第6話 喧嘩の作法
空は、薄い灰色だった。
雲の切れ間はない。
けれど、雨が降る気配もない。
システムは「本日の天候は安定しています」と告げている。
変化のない、平坦な午後だった。
徹は『いっぷく庵』のテーブル席に座っていた。
店内には、いつものように焙じ茶の匂いが漂っている。
ストーブの上のやかんが、小さく音を立てている。
三毛猫は丸くなったまま、ぴくりとも動かない。
店の隅には、いつもの老人がいる。
両手で湯呑みを持ち、じっと前を見つめている。
奥のカウンターでは、源蔵が布巾で板べたを拭いていた。
ゆっくりとした、一定のリズム。
徹は手元の湯呑みを見つめた。
湯気が、まっすぐに立ち上っている。
風がない証拠だ。
平和で、退屈な時間。
引き戸が、ゆっくりと開いた。
カラカラ、と音が鳴る。
男女が二人、店に入ってきた。
三十代の半ばくらいだろうか。
男は仕立ての良いグレーのジャケットを着ている。
女は落ち着いたベージュのコートを着ていた。
二人は、連れ立って来たはずなのに、妙な距離があった。
歩幅も合っていない。
男が先にカウンターに座り、女は一つ席を空けて座った。
二人の間には、目に見えない透明な壁があるようだった。
源蔵は布巾を置いた。
鉄瓶から急須へ、ゆっくりと湯を注ぐ。
新しい湯呑みを二つ出し、茶を注いだ。
トン、トン、と二人の前に置く。
「飲め」
男は湯呑みを見下ろした。
女も、手を出さない。
「ここが、システムを使わずに相談に乗ってくれる店ですか」
男が、静かな声で聞いた。
感情の起伏がない、ひどく平坦な声だった。
源蔵は流しで布巾を洗い始めた。
「うちは茶を飲む場所だ」
「ネットで少し噂になっていたので、来てみました」
女が、男の言葉を引き継ぐように言った。
彼女の声もまた、静かで、冷たかった。
「実は、明日、離婚届を出します」
男が言った。
徹は少し驚いて、二人を見た。
修羅場のような雰囲気はまったくない。
まるで、明日の会議の予定を報告するような口調だった。
「揉めているわけじゃありません。むしろ、とても円満です」
男は淡々と続けた。
「関係修復システムの診断を受けました。私たち夫婦の適合率は、わずか十二パーセントでした。システムは、これ以上一緒にいても、お互いにストレスを蓄積するだけだと結論を出しました」
女が小さく頷いた。
「最適な財産分与の比率も、引っ越しの手続きも、すべてシステムが計算してくれました。一切の争いも、不快な思いもせずに、最も合理的に別れることができます」
男は、自分の指先を見つめた。
「私たちは、もう三年間、一度も喧嘩をしていません」
「喧嘩は非効率ですから。感情的になっても、疲れるだけです」
女が言った。
徹は黙って聞いていた。
合理的。
無駄がない。
システムが導き出した、完璧で無難な正解。
それなのに、二人の顔はひどく疲れているように見えた。
まるで、生きるためのエネルギーをどこかに置き忘れてきたような、空っぽの顔だった。
「なら、なぜここへ来た」
源蔵が、蛇口を閉めて言った。
「システムが完璧なら、明日、黙って紙を出せばいい」
男は少し言いよどんだ。
「・・最後くらい、少し変わったことをしてみようかと」
「システムにはない、人間の言葉を聞いてみたかったんです」
女が静かに言った。
「ただの気まぐれです。私たちの選択が正しいと、背中を押してほしかったのかもしれません」
源蔵は濡れた手を、手ぬぐいでゆっくりと拭いた。
そして、二人を見た。
「お前さんたち」
低い声だった。
「はい」
「今日はここで、盛大に喧嘩しろ」
男と女は、顔を見合わせた。
「・・え?」
「喧嘩しろと言ったんだ。声を出して、ものを言って、腹の底からぶつかれ」
男は困惑したように眉をひそめた。
「何を言っているんですか。喧嘩なんて、無意味です。互いを傷つけるだけで、何の解決にもならない」
「そうだ。システムも、感情的な衝突はリスクだと・・」
「うるさい」
源蔵の声が、店内に鋭く響いた。
徹は思わず肩をビクッとさせた。
源蔵は、二人を睨みつけた。
「システムがどうした。適合率がどうした。お前さんたちは、ただの臆病者だ」
男の顔色が変わった。
「臆病者・・?」
「そうだ。傷つくのが怖くて、互いに踏み込むのをやめた。面倒なことから逃げて、綺麗な仮面を被って、無難な正解に逃げ込んだだけだ」
源蔵は二人の間にある空間を指さした。
「そんなに離れて座って、何が夫婦だ。ただの他人のほうが、まだましだ」
男が立ち上がった。
「いい加減にしてください。私たちは、真剣に考えて・・」
「真剣に逃げただけだろうが。腹の中には、言いたいことが腐るほど溜まってるくせに」
男の顔が、怒りで赤く染まった。
ずっと平坦だった感情の波が、一気に膨れ上がった。
「あなたに、私たちの何が分かるんですか!」
男は机を強く叩いた。
湯呑みがガタッと鳴る。
「やめて、あなた。こんなところで感情的にならないで」
女が男の腕を掴んだ。
男はその手を振り払った。
「お前もそうだ! いつもそうやって、冷静なふりをして! 俺が仕事で疲れて帰ってきても、システムの健康管理データを見るだけで、俺の顔なんか一度も見なかったじゃないか!」
男の怒鳴り声が響いた。
