「ノアちゃん」


「はい」


「これだけ?」


「はい、樽のお酒です」


 私は堂々と答えた。


 するとミュリルさんが、樽と私を交互に見て、じっとりした目になる。


「うん、樽だけど」


「村の宴会のときの“あれ”は?」


 来た。


 私はできるだけ無垢な顔を作って答える。


「ミュリルさん、あの時、大きさを指定してなかったですよね。ですので、これが“樽”酒です」


 数秒、沈黙。


 そしてミュリルさんの肩がぴくりと震えた。


「ぐっ……」


 効いてる。

 ものすごく効いてる。


「もしかしてナギさんの入れ知恵?」


「はい、たぶん半分くらいは」


 正直に言うと、ミュリルさんは額に手を当てた。


「やられたわ……」


 でもその顔は、本気で怒っているというより、見事に一本取られた時の顔だった。


 私はそこで、ずっと聞きたかったことを口にする。


「というか、ミュリルさん」


「なに?」


「いろんな人たちに付帯条件、付けましたよね」


 私がじっと見ると、ミュリルさんは悪びれずに尻尾を揺らした。


「ええ、付けたわね」


「……何でなんですか」


 その問いに、ミュリルさんは椅子の背にもたれたまま、少しだけ真面目な目をした。


「理由は三つあるわ」


「三つもあるんですか」


「あるの」


 指を一本立てる。


「まず一つ目。人は“理屈”だけでは動かないから」


 その言葉に、私は少しだけ口を閉じた。


 ミュリルさんは続ける。


「利益で動く人もいる。義で動く人もいる。責任で動く人もいる。でも最後の一歩を踏ませるには、“自分がそれを受け取る理由”がある方が強いのよ。酒は、その“理由”になりやすい」


 ……なるほど。


 たしかに、樽一つで賛成したわけではない。

 でも、それが背中を押したのは事実だ。


 ミュリルさんは二本目の指を立てた。


「二つ目。成功した後に、ちゃんと“形のある感謝”を返すため。人はね、動いたことに対して何も返ってこないと、次から慎重になるの。でも“動いてよかった”って実感があると、次も味方になってくれる」


