第9話 笑えない落語家
初夏の風が、商店街の軒先を通り抜けていた。
アスファルトからは微かに熱気が立ち上り、夕暮れの光が長屋の屋根を赤く染めている。
『いっぷく庵』の引き戸は、少しだけ開け放たれていた。
風鈴が、ちりん、と涼やかな音を鳴らす。
店の隅の席には、小山田が座っていた。
御年八十三歳。
この店の最古参の常連客だ。
湯呑みを両手で包み、虚空を見つめて、時折ふふっと声を出して笑っている。
何が可笑しいのかは、誰にも分からない。
カウンターの奥では、源蔵が冷やした胡瓜に塩を振っていた。
ぱらぱらと白い粒が散る。
三毛猫は扇風機の首振りに合わせて、器用に頭を左右に動かしていた。
徹はテーブル席で、雑誌の原稿を整理していた。
平和で、少し間延びした午後。
その静寂が、突如として破られた。
ガラガラッ!
引き戸が激しい音を立てて開き、紺の羽織を着た男が飛び込んできた。
足袋のまま敷居に突っかかり、前のめりに倒れそうになりながら踏みとどまる。
「た、助けてくださいッ!」
悲鳴のような声が、狭い店内に響き渡った。
三十代前半。
汗だくの額に前髪が張り付き、手には白木の高座扇子を握りしめている。
小山田がゆっくりと首を巡らせ、男をまじまじと見つめた。
「おや、泥棒かい? 泥棒にしては、ずいぶんと仕立てのいい着物だねえ」
「泥棒じゃありません! 落語家です!」
男は息を切らしながら叫んだ。
「三遊亭扇助と申します! 二ツ目です!」
源蔵は胡瓜を包丁でトントンと切りながら、顔も上げずに言った。
「騒々しい。茶を飲むなら座れ」
扇助はテーブル席に崩れ落ちるように座った。
扇子を置き、着物の袖で額の汗を拭う。
徹はその顔に見覚えがあった。
若手の有望株として、テレビの演芸番組にも出ていた落語家だ。
源蔵が、冷たい麦茶の入ったグラスをことんと置いた。
氷がカランと涼しい音を立てる。
扇助はグラスを一気に飲み干し、今にも泣き出しそうな目で源蔵を見つめた。
「ご主人! 聞いてください! 俺、笑えなくなっちまったんです!」
「知らねえよ」源蔵は即答した。
「そこをなんとか!」
扇助は身を乗り出した。
「ここ何ヶ月も、高座に上がっても客席がシーンと静まり返るんです。ウケない落語家ほど惨めな商売はありません! もうノイローゼになりそうで!」
徹が思わず尋ねた。
「スランプ、ですか?」
「そんな生易しいもんじゃありません!」
扇助は懐からスマートフォンを取り出し、テーブルに叩きつけた。
「これを見てください!」
画面には、漫才・演芸分析AI『ラフ・メーカー』が開かれていた。
「俺は感覚に頼るのをやめたんです。現代はデータと科学の時代だ! だからこのAIを導入したんですよ!」
扇助は画面を指差した。
『緊張と緩和の最適比率は七対三』
『オチ直前の沈黙は零点八秒が黄金比』
「過去五十年の名人の音源をAIに食わせ、絶対に笑いが起きる計算式を叩き込んだんです!」
「それで、どうなったんですか?」
扇助の顔が絶望に染まった。
「昨日の寄席ですよ・・古典落語の『時そば』を演ったんです。AIの指示通り、蕎麦をすする音を正確に四十五デシベルに抑え、零点八秒の間を取ってサゲを言いました」
「客席の反応は?」
「前列のお坊さんが居眠りを始め、後ろの赤ん坊が火がついたようにギャン泣きしました!」
扇助は頭を抱えて机に突っ伏した。
「完璧に計算したのに! 客席が氷河期みたいに凍りついたんです!」
小山田が、麦茶の氷をガリッと噛んだ。
「おやおや、赤ん坊が泣くたあ景気がいいねえ。お化け屋敷の噺でも演ったのかい?」
「落語ですッ! 滑稽噺です!」
