第8話 正論の傷
軒先の風鈴が、ちりん、と小さく鳴った。
初夏の風が、藍色の暖簾を柔らかく揺らしている。
日差しは明るく、通りを歩く人々の影を濃く落としていた。
『いっぷく庵』の店内には、いつものように焙じ茶の香ばしい匂いが漂っている。
石油ストーブは片付けられ、カウンターの隅で鉄瓶が静かに湯気を上げていた。
三毛猫は板の間で行儀よく丸くなり、心地よさそうに目を細めている。
徹の座るテーブルの向かいには、見慣れない客がいた。
相川芽依。
二十六歳。
仕立ての良いネイビーのジャケットを着て、背筋をすっと伸ばしている。
手元には最新の薄型タブレット。
画面には、細かなプログラムコードとデータ構造図が整然と並んでいた。
芽依は都内の大手AI企業で働くエンジニアだった。
徹が取材している相談所の噂を聞き、「AIを時代遅れと決めつけるのは短絡的です」と、わざわざこの店まで足を運んできたのだ。
「私たちが開発しているのは、育児支援AI『マザー・コンパス』です」
芽依の声は澄んでいて、淀みがなかった。
「小児医学や心理学の論文だけを検索ソースにするRAG手法を使い、AI特有の嘘・・ハルシネーションを極限まで排除しました」
芽依は誇らしげにタブレットを徹に向けた。
「親の悩みに対し、常に医学的・客観的な最適解を返します。正しいデータこそが、孤立した親の不安を取り除くはずです。テクノロジーこそが、最も公平な支援を提供できるんです」
カウンターの奥では、源蔵が布巾で湯呑みを拭いていた。
一定の、迷いのない手の動き。
芽依の熱のこもった言葉に、相槌ひとつ打たない。
徹は手元の冷めかけた茶を見つめた。
芽依の言うことは、何ひとつ間違っていない。
筋が通っていて、論理的で、美しい。
けれど、その言葉の隙間のなさに、徹はどこか息苦しさを感じていた。
引き戸が、勢いよく開いた。
カラカラ、と乾いた音が店内に響く。
入ってきたのは、三十代前後の女性だった。
薄手のカーディガンを羽織り、肩には大きなマザーズバッグを下げている。
髪は乱れ、目の下には黒々とした隈が張り付いていた。
足取りはおぼつかず、今にも倒れそうに見える。
女性は店内を見回し、すがるような目でカウンターの源蔵を見た。
「あ・・あの・・こちらで、お話を聞いていただけると・・」
声はかすれ、喉がカラカラに渇いているのが分かった。
源蔵は顔を上げず、ただ言った。
「敷居をまたげ。座って茶を飲め」
女性はふらふらとテーブル席に歩み寄り、徹と芽依の隣の席に腰を下ろした。
ドサリ、と重い音を立ててバッグが床に落ちる。
女性は両手で顔を覆い、荒い呼吸を繰り返していた。
源蔵が、熱い茶を注いだ湯呑みを運んできた。
ことん、とテーブルに置く。
立ち上る白い湯気が、女性の乱れた前髪を揺らした。
「飲め。冷めると腹を下す」
女性は震える指で湯呑みを包み込んだ。
熱さに驚くこともなく、一口、口に含む。
ごくり、と喉が鳴り、小さく息を吐き出した。
「・・すみません。私、もう・・どうしていいか分からなくて」
女性はぽつりと言った。
名前は朋子といった。
生後半年の男の子を一人で育てているという。
「夫は深夜まで帰らず、実家も遠くて頼れる人がいません。子どもは夜も一時間おきに泣いて、私、もう何日も寝ていなくて・・」
朋子はバッグの中から、震える手でスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させ、テーブルの上に置く。
それを見た瞬間、芽依の目が丸くなった。
「あ・・」
画面の上部に表示されていたロゴ。
パステルブルーの円に、白い羅針盤のマーク。
それは、芽依たちが心血を注いで開発した『マザー・コンパス』のチャット画面だった。
朋子は芽依の視線に気づかず、画面を見つめながら涙声を絞り出した。
「このアプリ・・評判が良くて、すがる思いで使い始めました。本当にすごくて・・何を聞いても、一秒で完璧な答えを返してくれるんです」
画面には、膨大な相談ログが残されていた。
『夜泣きが止まりません。どうすればいいですか』
AIの回答は整然としていた。