 私は、小さく息を呑んだ。


 それは、ただの賄賂じゃない。

 “関係を作る”ためのやり方なのだ。


 そして三本目。


「三つ目」


 ミュリルさんの口元が、少しだけいたずらっぽく緩む。


「ノアちゃんが、ちゃんと“お礼を持って回る子”になるためよ」


「……え?」


「今回みたいに、一人ずつ顔を見て、感謝を伝えて、物を渡す」


「それってね、貴族としても、商人としても、ものすごく大事なことなの」


 尻尾がゆるやかに揺れる。


「“ありがとう”を形にして届ける人間は、信用されるわ」


 その言葉に、私は少しだけ黙った。


 今日一日で感じていたこと。

 お父様の笑顔。

 ゴルドさんの柔らかい返事。

 農業局の人たちの明るさ。

 レイファスさんの静かな喜び。

 グランツさんの豪快な宴会。

 エルヴィンさんと奥さんの感謝。


 それが全部、繋がった気がした。


「……そういうことだったんですね」


「そういうこと」


 ミュリルさんは頷く。


「ま、半分は私が美味しい酒を飲みたかっただけだけど」


「台無しです!」


 思わずつっこむと、ミュリルさんは楽しそうに笑った。


「でも、ノアちゃん。ちゃんと来たじゃない」


 そして、机の上の小樽を指先で軽く叩く。


「約束を守って、お礼を持ってきた。それだけで十分立派よ」


 ……ずるい。


 こういうことを、さらっと言うからずるい。


 私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。


「じゃあ、これで対価の件は終わりですからね」


「ええ。終わりよ」


 ミュリルさんはにやっと笑う。


「たぶん」


「“たぶん”を付けないでください!」


 私の抗議に、商業ギルド長は心底楽しそうに笑った。



 それから数日後。


 グレインさんが、ようやくクレディアへ戻ってきた。


 領騎士団がミスト村へ届けたのは、三名の遺骨と遺留品。

 三年半という長い時間を経て、ようやく村へ帰ってきた人たちだ。


 村の人たちは、遺骨が納められた壺と、残された品を受け取って泣いたらしい。


 ……らしい、というのは、その場に私はいなかったからだ。

 でも、想像はできた。


 きっとディランさんは兄の剣を見て、言葉をなくしただろう。

 村長さんは静かに頭を下げただろうし、

 おばあさんは壺を撫でながら泣いたかもしれない。


 帰ってきた。


 たとえ骨になっていても。

 それでも“帰ってきた”のだ。


 それだけで、どれだけ救われるものがあるのか。

 私はこの数日で、少しだけ分かるようになった気がする。


 しかも村の人たちは、葬儀をすぐには行わないと言ったそうだ。


 拉致された六名が帰ってきたら、その時に一緒に送る。


 ……やさしいな、と私は思った。


 悲しみは悲しみのままなのに。

 それでも“全員が揃うのを待つ”というのが、あの村らしい。


 そして私は、その報せを聞いたあとで騎士団局へ向かった。


 今日は、ちゃんと渡したいものがある。


 グレインさんへの、お礼の小樽だ。


 騎士団局の空気は、今日もきりっとしていた。


 廊下を歩く団員さんたちの足音まで規則正しく聞こえる。

 でも以前より、私は少しだけこの場所に慣れた気がする。


 受付で取り次いでもらい、奥へ通される。


 訓練場の側を抜けた先、騎士団局の執務室前。

 その扉を開けると、グレインさんがいた。


 相変わらず大きい。

 そして相変わらず、立っているだけで“壁”みたいな存在感がある。


 でも、以前より少しだけ顔が穏やかに見えた。


「ノア・リベルか」


「こんにちは、グレインさん」


 私は礼をしてから、まっすぐ顔を上げた。


「村の件ではお世話になりました」


「……」


 グレインさんは数秒、何も言わなかった。

 その沈黙に少しだけ緊張する。


 でも次の瞬間、短く頷いた。


「役目を果たしただけだ」


 そういう言い方しかできない人なんだろうな、と思う。

 でも、その“役目”がどれだけ大きかったかを私は知っている。


 私はカードを取り出した。


「なので、お礼です」


 そう言って、小さな樽酒を出す。


 木の小樽。

 神社で用意してもらった、感謝の印。


 グレインさんは目を細めた。


「……酒か」


「はい」


「お米のお酒です」


 その一言で、周囲の空気がぴくっと動いた。


 ……うん。気配がする。


 見れば、いつの間にか近くにいた団員さんたちがこちらを見ていた。

 たぶん最初から気になっていたのだろう。


 グレインさんが小樽を受け取る。


 その手は大きくて、小樽が少し小さく見えた。


「ありがたく頂こう」


 たったそれだけの言葉。


 でも、十分だった。


 私はほっと息をついた。


 ……と思った次の瞬間。


「団長、それ酒っすか!?」


「ノア様からの贈り物だぞ!」


「米の酒!? 初めて聞いた!」


「うおお、すげえ!」


 わあっと団員さんたちが寄ってきた。


 ここでも群がるの!?


 騎士団ってもっと硬派で静かな集団だと思っていたのに、意外とお酒に弱い。

 いや、強いのか。どっちだろう。


「ノア様、ありがとうございます!」


「村の件、うちの団長がずいぶん世話になったそうで!」


「いや、こちらこそありがとうございました……?」


 なんだか一気に距離が近い。


 私は少し圧倒されながらも、悪い気はしなかった。


 だって、みんなちゃんと嬉しそうなのだ。

 それに、村のことを“良いことをした仕事”として受け取ってくれているのが分かる。


 その時だった。


「よし!」


 誰かが言った。


「ノア様を胴上げだ!」


「えっ」


 ちょっと待って。


「おおー!」


「それはいい!」


「団長への礼に来たんだから、団として礼を返さねえとな!」


 いや、礼の方向性!


 私は反論する間もなく、数人の団員さんに持ち上げられていた。


「えっ、えっ、ちょっ――」


 次の瞬間。


 ふわっ、と身体が浮く。


「ノア様ーっ!」


「うわっ」


 高い。


 思ったより高い!