源蔵は胡瓜の小鉢を小山田の前に置き、それから扇助の前に立った。
煙管を取り出し、トントンと灰を落とす。
「お前」
源蔵が低く言った。
「最後に腹抱えて笑ったのは、いつだ」
扇助はぽかんとした。
「え・・? 自分が、ですか?」
「そうだ。他人のことじゃねえ。お前自身だ」
扇助は視線を泳がせた。
「先週の番組で・・いや、愛想笑いだ。稽古ではAIの波形を見て口角を上げてただけで・・」
扇助の言葉が途切れた。
「・・思い出せません」
客をどう笑わせるかばかり考え、心から笑った記憶が消え失せていた。
源蔵は煙管をくわえ、紫の煙を吐き出した。
「人を笑わせる前に、まず自分で笑え」
「自分で・・?」
「そうだ。自分が笑ってもいねえのに、他人が笑うわけがねえだろうが。引きつった顔で『笑え』と迫る奴を見て、誰が笑うんだ。そりゃ赤ん坊だって泣くさ」
扇助は言葉を失った。
源蔵はカウンターから、百円玉を三枚取ってテーブルに放り投げた。
チャリン、と音が鳴る。
「おい、落語家。商店街の奥にある魚屋へ行け。『魚辰』って店だ。そこで、カレイの煮付けをタダで分けてもらってこい」
扇助の目が点になった。
「・・は? カレイを、タダで?」
「そうだ。金は払うな。その三百円は失敗した時の電車賃だ」
「魚屋でタダで魚をもらうなんて、ただのタカリじゃないですか!」
「タカリじゃねえ。笑わせて、気分よくタダで貰ってこいと言ってるんだ」
源蔵は冷ややかに言った。
「笑いのプロなんだろうが。三百円の煮付け一枚、笑いで手に入れてみろ」
「無茶だ!」
扇助は叫んだが、源蔵の鋭い目線に射すくめられた。
「・・やってやりますよ! AIの交渉術を使えば朝飯前です!」
扇助は羽織を脱ぎ捨て、店を飛び出していった。
徹は慌てて立ち上がった。
「源蔵さん、俺、見てきます!」
小山田がのんびりと呟いた。
「魚辰の親父は頑固だからねえ。包丁で追いかけられなきゃいいが」
商店街の夕暮れは、買い物客で賑わっていた。
夕餉の出汁の匂いと、焼き鳥の香ばしい煙が漂っている。
徹が追いつくと、扇助は『魚辰』の店先で仁王立ちしていた。
大鍋で煮込まれたカレイの煮付けが湯気を上げている。
奥には、ねじり鉢巻をした頑固そうな店主・辰造が、険しい顔で魚を捌いていた。
扇助はスマートフォンを確認した。
「好感度を高めるトーンは二百五十ヘルツ。共感から入る・・」
扇助は満面の笑みを作った。頬が引きつった作り笑いだった。
「へい! 大将! 今日もいい魚が揃ってるねえ!」
辰造が包丁の手を止め、怪訝そうに扇助を見た。
「あ? なんだい兄ちゃん、着物なんざ着て」
「落語家でございます! いやあ、大将のたくましい腕前、まるで荒波を引き裂くマグロのようですなあ! ハハハ!」
店先が静まり返った。
買い物客の主婦が足を止めた。
辰造の眉間に深い皺が寄った。
「・・何が言いたいんだ」
扇助の背中に冷や汗が流れた。
「実は懐が寒くて! その煮付けをひとつ、先行投資としてタダで恵んでいただけませんかい! 笑いで倍にして返しますんで!」
計算された言葉だった。
だが、そこには生身の人間の体温がなかった。
辰造の顔が真っ赤になった。
「ふざけてんのか、てめえ!」
「ひっ!」
「人が仕入れた魚をタダで寄越せだと!? 口先で魚が食えるか! 塩撒くぞ!」
辰造がまな板をドンと叩いた。
扇助はパニックになり、後ずさりした。
「す、すみません! AIが大胆な提案が親密さを生むって・・うわっ!」
草履が濡れた氷に滑った。ツルッ!
扇助の両足が宙を舞い、ド派手に尻もちをついた。
伸ばした手が、店先の空のトロ箱を引っ掛ける。
ガシャン!
