第2話 味噌汁の湯気
その日も、空はどんよりと曇り、今にも冷たい雨が落ちてきそうな空だった。
気象システムの表示は「降水確率ゼロパーセント」のままだった。
通りを歩く人たちは、誰も傘を持っていない。
徹も傘は持っていなかった。
グレーのコートのポケットに両手を突っ込み、空を見上げることもなく歩いた。
古い商店街の入り口に立つ。
相変わらず、人通りは少ない。
システムが案内する最短ルートから外れた場所にあるせいか、わざわざここまで足を運ぶ人はほとんどいない。
冷たい風がコートの襟元から入り込んだ。
徹は肩をすくめ、ひび割れたアスファルトを踏みながら歩いた。
『いっぷく庵』の前まで来る。
藍色の暖簾が風に揺れていた。
引き戸の木枠に手をかけ、引いた。
カラカラ、と乾いた音がした。
中に入ると、前に来たときと同じ匂いがした。
焙じ茶の匂い。
薄暗い店内。
使い込まれて角の丸くなった木のテーブル。
部屋の隅では、三毛猫が今日も丸くなっている。
奥のカウンターに源蔵がいた。
色あせた紺色の作務衣を着て、鉄瓶から急須へ、ゆっくりと湯を注いでいる。
徹が入ってきても、源蔵は顔を上げなかった。
「こんにちは」
声をかけると、源蔵は湯を注ぎ終え、急須を置いてから徹を見た。
相変わらず、鋭いのに静かな目だった。
「また来たのか」
「ええ。少し、話を聞かせてもらいたくて」
源蔵は返事をせず、厚手の湯呑みに茶を注いだ。
トン、とカウンターに置く。
「飲め」
徹は黙って近づき、湯呑みを手に取った。
ずしりと重い。
冷えた指先に、陶器の熱がじんわり伝わってくる。
一口飲むと、強い渋みのあとに、ほんのり甘さが残った。
店の隅には、今日もあの老人が座っていた。
真っ白な髭を生やし、湯呑みを両手で包んでいる。
じっと前を見たまま、ほとんど動かない。
徹はテーブルの椅子に座り、お茶をすすった。
「今日は、追い返さないんですね」
「茶を飲む客を追い返す店はない」
源蔵は布巾を取り、カウンターをゆっくり拭き始めた。
「じゃあ、少し聞いてもいいですか」
「理屈は聞かんぞ」
「理屈を聞きたいんじゃありません。ただ、源蔵さんが何を考えているのか知りたいんです」
徹は手元の湯呑みを見つめた。
「前回の若い人、靴を磨けと言われて帰りましたよね。あのあと、少し楽になったように見えました。でも、仕事の悩みがなくなったわけじゃないですよね」
源蔵は布巾を洗う手を止めなかった。
「ここは、悩みを解決する場所じゃない」
「じゃあ、何をする場所なんですか」
「茶を飲む場所だ」
またそれか。
徹は小さく息を吐いた。
そのとき、背後で、引き戸がカラカラと鳴った。
振り返ると、若い女性が入り口に立っていた。
二十代半ばくらいだろうか。
ベージュのコートには細かなしわがあり、髪も少し乱れている。
何より目が真っ赤だった。
泣きはらした顔をしている。
女性は店内を不安そうに見回し、ためらいながら入ってきた。
そして、徹の向かいの席に力なく腰を下ろした。
源蔵は新しい湯呑みを用意した。
茶を注いで、女性の前に置く。
女性は湯呑みに手を伸ばさなかった。
両手を膝の上で固く握っている。
「あの・・」
かすかな声だった。
「ここ、相談に乗ってくれるって、ネットで見て・・」
源蔵は何も言わない。
「私、どうしたらいいのか分からなくて」
女性が顔を上げる。
大きな涙が、頬を伝って落ちた。
「振られたんです。三年付き合ってた人に」
徹は黙って話を聞いた。
「結婚するんだと思ってました。でも、急に別れようって言われて・・他に好きな人ができたって」
女性はバッグからハンカチを取り出し、目を強く押さえた。
「システムに相談しました。恋愛相談のシステムです。彼の性格データとか、最近のメッセージのやり取りとか、音声の記録まで全部入れました。そうしたら・・」
女性の声が細く震えた。