女の顔が、驚きでこわばった。
次の瞬間、女の顔にも怒りが走った。
「あなただって! 私が新しい料理を作っても、カロリー計算のアプリに入力するばっかりで、美味しいの一言も言ってくれなかったじゃない!」
女が立ち上がり、男に向かって声を張り上げた。
「俺は健康を気にしてやってたんだ!」
「ただのデータオタクよ! 私が髪を切ったことにも気づかないくせに!」
「お前だって、俺が大事にしてた万年筆を勝手に捨てただろう!」
「あれは、システムが『三年使っていない不要物』に分類したからよ!」
「俺の思い出を勝手に分類するな!」
二人は、至近距離で睨み合った。
怒鳴り合い。
非難の応酬。
システムが見れば、最も非生産的で、最もリスクの高い行動だろう。
徹は息を呑んで見ていた。
二人の言葉は、ただの悪口ではなかった。
「寂しかった」
「構ってほしかった」
「見てほしかった」
怒りの裏にある、隠されていた本音が、泥水のように溢れ出していた。
「あなたは、いつもシステムばかり見て・・私のことなんか、どうでもよかったのよ!」
女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
男は言葉に詰まった。
「・・違う。俺は、お前がいつも完璧だから・・俺なんか必要ないんじゃないかって、ずっと思ってたんだ」
男の目も、赤くなっていた。
声が震えていた。
「お前が泣くところなんて、三年間、一度も見たことがなかった」
女は手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。
子供のような、大きな泣き声だった。
男は少し躊躇した後、女の肩を抱き寄せた。
女は男の胸に顔を押し付け、さらに激しく泣いた。
男も、天井を見上げて、涙をこらえきれずに泣いた。
三年間溜め込んでいたものが、すべて吐き出されたようだった。
やがて、女が鼻をすすりながら顔を上げた。
「・・私のプリン、勝手に食べたこと、まだ許してないからね」
涙声のまま、女が言った。
男は吹き出した。
「三年前の話だろ、それ」
「一生忘れないわよ」
二人は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、笑い合った。
先ほどまでの、冷え切ったマネキンのような二人は、もうどこにもいなかった。
そこには、泥まみれになってぶつかり合った、一組の生身の夫婦がいた。
源蔵は、黙って新しい湯呑みを二つ用意した。
急須から、新しい茶を注ぐ。
「飲め。冷めた茶は不味い」
二人の前に、温かい茶が置かれた。
男と女は、並んで座り直した。
もう、二人の間に不自然な距離はない。
肩が触れ合うほど近くに座っている。
二人は両手で湯呑みを持ち、ゆっくりと茶を飲んだ。
「・・熱いですね。でも、すごく美味しい」
女が、小さな声で言った。
男も深く頷いた。
「本当に。目が覚めるような味だ」
二人は湯呑みを置くと、源蔵に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました。・・私たち、馬鹿でした」
男が言った。
「明日、市役所には行きません。家に帰って、もう一度、二人でゆっくり話をしてみます」
女も、晴れやかな顔で笑った。
二人は立ち上がり、手を繋いで引き戸へ向かった。
カラカラ。
戸が開き、二人が外へ出ていく。
その背中は、店に入ってきた時よりも、ずっと小さく、けれど温かく見えた。
引き戸が閉まった。
店内に、再び静けさが戻った。
ストーブのやかんの音だけが聞こえる。
徹は、深く息を吐いた。
「・・すごいですね」
徹が言うと、源蔵は布巾でカウンターを拭き始めた。
「何がだ」
「喧嘩です。システムなら絶対に止める行動ですよ。でも、あの二人は、喧嘩したからこそ繋がれた」
源蔵は手を止めない。
「無難な正解には、嘘がある」
静かな声だった。
「嘘、ですか」
「そうだ。傷つかないように、波風を立てないように。そうやって計算して出した答えは、綺麗で完璧だろう。だが、そこには人間の体温がねえ」
源蔵は蛇口をひねり、布巾を洗った。
「ぶつかりもしねえで、相手の形が分かるわけがない。傷もつけずに、絆なんてできるわけがないんだ」
徹は手元の湯呑みを見つめた。
データ。
効率。
最適解。
それは確かに、人生から多くのストレスを排除してくれる。
面倒なトラブルを未然に防いでくれる。
でも、同時に、もっと大切なものまで排除してしまうのだ。
相手の熱。
匂い。
痛みを伴うほどの、深い理解。
源蔵が、新しい茶を徹の前に置いた。
「冷めてるぞ。さっさと飲め」
徹は冷めかけた茶を一気に飲み干し、新しく注がれた熱い茶に口をつけた。
強烈な熱さと、渋み。
舌が少しひりひりする。
でも、この痛みが心地よかった。
生きている、と感じられた。
「また、来ます」
徹が立ち上がると、源蔵は背を向けた。
「勝手にしろ」
外に出た。
空は相変わらず薄い灰色だった。
けれど、風は少しだけ柔らかくなっている気がした。
徹はポケットから手を出し、大きく伸びをした。
駅へ向かう足取りは、前よりもずっと軽かった。
舌の奥には、まだお茶の渋みと、かすかな痛みが残っていた。




