第4話 記事のボツ
職場のフロアは、ひどく静かだった。
何十人もの記者がいるはずなのに、話し声はまったく聞こえない。
聞こえるのは、キーボードを叩く乾いた音だけだ。
それも、最小限の音量に抑えられている。
空調の風が、室内の温度と湿度を常に一定に保っていた。
快適で、清潔で、少し息苦しい空間だ。
徹は自分のデスクで、モニターをじっと見つめていた。
画面には、数日かけて書き上げたばかりの原稿が表示されている。
文章支援システムによる最終校正は、すでに終わっていた。
画面の端には、緑色の文字で評価が表示されている。
『読みやすさ:九十五パーセント』
『誤字脱字:ゼロ』
『論理展開の整合性:問題なし』
完璧なデータだった。
これ以上、手を入れる必要はどこにもない。
徹は、自分でつけた見出しをもう一度確認した。
『時代遅れの相談所・・AIを拒む奇人の正体』
いっぷく庵の源蔵について書いた記事だった。
最新のシステムを完全に否定する、時代遅れの偏屈な老人。
悩んでいる若者に靴を磨かせる。
疲れたベテラン営業マンに、庭に水を撒かせる。
合理的ではないが、どこか滑稽で笑える老人の話としてまとめた。
システムも「読者の興味を引く、エンタメ性の高い構成です」と評価してくれた。
徹は満足していた。
これなら読まれる。
話題になるかもしれない。
徹はためらうことなく、送信ボタンを押した。
編集長である黒田の端末へ、原稿が送られた。
十分後。
徹は黒田に呼ばれた。
黒田は五十八歳。
この社で、紙の新聞の時代を知っている数少ないベテランだった。
最近の黒田は、システムが合格を出した原稿をボツにすることはほとんどない。
システムが「良い」と判断したものは、読者にも「良い」と受け入れられる。
それが今の時代の常識だからだ。
だが、徹を見上げた黒田の顔は、ひどく険しかった。
「この記事は、ボツだ」
黒田は画面から目を離さずに言った。
声のトーンは低く、冷たかった。
徹は自分の耳を疑った。
「ボツ、ですか。でも、システムの評価は九十五パーセントで・・」
「システムは関係ない」
黒田は初めて顔を上げ、徹を見た。
「この記事は、上辺だけだ」
徹は言葉に詰まった。
「上辺・・ですか」
「文章はきれいだ。起承転結もしっかりしている。奇人の奇行として、笑えるところもあるだろう」
黒田は一度、大きく息を吐いた。
「でも、中身が空っぽだ」
「空っぽ・・」
徹は無意識のうちに、その言葉を繰り返していた。
「お前は、動物園の檻の外から珍しい動物を見て、それをそのまま書いただけだ」
黒田の言葉が、鋭い刃物のように胸に刺さった。
「あの老人が、なぜそんな非常識なことを言うのか。相談に来た人間が、どうして救われたような顔をして帰っていったのか」
黒田は画面の原稿を指さした。
「お前の書いたこの記事からは、彼らの匂いも、痛みの熱も、何も伝わってこない」
黒田は画面を消した。
「書き直せ。それまで載せない」
反論の言葉が見つからなかった。
徹は黙って頭を下げ、逃げるように自分のデスクに戻るしかなかった。
その夜。
徹は自分のアパートの部屋で、一人で端末を開いていた。
部屋の中は静かだった。
夕食に食べた、システム推奨の栄養補給ペーストの甘ったるい味が、まだ口の中に残っている。
黒田の言葉が、腹の底で黒くくすぶっていた。
上辺だけ。
空っぽ。
徹は苛立っていた。
あんなに丁寧に取材したのに。
彼らの行動を、一つも漏らさずに正確に記録したのに。
徹はフリーのライターが記事を投稿する、巨大なポータルサイトを開いた。
そこに、少しだけ手直しした原稿をアップロードした。
サイトの分析システムは「エンタメ性が高く、多くのアクセスが見込めます」と予測を出した。
徹は期待した。
古い人間の黒田には分からなくても、ネットの読者なら、この記事の面白さが伝わるはずだ。
投稿ボタンを押す。
徹は画面から目を離さず、待った。
一時間が過ぎた。
二時間が過ぎた。
画面のアクセス数は、数十件からほとんど動かなかった。
ページを更新する。
数件ついたコメントが、画面に表示された。
『つまらない』
『ただの頑固ジジイの話じゃん。時間の無駄』
『これ、AIが書いたテンプレ記事?』
徹は画面を凝視した。
AIが書いた記事。
その短い一言が、黒田の言葉よりも深く、鋭く突き刺さった。
徹は、自分なりに人間らしさを足したつもりだった。
おかしみや、皮肉や、観察者としての視点を込めたつもりだった。
でも、読んだ人には「機械が書いた空っぽの文章」にしか見えなかったのだ。
徹は端末を閉じた。
部屋の空気が、急に冷たく感じられた。
自分自身が、ひどく薄っぺらい人間に思えた。
翌日の夕方。
徹は気がつくと、あの古い商店街を歩いていた。
風がひどく冷たい。
ポケットに両手を深く突っ込み、肩をすくめて歩く。
ガラス張りのビルは、もう見えない。
シャッターの閉まった、色あせた店だけが並んでいる。
ナビゲーションは開いていない。