『入眠ルーティンの固定が有効です。寝室を完全な暗闇にし、授乳での寝かしつけは避け、抱っこやトントンによる自立入眠を促すことが推奨されます』
『離乳食を食べてくれません』
『鉄分とビタミンの不足は発達に影響します。ベビーフードに頼りすぎず素材を活かした調理を行い、母親が笑顔で語りかけることで愛着形成が促進されます』
朋子の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「書いてあることは、全部正しいんです。一ミリも間違っていません。お医者さんの本にも、同じことが書いてありました」
朋子の声が、激しく震え始めた。
「でも・・私、何ひとつその通りにできないんです」
膝の上のスカートを、指先が白くなるほど強く握りしめる。
「寝室を暗くしても子どもは泣き叫ぶし、疲れて手作りの離乳食なんて作れなくて・・市販のレトルトを開けるたびに、罪悪感で手が震えるんです。笑顔で語りかけるどころか、疲れて無表情になってしまって・・」
朋子は顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「昨日の夜、子どもが三時間泣き止まなくて・・私の頭がおかしくなりそうで、つい『うるさい!』って怒鳴ってしまったんです。小さな身体を、ベッドに乱暴に置いてしまって・・」
店内に、重い痛みが満ちていく。
芽依は息を呑み、固まっていた。
「怖くなって、自己嫌悪で震えながら、このアプリに相談しました。
『子どもに怒鳴ってしまいました』って。そしたら・・」
朋子は画面をスクロールした。
『母親の怒声は乳幼児に強いストレスを与え、発達に影響します。感情的にならず深呼吸をし、いかなる理由があっても怒鳴ることは適切ではありません。穏やかな受容の姿勢を保ちましょう』
朋子は机に突っ伏した。
「責められてるんです。丁寧な言葉で、完璧に、優しく・・私がどれだけダメな親かを突きつけられるんです!」
泣き声が、店内に響き渡る。
「正しい親になれない私は、母親失格です。正論を突きつけられるたびに、心臓を刃物で刺されてるみたいで・・息ができないんです。私なんかが母親でいるより、施設に預けた方がこの子のためにいいんじゃないかって・・!」
芽依の顔から、さっと血の気が引いていった。
唇が小さく震えている。
悪意などなかった。
親を救うために、最新のエビデンスと正しさを追求した。
それなのに、その研ぎ澄まされた正論が、生身の母親を追い詰め、絶望の淵へ突き落としていたのだ。
「正論の傷」だった。
正しければ正しいほど、逃げ場がなくなる。
反論できない正論は、弱っている人間にとっては救いではなく、凶器そのものだった。
カウンターから、ことん、と音がした。
源蔵が歩み寄ってきて、朋子の前に立った。
朋子は涙で濡れた顔を上げ、源蔵を見つめた。
「教えてください・・私、どうすればいいんですか。どうすれば、正しい親になれるんですか・・」
源蔵は煙管をくわえ、朋子の足元をじっと見た。
それから、何気ない声で言った。
「今日は一日、靴下を裏返しに履け」
店内の空気が、止まった。
徹も、芽依も、呆気にとられて源蔵を見た。
朋子は涙を流したまま、瞬きをした。
「え・・?」
「靴下だ」
源蔵は平然と繰り返した。
「家に帰ったら、靴下を脱いで裏返しに履け。一日中、そのままでいろ」
「靴下を・・裏返し・・? 何の意味があるんですか・・?」
朋子の声がかすれた。
源蔵は煙管から紫色の煙をふうと吐き出した。
「世の中が言う『正しい親』なんざ、絵に描いた餅だ。そんなもんになろうとするから息が詰まるんだよ」
源蔵は朋子のスニーカーを指差した。
「裏返しに履いた靴下を見てみろ。縫い目が表に出て、糸くずがついて、ひどくみっともねえだろ? だがな、足はちゃんと温まるし、歩くのに何の支障もねえ」
源蔵の低い声が、静かに店内に染み渡っていく。
「『まあいいか、今日は靴下も裏返しだしな』って思え。親なんてな、半分くらい抜けてて、適当でみっともねえくらいがちょうどいいんだよ。完璧な親なんざ、息が詰まって子どもだって育ちやしねえ」
「適当で・・いいんですか」
朋子の瞳が揺れた。
