↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/11

第7話 雨の日だけ歩く

 トタン屋根を、細い雨粒が叩いていた。

 軒下の小さな水たまりに、波紋が広がっていく。

 街全体が白く煙り、濡れたアスファルトの匂いが漂っていた。


 手元のスマートフォンが短く震える。

 気象AIが『本日は不要不急の外出を控えてください』と告げていた。

 効率を重んじるシステムにとって、雨は移動を邪魔する障害に過ぎない。

 徹は小さく息を吐き、画面を伏せた。


『いっぷく庵』の店内は、雨音を吸い込んだように静かだった。

 ストーブの上の鉄瓶が細い湯気を上げ、香ばしい焙じ茶の匂いが漂っている。

 三毛猫は丸くなって眠り、奥のカウンターでは源蔵が布巾で湯呑みを拭いていた。

 一定の、迷いのないリズム。

 徹はテーブル席でノートを開いていたが、取材メモは進まない。

 画面の端には、AIの生活改善プランが表示されている。

『朝の光を浴びること』

『規則正しい散歩による段階的な社会復帰』

 理屈は正しくても、その文字はどこか冷たく感じられた。


 引き戸が、頼りない音を立てて開いた。

 湿った冷気とともに、濃い雨の匂いが吹き込んでくる。

 二人の人影が立っていた。

 濡れたコートを着た、五十代半ばの女性。

 その背後に隠れるように、若い男が立っていた。

 黒いパーカーのフードを目深にかぶり、視線は足元に落ちている。

 右手にはビニール傘。

 強く握りしめた指の関節が、白く浮き上がっていた。

 傘の先から落ちる雫が、土間に黒い染みを作っていく。


「あの・・お話を聞いてくださると聞いて」

 女性の声はかすかに震えていた。

 源蔵は顔も上げずに言った。

「突っ立ってると冷える。入れ」

 女性は息子の袖を引き、敷居をまたいだ。

 青年はびくりと肩を揺らし、引きずられるように入ってくる。

 傘立てのカシャンという音にさえ、耳を塞ぐように首を縮めた。


 二人はテーブル席に座った。

 青年は椅子の端に辛うじて腰掛け、膝の上の拳を固く握りしめている。

 浅く速い呼吸が、フードの奥から漏れていた。

 源蔵が急須から湯呑みへ、茶を注いだ。

 二つの湯呑みを、静かに置く。

 立ち上る湯気が、青年のフードの縁をかすめた。


「飲め。冷めると渋くなる」

 女性は湯呑みを見つめ、震える声で話し始めた。

「息子の、拓海です。高校を中退してから四年、部屋から出ていません」

 女性の手が、バッグを強く握りしめる。

「行政のAI相談に頼り、『毎朝日光を浴びましょう』『少しずつ散歩を』と教わりました。でも、この子・・カーテンを開けようとすると叫んで布団をかぶるんです。外に出ようとすると過呼吸を起こして・・。どうして、こんな正しいことができないんでしょうか・・」

 雨の音だけが、静かに響いていた。

 拓海は一言も発せず、膝の上の拳を震わせている。

 言葉にできない絶望が、その背中に張り付いていた。


 源蔵は煙管を取り出し、刻み煙草を詰めた。

 マッチを擦り、火をつける。

 紫色の煙が、雨の匂いと混ざり合って漂った。

「茶が冷めるぞ」源蔵が煙を吐き出した。

 母親は目元を押さえ、湯呑みに口をつけた。

 だが、拓海は動かない。

 目の前の湯呑みから立ち上る湯気を、じっと見つめている。

「拓海、ほら」母親が肘で息子の腕を突いた。

「お茶を淹れてくださったんだから。いただきなさい」

 拓海の肩が跳ね、指先が微かに震える。

 源蔵が低く言った。

「急かすな」

「え・・?」

「茶は逃げねえ。急かされた茶は、喉を火傷させるだけだ」

 母親は言葉を呑み込み、手を引っ込めた。


 やかんの湯気。

 雨の音。

 やがて、拓海の手がゆっくりと動いた。

 壊れ物に触れるようにして、両手で湯呑みを包み込む。

 温もりが伝わったのか、短く息を吐いた。

 一口、すする。

「・・あつい」

 掠れた、けれど確かに生きた人間の声だった。


 源蔵が煙管の先を見つめたまま、ぽつりと言った。

「何がそんなに怖いんだ」

 責める色も、憐れむ色もない。

 天気を尋ねるような平坦な声だった。

 拓海は湯呑みを抱えたまま固まった。

 長い沈黙のあと、唇がかすかに震えた。

「・・眩しいんです」

「眩しい?」

 徹が思わず聞き返した。

 拓海は顔を上げず、絞り出すように言った。

「晴れた日が・・太陽が、眩しすぎるんです」

 その声は震えていた。

「朝、光が入ると身体中が痛くなるんです。外から足音がして、みんな当たり前に仕事に行って・・。街が明るいほど、自分が存在しちゃいけないゴミに思える。日差しの中に立つと、世界中から笑われてる気がして・・。みんな前を向いて歩いてるのに、僕なんかが混ざったら息ができなくなる。足がすくんで、出られないんです」


