第3話 犬に謝る日
春浅い三月の午後、やわらかな日差しが下町の古いトタン屋根を照らしていた。
路地の公園にある桜はまだつぼみを固く閉じている。
土の匂いを含んだ風には、春の緩やかな気配が混じり始めていた。
徹は手帳をポケットに入れ、細い路地を歩いていた。
前回の「味噌汁の女性」のことが、頭から離れなかったから。
三年付き合った恋人に振られ、「復縁確率三パーセント」とAIに告げられた彼女が、「三日間味噌汁を作れ」という源蔵の助言の果てに、笑顔を取り戻して前を向いた。
あれは偶然だったのか。それとも、あの老人の言葉には計算式では捉えきれない何かがあるのか。
記者としての好奇心が、徹の足を再び『いっぷく庵』へと向かわせていた。
藍色の暖簾をくぐると、焙じたばかりの茶葉の香ばしい匂いが漂っていた。
火鉢では鉄瓶が細い湯気を上げ、板の間では三毛猫が丸くなっている。
カウンターの奥で、源蔵が無骨な手つきで茶筒の蓋を閉めた。
「席なら空いてるぞ。茶を飲むなら勝手に座れ」
徹が席に腰を下ろした、その時だった。
ガララッ。
引き戸が荒い音を立てて開いた。
飛び込んできたのは、三十代半ばとおぼしきスーツ姿の男だった。
濃紺のスーツを着てはいるが、ネクタイは曲がり、顔色は土気色に濁っている。
目の下には黒々とした隈が張り付き、追い詰められた獣のような切迫感が漂っていた。
男は血走った目で店内を見回すと、カウンターへ駆け寄った。
「ここ、人生相談をやっていると聞いて来ました!」
男の声はかすれ、ひどく乾いていた。
源蔵は布巾で板場を拭きながら、顔も上げずに言った。
「相談なんざやってねえよ。茶を出すだけの店だ。用がないなら帰れ」
「頼みます、話を聞いてください!」
男がすがるように身を乗り出した。
「AIが匙を投げた人間でも、ここに来れば道が見つかると聞きました。もう、どこにも行く場所がないんです!」
源蔵は布巾を置き、息を吐いた。
「突っ立ってると埃が立つ。そこに座れ」
男は徹の向かいの丸椅子に崩れ落ちた。
源蔵が熱いほうじ茶の湯呑みをことんと置く。
男は両手で顔を覆い、絞り出すように語り始めた。
男は佐伯と名乗った。
大手精密機器メーカーで開発リーダーを務めているという。
「会社を辞めるべきか、残るべきか・・もう自分の頭じゃ決められないんです」
佐伯の指先が震えていた。
「半年前、全社的な『AI人材評価・配置システム』が導入されました。社員の業務ログ、メール速度、会議での発言……すべてがリアルタイムでスコアリングされるんです。私のチームの業績が落ちた途端、冷酷な警告が出ました。『統率力スコア低下。損失確率七十二パーセント。管理職辞任、または早期退職を推奨』と」
佐伯は自嘲気味に口元を歪めた。
「AIのキャリア診断にも相談しました。そしたら『現在のスキルセットの市場価値は急速に減衰中。異業種への転職成功率は一割未満。今すぐ退職してリスキリングに専念することが合理的最適解』って即答されました」
「合理的・・最適解」
徹が小さく呟いた。
「ぐうの音も出ないくらい客観的で正しいデータですよ!」
佐伯が机を拳で叩いた。
湯呑みのお茶が揺れる。
「でも、私は十五年間、会社に人生のすべてを捧げてきたんだ! 終電まで働いて尽くしてきた! それを・・数ヶ月のデータと確率で『もういらない人間だ』って切り捨てられるなんて・・!」
佐伯の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「退職届にハンコを押そうとすると手が震える。でも明日も会社に行くと思うと足が動かない。前を見ても後ろを見ても真っ暗な崖っぷちです。どうか正解を・・」
存在価値を見失った人間の剥き出しの絶望だった。
徹は息を呑み、カウンターの源蔵を見た。
源蔵は佐伯の顔をじっと見つめていた。
その視線は、やがて佐伯の足元へと落ちた。
スラックスの裾に、短い白と茶色の動物の毛が付着していた。
そして右手の親指の付け根には、細い革紐を握りしめていたような古いタコがあった。
源蔵は煙管を取り出した。
「おい、お前。犬、飼ってるだろ」
佐伯は呆気に取られ、口を半開きにした。
「・・え? 犬ですか?」
「そうだ。柴犬か知らねえがな。いつから散歩をサボってる?」
佐伯の表情が凍りついた。
「そ、それは・・ここ三ヶ月、帰宅も深夜で・・散歩はずっと妻に任せきりで、顔もろくに見ていません・・」
源蔵はマッチを擦った。
紫の煙が立ち上る。
煙をふうと吐き出し、佐伯を見据えて言った。
「じゃあ、まず犬に謝れ」
「・・は?」
佐伯の声が裏返った。
徹も耳を疑った。
「げ、源蔵さん・・?」
「犬に謝れと言ったんだ」
源蔵は事も無げに繰り返した。
「会社を辞めるかどうかなんざ後回しだ。今すぐ家に帰って、犬の前に正座して『放ったらかしにして悪かった』って頭を下げろ。で、日が暮れるまで引きずり回されて散歩してこい」
佐伯の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まった。
「・・ふざけるな!」
佐伯が立ち上がった。椅子がガタリと音を立てる。