「当たり前だ」
源蔵は鼻を鳴らした。
「市販の離乳食で何が悪い。腹に入りゃ同じだ。怒鳴っちまったら、『さっきは悪かったな』って頭でも撫でときゃいいんだよ。人間、正しいもんばかり食わされたら、大人だって子どもだって腹を壊すぞ」
源蔵は空になった朋子の湯呑みに、鉄瓶から熱い湯を注ぎ足した。
「親の仕事はな、正しく生きることじゃねえ。子どもと一緒に、みっともなく生き抜くことだ」
朋子は足元を見つめた。
靴下を裏返しに履く。
医学的な根拠も何もない、馬鹿馬鹿しい助言。
けれど、その馬鹿馬鹿しい言葉が、朋子の胸の奥で固く結ばれていた結び目を、ぷつりと切った。
朋子の口元から、かすかな音が漏れた。
「・・ふふっ」
それは、乾いた笑いだった。
「靴下、裏返し・・あはは、みっともない・・」
笑いながら、目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。
顔を手で覆い、肩を震わせて泣いた。
けれど、それは先ほどの絶望の涙ではなかった。
重い鎧を脱ぎ捨てたような、深い、深い安堵の涙だった。
「私・・完璧にならなきゃって、息もしてませんでした・・。ちゃんと親にならなきゃって・・」
「完璧な人間なんざ、この世に一人もいねえよ」
源蔵はぶっきらぼうに言った。
「茶を飲んで、さっさと帰って寝ろ。掃除なんざ一週間サボったって、誰も死なねえ」
朋子は両手で湯呑みを持ち、熱いお茶を一気に飲み干した。
顔を上げると、頬には赤みが戻っていた。
「・・ありがとうございます。靴下、裏返しに履いてみます」
朋子は立ち上がり、深々と頭を下げた。
床からバッグを拾い上げ、店を出ていく。
その足取りは、入ってきたときとは見違えるほど確かだった。
引き戸が閉まり、再び店内に静寂が戻った。
風鈴が、ちりん、と一度だけ鳴った。
芽依は、微動だにせず座っていた。
手元のタブレットの画面には、まだ整然としたAIのログが光っている。
芽依の指先が、小さく震えていた。
「私たちのAIは・・」
芽依の声は、掠れていた。
「間違ったことは、何一つ言っていませんでした。何千本もの論文を検証して、専門家の監修も受けて・・絶対に正しい答えを出していました」
芽依はタブレットを見つめたまま、ぽろりと涙をこぼした。
「でも・・彼女を追い詰めていた」
悔しさと挫折が、その横顔に滲んでいた。
人の役に立ちたいと積み上げた正しさが、目の前の人間を切り裂いていたのだ。
源蔵がカウンター越しに、新しい湯呑みを芽依の前に置いた。
立ち上る湯気が、芽依の落ちた視線を包む。
「AIが悪いわけじゃねえ」
源蔵は穏やかな声で言った。
「ただな、正しさってのは、刃物と同じだ」
芽依が顔を上げた。
「血を流して倒れてる奴に、消毒液を力任せに擦りつけてみろ。痛えに決まってるだろうが」
源蔵は煙管の灰を落とした。
「人間にはな、正しい答えより先に、息を抜く場所が必要なんだ。理屈で正しく殴られたって、傷口が広がるだけだぞ」
芽依は湯呑みを見つめた。
陶器の温もりが、冷え切った指先にじんわりと伝わってくる。
「息を抜く・・場所・・」
「そうだ」
源蔵は言った。
「正しい答えなんてものは、元気になった奴が自分で探せばいい。役に立たねえ無駄口を叩いて、肩の力を抜いてやる。それができねえ正しさは、ただの暴力だ」
芽依は両手で湯呑みを包み込んだ。
一口、含む。
強烈な熱さと、香ばしい苦味が、胸の奥深くまで染み渡っていった。
「・・苦いですね」
芽依がぽつりと言った。
「茶だからな」
源蔵は短く返し、布巾を洗いに流しへ向かった。
芽依はタブレットの電源ボタンを押した。
液晶画面がすっと暗くなり、黒いガラスに自分の顔が映る。
そこには、正解を信じ切っていた技術者ではなく、一人の不完全な人間の顔があった。
徹は芽依の横顔を見つめ、静かにお茶を口に運んだ。
正しさとは何か。
人を救うとはどういうことか。
AIがどれほど進化しても、人間が泥臭く抱え続けるべき問いが、ここにあった。
西日が傾き、窓から差し込む光が畳を茜色に染めていく。
鉄瓶の湯気が、静かに、まっすぐに立ち上っていた。




