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第5話 百円の損

 冷え込みが厳しくなってきた。

 息を吐くと、うっすらと白く濁る。

 システムの気象データは「例年通りの気温」と言っているが、体感としてはひどく寒かった。


 徹はコートのポケットに両手を入れ、古い商店街を歩いていた。

 最近は、この寂れた道を歩くのが日課のようになっている。

 シャッターの閉まった店。

 色あせた看板。

 ひび割れたアスファルト。

 システムが推奨する「快適な空間」には何一つ当てはまらない。

 けれど、今の徹には、この雑然とした風景が心地よかった。


『いっぷく庵』の前に着く。

 藍色の暖簾が、冷たい風に揺れていた。

 引き戸に手をかける。

 カラカラ。

 乾いた音が響く。

 中に入ると、焙じ茶の温かい匂いがした。

 それだけで、少しだけ体がほぐれる気がする。

 薄暗い店内。

 三毛猫がストーブのそばで丸くなっている。

 店の隅には、いつもの老人が座っていた。

 真っ白な髭。

 湯呑みを両手で持ち、じっと前を見ている。


 奥のカウンターには、源蔵がいた。

 色あせた紺色の作務衣。

 布巾でゆっくりとカウンターを拭いている。

「こんにちは」

 徹が声をかけると、源蔵は手を止め、ちらりとこちらを見た。

「また来たのか」

「ええ。お茶を飲みに」

 徹はいつもの席に座った。

 デジタルメモ帳は出さない。

 ただ、そこにある空気を感じるためだけに来ていた。


 源蔵は鉄瓶から急須へ湯を注ぐ。

 湯気が立ち上る。

 厚手の湯呑みに茶を注ぎ、徹の前に置いた。

「飲め」

 徹は両手で湯呑みを包み込んだ。

 陶器の熱が、冷えた指先にじんわりと染み込んでいく。

 一口飲む。

 強烈な渋みと、その奥にある甘さ。

 舌の奥に広がる、確かな熱。

 徹は小さく息を吐いた。


 背後で、引き戸がカラカラと鳴った。

 振り返る。

 一人の男が立っていた。

 三十代半ばくらいだろうか。

 仕立てのいい、高そうな濃紺のスーツを着ている。

 靴もピカピカに磨かれていた。

 左腕には、最新型の高級なスマートウォッチが光っている。

 明らかに、この商店街には不似合いな男だった。


 男は店内を見回し、少し顔をしかめた。

 埃っぽい空気が気に入らないのかもしれない。

 男はカウンターに近づき、源蔵を見た。

「ここが、システムに頼らない相談所ですか」

 早口で、鋭い声だった。

 源蔵は布巾を洗いながら、顔も上げない。

「うちは茶を飲む場所だ」

「ネットの噂を見て来ました。経営の相談に乗ってくれると」

 男は勝手に椅子を引き、カウンターに座った。


 源蔵は何も言わず、新しい湯呑みを出した。

 茶を注ぎ、男の前に置く。

 男は湯呑みを見ようともしなかった。

「私は、会社を経営しています。システム開発のベンチャーです」

 男は腕を組み、話し始めた。

 徹は黙って、お茶をすすりながら聞いていた。

「私の会社では、すべてをデータで管理しています。社員の稼働率、プロジェクトの進行度、顧客の満足度。すべてをシステムで数値化し、一番効率のいい、利益が出る選択をしています」

 男は腕のスマートウォッチをちらりと見た。

「無駄なことは一切しません。一円の損も出さないように、完璧な計算で動いています。業績も右肩上がりでした」

 男の声が、少しだけ苛立ちを帯びた。


「でも、最近おかしいんです」

 男は唇を噛んだ。

「右腕として頼りにしていた役員が、突然辞めました。理由を聞いても『息が詰まる』としか言わない。給料も休みも、システムが弾き出した業界最高水準を与えていたのに」

 男は早口になった。

「それだけじゃありません。長年付き合いのあった一番の取引先が、急に契約を打ち切ると言ってきました。うちの提案は、他社よりもデータ上で圧倒的に優れていたはずなのに」