「私は真剣に人生の相談をしているんだ! 家族をどう養うか、血を吐く思いでここに駆け込んだんだぞ! それを・・犬に謝れだと!? ・・来た私が馬鹿だった!」
佐伯は鞄を掴むと、お茶に一口もつけず、引き戸を叩きつけるように出ていった。
冷たい風が吹き込み、暖簾がバタバタと揺れた。
戸が閉まり、静寂が戻った。
徹は立ち上がり、源蔵に詰め寄った。
「源蔵さん! 彼は本当に追い詰められていたんですよ! 犬に謝れだなんて酷すぎます!」
「前ばかり見て走ってる奴はな」
源蔵の低い声が徹を遮った。
「自分の足元で、誰が腹を空かせて待ってるかも見えなくなっちまうんだよ」
源蔵は流しで布巾を洗った。
「あいつの顔を見たろ。会社の評価だのAIのスコアだの、数字の首輪を何重にも巻かれて息もできなくなってやがった。あんな状態で選んだところで、どっちへ転んでも地獄だ。前しか見えねえ奴の視界には崖っぷちしか映らねえ」
源蔵は徹を睨んだ。
「人間はな、立ち止まらなきゃ横にある道に気づけねえんだ。足元にいる生き物一匹とろくに向き合えねえ奴が、どこの会社に行ったって同じことの繰り返しだ。・・冷めちまったな。新しいのを淹れてやるから座れ」
徹はその湯気をじっと見つめながら、返す言葉を失っていた。
それから、一週間が過ぎた。
日曜日の昼下がり、引き戸が軽やかな音を立てて開いた。
「こんにちは」
入ってきた人物を見て、徹は目を見張った。
佐伯だった。
その姿は一週間前とはまるで違っていた。
窮屈なスーツではなく、ネルシャツにチノパン。
足元にはスニーカー。
土気色だった顔には健康的な赤みが差し、表情には穏やかな光が宿っていた。
「佐伯さん・・!」
佐伯は照れくさそうに頭を下げた。
「先日は取り乱して申し訳ありませんでした」
源蔵は横目で言った。
「謝る相手が違うだろ。犬には頭を下げたのか」
「はい」佐伯は笑った。
何の棘もない笑顔だった。
「あの日、怒りで頭がおかしくなりそうになりながら帰宅したんです。玄関を開けたら、柴犬のコテツが尻尾を千切れるほど振って出迎えてくれて・・その姿を見たら、涙が溢れて止まらなくなりました」
佐伯は手の平を見つめた。
「言われた通り、床に正座して謝りました。『ごめんな、寂しい思いをさせて悪かった』って。コテツはずっと涙を舐めてくれて・・それから、三ヶ月ぶりに散歩に出たんです」
「散歩に・・」徹が呟いた。
「久しぶりの河川敷は風が冷たくて、でもすごく気持ちが良かった。コテツが草の匂いを嗅ぐたびに立ち止まり、空を見上げて・・私、気づいたんです。私は何年間も、パソコンの画面とAIのスコアしか見ていなかったんだって」
佐伯の瞳が輝いていた。
「歩いていると、近所の散歩仲間のおじいさんや商店街の人が声をかけてくれたんです。『佐伯さん久しぶり! コテツちゃん良かったねえ』って。誰も会社の肩書きなんて知らないし、AIのスコアも気にしていない。ただ、私がコテツと歩いているだけで笑いかけてくれたんです」
佐伯は深く息を吸い込んだ。
「世界は、会社のビルの外にこんなにも広く広がっていたんだって腑に落ちました。それから毎朝毎晩コテツと散歩するのが日課になって・・そうしたら散歩仲間に、試作品を作っている町工場の社長さんがいたんです」
「町工場の社長さん?」
徹が身を乗り出した。
「ええ。『毎朝楽しそうに犬と歩いてるあんたを見てたら、いい顔してるなと思ってさ』って声をかけられて。仕事の話をしたら、『大手で疲れたなら、うちで開発を仕切ってくれないか。うちはAIのスコアじゃなく、人間の腕と情熱でモノを作ってるんだ』って誘ってくれたんです」
「それじゃあ・・!」
「はい」
佐伯は晴れやかに笑った。
「昨日、退職届を出してきました。引き止められもしましたが、迷いはありませんでした。来月からその工場で働きます。給料は半分近くに減りますが、自分の手でモノを作る喜びを取り戻せそうです。何より・・コテツと毎朝散歩できる時間がたっぷりありますから」
源蔵がことんと湯呑みを置いた。
「茶が冷めるぞ。早く飲め」
「いただきます」
佐伯は両手でお茶を包み、ゆっくりとすすった。
「美味しいです・・。あの日、叱られなかったら、私は取り返しのつかない決断をしていたかもしれません。本当に・・ありがとうございました」
佐伯は深々と一礼し、軽やかな足取りで店を出ていった。
店内には穏やかな静寂が戻っていた。
徹は手帳を開き、ペンを走らせた。
『人生は、前だけを見て歩くものじゃない。立ち止まり、足元を見つめ直したとき、見失っていた世界が再び動き出す』
合理的で完璧なキャリアAIは、「退職か残留か」という二者択一の確率しか出せなかった。
だが、人間を本当に救うのは未来の計算式ではない。
今、この足元にある小さな命の温もりであり、立ち止まることで初めて出会える、横道に広がる豊かな世界なのだ。
徹は手帳を閉じ、顔を上げた。
「源蔵さん。やっぱり、あんたの助言はAIより役に立ちませんね」
徹が笑うと、源蔵は手を止めずに鼻を鳴らした。
「当たり前だ。俺は茶屋のジジイだぞ。役に立つ答えが欲しいなら、機械にでも拝んでろ」
ぶっきらぼうな背中に、徹は思わず吹き出した。
冷めかけたほうじ茶を口に含むと、香ばしい苦味の奥から、ほんのりとした甘みが優しく広がっていった。