 人生初めての胴上げ。


 最初は怖かった。

 落ちたらどうしようとか、袴じゃなくてよかったとか、いろいろ頭をよぎった。


 でも。


 上に放られた瞬間、天井が近くなって。

 そのあと落ちる前に、ちゃんと受け止めてもらえて。


 下から聞こえる歓声が、なんだか全部“祝ってくれてる”みたいで。


 怖いよりも、嬉しいが大きかった。


「ノア様!」


「万歳!」


「クレディアの功労者だ!」


 それはさすがに言いすぎだと思うけれど、笑ってしまう。


 私は空中で、思わず声を上げた。


「わああっ!」


 でも、それは悲鳴じゃない。


 ちゃんと、笑っていた。


 下ろしてもらった時には、少しだけ目が回っていた。

 でも頬が熱くて、胸がふわふわしていて、自分でも分かるくらい嬉しそうな顔をしていたと思う。


 そして。


 それを見ていたグレインさんが、ふっと笑った。


 ほんの少しだけ。


 口元が緩む程度の、控えめな笑み。


 でも、あの人が笑うと分かると、それだけで空気がやわらかくなる。


「……随分と気に入られたものだな」


 低い声でそう言う。


 私は頬を押さえながら、少し照れて答えた。


「騎士団のみなさん、思ったより優しいんですね」


 すると周りの団員さんたちが笑った。


「思ったよりって何すか!」


「団長が怖いだけですよ!」


「おい」


 グレインさんが短く返すと、また笑いが広がる。


 その光景を見ながら、私は思った。


 村のために動いたこと。

 それが、こうしていろんな形で返ってくる。


 感謝も、笑顔も、つながりも。


 小樽一つで全部を表せるわけじゃない。

 でも、ちゃんと届ければ、ちゃんと伝わるものがある。


 それがなんだか、とても嬉しかった。


 そして私は、少しだけ胸を張る。


 ミスト村のことを、ここまで来させたのは私だ。

 もちろん一人じゃない。

 でも、最初の一歩はちゃんと私だった。


 そのことを、今日だけは少し誇ってもいい気がした。



 それから、一週間後。


 ついに――聖環大聖堂から、拉致されていた六名がクレディアへ戻ってきた。


 知らせを受けて、私は屋敷の前で待っていた。

 冬の空気は冷たくて、吐く息が白い。

 でも、胸の奥はずっと落ち着かなかった。


 やがて見えてきたのは、ゼラ教の紋章が入った馬車だった。


 白い車体。

 荘厳さを装った装飾。

 でも、その姿を見ただけで私は少しだけ眉をひそめてしまう。


 あの馬車に、拉致された村の人たちが乗っている。


 そう思うだけで、胸の奥がざらついた。


 馬車が止まり、扉が開く。


 最初に降りてきたのは、第一聖騎士団の団員だった。

 そのあとに、六人。


 ……私は、思わず息を止めた。


 全員、教団のローブを纏っていた。

 でも、そのローブはどれもほつれ、裾が擦り切れ、ところどころ破れている。


 女性たちは、みんな少しやつれて見えた。

 頬がこけて、目の下に影がある。

 まだ若いはずなのに、疲れが身体に染みついているみたいだった。


 子どもたちも、成長はしている。

 けれど、その成長は“元気に育った”ものじゃない。


 細い。


 腕も、首も、肩も。

 伸びたはずの身長に、肉がついていない。


 胸の奥が、痛かった。


(……これが、保護された姿)


 私は無意識に拳を握っていた。


 団員の人がお父様に一礼し、簡潔に状況を説明する。


 話を聞くと、彼女たちは聖環大聖堂で雑用をやらされていたらしい。

 掃除、洗濯、配膳、雑務。


 食事は、スープとパンだけ。

 しかも朝と夜だけ。


 それでも。


「……生きて帰れることだけを願っていました」


 一人の女性が小さな声で言った。


 その声が細くて、私は喉の奥が詰まった。


 帰りたい。

 帰れるかもしれない。

 その希望だけで、ずっと耐えていたのだ。


 第一聖騎士団の団員は、お爺様からの手紙も預かっていた。


 それをお父様が受け取り、封を切る。

 お母様も隣で目を通す。


 内容は短かった。


 王妃の保護には成功したこと。

 だが、王太后はすでにラステルが別の場所へ移していたこと。


 そして――


 王妃は「幽閉」の名目でクレディアへ送る、ということ。


 私はその文章を横からちらりと見ただけだったけれど、お父様とお母様の表情で十分に分かった。


 話は、まだ終わっていない。


 王妃は助かった。

 でも王太后はまだ、ラステルの手の中にいる。


 私はその事実を胸の中に押し込みながら、目の前の六人を見た。


 ……そして、ふと。


 エルヴィンさんの話を思い出した。


 聖環大聖堂。


 あの場所には、人間には感じられない“波”がある。

 エルフには聞こえる、不快で、身体の奥に触れてくるような音。


 遺跡が、今も動いている場所。


 だったら。


 この人たちは、本当に“無事”なのだろうか。


 見た目には傷がある。

 やつれてもいる。


 でも、それだけじゃないかもしれない。


 洗脳。

 呪い。

 あるいは、それに近い何か。


 私はじっとしていられなくなって、桜環神社へ向かった。


 ナギさんに相談すると、彼女は私の話を最後まで静かに聞いてくれた。


 そして、ほんの少しだけ目を細めて頷く。


「……なるほど」


 それだけで、何かを察したのが分かった。


「ナギさん、何かされている可能性ってありますか」


 私は思い切って聞いた。


 ナギさんはすぐには断定しなかった。

 でも、否定もしない。


「可能性はあります」


 その言葉が、重い。


「それでは、解呪のお祓いを致しましょう」


 私は小さく息を呑んだ。


 解呪。


 つまり、やっぱり“何か”がある前提で動くということだ。


 ナギさんはそれ以上、怖がらせるようなことは言わなかった。

 ただ静かに準備を始めた。


 その落ち着きが、逆に頼もしかった。


 六人を桜環神社へ招いたのは、その日の午後だった。


 神社の空気に触れた瞬間、彼女たちは目を見開いた。

 何かを感じたのかもしれない。


 そして、ナギさんが姿を見せた瞬間――


 全員がその場に跪いた。


 私は驚いて、一歩足を止めた。


 それは“神官に従うような跪き”とは違っていた。

 もっと、張りつめていたものが切れた後の、本能的な動きみたいだった。


 ナギさんは、そんな彼女たちを見ても慌てない。


 ただ、静かに近づいて――優しい声で言った。


「……みなさん、よくぞ生きて戻られました」


 静かに、しかし確かな重みを持った声。


「恐れも、痛みも……すべて、ここまで耐えてこられた」


 一人ひとりを見渡す。


「もう大丈夫です」


「……ここでは、誰もあなたたちを傷つけません」


 ほんの少し、微笑む。


「ここは、あなたたちが帰る場所です」


 それだけだった。


 でも、その一言で。


 一人が泣いた。

 次にもう一人。

 やがて、六人とも涙を流し始めた。


 やっと帰れる。


 やっと終わる。


 きっと、その実感がようやく湧いたのだろう。


 私はその光景を見て、胸の奥が熱くなった。

 でも、ここからが本番だった。


 本殿。


 静かな空間。

 張りつめた空気。

 差し込む光。


 六人は並んで座り、私は少し離れたところで見守った。

 お父様とお母様も来ていたけれど、誰も口を開かない。


 ナギさんが前に立つ。


 白い衣が、まっすぐ垂れている。

 背筋が伸びていて、その姿だけで場が整う。


 やがて、祓詞が始まった。


 澄んだ声だった。


 よく通るのに、耳を打つ感じじゃない。

 水が流れるみたいに、空間そのものへ沁みていく。


 言葉の意味は全部は分からない。

 でも、“清める”ための言葉だということだけは、身体で分かった。


 祓詞が続く。


 そして――


 私は、見た。六人の身体から。薄い、白いもやが。


 ゆっくりと。

 本当にゆっくりと。

 肩から、背から、頭の上から立ちのぼる。


 それは煙みたいでいて、煙より重たく見えた。

 触れたら冷たそうで、でも見ているだけで気持ちが悪い。


 白い靄は、祓詞の響きに押し出されるように身体から離れ、空中で揺れたあと――そのまま霧散した。


 跡形もなく、消えた。


 私は思わず息を呑む。


(……やっぱり)