 男は身を乗り出し、源蔵を見た。

「システムのデータでは、私のやり方は百パーセント正しいんです。計算上、何も間違っていない。なのに、人が離れていく」

 男は机を軽く叩いた。

「人間の不合理なバグを修正するには、どうすればいいんですか。最適な解決策を教えてください」

 男の目には、焦りがあった。

 計算通りにいかない現実に対する、強い苛立ち。


 源蔵は水道の蛇口を閉めた。

 濡れた手を、手ぬぐいでゆっくりと拭く。

 そして、男を見た。

「お前さん」

 静かな声だった。

「はい」

「あの角にある、古いタバコ屋を知ってるか」

 男は目を瞬いた。

「・・は? タバコ屋?」

「そこを右に曲がったところだ。店は閉まってるが、脇に古い自販機が置いてある」

 源蔵は淡々と言った。

「そこへ行け。百円玉を入れて、三段目の右端にある缶コーヒーを買え」

 男は怪訝な顔をした。

「コーヒー? 私は経営の相談を・・」

「その自販機の三段目の右端は、壊れてる」

 源蔵は言葉を遮った。


「百円玉を入れてボタンを押しても、何も出てこない。百円飲まれるだけだ」

 男はポカンと口を開けた。

「・・わざと損をしてこい、と言うんですか?」

「そうだ」

「馬鹿馬鹿しい。たかが百円でも、無意味な損失を出すなんて私のやり方に反します」

 男が立ち上がりかけた。

「茶が冷めるぞ」

 源蔵はそう言うと、背を向けた。

 これ以上話す気はない、という明確な拒絶だった。

 男は源蔵の背中を睨みつけた。

 舌打ちをして、立ち上がる。

 湯呑みには一口も手をつけていない。

「時間の無駄でした。失礼する」

 男は大股で歩き、引き戸を乱暴に開けて出て行った。

 ピシャリ。

 戸が閉まる音が、店内に響いた。


 徹は源蔵を見た。

「あの人、自販機に行きますかね」

 源蔵は流しで洗い物を始めた。

「さあな」

「百円を損してこいなんて、効率の塊みたいなあの人が、やるわけないんじゃないですか」

「なら、それまでの人間だ」

 源蔵は答えを出さない。

 徹は手元の湯呑みを見た。

 データと効率。

 損得勘定。

 かつて、自分もそうやって記事を書いていた。

 あの男の気持ちが、少しだけ分かる気がした。


 数日が過ぎた。

 その日もひどく冷え込んでいた。

 空からは、冷たいみぞれが降り始めている。

 徹は『いっぷく庵』のテーブル席で、茶を飲んでいた。

 引き戸がカラカラと鳴った。

 あの男だった。

 徹は少し驚いた。

 男の様子が、数日前とは違っていた。

 高そうなスーツを着ているのは同じだが、ネクタイは外されている。

 髪も少し乱れていた。

 何より、あのピリピリとした苛立ちの空気が消えていた。


 男は店内に入ると、源蔵に向かって深く頭を下げた。

「この間は、失礼な態度をとって申し訳ありませんでした」

 源蔵は布巾でカウンターを拭いている。

「茶を飲みに来たのか」

 男はうなずき、カウンターの席に座った。

 源蔵は新しい湯呑みを出し、茶を注いだ。

 男の前に置く。

 男は両手で湯呑みを持ち、一口飲んだ。

「・・渋いですね。でも、温かい」

 男は小さく息を吐いた。

 徹は黙って見守った。


「行きました。あの自販機」

 男がぽつりと言った。

「店を出た後、腹が立って仕方がなくて。あんな老人に何が分かるんだって。でも、なぜかあの自販機の前まで歩いていました」

 男は湯呑みを見つめた。

「財布に、ちょうど百円玉がありました。ボタンを押しました。三段目の右端です」

 源蔵は黙って聞いている。

「何も出てきませんでした。お金だけ飲まれて、ウンともスンとも言わない」

 男は少し笑った。

「百円の損です。私は腹が立って、自販機を蹴飛ばしてやろうかと思いました」

 男の指が、湯呑みの縁をなぞる。

「そのときです。犬の散歩をしていたおじいさんが通りかかって、私を見て笑ったんです」

 男の声が、少し優しくなった。

「『兄ちゃん、それ壊れてるんだよ。俺も昨日飲まれたんだわ』って。普通なら、舌打ちして無視するところです。でも、なぜかその時は、私も一緒に笑ってしまいました」

 徹は静かに耳を傾けた。