もう、道は完全に覚えていた。
空を見上げると、星は見えなかった。
分厚い雲が、街全体に蓋をしているようだった。
遠くで、自動運転の物流トラックが低く重い音を立てて走り去っていく。
その人工的な音が遠ざかると、商店街は再び深い静けさに沈んだ。
『いっぷく庵』の前に着く。
藍色の暖簾が、風に揺れている。
よく見ると、暖簾の端は少し擦り切れていた。
そこだけが、システムで管理されていない本物の時間の流れを感じさせた。
引き戸に手をかける。
カラカラ。
乾いた木の音がした。
焙じ茶の匂い。
薄暗い店内。
三毛猫が眠っている。
店の隅には、いつもの老人が座っていた。
真っ白な髭。
両手で湯呑みを持ち、じっと前を見ている。
奥のカウンターに、源蔵がいた。
色あせた紺色の作務衣。
布巾でカウンターをゆっくりと拭いている。
徹が入ってきても、顔を上げない。
「こんにちは」
徹は、かすれた声で言った。
源蔵は手を止めない。
徹は黙って、いつもの席に座った。
源蔵は新しい湯呑みを出した。
鉄瓶から急須へ湯を注ぐ。
湯呑みに茶を注ぎ、徹の前に置いた。
「飲め」
徹は湯呑みを見つめた。
湯気がゆっくりと立ち上っている。
手を伸ばさなかった。
「・・記事を書きました」
徹は、ぽつりと言った。
源蔵はカウンターを拭き続けている。
「あなたのことを書きました。悩んでいる若者に靴を磨かせる話も、ベテランの営業マンに庭の水を撒かせる話も」
徹は両手を膝の上で固く握った。
「面白い記事だと思いました。読まれると思いました。でも、編集長にボツにされました」
源蔵は何も言わない。
「上辺だけだと言われました。中身が空っぽだって」
徹は顔を上げた。
「自分でもネットに出してみました。でも、誰にも読まれませんでした。AIが書いた記事みたいだと言われました」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
息をするのが苦しかった。
「私は、ちゃんと見ていたつもりでした。あなたが何を言って、相談に来た人たちがどんな顔をして帰っていったか。全部、正確に記録して、正確に書いたつもりでした」
声が震えそうになるのを、必死でこらえた。
「どうして、空っぽなんでしょうか。私には、何が足りないんでしょうか」
源蔵は布巾を置いた。
徹を見た。
「お前さん」
静かな声だった。
「はい」
「自分で靴を磨いたか」
徹は言葉に詰まった。
「・・え?」
「自分で庭の土を触ったか。泥の匂いを嗅いだか」
徹は自分の足元を見た。
システムが推奨した、汚れを完全に弾く素材の靴だった。
磨く必要なんて、最初からない。
土の匂いなんて、もう何年も嗅いでいない。
泥に触れた記憶もない。
「お前さんは、窓の外から茶碗の形を眺めてるだけだ」
源蔵は淡々と言った。
「茶の渋みも、湯の熱さも知らない。飲んでないんだから、当たり前だ」
徹は顔を上げた。
「上辺だけを見る。それがお前さんたちの仕事なんだろう」
源蔵は新しく湯呑みを出した。
そこに、さっきよりも熱い湯を注いだ。
じっくりと時間をかけて抽出した、濃い茶を入れる。
トン、と徹の前に置く。
「飲め」
徹はためらいながら、湯呑みを両手で包み込んだ。
熱かった。
指先が火傷しそうなくらい痛い。
そのまま、口に運んで一口飲んだ。
舌が焼けるように熱い。
強烈な渋みが、喉の奥を容赦なく刺激した。
思わず顔をしかめ、小さく咳き込む。
でも、腹の底に、どしりとした熱いものが落ちていくのがわかった。
冷え切っていた胃が、熱を持って動き出す。
「・・熱いです」
徹が涙目で言うと、源蔵は鼻で笑った。
「それが茶だ」
徹は手元の湯呑みを見つめた。
観察しているだけでは、この熱さは絶対に分からない。
痛いほどの熱さも、舌に残る強烈な渋みも。
靴を磨いた人間の気持ちも、土に触れた人間の気持ちも、同じだ。
自分は、システムのデータと同じように、彼らをただの情報として処理していただけだった。
痛みがなければ、熱さがなければ、文章に命など宿らない。
徹は、熱いお茶をもう一口飲んだ。
舌がひりひりする。
けれど、体の奥からじわじわと温かさが広がっていくのがわかった。
冷え切っていた心が、ゆっくりと解凍されていくような感覚だった。
「書き直してみます」
徹が言うと、源蔵は背を向けた。
流しで洗い物を始めながら、ぽつりと言う。
「勝手にしろ」
外に出た。
すっかり夜になっていた。
街灯の鈍い光が、ひび割れたアスファルトを明るく照らしている。
そのひび割れのひとつひとつに、昔の誰かの足跡が染み込んでいるように思えた。
風は相変わらず冷たい。
けれど、肩をすくめる気にはならなかった。
徹はポケットに手を入れたまま、駅へ向かって歩き出した。
足取りは、来る時よりもずっとしっかりしていた。
地面の硬さを、靴の裏で確かに感じながら歩いていた。
舌の奥には、まだお茶の渋みと、かすかな痛みが残っていた。
その痛みが、今は何よりの道しるべのように思えた。