(何かされていたんだ)


 ただの疲れじゃない。

 ただの衰弱じゃない。


 聖環大聖堂にいたことで、彼女たちの中には確かに“何か”が入り込んでいた。


 それを見た瞬間。


 私の中で、静かだった怒りが形になった。


 ラステル主教。


 その名前が、胸の奥で黒く沈む。


 この人は、どこまで人を道具みたいに扱うのだろう。

 国を侵し、人を洗脳し、信仰を口実に命をねじ曲げる。


 村の人たちも。

 アルマシアの王家も。

 たぶん、もっとたくさんの人も。


 私は膝の上で手を握りしめた。


 怖い、じゃない。


 許せない。


 そんな感情が、初めてはっきりと胸の中に灯った。


 ナギさんの祓詞が終わるころには、六人の顔色が少しだけ柔らかくなっていた。

 目の奥にあった張りつめた影も、ほんの少しだけ薄くなって見える。


 解けたのだ。


 全部ではないかもしれない。

 心の傷までは、一度ではどうにもならないかもしれない。


 でも。


 少なくとも“何かがおかしい状態”からは、引き戻せた。


 ナギさんは静かに振り返って、私たちに告げた。


「これで、外からかけられた穢れは祓いました」


 外からかけられた穢れ。


 その言い方が、かえってぞっとした。


 やっぱりあそこは、ただの大聖堂じゃない。

 人を祈らせる場所の顔をして、別の何かを動かしている。


 私は、本殿の外へ目を向けた。


 冬の空は高くて、どこまでも澄んでいる。

 なのに、心の中には黒いものが残ったままだった。


 ラステル。


 その人がいる限り、きっとこの話はまだ終わらない。



 拉致されていた六人は、そのまま桜環神社の宿で休ませることになった。


 ナギさんが「今は身体よりも心を休めることが先です」と静かに言っていたのが、なんだかすごく胸に残っている。


 きっとその通りなのだろう。

 身体のやつれは食事と睡眠で少しずつ戻る。

 でも、心の傷はそう簡単じゃない。


 明日にはミスト村へ帰還する。


 だからこそ、今夜だけは何も考えず、あたたかい布団で眠ってほしかった。



 翌日。


 屋敷の前に出ると、すでに見慣れた二人が来ていた。


 グレインさんと、ミュリルさんだ。


「おはようございます」


 私が声をかけると、グレインさんは短く頷き、ミュリルさんはひらひらと手を振る。


「お父様から、拉致された六名の帰還を聞いたんですか?」


「ええ」


 ミュリルさんが先に答えた。


「村に行ったら、多分宴会になるでしょ?」


 その時点で、私はなんとなく察した。


「そしたらナギさんのお酒が飲めると思ってね」


 やっぱりそれだ。


「あの樽だけじゃ満足しなかったんですか……」


「全然足りないわ」


 即答だった。

 清々しいくらい欲望に正直だ。


 一方のグレインさんは、いつもの硬い顔のまま言う。


「被害者を村に送り届けるまでが任務だ」


 ……相変わらず固い。


 でも、その固さがありがたい時もある。

 こういう時、この人がいてくれると道が一本通る感じがするのだ。


 屋敷の前には白馬の雪風が待っていた。

 今日も毛並みがきれいで、賢そうな目をしている。


 その雪風が引く馬車に、私たちは乗り込んだ。

 護衛としてスコルとハティも付いてくる。


 操車席にはグレインさん。


 ……なのだけれど。


 馬車が走り出してしばらくすると、私はなんとなく気づいてしまった。


 雪風、ほとんど自分で道を覚えている。


 分かれ道に来ると、手綱を強く引かれなくても自然に曲がるし、速度も勝手に調整している。


「雪風って、すごく賢いですね」


 私が馬車の窓から前を覗きながら言うと、グレインさんが低く返した。


「……そうだな」


 それだけ。

 でも否定しないところを見ると、たぶん本当にそうなのだ。


(すごいなあ)