「復縁できる確率は、三パーセントだって。だから、新しい出会いを探したほうがいいって言われました」
三パーセント。
徹の頭に、その数字だけが残った。
かなり低い。
システムがそう出したのなら、現実的には厳しいだろう。
「でも、諦められないんです。三パーセントでも可能性があるなら、どうすればいいのか教えてほしいって聞きました。でも、システムは『おすすめしません』って、そればかりで・・」
女性は源蔵を見た。
「ここなら、システムとは違う答えをくれるって聞いて来ました。どうしたら、彼とやり直せますか。何を言えばいいですか。どんなメッセージを送れば・・」
声が震えていた。
徹には、女性が欲しがっているものが分かった。
システムには出てこない、何か特別な答えだ。
源蔵は、女性の顔をじっと見た。
赤く腫れた目。
膝の上で固く握られた手。
「お前さん」
源蔵の声が、静かな店内に落ちた。
「はい」
「味噌汁を作れ」
女性が顔を上げる。
涙が止まった。
「え?」
「三日間、自分で味噌汁を作れ。お湯を注ぐだけのは駄目だ。ちゃんと出汁を取れ」
女性は口を少し開けたまま、源蔵を見つめた。
しばらくして、その顔に怒りが浮かんだ。
「・・何を言ってるんですか?」
「味噌汁を作れと言った」
「私が聞きたいのは、彼とやり直す方法です! 味噌汁なんて、何の関係もないじゃないですか!」
女性が勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が床をこすり、ガタッと音を立てる。
「システムのほうが、よっぽどマシでした。こんなところ、来なきゃよかった」
女性は湯呑みにも手をつけず、背を向けた。
そのまま引き戸を荒々しく開けて出ていく。
ピシャリと戸が閉まった。
店内に、また静けさが戻った。
徹は源蔵を見た。
源蔵は、残された湯呑みを黙って片付けている。
「ひどいじゃないですか」
徹は続けた。
「あれだけ傷ついてたんですよ。話を聞いてほしかっただけかもしれない。なのに、いきなり味噌汁を作れなんて・・」
源蔵は流しで湯呑みを洗い始めた。
「冷たいもんばかり食ってると、心まで冷える」
「食事の相談に来たわけじゃないでしょう」
「腹が冷えてる人間に、何を言っても入らん」
源蔵は蛇口を閉めた。
「お前さんも、今日は帰れ」
徹は言い返せず、立ち上がった。
やっぱり、ただの偏屈老人だ。
人の気持ちを考える気なんて、最初からないのかもしれない。
それから数日が過ぎた。
徹は職場のデスクで端末に向かっていた。
新しい記事の構成を考えている。
けれど、あの女性の怒った顔が、どういうわけか頭から離れなかった。
三日間、味噌汁を作る。
それだけで失恋の痛みが消えるわけがない。
徹は椅子から立ち上がった。
気がつけば、コートを手に取っていた。
再び『いっぷく庵』の前に着いたときには、夕方になっていた。
空は薄暗く、街灯がひとつ、またひとつと点き始めている。
引き戸を開ける。
カラカラ、といつもの音がした。
焙じ茶の匂い。
薄暗い店内。
前に来たときと何も変わらない。
テーブルの席に、人がいた。
数日前の、あの女性だった。
徹は驚いて、入り口で足を止めた。
女性は両手で湯呑みを持ち、ゆっくりと茶を飲んでいた。
ベージュのコートはきれいに畳まれ、隣の椅子に置かれている。
顔つきが、数日前とはまるで違っていた。
目の下の赤みは消え、表情も落ち着いている。
徹は静かに近づき、少し離れた席に座った。
源蔵は相変わらず、カウンターで布巾を動かしている。
「あの・・」
女性が源蔵に声をかける。
「味噌汁、作りました」
源蔵は手を止めない。
「そうか」
「最初は、すごく腹が立ってました。馬鹿にされたと思ったんです。でも・・」
女性は湯呑みを見つめた。
「帰り道にスーパーに寄りました。出汁を取るなんて何年もやってなかったから、どうすればいいのか分からなくて」