 徹は手元の画面を見た。

『日光を浴びること』

『朝の散歩から始める段階的アプローチ』

 完璧な正解。

 けれどその正解は、彼を救うどころか追い詰めていた。

 まっとうな世界の明るさそのものが、彼にとっては自分を焼き殺す凶器だったのだ。

 源蔵は煙管の灰をトントンと落とした。

 窓の外の雨を見つめ、静かに言った。

「なら、雨の日だけ外へ出ろ」

 店内に、その言葉が落ちた。

 母親が呆気にとられた声を出す。

「雨の日、ですか・・? 風邪を引きますし、AIも外出には適さないと・・」

「AIの言うことなんざ知るか」

 源蔵は言い捨てた。

「晴れた日は、誰もが前を向いて歩く。視界が広いから他人の顔がよく見える。お前が他人の目を怖がるのも無理はねえ」

 源蔵は拓海を見据えた。

「だが、雨の日はどうだ? みんな傘を差して、下を向いて歩いてる。水たまりを避けるのに必死で、自分の足元しか見てねえ。すれ違う奴の顔なんて、誰も見ちゃいねえよ」

 拓海が息を呑んだ。


「それに、音だ。雨の音は、街の雑音を全部包んで消してくれる。お前の重い足音も、速い心臓の音も、全部この雨が飲み込んでくれる」

 源蔵は拓海の前に立った。

「堂々と歩こうなんて思うな。雨の日に、傘に隠れてコソコソ歩きゃいい」

「・・え?」

「傘を差せば、頭の上に一畳の自分だけの屋根ができる。その下で、誰にも見られずに泥水を跳ね上げて歩くんだ。コソコソ歩くのはな、誰にも邪魔されねえ一番の贅沢だぞ」

「コソコソ・・歩いて、いいんですか」

 拓海の声が震えていた。

「当たり前だ。誰が最初から胸を張って歩けと言った。人間、最初はみんな泥の中を這いつくばるもんだ。コソコソ歩く面白さを知ればいい」

 源蔵は言った。

「雨が降ったら、傘を持って外に出ろ。晴れた日は、好きなだけ部屋で布団かぶって寝てりゃいいんだよ」

 拓海の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 膝の上の拳が解け、濡れたズボンに涙の染みが広がっていく。