 私が感心している間にも、馬車は安定した速度で街道を進んでいく。


 馬車の中では、ミュリルさんと向かい合って座っていた。


 行き先はミスト村。

 六人を送り届けるための道だ。


 でも、馬車の中の空気は思ったより重くなかった。

 たぶん、帰る場所が決まっているからだと思う。


 ふと、私は前から気になっていたことを思い出した。


「そういえば」


 ミュリルさんが片眉を上げる。


「なあに?」


「アルマシア王国って……戦争に負けたから、ルメリアに併合されるんですか?」


 私がそう聞くと、ミュリルさんは少しだけ意外そうな顔をした。


 でも次の瞬間には、口元が商人の笑みに変わる。


「いい質問ね」


 そして返ってきた答えは、予想外だった。


「アルマシアは存続するわ」


「え?」


「ただし、王不在の暫定統治ね」


 私は瞬きをした。


 滅びるわけじゃない。

 なくなるわけでもない。


 でも、王はいない。


 国家はあるのに、中枢がない。


 そんな状態が想像できなくて、私は少し身を乗り出した。


 ミュリルさんは、私がちゃんと聞いているのを確かめるみたいに一拍置いてから話し始める。


「まず大前提として、いきなり併合なんてしたら国際的にアウトよ」


「周辺国が調停に動いてる状況で、それをやったら“侵略でした”って自白するようなものだもの」


 なるほど。


 それは、私にも分かる。

 戦争に勝ったからって、そのまま飲み込んだら、さすがに言い逃れはできない。


「それに、国内統治も崩壊するわ」


「宗教国家が他国を直接支配したら、反乱、抵抗、下手したらテロまで起きる」


 “テロ”という言葉の生々しさに、私は少しだけ背筋を冷えた。


 ミュリルさんは指先で膝を軽く叩きながら続ける。


「ラステルは、そういう面倒なことを嫌うタイプよ」


「直接支配より、“間接支配”を好むでしょうね」


 間接支配。


 その言葉が、妙に嫌だった。

 見えにくい分、ずっと厄介そうだ。


「今のアルマシアはね」


 ミュリルさんが、まるで帳簿の中身を読み上げるみたいに整理していく。


「王は死亡。王太后はルメリアに保護。実質、人質ね。王妃も同じ。王女は行方不明扱い。……実際はどこかで保護されてる可能性が高い。王城は空。政府は機能停止」


 私は静かにその言葉を受け止めた。


 それはもう、身体はあるのに心臓が止まっているみたいな状態だ。


「つまり」


 ミュリルさんが結論を言う。


「国家はあるが、中枢がない」


「じゃあ……どうやって回るんですか」


「暫定的には、“摂政不在の貴族連合統治”になるでしょうね」


 言葉だけ聞くと立派だけれど、実態は違うらしい。


「地方領主たちが自治する。中央は空洞。軍も分裂気味」


 ……不安定すぎる。


 でも、そこで。


 ミュリルさんの目が、すっと鋭くなった。


 商人の目だ。


「だからこそ、商業ギルドが動く理由は強いの」


 私は瞬きする。


「市場の確保?」


「そう」


 ミュリルさんは満足そうに頷いた。


「アルマシアには人口がある。生産もある。需要もある」


「つまり巨大市場よ」


 その言い方が、なんというか、すごくミュリルさんらしい。


 国が揺れている。

 人が傷ついている。

 その現実を見た上で、それでも“市場”として見ている。


 冷たい、と思うかもしれない。

 でもたぶん、この人は冷たいんじゃない。


 この人は、この人なりのやり方で“国を動かすところ”を見ているのだ。


「しかも戦後は、物流崩壊、物資不足、価格高騰。つまり――商人の黄金期」


「うわあ……」


 思わず声が漏れた。


 ミュリルさんは少し笑う。


「今入れば、全部押さえられる。早く動いた商業ギルドが、経済支配権を握る。経済を握るってことは、政治も握るってこと」


 私は、そこでようやくミュリルさんの本当の狙いが見えてきた。


「……アルマシア再建の主導権を取りに行くんですね」


「そういうこと」


 ミュリルさんは楽しそうに目を細めた。


 そして、さらに声を落とす。


「でもね、裏目的はそれだけじゃないの」


 私は自然と身を乗り出していた。


「王太后と王妃は生きている。王女も、おそらく生きている。つまり――正統な王家は、まだ残ってる」


 その言葉に、胸がざわっとした。


「交易再開は、市場のためだけじゃない。王政復帰の布石にもなるのよ」


 ……そうか。


 経済を握る。

 物を流す。

 人を繋ぐ。

 国が立ち直るための流れを作る。


 それはつまり、王家が戻るための足場にもなる。


 商業ギルド。

 目的は市場支配。

 でも裏では、王政復帰の布石。


 ミュリルさん、やっぱりただの商人じゃない。


 私が黙って考えていると、ミュリルさんがふっと笑った。


「戦争が終わった直後ってね」


 少しだけ、いつもと違う顔だった。


「一番“儲かる”のよ」


 それから、ほんの少しだけ目を細める。


「そして――一番“国が変わる”タイミングでもある」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 私はそこで、ふと昨日のお爺様の手紙を思い出した。


「あ」


「なに?」


「お爺様から、王妃の保護に成功したって手紙が届きました」


 ミュリルさんの目が、わずかに細くなる。


「へえ」


「幽閉の名目で、クレディアに送るそうです」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ミュリルさんは、何やら考え込んだ。