女性は、ほんの少し笑った。
「母に電話しました」
徹は口を挟まず、黙って聞いていた。
「実家を出てから、ずっと連絡してなかったんです。仕事が忙しいとか、電話するのが面倒だとか言って・・」
女性の指が、湯呑みの縁をゆっくりとなぞった。
「母はすごく驚いてました。でも、昆布をどのくらい使うとか、鰹節を入れるタイミングとか、すごく丁寧に教えてくれて。一時間くらい、電話で話しました」
女性は一度、目を閉じた。
「教えてもらった通りに作りました。具は豆腐とわかめです。台所に出汁の匂いが広がって・・すごく、いい匂いでした」
源蔵は黙ったまま聞いている。
「お椀によそって、一口飲んだら、涙が止まらなくなって・・」
女性の声が震えた。
けれど、数日前の震えとは違っていた。
「彼と別れたから悲しいんだと思ってました。寂しいんだって」
女性は顔を上げた。
「でも、違ったんです。私、自分の居場所がなくなるのが怖かったんだって。誰かに『おかえり』って言ってもらえる場所が、欲しかったんだって・・温かい味噌汁を飲みながら、やっと気がつきました」
三パーセントという数字が怖かったわけではない。
彼を失うことだけが怖かったわけでもない。
ひとりになって、帰る場所までなくなるような気がしたことが、いちばん怖かったのだ。
「母が、いつでも帰ってきなさいって言ってくれました。・・もう、大丈夫です」
女性は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。変なことを言うおじいさんだって、怒ってしまって・・すみませんでした」
源蔵は布巾を置いた。
「出汁の取り方は、忘れるな」
それだけ言うと、女性は「はい」と笑って立ち上がった。
コートを手に取る。
「お邪魔しました」
引き戸が開き、女性が外へ出ていく。
足取りは、数日前とは比べものにならないほど軽かった。
徹は、女性の背中が見えなくなっても、しばらく引き戸を見つめていた。
源蔵が新しい湯呑みに茶を注ぎ、徹の前へ置いた。
「飲め」
徹は湯呑みを手にした。
いつもと同じ、渋くて甘いお茶だった。
「・・どうして、分かったんですか」
徹が聞く。
「何がだ」
「あの女性が、母親と連絡を取らなくなっていたことです。味噌汁を作らせれば母親に電話するって・・そこまで考えていたんですか?」
源蔵は鼻で笑った。
「そんなこと、知るか」
「え?」
「腹が冷えてそうだったから、温かいもんを作れと言っただけだ」
徹は源蔵の顔を見た。
そんなわけはない。
あのタイミングで味噌汁を作れと言ったのが、ただの思いつきだったとは思えなかった。
けれど、源蔵の顔はいつも通り、無愛想なままだった。
徹は手元の湯呑みを見た。
湯気が、細くゆっくり立ち上っている。
システムに相談すれば、三パーセントという数字と、「次の出会いを探したほうがいい」という答えが、すぐに返ってくる。
それは確かに筋が通っている。
無駄もない。
けれど、源蔵は違った。
味噌汁を作れと言った。
それだけだった。
出汁を取る。
火にかける。
煮立つのを待つ。
匂いを感じる。
味を確かめる。
そんな時間の中で、彼女は誰かに答えをもらうのではなく、自分のことを考えた。
そして、母親に電話をかけた。
時間をかける。
今の社会では、何より効率の悪いことだ。
それでも、その時間があったからこそ、彼女は自分で気づけたのかもしれない。
徹は茶を飲み干した。
「また、来ます」
徹が立ち上がると、源蔵は背を向けたまま言った。
「勝手にしろ」
外に出ると、すっかり夜になっていた。
街灯が、ひび割れたアスファルトを照らしている。
風は冷たかった。
それでも、徹の手の中には、さっき飲んだお茶の温かさがまだ残っていた。
駅へ向かう足取りは、前より少しだけゆっくりだった。




