↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/12

第4話 記事のボツ

 職場のフロアは、ひどく静かだった。

 何十人もの記者がいるはずなのに、話し声はまったく聞こえない。

 聞こえるのは、キーボードを叩く乾いた音だけだ。

 それも、最小限の音量に抑えられている。

 空調の風が、室内の温度と湿度を常に一定に保っていた。

 快適で、清潔で、少し息苦しい空間だ。


 徹は自分のデスクで、モニターをじっと見つめていた。

 画面には、数日かけて書き上げたばかりの原稿が表示されている。

 文章支援システムによる最終校正は、すでに終わっていた。

 画面の端には、緑色の文字で評価が表示されている。

『読みやすさ:九十五パーセント』

『誤字脱字:ゼロ』

『論理展開の整合性:問題なし』

 完璧なデータだった。

 これ以上、手を入れる必要はどこにもない。


 徹は、自分でつけた見出しをもう一度確認した。

『時代遅れの相談所・・AIを拒む奇人の正体』

 いっぷく庵の源蔵について書いた記事だった。

 最新のシステムを完全に否定する、時代遅れの偏屈な老人。

 悩んでいる若者に靴を磨かせる。

 疲れたベテラン営業マンに、庭に水を撒かせる。

 合理的ではないが、どこか滑稽で笑える老人の話としてまとめた。

 システムも「読者の興味を引く、エンタメ性の高い構成です」と評価してくれた。

 徹は満足していた。

 これなら読まれる。

 話題になるかもしれない。

 徹はためらうことなく、送信ボタンを押した。

 編集長である黒田の端末へ、原稿が送られた。


 十分後。

 徹は黒田に呼ばれた。

 黒田は五十八歳。

 この社で、紙の新聞の時代を知っている数少ないベテランだった。

 最近の黒田は、システムが合格を出した原稿をボツにすることはほとんどない。

 システムが「良い」と判断したものは、読者にも「良い」と受け入れられる。

 それが今の時代の常識だからだ。

 だが、徹を見上げた黒田の顔は、ひどく険しかった。


「この記事は、ボツだ」

 黒田は画面から目を離さずに言った。

 声のトーンは低く、冷たかった。

 徹は自分の耳を疑った。

「ボツ、ですか。でも、システムの評価は九十五パーセントで・・」

「システムは関係ない」

 黒田は初めて顔を上げ、徹を見た。

「この記事は、上辺だけだ」

 徹は言葉に詰まった。

「上辺・・ですか」

「文章はきれいだ。起承転結もしっかりしている。奇人の奇行として、笑えるところもあるだろう」

 黒田は一度、大きく息を吐いた。

「でも、中身が空っぽだ」

「空っぽ・・」


 徹は無意識のうちに、その言葉を繰り返していた。

「お前は、動物園の檻の外から珍しい動物を見て、それをそのまま書いただけだ」

 黒田の言葉が、鋭い刃物のように胸に刺さった。

「あの老人が、なぜそんな非常識なことを言うのか。相談に来た人間が、どうして救われたような顔をして帰っていったのか」

 黒田は画面の原稿を指さした。

「お前の書いたこの記事からは、彼らの匂いも、痛みの熱も、何も伝わってこない」

 黒田は画面を消した。

「書き直せ。それまで載せない」

 反論の言葉が見つからなかった。

 徹は黙って頭を下げ、逃げるように自分のデスクに戻るしかなかった。


 その夜。

 徹は自分のアパートの部屋で、一人で端末を開いていた。

 部屋の中は静かだった。

 夕食に食べた、システム推奨の栄養補給ペーストの甘ったるい味が、まだ口の中に残っている。

 黒田の言葉が、腹の底で黒くくすぶっていた。

 上辺だけ。

 空っぽ。

 徹は苛立っていた。

 あんなに丁寧に取材したのに。

 彼らの行動を、一つも漏らさずに正確に記録したのに。


 徹はフリーのライターが記事を投稿する、巨大なポータルサイトを開いた。

 そこに、少しだけ手直しした原稿をアップロードした。

 サイトの分析システムは「エンタメ性が高く、多くのアクセスが見込めます」と予測を出した。

 徹は期待した。

 古い人間の黒田には分からなくても、ネットの読者なら、この記事の面白さが伝わるはずだ。

 投稿ボタンを押す。

 徹は画面から目を離さず、待った。


 一時間が過ぎた。

 二時間が過ぎた。

 画面のアクセス数は、数十件からほとんど動かなかった。

 ページを更新する。

 数件ついたコメントが、画面に表示された。

『つまらない』

『ただの頑固ジジイの話じゃん。時間の無駄』

『これ、AIが書いたテンプレ記事?』


 徹は画面を凝視した。

 AIが書いた記事。

 その短い一言が、黒田の言葉よりも深く、鋭く突き刺さった。

 徹は、自分なりに人間らしさを足したつもりだった。

 おかしみや、皮肉や、観察者としての視点を込めたつもりだった。

 でも、読んだ人には「機械が書いた空っぽの文章」にしか見えなかったのだ。

 徹は端末を閉じた。

 部屋の空気が、急に冷たく感じられた。

 自分自身が、ひどく薄っぺらい人間に思えた。


 翌日の夕方。

 徹は気がつくと、あの古い商店街を歩いていた。

 風がひどく冷たい。

 ポケットに両手を深く突っ込み、肩をすくめて歩く。

 ガラス張りのビルは、もう見えない。

 シャッターの閉まった、色あせた店だけが並んでいる。

 ナビゲーションは開いていない。