「『やられちゃいましたよ』って言うと、おじいさんは『あそこのコンビニのコーヒーがおごりだ』って言って、缶コーヒーを買ってくれたんです」

 男は目を閉じた。

「それから、十分くらい立ち話をしました。犬のこととか、この辺りの昔の話とか。何の利益もない、無駄な会話でした」

 男は顔を上げた。

「でも、その十分間、私は一度も時間を気にしませんでした。スマートウォッチを見ませんでした。損得を考えずに人と話したのは、何年ぶりか分かりません」

 源蔵は布巾を洗う手を止めない。

「そのとき、気がついたんです」

 男の声が震えた。

「私は、社員も、取引先も、自販機と同じように見ていたんです。これだけの給料を入れたんだから、これだけの成果を出せ。これだけのデータを提示したんだから、契約のボタンを押せって」

 男は両手で顔を覆った。


「人間は自販機じゃないのに。百円入れたからって、百円分のジュースが必ず出てくるわけじゃないのに」

 静かな店内に、男の鼻をすする音が響いた。

「昨日、取引先の社長のところへ行きました。データも資料も持たずに。ただ、今まで人間として向き合っていなかったことを謝りました。無駄話をして、一緒にコーヒーを飲みました」

 男は顔から手を離した。

 目は少し赤かったが、表情は晴れやかだった。

「契約は、継続してもらえることになりました。数字のデータじゃなくて、私の顔を見て決めてくれました」


 男は立ち上がった。

 そして、源蔵に向かって深く、深く頭を下げた。

「百円の損の価値を、教えていただきました。ありがとうございました」

 源蔵は蛇口を閉めた。

 手ぬぐいでゆっくりと手を拭く。

 そして、男を見た。

 源蔵の顔が、わずかにほころんだ。

 めったに見せない、かすかな笑みだった。

「得ばかり数える人間はな」

 源蔵の声が響いた。

「そのうち、人の値段まで計算し始める」

 男はハッとしたように顔を上げた。

「人間は自販機じゃねえ。叩けば直るもんでもないし、計算通りに動くもんでもない。損を愛嬌だと思えねえ奴は、結局、一番でかいものを損するんだ」

 男は何度も頷いた。

「はい。肝に銘じます」

 男は湯呑みの茶を飲み干した。

「ごちそうさまでした。また、必ず来ます」

 男は引き戸を開けた。

 外は冷たいみぞれが降っていたが、男の足取りは、前よりもずっと力強かった。

 ピシャリと戸が閉まった。


 徹は、引き戸を見つめていた。

 得ばかり数える人間は、人の値段まで計算し始める。

 源蔵の言葉が、胸の奥深くに突き刺さっていた。

 システムは、人の値段を完璧に計算する。

 適性率。

 ミスマッチ率。

 読みやすさのパーセンテージ。

 でも、それだけでは人は動かない。

 心は温まらない。

 無駄な会話。

 百円の損。

 そういう非合理的な余白の中にこそ、人と人を繋ぐ体温があるのだ。


 源蔵が、新しい湯呑みに茶を注ぎ、徹の前に置いた。

「飲め」

 徹は湯呑みを両手で持った。

 ずしりと重い。

 一口飲む。

 強烈な渋み。

 そして、舌に残る甘さ。

 熱いお茶が、喉から胃へと落ちていく。

 体の芯から温まるのが分かった。


「・・百円の損、ですか」

 徹が言うと、源蔵は背を向けた。

「お前さんは、いくら損したんだ」

「え?」

「原稿をボツにされて、いくらの損だ」

 徹は言葉に詰まった。

 そして、小さく笑った。

「計算できないくらいの損ですよ。でも、おかげで目が覚めました」

 源蔵は鼻を鳴らした。

「なら、次はもっとでかい損をしてこい」

 流しで洗い物を始めながら、ぽつりと言う。

「勝手にしろ」


 外に出た。

 みぞれは止み、冷たい雨に変わっていた。

 街灯の光が、濡れたアスファルトを反射して光っている。

 風は相変わらず冷たい。

 けれど、徹の腹の底には、確かな熱があった。

 コートの襟を立て、駅へ向かって歩き出す。

 足の裏で、地面の硬さをしっかりと確かめながら。

 舌の奥には、まだお茶の渋みと、かすかな甘さが残っていた。

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