トロ箱が崩れ落ち、扇助の頭の上にスポッと嵌まった。
着物の裾は泥水でびしょ濡れになった。
足袋の先には、落ちていたワカメがぺったりと張り付いている。
無様だった。
計算のかけらもない大失敗だった。
通りがかった買い物客たちが足を止め、息を呑んだ。
トロ箱をかぶったまま、扇助は地面にへたり込んでいた。
(終わった)
徹は思った。
その時だった。
「・・ぶっ」
トロ箱の奥から、吹き出す音が聞こえた。
「・・あはははは!」
扇助がトロ箱を頭から引っこ抜いた。
泥だらけの顔で、腹を抱えて転げ回っている。
「あははは! トロ箱かぶって尻もちつく落語家がどこにいるんだよ! 痛えよ、あははは!」
涙を流しながらも、扇助は心底おかしそうに笑った。
AIの計算もプライドも泥水に落ちた。
ただ自分が情けなくて可笑しかった。
その笑い声につられるように、辰造の口元が緩んだ。
「・・ぷっ。なんだい、その無様な姿は」
主婦たちからも、くすくすと笑いが漏れ出した。
笑いが、さざ波のように店先に広がっていった。
辰造は大きなため息をつくと、大ぶりのカレイの煮付けを経木に包んだ。
「ほらよ」
包みを差し出した。
扇助は笑い転げたまま見上げた。
「え?」
「タダでくれてやるよ。次は高座でしっかり客を笑わせろ。俺を笑わせたみたいにな」
辰造は豪快に笑った。
扇助は泥だらけの手で包みを受け取った。
甘辛い醤油の匂いが立ち上る。
「・・ありがとうございます」
扇助の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
『いっぷく庵』に戻った扇助は、店の奥で着物を乾かしながら煮付けを平らげた。
源蔵は温かい焙じ茶を注ぎ、小山田は「海に行ってきたのかい?」とのんびり茶をすすっている。
扇助は湯呑みを持ち、静かに言った。
「俺・・ずっと、客を上から見てました。自分が転ぶのが怖くて、みっともない姿を隠そうと、鎧を着込んで高座に上がってたんです」
扇助はスマートフォンを見た。
画面には、無機質なグラフ。
扇助はふっと息を吐き、画面を伏せた。
「落語って、人間のダメなところを笑う芸なんですよね。それなのに、演じてる俺自身が、自分のダメさを隠そうとしていました」
源蔵は煙管の灰を落とし、言った。
「人間、転ばなきゃ泥の味は分からねえよ」
源蔵は扇助を見つめた。
「泥を食って笑える奴だけが、他人の泥を笑い飛ばしてやれるんだ。計算で笑わせようとするなんざ、百年早えよ」
扇助は深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした。明日の高座・・行ってきます」
翌日の夕暮れ。
徹は下町の演芸場『鈴成亭』の客席にいた。
隣には、小山田も座っている。
「ここは映画館かい?」と呟きながら、煎餅をポリポリ齧っていた。
出囃子が鳴り響き、高座に扇助が現れた。
鼠色の着物。
その表情から、以前の引きつった強張りは消えていた。
扇助は客席を見渡し、ふっと笑った。
「えー・・毎度ばかばかしいお笑いを一席。実は昨日、魚屋の前で派手にすっ転びましてね。トロ箱を被って着物は泥水、足袋にはワカメ。見事な人間ワカメの出来上がりでございます」
客席が沸いた。
扇助は昨日の無様さを語り始めた。
AIに頼って赤ん坊に泣かれた話。
タダで魚を貰おうとして怒鳴られた話。
自分の愚かさを、誰よりも楽しそうに笑い飛ばしていく。
客席の空気がみるみる温まり、大きな笑いの波が寄席を揺らした。
小山田も手を叩いて笑っている。
噺は古典落語『粗忽長屋』へと滑らかに繋がっていった。
高座の上の扇助は、もはや計算機ではなかった。
不完全で、愚かで、愛すべき「人間」そのものだった。
鳴り止まない拍手の中、扇助は満面の笑みで深々と頭を下げた。
寄席を出ると、夜風が火照った頬を撫でた。
街のビルには電子看板が光り、AIによる最適化社会を宣伝している。
けれど、あの高座の笑いは計算とは無縁の場所から生まれていた。
人は完璧な正解に笑うのではない。
自分の弱さや失敗を誰かが引き受けて、「これでいい」と笑い飛ばしてくれたときに救われるのだ。
「徹さんよ」
隣を歩く小山田が、ぽつりと言った。
「はい、小山田さん」
小山田は夜空を見上げ、歯のない口で笑った。
「人間ってのはね、転んだときに一番いい顔をするもんさ。立ち上がる前の、あの情けない顔がねえ、一番可愛らしいんだよ」
徹は足を止め、老人の横顔を見つめた。
いつもボケている老人が、時折こうして芯を突く。
「・・そうですね。本当に、そう思います」
徹が微笑むと、小山田は懐をごそごそ探った。
「ところで徹さん。ここはどこだい? わたしゃ家に帰る道をすっかり落としちまったよ」
徹は吹き出した。
「もう、小山田さん! 一緒に帰りましょう」
二人の笑い声が、初夏の夜の静けさの中に溶けていった。