 もう、道は完全に覚えていた。

 空を見上げると、星は見えなかった。

 分厚い雲が、街全体に蓋をしているようだった。

 遠くで、自動運転の物流トラックが低く重い音を立てて走り去っていく。

 その人工的な音が遠ざかると、商店街は再び深い静けさに沈んだ。


『いっぷく庵』の前に着く。

 藍色の暖簾が、風に揺れている。

 よく見ると、暖簾の端は少し擦り切れていた。

 そこだけが、システムで管理されていない本物の時間の流れを感じさせた。

 引き戸に手をかける。

 カラカラ。

 乾いた木の音がした。

 焙じ茶の匂い。

 薄暗い店内。

 三毛猫が眠っている。

 店の隅には、いつもの老人が座っていた。

 真っ白な髭。

 両手で湯呑みを持ち、じっと前を見ている。


 奥のカウンターに、源蔵がいた。

 色あせた紺色の作務衣。

 布巾でカウンターをゆっくりと拭いている。

 徹が入ってきても、顔を上げない。

「こんにちは」

 徹は、かすれた声で言った。

 源蔵は手を止めない。

 徹は黙って、いつもの席に座った。

 源蔵は新しい湯呑みを出した。

 鉄瓶から急須へ湯を注ぐ。

 湯呑みに茶を注ぎ、徹の前に置いた。

「飲め」


 徹は湯呑みを見つめた。

 湯気がゆっくりと立ち上っている。

 手を伸ばさなかった。

「・・記事を書きました」

 徹は、ぽつりと言った。

 源蔵はカウンターを拭き続けている。

「あなたのことを書きました。悩んでいる若者に靴を磨かせる話も、ベテランの営業マンに庭の水を撒かせる話も」

 徹は両手を膝の上で固く握った。

「面白い記事だと思いました。読まれると思いました。でも、編集長にボツにされました」

 源蔵は何も言わない。

「上辺だけだと言われました。中身が空っぽだって」


 徹は顔を上げた。

「自分でもネットに出してみました。でも、誰にも読まれませんでした。AIが書いた記事みたいだと言われました」

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

 息をするのが苦しかった。

「私は、ちゃんと見ていたつもりでした。あなたが何を言って、相談に来た人たちがどんな顔をして帰っていったか。全部、正確に記録して、正確に書いたつもりでした」

 声が震えそうになるのを、必死でこらえた。

「どうして、空っぽなんでしょうか。私には、何が足りないんでしょうか」


 源蔵は布巾を置いた。

 徹を見た。

「お前さん」

 静かな声だった。

「はい」

「自分で靴を磨いたか」

 徹は言葉に詰まった。

「・・え?」

「自分で庭の土を触ったか。泥の匂いを嗅いだか」

 徹は自分の足元を見た。

 システムが推奨した、汚れを完全に弾く素材の靴だった。

 磨く必要なんて、最初からない。

 土の匂いなんて、もう何年も嗅いでいない。

 泥に触れた記憶もない。


「お前さんは、窓の外から茶碗の形を眺めてるだけだ」

 源蔵は淡々と言った。

「茶の渋みも、湯の熱さも知らない。飲んでないんだから、当たり前だ」

 徹は顔を上げた。

「上辺だけを見る。それがお前さんたちの仕事なんだろう」

 源蔵は新しく湯呑みを出した。

 そこに、さっきよりも熱い湯を注いだ。

 じっくりと時間をかけて抽出した、濃い茶を入れる。

 トン、と徹の前に置く。

「飲め」


 徹はためらいながら、湯呑みを両手で包み込んだ。

 熱かった。

 指先が火傷しそうなくらい痛い。

 そのまま、口に運んで一口飲んだ。

 舌が焼けるように熱い。

 強烈な渋みが、喉の奥を容赦なく刺激した。

 思わず顔をしかめ、小さく咳き込む。

 でも、腹の底に、どしりとした熱いものが落ちていくのがわかった。

 冷え切っていた胃が、熱を持って動き出す。


「・・熱いです」

 徹が涙目で言うと、源蔵は鼻で笑った。

「それが茶だ」

 徹は手元の湯呑みを見つめた。

 観察しているだけでは、この熱さは絶対に分からない。

 痛いほどの熱さも、舌に残る強烈な渋みも。

 靴を磨いた人間の気持ちも、土に触れた人間の気持ちも、同じだ。

 自分は、システムのデータと同じように、彼らをただの情報として処理していただけだった。

 痛みがなければ、熱さがなければ、文章に命など宿らない。


 徹は、熱いお茶をもう一口飲んだ。

 舌がひりひりする。

 けれど、体の奥からじわじわと温かさが広がっていくのがわかった。

 冷え切っていた心が、ゆっくりと解凍されていくような感覚だった。

「書き直してみます」

 徹が言うと、源蔵は背を向けた。

 流しで洗い物を始めながら、ぽつりと言う。

「勝手にしろ」


 外に出た。

 すっかり夜になっていた。

 街灯の鈍い光が、ひび割れたアスファルトを明るく照らしている。

 そのひび割れのひとつひとつに、昔の誰かの足跡が染み込んでいるように思えた。

 風は相変わらず冷たい。

 けれど、肩をすくめる気にはならなかった。


 徹はポケットに手を入れたまま、駅へ向かって歩き出した。

 足取りは、来る時よりもずっとしっかりしていた。

 地面の硬さを、靴の裏で確かに感じながら歩いていた。

 舌の奥には、まだお茶の渋みと、かすかな痛みが残っていた。

 その痛みが、今は何よりの道しるべのように思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。