「・・晴れた日は、寝てていいんですか」

「ああ。太陽なんざ、見たい奴だけが見てりゃいいんだ」


 二人が店を出たのは、それからしばらく経ってからだった。

 拓海は深く頭を下げ、玄関でビニール傘を開いた。

 バサッ、と鈍い音がする。

 傘を深く傾け、足元を見つめながら、雨の路地へと歩き出していった。

 その背中からは、凍りついたような硬さが消えていた。


 それから、二週間が過ぎた。

 ある土砂降りの夕方、徹は取材帰りに住宅街の裏道を歩いていた。

 激しい雨脚がアスファルトを叩き、周囲の音を掻き消している。

 向こうから、黒い傘を差した人影が歩いてきた。

 拓海だった。

 一人だった。

 黒い傘を深く傾け、足元を見つめながらゆっくりと歩いている。

 すれ違う人が通り過ぎても、誰も拓海を見ない。

 拓海も相手を見ず、傘の内側だけを見つめていた。


 拓海が、ふと立ち止まった。

 傘の縁から落ちる水滴を見つめ、それから傘を少し持ち上げた。

 フードはかぶっていなかった。

 濡れた風の中、拓海は胸いっぱいに息を吸い込んだ。

 雨の冷たい匂い。

 濡れたアスファルトの匂い。

 外の空気を吸い込み、ふう、と息を吐き出す。

 そして、また静かに歩き出した。

 胸を張ってはいなかったが、彼は確かに、自分の足で進んでいた。

 徹は声をかけず、その背中を見送った。


 さらに十日ほどが過ぎた。

 雲の隙間から時折日差しが覗く、穏やかな午後だった。

『いっぷく庵』の戸が、静かに開いた。

 カラカラ、と乾いた音が鳴る。

 徹が顔を上げると、そこに青年が立っていた。

 拓海だった。

 一人だった。

 フードは下ろされ、髪はきれいに整えられている。

 視線はまっすぐに前を向き、手には折り畳まれた黒い傘が握られていた。


「いらっしゃい」

 源蔵が、いつもの声で迎えた。

 拓海は頭を下げ、カウンターの端に座った。

「こんにちは」

 通る声だった。

 二週間前のかすれた声とはまるで違っていた。


 源蔵が湯呑みを置く。

 拓海は両手で持ち、一口飲んだ。

「美味しいです」

「雨は降ってねえぞ」

 源蔵が煙管をくわえて笑った。

 拓海は黒い傘を見つめ、照れくさそうに笑った。

「お守りです。傘があれば、いつでも隠れられると思えるので」

 拓海は湯呑みを置き、静かに語り始めた。


「あの日から、雨のたびに外に出ました。最初は家の前、次は自販機、その次は公園。本当に誰も僕を見ていませんでした。雨の音が優しくて、傘の下にいれば部屋と同じくらい息ができました」

 拓海は深く息を吸った。

「昨日、散歩の途中で雨が上がったんです。足元の水たまりを見たら、そこに青空が映っていました。空を見上げるのはまだ怖かったけれど、水たまりの青空なら、じっと見つめることができたんです。すごく綺麗でした。だから今日、傘を畳んだまま歩いてきました」

 店内が静まり返った。

 鉄瓶の湯気が、細く立ち上っている。


 徹の胸の奥で、記者の血が騒いだ。

(これだ・・)

『AIの正論に傷ついた青年が、雨の日に見つけた最初の一歩』。

 絶対に読者の心を打つ。

 徹は前のめりになり、鞄のパソコンに手をかけた。

「拓海さん、その話を記事にさせてくれませんか! 同じように苦しんでいる人たちの、大きな希望になります」

「おい、徹」

 低く鋭い声が飛んだ。

 徹の指が止まった。

 源蔵が、氷のように冷たい目で徹を射抜いていた。

「その四角い箱をしまえ」

「え・・ でも源蔵さん、これは本当に価値のある話で」

「お前はまた、他人の命を記事の餌にしようとしてるな」

 源蔵の言葉が、胸を貫いた。

「こいつが一歩踏み出したのは、お前の記事のネタになるためじゃねえ。誰かに読まれて感動されるためでもねえ。こいつが明日を生きていくためのもんだ」

 源蔵はカウンターに手をついた。

「綺麗な美談にしてネットに投げてみろ。見知らぬ奴らが消費して、三日で忘れ去る。そしたら、こいつが泥水の中で探した足跡は、全部お前の飾りに化けちまうぞ。他人に消費された一歩は、あっという間に嘘になるんだ」


 頭を殴られたような衝撃だった。

 自分はまた、他人の人生を素材として見立てていただけだったのだ。

 徹はパソコンから手を離し、静かに鞄を閉めた。

「・・すみませんでした」

 徹は深く頭を下げた。

 拓海は戸惑いながらも、優しく笑った。

「大丈夫です。僕はただ、自分のために歩いただけですから」

 その言葉が、徹の胸に深く刺さった。


 源蔵が拓海に向き直った。

「拓海。晴れの日が怖くなったら、また遠慮なく部屋に逃げ帰れ」

「逃げていいんですか?」

「当たり前だ。晴れの日ばかり生きてたら干からびちまう。息が詰まったら、また雨の日に歩きゃいい」

 拓海の顔が綻んだ。

「はい! また雨が降ったら歩きます」

 拓海は茶を飲み干すと、礼を言って店を出ていった。

 その背中は、街の景色の中に自然に溶け込んでいた。


 徹は手元の湯呑みを見つめた。

「源蔵さん・・俺、やっぱり記者に向いてないですかね」

 源蔵は布巾を絞りながら言った。

「向いてるかなんて分からねえよ。だがな、書かねえ勇気を持てねえ記者に、本物の記事が書けるわけがねえ」

 源蔵は棚を片付けながら、背中越しに言った。

「今日、その箱を閉じたことだけは、褒めてやるよ」

 不器用な温もりが、言葉の奥にあった。

 徹はお茶を口に含んだ。

 渋みの奥に、確かな甘みがあった。


 窓の外を見ると、雲の切れ間から柔らかな日差しがこぼれていた。

 濡れたトタン屋根が、静かに光っている。

 晴れの日も、雨の日も、どちらもあるから生きていける。

 徹は深く息を吸い、前を向いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。