 さっきまでの“商人の笑み”が引いて、頭の中で別の盤面を組み替えている顔になる。


「……それはいい知らせかもね」


 ぽつりと呟く。


「思ったより早く、鍵が揃い始めたわ」


 私は、その意味をすぐには理解できなかった。


 でも一つだけ分かる。


 アルマシアの話は、まだ終わっていない。

 むしろ、ここから始まるのかもしれない。


 馬車は揺れることなく静かに、冬の街道を進んでいく。

 雪風は迷わず道を選び、スコルとハティが静かに並走している。


 その先にあるのは、ミスト村。

 帰ってきた人たちを待つ村。


 でも同時に、もっと遠く――アルマシアの未来まで、この馬車の中の会話は繋がっていた。



 ミスト村に着いた私たちは、村人たちに歓迎された。


 馬車が村の中に入った瞬間、もう空気が違った。

 誰かが気づいて声を上げて、それがあっという間に広がっていく。


「ノア様だ!」

「戻ってきた!」

「騎士も一緒だぞ!」


 人が、家から、畑から、作業場から集まってくる。

 冬の冷たい空気の中なのに、ここだけが熱を持ったみたいだった。


 村人たちは自然と村長宅の前に集まっていた。

 そこには村長のハヤトさんもいて、私たちを見るなり深く頭を下げる。


 私は馬車を降りて、まっすぐ前へ出た。


「ノア様。村に来られたということは評議会の結果が出たのですね」


「ハヤトさん」


「はい」


「まず、評議会の結果です」


 その一言で、広場のざわめきが止まる。


 みんなが、息を詰めて私を見ていた。


 私は胸の奥が少しだけ震えるのを感じながら、それでもはっきりと言った。


「ミスト村は――クレディア領に受け入れられました」


 一瞬、静寂。


 次の瞬間――


 わあっ、と声が弾けた。


 喜びの声。

 泣き声。

 何度も私の名前を呼ぶ声。


 ハヤトさんは私の手を握って何度もありがとうございますと頭を下げた。

 ドロナックさんが「おお……!」と天を仰ぐ。

 フィンレイさんは口元を押さえて、目を潤ませていた。

 ディランさんは拳を握りしめて、震えていた。


 村のあちこちで、人が泣いていた。


 ……そうだよね。


 この村は、ようやく“どこにも属さない場所”じゃなくなったのだ。

 居場所を得た。

 名前のある村として、生きていけるようになった。


 でも――今日は、それだけじゃない。


 私はもう一度、息を整えて続けた。


「それから……」


 広場の空気が、少しだけ張り詰める。


「拉致されていた六人も、帰ってきました」


 その瞬間、また空気が変わった。


 今度は歓声じゃない。

 もっと深くて、もっと切実な揺れだ。


「……どこに」

「本当か……?」

「生きているの……?」


 震える声があちこちから漏れる。


 私は頷いた。


「今、私の桜環神社の宿で待ってもらっています」


 そう言ってから、私は桜紋鍵を取り出す。


 鍵で楼門を呼び出すと、深く息を吸ってから、門へ手を伸ばした。


 桜環神社の門が、静かに開く。


 空気がすっと変わる。


 そして、その向こうに――ナギさんがいた。


 今日も変わらず、静かで、やわらかくて、でもそこに立っているだけで場の芯になる人。


「お待ちしておりました」


 そう言って、ナギさんは少しだけ横へ身を引いた。


 宿の方から、六人が姿を見せる。


 全員、巫女装束を纏っていた。

 白と紅の衣が、冬の光の中でやけに清らかに見える。


 教団のほつれたローブを着ていた時とは、まるで違う。

 まだ細くて、まだ疲れは残っている。

 でも、“戻ってきた人”の顔になっていた。


 彼女たちが楼門をくぐり、村の側へ一歩足を踏み出す。


 その瞬間――


 おばあさんが泣いた。


「……っ!」


 次の瞬間には、村人たちが駆け出していた。


 家族が。

 友人が。

 恋人だった人かもしれない。

 幼なじみかもしれない。


 抱き合う。

 しがみつく。

 名前を呼ぶ。

 泣きながら、何度も「おかえり」と言う。


 父親らしき男の人が、母らしき女の人が娘を抱きしめていた。

 もう二度と離さないみたいに、強く、強く。


 その娘も泣いていた。

 子どもの時に連れていかれたのだろう。

 少し大きくなった身体で、それでも父親と母親の腕の中にすっぽり収まっていた。


 感動の再会――なんて言葉にすると軽い。

 でも、それ以外の言葉が見つからないくらい、そこには“帰ってきた”が溢れていた。


 私は、その光景を少し離れた場所から見つめた。


 胸があたたかい。

 でも、それだけじゃない。


 痛いくらいに、重い。


 帰ってきた六人。

 そして、帰ってこられなかった三人。


 喜びの後には、その人たちを送らなくてはいけない。


 ――次は、葬儀だった。


 村の外れの空き地。


 そこは、私が村に来て最初に神社を開いた場所でもあった。


 今では、そこが墓地になっていた。


 風がよく通る場所だ。

 空が開けていて、山も見える。

 きっと、悪くない場所だと思う。


 骨壺を納めるための穴が、三つ掘られていた。

 その横には、大きめの石がそれぞれ置かれている。


 墓標になるのだろう。


 村人たちは、さっきまでの再会の涙とはまた違う顔で集まっていた。

 泣き腫らした目のまま、それでも静かに並んでいる。


 ここへ来るまでの間に、ナギさんは村人たちから亡くなった三人の名前と、亡くなるまでの思い出を聞いていた。


 一人は、よく笑う人だった。

 一人は、畑仕事が上手かった。

 一人は、子どもに優しかった。


 そういう話を聞いているナギさんの横顔が、やけに静かで、やけに優しかったのを私は覚えている。


 ハヤトさんが、墓の前へ進み出る。


 そして静かに手を合わせた。


 それが合図だった。


 葬儀が始まる。


 ドロナックさんやディランさん、それから村の男衆が前へ出る。

 誰も大きな声を出さない。

 ただ、静かな動きで骨壺を運び、穴へ納めていく。


 土の匂いがする。

 冷たい風が吹く。

 空は高い。


 ディランさんが兄の骨壺を持つ手だけ、少し震えていた。

 でも落とさない。

 ちゃんと、その手で、地へ返していく。

 兄の奥さんと子供も手を合わせている。その眼には涙が溢れていた。


 三つの骨壺が土の中へ納められ、石が据えられる。


 それを見届けたところで――


 ナギさんが、一歩前へ出た。


 そして、静かに唱え始める。


 祭詞さいし


 祝詞に似ているけれど、もっと土と人に近い響きだった。

 天へ向けるだけじゃなく、地に眠るものへ、残されるものへ、まっすぐ届くような言葉。


 風が、ふっと止んだ気がした。


 村人たちはみんな頭を垂れていた。

 泣いている人もいた。

 でも、もうあの“どうしようもない泣き方”ではない。


 ちゃんと送るための涙だった。


 私はその場に立ったまま、じっと祭詞を聞いていた。


 三年半越しの葬儀。


 遅すぎたのかもしれない。

 でも、それでも、今日この日に送れることには意味がある。


 帰ってきた六人が見ている。

 残った村人たちが見ている。

 そして、きっと亡くなった三人も、見ている。


 ようやく、帰れたのだ。


 この村に。

 みんなのいる場所へ。


 葬儀の余韻に、みんなが静かに沈んでいた。


 風の音だけがして、誰もすぐには口を開かなかった。

 泣き疲れた顔。泣き終えた顔。

 それぞれが、それぞれの形で三人を見送った後の空気だった。


 その静けさを、ぱんっ、と手を叩く音が破った。


 ミュリルさんだ。


「辛気臭い顔はここまでよ」


 その一言が、妙に明るく響く。


「ここからは、村が全員揃ったんだからお祝いしましょう」


 そして口元を上げる。


「亡くなった三人の分も飲むわよ」


 その言い方が、ミュリルさんらしかった。


 悲しみを軽くするわけじゃない。

 でも、悲しみの中にだけ人を置いておかない。

 そういう強引さが、この人にはある。


 ドロナックさんが涙を拭って、すぐに声を上げた。


「おお、そうじゃな! 宴じゃ宴じゃ!」


 その声に、村の空気が少しだけ動く。

 泣いていた人の口元にも、少しだけ笑みが戻る。


 でも、おばあさんが不安そうに周りを見た。


「でも……何も用意してませんよ」


 その時だった。


 ナギさんが、まるで最初から分かっていたみたいに言った。


「神社の方で、既に準備は済ませてあります」


「以前お出しした樽酒もありますよ」


「えっ」


 思わず私が声を漏らす。


 村に帰ってきた六人が、その言葉に小さく頷いた。

 どうやら、ナギさんのお手伝いをしていたらしい。


 ……疲れていただろうに。


 それでも手伝ってくれたのだと思うと、胸が少しだけ熱くなる。


「ありがたいねぇ……」


 おばあさんがほっとしたように言うと、村人たちの空気も一気にやわらいだ。


 ナギさんに促された私は、墓地の隣へ進む。


 そして、すっと鍵をかざした。


 そこに、楼門が開く。


 何度見ても不思議だ。

 空間がやわらかく裂けるみたいに、神社への道が繋がる。


 その向こうには、神社の巫女たちが、もう宴の準備を始めていた。


 お墓前の地面にござが敷かれていく。

 冬なのに、その上だけほんのりとあたたかい。

 たぶん結界か、何かそういうものだろう。もういちいち驚いていたらきりがない。


 宿の方から運ばれてきたのは、たくさんの重箱。

 湯気を立てる寸胴鍋。

 それから――


 大きな樽のお酒。


「うわ……」


 思わず声が漏れた。


 まるでお花見だ。

 いや、お花見より豪華かもしれない。


 泣いていた村人たちの顔が、少しずつ明るくなる。

 子どもたちはもうそわそわしているし、大人たちも鍋の匂いに引き寄せられている。


 全部の準備が整ったところで、ナギさんが私の方へ歩いてきた。


 その手には、木槌。


「これは?」


 私が受け取りながら首を傾げると、ナギさんは答えた。


「これで樽の蓋を割ります。鏡開きです」


「ああ……」


 知ってる。


 ニュースとか、お祭りの映像とかで見たことがある。

 会社の偉い人たちが、木槌を持って樽の蓋を割る、あれだ。


 でも、今その木槌が私の手の中にある。


 ……なんで?


 その答えはすぐに来た。


「ノア様。ご挨拶も忘れずに」


 ナギさんが、やわらかい声でプレッシャーをかけてくる。


 うわあ。


 事の発端は、たしかに私だ。

 村を見つけて、関わって、評議会を通して、ここまで来た。


 だったら、やるしかない。


 私は木槌を持ち直して、みんなの前に立った。


 村人たちがこちらを見る。

 ナギさんも。

 ミュリルさんも。

 グレインさんも。

 おばあさんも。

 帰ってきた六人も。


 ……すごく、緊張する。


 でも、逃げられない。


 私は息を吸って、口を開いた。


「みなさん」


 自分の声が、思ったよりちゃんと出た。


「この村は、とても遠い旅をしてここまで来ました」


 ざわめきが静まる。


「山脈の向こうの祖国を追われて。ヴァルネス領では裏切られて、人が殺されて、仲間が連れ去られて」


 私の言葉に、村人たちが静かに耳を傾ける。


「それでも、みなさんはこの土地で生きることを選びました。家を建てて、開墾して、畑を作って。ここを、ミスト村にした」


 ディランさんが目を伏せる。

 ハヤトさんは、静かに頷いていた。


 私は続ける。


「私がここへ来てからも、山にはいろんなものがありました。竹も、温泉も、湖も、山菜も、真珠貝も。それは全部、この村の未来になるものです」


 そこまで言ったところで。


「早く飲ませて~」


 ミュリルさんが、後ろの方から口を挟んだ。


 村人たちが、くすっと笑う。

 私も一瞬つられて笑いそうになったけれど、なんとか持ちこたえる。


「まだです」


 そう言い返すと、今度はもっと笑いが広がった。


 少しだけ、肩の力が抜ける。


 私はもう一度、みんなを見渡した。


「亡くなった三人が、還ってきました。連れ去られた六人が、帰ってきました。だから今日、ようやく――」


 そこで、少しだけ声が震えた。


 でも、ちゃんと言えた。


「ミスト村は、本当に“揃った”んだと思います」


 今度は、誰も笑わなかった。


 みんな、まっすぐこっちを見ている。


 泣きそうな人もいる。

 でも、その顔はさっきまでと違う。


 私は木槌をぎゅっと握って、最後に言った。


「これから、ミスト村はクレディア領の村として生きていきます。そして、これから生まれてくる子供たちのためにも村を豊かにしていきましょう」


 私は樽の前に立つ。


 木槌を構える。


「ミスト村の末永い繁栄を祈願して――」


 一拍置く。


 みんなの顔を見る。

 村人たちが、息を揃える。


「「「せーの!」」」


 蓋が割られると――宴が始まった。


 木槌の音が響いた次の瞬間、わっと空気がほどける。

 さっきまで葬儀の静けさに包まれていた墓地の隣が、今度は一気に生きた人たちの熱で満ちていった。


 巫女さんたちが手際よく動く。

 大きな樽の前に並び、柄杓で升にお酒を注いでいく。


 とくとく、とくとく。


 透明な液面が揺れて、升いっぱいに満ちていく。

 それが村人たちの手へ渡されるたびに、笑顔が広がった。


 重箱の蓋も次々に開かれる。

 煮物、焼き物、和え物。

 それに大きな鍋からは湯気が立ちのぼっていて、あたたかい匂いが辺りを包んでいた。


 冬の空気の中で、それはもう反則みたいな匂いだった。


 村人たちは重箱と鍋を囲みながら、あっという間に盛り上がっていく。

 泣き顔のまま笑っている人。

 笑いながらまた泣き出す人。

 杯を掲げる人。

 何度も「帰ってこれてよかった」と繰り返す人。


 お墓には、小さな器に入ったお酒と、お花が供えられていた。


 おばあさんがしてくれたらしい。


 私はその前にしゃがんで、静かに手を合わせた。


 ――みんなを守ってくれて、ありがとうございます。


 彼らがヴァルネス領でみんなを守ってくれたから今がある。

 そう思ったのだ。


 この村がここまで来られたのは、生きていた人たちだけの力じゃない。

 帰ってこられなかった人たちの想いも、きっとここにある。


 宴は、泣いたり笑ったりのどんちゃん騒ぎだった。


 本当に、目まぐるしいくらいに。


 グレインさんはハヤトさんと飲んでいた。

 二人とも座り方が妙にきっちりしていて、たぶん村の警備の話とか、そういう実務的なことを話しているのだろう。


 お酒の席で仕事の話。

 うーん、と思わなくもないけれど、本人たちがいいならまあいいか。


 ミュリルさんはもっと忙しかった。


 村人に絡んだと思えば笑って、

 その相手と一緒に泣いたと思えば、

 また別の誰かの肩を叩いて笑わせている。


 感情の切り替えが早い。

 というより、全部本気なのだろう。


 あの人はたぶん、笑うのも泣くのも交渉するのも、全部同じ熱量でやっている。


 ドロナックさんが勢いづいてグレインさんに腕相撲を仕掛けた時は、周りが一気に歓声を上げた。


「勝負じゃ、団長!」


「……よかろう」


 机の上に腕が置かれて、二人の筋肉がぎり、と軋む。


 互角だった。


 最初は本当に、ぴくりとも動かない。

 ドロナックさんの腕も太いし、グレインさんはさすが騎士団長だし、見ているこっちまで力が入る。


 接戦の末、最後に勝ったのは――グレインさん。


 どっと歓声が上がる。


「さすが団長!」

「うおおお!」

「窯じい惜しい!」


 ドロナックさんは悔しそうにしながらも大笑いしていた。

 負けても楽しそうなのが、なんだか良かった。


 私はそんな賑やかな宴を見ながら、少しずつ眠くなっていった。


 あたたかい。

 お腹もいっぱい。

 声は賑やか。

 でも、その賑やかさが遠くなっていく。


 こく。

 こく。


 自分でも分かるくらい、船を漕ぎ始めていた。


 その時だった。


 視界の端に、ミュリルさんが映る。


 さっきまで村人と一緒に笑っていたのに、今はナギさんと少し離れた場所で話していた。

 しかも、珍しく真面目な顔で。


 その表情に、私は少しだけ意識を引き戻される。


 何の話だろう。


 耳を澄ませようとしたけれど、内容までは聞き取れない。

 ただ、ナギさんも難しそうな顔をしている。


 笑っていない。

 いつもの穏やかな顔とも違う。


 何か、大事な話をしている。


 そう思ったところで――


 私の意識は、そこで途切れた。

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